貴婦人の一角獣   作:全肯定逆張りおじさん

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「聴こえる」のはセンスである

 ゴール板を駆け抜けた瞬間、ジェンティルドンナは勝利を知った。

 

 実況が名を呼ぶよりも早く。

 掲示板に着順が灯るよりも早く。

 観客席から噴き上がる歓声が、春の仁川を満たすよりも早く。

 

 彼女は、自分が勝ったことを理解していた。

 

 それは予感ではない。

 願望でもない。

 勝者だけが持ち得る、冷徹な確信であった。

 

 最後の数完歩。

 自らの脚がどれほど伸びたか。

 他者の脚がどれほど届かなかったか。

 ゴール板までの距離、速度、身体の傾き、隣と後方の気配。

 それらは、走り終えた彼女の肉体に正確に刻まれている。

 

 桜花賞。

 

 初めてのGⅠ。

 春の一冠。

 勝者、ジェンティルドンナ。

 

 当然である。

 

 当然である、はずだった。

 

 だが、その当然は、これまでの当然とは少し違っていた。

 

 ジェンティルドンナは速度を落としながら、深く息を吐いた。肺が熱い。喉の奥が乾いている。脚には確かな疲労がある。けれど、どれも不快ではなかった。

 

 身体の芯に、まだ何かが残っている。

 

 単なる疲労ではない。

 達成感とも違う。

 勝利の確認だけでもない。

 

 もっと濃いものだった。

 

 胸の奥で、まだレースが鳴っている。

 

 百秒余りの時間。

 たったそれだけのはずなのに、あの時間の中には、異様なほど多くのものが詰め込まれていた。

 

 ゲートの中で聞いた、隣の呼吸。

 金具が閉じる音。

 スタートの衝撃。

 芝を踏み込んだ時の反発。

 周囲から押し寄せる脚音。

 馬群の圧。

 前方の背中。

 外から来る気配。

 誰かが仕掛ける前の、空気のわずかな変化。

 直線に入った瞬間、視界がひらける感覚。

 観客席の声が、風ではなく塊となって身体へぶつかる感覚。

 

 それらは、すべて勝利ではない。

 

 けれど、勝利へ至る道を形作っていた。

 

 なるほど。

 

 ジェンティルドンナは、息を整えながら思った。

 

 なるほど、味とは言ったものだ。

 

 奇妙な表現であった。

 あのトレーナーらしい、曖昧で、どこか頼りなく、実務の言葉から少し外れた比喩である。

 

 だが、今日に限っては、完全な戯言とは言い切れなかった。

 

 レースには味があった。

 

 それは甘いものではない。

 優しいものでもない。

 むしろ、熱く、濃く、舌の上に残るようなものだった。

 

 新馬戦にも、重賞にも、もちろん勝負はあった。相手もいた。勝利もあった。だが、今日の桜花賞には、それらとは別種の密度があった。

 

 あれは何だったのか。

 

 観客か。

 GⅠという舞台か。

 同世代のウマ娘たちが、一斉に己の名と未来を賭けたからか。

 

 理由はひとつではないだろう。

 

 だが、そこには確かに熱があった。

 

 ジェンティルドンナの胸中には、二つの思いが占めていた。

 

 まず、苛立ちに近い感嘆。

 

 なぜ、皆さん初めからやらないのかしら。

 

 ずっと、新馬戦も、重賞も、待っていたのに。

 やればできるではありませんの。

 これほどの熱を持ち込めるのなら、なぜ今までそれを隠していたのか。

 

 もちろん、理屈ではわかる。

 

 桜花賞だからこそ、今日の熱がある。

 GⅠだからこそ、観客も、出走者も、関係者も、すべてがこの一点に向かって凝縮する。

 誰もが最初から同じ密度で走れるわけではない。

 

 しかし、理屈と感情は別である。

 

 彼女は、待っていたのだ。

 

 自分が力を出しても、なお相手が踏みとどまる感触。

 抜き去っても、背後から熱が消えない感触。

 自分以外の者たちもまた、このターフに何かを持ち込んでいるという実感。

 

 それが今日、初めてあった。

 

 だからこそ、思ってしまう。

 

 できるなら、初めからそうなさいな。

 

 そして、もうひとつ。

 

 ずるい。

 

 その感情は、唐突に胸の奥から浮かび上がった。

 

 もし、この熱を彼女たちが、わたくしよりもずっとずっと前から感じていたのなら。

 

 もし、この熱が、ウマ娘たちをレースへ引きつけていたのなら。

 

 もし、勝つことだけではなく、この濃密な時間そのものが、彼女たちにもう一度走りたいと思わせていたのなら。

 

 自分だけが、知らなかったことになる。

 

 自分は勝ってきた。

 当然のように勝ってきた。

 勝利を己の証明とし、レースを屈服させる場として扱ってきた。

 

 それは間違いではない。

 

 勝った者が勝者である。

 最も先にゴール板へ届いた者が、そのレースを語る権利を持つ。

 

 だが、もし他のウマ娘たちが、自分とは違う何かを、もっと早くから味わっていたとしたら。

 

 彼女たちは、敗北の中にすら、何かを得ていたのかもしれない。

 

 その考えは不愉快だった。

 

 勝者である自分が、敗者たちに対して遅れているものがあるなど、到底認めがたい。

 

 いえ。

 

 ジェンティルドンナは、内心でその感情を切り捨てる。

 

 ですが、勝ちは勝ち。

 

 このレースを一番屈服させたのは、わたくしジェンティルドンナなのですから。

 

 そうだ。

 

 今日の桜花賞を、最も速く、最も強く、最も明確に制したのは自分である。

 どれほど熱があろうと、どれほど味があろうと、それを勝利として味わったのは自分である。

 

 味というものがあるのなら、最も上等な一皿を口にしたのは勝者だ。

 

 ジェンティルドンナは、ようやく胸の内を整えた。

 

 そして、自然と視線は自分のトレーナーを探す。

 

 彼はこのレースを、どう見ただろう。

 

 味を知れと言った。

 桜花賞で、GⅠで、レースの密度を知ってほしいと言った。

 

 ならば、今こそ彼は言うべきである。

 

 君は味わった、と。

 君は勝者として、このGⅠを制した、と。

 君は強かった、と。

 

 その言葉を聞いたなら、少しくらいは認めてやってもよい。

 

 たしかに、あなたのおっしゃる“味”とやらにも、一理ありましたわ。

 ですが、それを最も高貴に味わえるのは勝者です。

 今日、それを証明したのはわたくしです。

 

 そう返してやる。

 

 少しだけ楽しみだった。

 

 その感情を認めるのは癪であったが、否定するほどのことでもない。担当トレーナーが担当ウマ娘の初GⅠ勝利をどう称えるか。勝者として確認する権利はある。

 

 ジェンティルドンナは、勝者として歩いた。

 

 息はまだ完全には整っていない。

 肩も肺も熱を持っている。

 脚にも余韻が残っている。

 

 だが、姿勢は乱さない。

 

 観客席から、彼女の名が呼ばれる。

 

 ジェンティルドンナ。

 ジェンティル。

 勝った。

 強い。

 すごい。

 

 声が身体に当たる。

 

 先ほどまでは、ただ遠くから押し寄せる熱だった。今は、それが自分へ向けられていることがわかる。

 

 勝者の歓声。

 

 悪くない。

 

 彼女は、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

 トレーナーは、関係者のいる場所に立っていた。

 

 顔には、明らかな興奮がある。普段の頼りない雰囲気は消えていないが、目だけは輝いていた。手元の記録用紙を握りしめ、まだレースから戻ってきていないような顔をしている。

 

 まったく、仕方のない方。

 

 ジェンティルドンナはそう思った。

 

 これほどわかりやすく緊張し、これほどわかりやすく安堵し、これほどわかりやすく興奮するとは。担当トレーナーとしてはいささか情けない。だが、今日くらいは大目に見てやってもよい。

 

 なにしろ、彼の担当は桜花賞を勝ったのだから。

 

 ジェンティルドンナは、トレーナーへ近づいた。

 

 彼がこちらに気づく。

 

 そう思った。

 

 だが、違った。

 

 彼の視線は、彼女の方を向いていなかった。

 

 正確には、彼女を通り越していた。

 

 彼が見ていたのは、ジェンティルドンナの背後。

 レースを終え、まだ肩で息をしながら、悔しさを全身に残している青黒い髪のウマ娘。

 

 ヴィルシーナ。

 

 そしてトレーナーは、開口一番、言った。

 

「おおー。すごいなあ。ヴィルシーナ。ありゃあセンスかなぁ」

 

 空気が、止まった。

 

 少なくとも、ジェンティルドンナの内側では、完全に止まった。

 

 歓声は続いている。

 実況は勝者の名を称えている。

 関係者は慌ただしく動いている。

 桜花賞の熱は、まだ競技場全体を包んでいる。

 

 だが、彼女の耳には、そのすべてが一瞬だけ遠くなった。

 

「……は?」

 

 声が出た。

 

 自分でも驚くほど、間の抜けた声だった。

 

 トレーナーは、まだヴィルシーナを見ている。

 

「いや、最後すごかったね。あの感じ。うん。あれは、なんて言えばいいのかな……。脚があるとか、根性があるとか、そういうのとも少し違うんだよ。もちろん脚もあるし、気持ちもあるんだけど、それだけじゃなくて」

 

「は?」

 

 二度目の声は、一度目より低かった。

 

 トレーナーがようやく彼女を見る。

 

「あ、おかえり。おめでとう、ジェンティルドンナ」

 

「あ、おかえり」

 

「うん」

 

「おめでとう」

 

「うん。勝ったね。すごかったよ」

 

「……」

 

 ジェンティルドンナは微笑んだ。

 

 それは、勝者にふさわしい優雅な笑みであった。

 品位があり、余裕があり、いささかの乱れもない。

 

 ただし、それを正面から受けたトレーナーの背筋には、明らかな緊張が走った。

 

「トレーナーさん」

 

「はい」

 

「今、あなたは何をご覧になっていましたの?」

 

「ええと」

 

「何を、見て、いましたの?」

 

「レースを」

 

「誰の?」

 

「桜花賞の」

 

「勝ったのは?」

 

「ジェンティルドンナ」

 

「そうですわね」

 

「うん」

 

「では、まず見るべき相手は?」

 

「君、です」

 

「そうですわね」

 

 彼女は、さらに微笑む。

 

「にもかかわらず、あなたは、初めてのGⅠを勝った担当ウマ娘が近づいているにもかかわらず、その担当を見ず、二着のウマ娘をご覧になっていた」

 

「……はい」

 

「そして開口一番、二着のウマ娘を褒めた」

 

「……はい」

 

「桜花賞を勝った、わたくしの前で」

 

「はい」

 

「初めてのGⅠを勝った、あなたの担当ウマ娘の前で」

 

「本当にごめん」

 

 トレーナーは、即座に頭を下げた。

 

 早い。

 

 判断は早い。

 

 だが、遅い。

 

 そもそも最初にそれをしてはならなかった。

 

「謝罪が必要なことをしたという自覚はありますのね」

 

「あります」

 

「結構です。最低限の知性は残っていらしたようで安心しました」

 

「返す言葉もない」

 

「返さなくて結構」

 

 ジェンティルドンナは、静かに息を吐いた。

 

 本来なら、ここで彼から称賛を受けるはずだった。

 

 今日のレースには、彼の言う味があった。

 それを認めてやってもよいと思った。

 勝者として、少しばかり寛大になってやるつもりだった。

 

 それを。

 

 それを、この男は。

 

 よりによって、二着のヴィルシーナを見ていた。

 

「それで」

 

 彼女は、声の温度を少し下げて言った。

 

「ヴィルシーナさんの何が、それほど素晴らしかったのです?」

 

「え?」

 

「そこまでわたくしを差し置いて見ていたのです。相応のご説明があるのでしょう」

 

「いや、差し置いたつもりは」

 

「ありますわね?」

 

「……はい」

 

「では、おっしゃいなさい」

 

 トレーナーは口を開きかけ、閉じた。

 

 珍しく、言葉を探している。

 

 ジェンティルドンナはそれを見て、少しだけ眉を動かした。

 

 彼は普段、曖昧なことをよく言う。味だの、熱だの、気配だの。決して理路整然としているわけではないが、何かしら言葉は出てくる男である。

 

 その彼が、今、言葉に詰まっている。

 

「センス、というのが、一番近いと思うんだけど」

 

「先ほどもそうおっしゃいましたわね」

 

「うん。でも、センスって言うと、ちょっと雑なんだよね」

 

「ご自分で雑だとお思いの言葉を、開口一番にお使いになったの?」

 

「それは、ほら、咄嗟に」

 

「咄嗟に担当を傷つける才能はおありのようですわね」

 

「本当にごめん」

 

「続けなさい」

 

「はい」

 

 トレーナーは、もう一度ヴィルシーナの方を見た。

 

 ジェンティルドンナの視線が冷える。

 

 彼は慌ててジェンティルドンナへ向き直った。

 

「今のは説明のためで」

 

「減点です」

 

「はい」

 

「続けなさい」

 

 トレーナーは深呼吸した。

 

「ヴィルシーナの最後の直線は、すごく自然だったんだ」

 

「自然」

 

「いや、自然というと違うな。無理がない、でも緩くはない。力んでいないのに、ちゃんと届こうとしているというか」

 

「凡庸ですわね」

 

「うん。僕も今そう思った」

 

「ご自覚があるのは結構です」

 

「ええと、じゃあ……レースの流れを掴むのが上手い」

 

「凡庸です」

 

「だよね」

 

「続けて」

 

「仕掛けどころがいい」

 

「凡庸」

 

「脚の使い方が上手い」

 

「凡庸」

 

「勝負勘がある」

 

「凡庸」

 

「馬群の中で、自分が一番伸びる場所を見つけるのが――」

 

「少しだけましですが、やはり凡庸です」

 

「厳しいなあ」

 

「あなたがわたくしを差し置いて褒めた理由です。凡庸で済ませられては困ります」

 

「それはそう」

 

 トレーナーは困ったように眉を寄せた。

 

 彼は、本当に説明しようとしていた。

 

 そこはわかる。

 

 適当なことを言っているのではない。ヴィルシーナの走りに、彼は確かに何かを見た。その何かを言葉にしようとしている。だが、口にした瞬間、それらはひどく平凡な競走評になってしまう。

 

 自然。

 流れを掴む。

 仕掛けどころ。

 脚の使い方。

 勝負勘。

 

 どれも間違いではないのだろう。

 

 だが、そんなものは誰にでも言える。

 

 桜花賞の勝者を前にして、二着のウマ娘を開口一番に褒めるだけの理由としては、あまりに薄い。

 

「つまり」

 

 ジェンティルドンナは、冷ややかに言った。

 

「あなたは、ヴィルシーナさんの走りに何やら感じ入り、それを説明しようとした結果、どこにでもある解説のような言葉しか出てこなかった、と」

 

「返す言葉もない」

 

「本当にありませんわね」

 

 トレーナーは、記録用紙を握り直した。

 

「ただ、違うんだ」

 

「何が?」

 

「言葉にすると、そういう普通の表現になる。でも、実際に見たものは、それだけじゃない」

 

「では、それを説明なさい」

 

「だから、そこが難しい」

 

「まあ」

 

 ジェンティルドンナは、優雅に首を傾げた。

 

「わたくしを差し置いて二着の方に見惚れていた理由を、説明できないと?」

 

「見惚れていたわけじゃ」

 

「見惚れていましたわ」

 

「……はい」

 

「素直でよろしい」

 

 トレーナーは、少し肩を落とした。

 

 だが、目だけはまだレースの余韻を追っている。

 

 ジェンティルドンナは、それがまた面白くなかった。

 

 彼は自分の失礼を理解している。

 謝罪もしている。

 しかし、それでもヴィルシーナの走りへの驚きを捨てていない。

 

 つまり、あの二着の走りは、彼にとって本当に見逃せないものだったということだ。

 

 それが、腹立たしい。

 

「君は強かった」

 

 トレーナーは、改めて言った。

 

「それは間違いない。今日の桜花賞を一番強く走ったのは君だ。直線で前が開いてからの伸びも、最後にもう一段ギアを上げたところも、本当にすごかった。あの熱の中で飲まれずに、自分の脚を使い切った。いや、使い切ったというより、まだ奥があるようにも見えた」

 

「当然です」

 

「うん。君は本当に強い」

 

「当然ですわ」

 

 その言葉は、聞きたかった。

 

 聞きたかったはずだった。

 

 だが、今言われると、なぜか少し遅い。

 

 最初に言うべきだった。

 最初に自分を見るべきだった。

 

 桜花賞を勝った自分が、レースの熱を初めて知り、少しだけ彼の言葉を認めてやろうと思いながら近づいた、その瞬間に。

 

 彼は、自分ではなくヴィルシーナを見ていた。

 

 その事実が、妙に胸に残る。

 

「それでいて、ヴィルシーナさんにはセンスがあると」

 

「うん」

 

「説明はできない」

 

「うまくは、できない」

 

「言葉にすると凡庸」

 

「そうなる」

 

「では、あなたの言うセンスとは、便利な逃げ言葉ではなくて?」

 

 ジェンティルドンナの問いに、トレーナーはすぐには答えなかった。

 

 逃げ言葉。

 

 才能。

 センス。

 勘。

 流れ。

 

 それらは、理解できないものを理解したふうに扱うための言葉になり得る。ジェンティルドンナはそういう言葉を好まなかった。曖昧な言葉は、しばしば努力や構造への観察を怠らせる。

 

 だが、トレーナーは少し考えたあと、首を横に振った。

 

「逃げ言葉にはしたくない」

 

「したくない、ですか」

 

「うん。たぶん僕は、まだちゃんと見えていないんだと思う」

 

「あなたが?」

 

「そう。見えている気はする。でも、説明できるほど掴めていない」

 

 ジェンティルドンナは、意外に思った。

 

 彼は自分の観察に、妙な自信を持っている男だと思っていた。普段は頼りなく見えるが、見るべきところは見ている。そして、見たものについては曖昧ながらも口にする。

 

 その彼が、今、自分にはまだ掴めていないと言った。

 

「では、なぜ褒めたのです」

 

「見えたから」

 

「掴めていないのに?」

 

「うん」

 

「矛盾していますわ」

 

「たぶん、そういうものなんだと思う」

 

「また曖昧な」

 

「ごめん」

 

 彼は本当に困っているようだった。

 

「でも、ヴィルシーナの走りには、レースを聴いている感じがあった」

 

「聴いている」

 

「うん。自分だけで走っているんじゃなくて、レースの中にある音を拾って、それに合わせているような」

 

「音楽家ですの?」

 

「違うと思う」

 

「詩人でもなく?」

 

「たぶん違う」

 

「では、もっとましな表現を探しなさい」

 

「探してる」

 

「見つかっていませんわね」

 

「うん」

 

 トレーナーは正直だった。

 

 それは美徳かもしれないが、今のジェンティルドンナには腹立たしいだけである。

 

 それでも、彼の言葉の中に、ひとつだけ引っかかるものがあった。

 

 レースを聴いている。

 

 凡庸ではない。

 少なくとも、他の言葉よりはましである。

 

 そして、今日の桜花賞を走った直後の彼女には、その言い方が完全な無意味とは思えなかった。

 

 聞こえたのだ。

 

 ゲートで。

 道中で。

 直線で。

 

 周囲の呼吸が。

 脚音が。

 馬群の圧が。

 観客の声が。

 背後から迫る、あの青黒い気配が。

 

 ただし、ジェンティルドンナはそれらを聴こうとしたわけではない。勝つために必要な情報として把握していただけである。

 

 一方、ヴィルシーナは。

 

 彼女は、もしかすると最初からそれを聴いていたのかもしれない。

 

 レースの中で、どこに自分を置けば最も届くのか。

 誰の動きに合わせ、どの瞬間を待ち、どの隙間へ入ればよいのか。

 能力で押し開くのではなく、流れの中へ自分を差し込むように。

 

 そう考えると、最後に彼女が最も近くまで迫ってきた理由も、少しだけ輪郭を持つ。

 

 少しだけ、である。

 

 ジェンティルドンナは、その考えを胸の奥で握り潰した。

 

 今、認める必要はない。

 

「トレーナーさん」

 

「うん」

 

「あなたの説明は、ひどく拙いです」

 

「はい」

 

「凡庸です」

 

「はい」

 

「担当ウマ娘への配慮も欠いています」

 

「はい」

 

「ですが」

 

 そこで彼女は、一拍置いた。

 

 悔しいが、ここは認めねばならない。

 

「あなたが何かを見たことだけは、理解しました」

 

 トレーナーは、少しだけ目を開いた。

 

「本当に?」

 

「調子に乗らないでくださる?」

 

「はい」

 

「何を見たのかは、説明できていません。言葉にすれば凡庸。比喩に逃げれば曖昧。つまり、現時点であなたの評価は不十分です」

 

「手厳しい」

 

「当然です」

 

 ジェンティルドンナは、遠くのヴィルシーナを見た。

 

 彼女はまだ息を整えている。悔しさを隠しきれていない。だが、折れていない。二着という結果を受け止めながらも、どこか次を見ているような目をしている。

 

 敗者の目ではある。

 だが、終わった者の目ではない。

 

 そこに何かがある。

 

 それを認めることは、ジェンティルドンナにとって不愉快だった。

 

 けれど、知らないままでいる方が、もっと不愉快である。

 

「ヴィルシーナさん、ですか」

 

 彼女は小さく呟いた。

 

 トレーナーが聞き返す。

 

「うん?」

 

「何でもありません」

 

「気になる?」

 

「まさか」

 

 即答した。

 

 あまりにも早い即答だった。

 

 トレーナーは何か言いたげだったが、賢明にも口を閉じた。

 

 ジェンティルドンナは、再び彼へ視線を戻す。

 

「それより」

 

「うん」

 

「あなた、まだ大事なことを言っていませんわ」

 

「大事なこと?」

 

「ええ」

 

 彼女は、勝者として当然の顔で言った。

 

「わたくしは、桜花賞を勝ちました」

 

「うん」

 

「初めてのGⅠを、勝ちました」

 

「うん」

 

「あなたの言う“味”とやらも、少なくとも完全な戯言ではないと認めて差し上げました」

 

「そこまで?」

 

「差し上げました」

 

「はい」

 

「でしたら、まず言うべき言葉があるのではなくて?」

 

 トレーナーは、一瞬きょとんとした。

 

 それから、すぐに表情を改めた。

 

 今度は、きちんと彼女を見た。

 

「桜花賞、おめでとう。ジェンティルドンナ」

 

 彼の声は、先ほどよりも静かだった。

 

「君は強かった。初めてのGⅠで、あの熱の中を走って、勝った。最後に迫られても崩れなかった。むしろ、そこからもう一段伸びた。君は今日、ちゃんとレースを味わって、それでも勝ったんだと思う」

 

 ジェンティルドンナは黙って聞いた。

 

 ようやくである。

 

 まったく、順序というものを知らない男だ。

 

 けれど、その言葉自体は悪くなかった。

 

 ちゃんとレースを味わって、それでも勝った。

 

 その表現には、わずかに胸の奥を満たすものがあった。

 

 勝利だけではない。

 味だけでもない。

 味わい、その上で勝つ。

 

 なるほど、それならば悪くない。

 

 ジェンティルドンナは、少しだけ顎を上げた。

 

「当然ですわ」

 

「うん」

 

「ですが、今後は順序をお間違えにならないことです」

 

「肝に銘じます」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

「では、よろしい」

 

 彼女は満足したように言った。

 

 ただし、完全には満足していなかった。

 

 胸の奥に、二つの熱が残っている。

 

 ひとつは、桜花賞の熱。

 

 初めてのGⅠで感じた、濃密なレースの味。

 勝者として味わった、強烈な余韻。

 

 もうひとつは、青黒い気配。

 

 最後に迫ってきたヴィルシーナ。

 トレーナーが、うまく説明できないままセンスと呼んだもの。

 

 ジェンティルドンナは、まだその正体を知らない。

 

 知る必要がある。

 

 なぜなら、知らないものがあるという事実は不愉快だからだ。

 そして、自分の担当トレーナーの目を奪ったものが、自分に理解できないまま残ることも、やはり不愉快だからだ。

 

「トレーナーさん」

 

「うん?」

 

「次も勝ちますわ」

 

「うん。勝とう」

 

「そして、あなたの言うセンスとやらも、きちんと見極めます」

 

「ヴィルシーナの?」

 

「ええ」

 

 彼女は優雅に微笑んだ。

 

「二着の方に、担当トレーナーの目を奪われたままでは、勝者として少々面白くありませんもの」

 

 トレーナーは、一瞬黙った。

 

 そして、少し困ったように笑った。

 

「君らしいね」

 

「わたくしをわかったように言うのはおやめなさい」

 

「まだわかっていないよ」

 

「なら結構」

 

 ジェンティルドンナは歩き出した。

 

 勝者としての手続きが残っている。祝福を受け、言葉を述べ、次の舞台へ向かうための準備を始めなければならない。

 

 観客席から、再び彼女の名が呼ばれた。

 

 ジェンティルドンナ。

 

 その声は、先ほどよりも少し近く聞こえた。

 

 彼女は顔を上げる。

 

 歓声。

 春の光。

 芝の匂い。

 肺に残る熱。

 背後から迫った脚音。

 そして、隣で説明の下手なトレーナーが口にした、センスという曖昧な言葉。

 

 それらが、今日の桜花賞の中にあった。

 

 勝利だけでは形作れない。

 

 その言葉を、彼女はまだ認めきっていない。

 

 だが、完全に否定することも、もうできない。

 

 桜花賞は終わった。

 

 勝ったのはジェンティルドンナである。

 

 しかし、勝利の味の奥に、ひとつだけ異物が残っていた。

 

 青黒い髪のウマ娘。

 二着。

 ヴィルシーナ。

 

 届かなかったはずの者が、最後に最も近くまで迫ってきた。

 

 その理由を、ジェンティルドンナはまだ知らない。

 

 だから、彼女は次へ向かう。

 

 勝つために。

 味わうために。

 そして、聞こえ始めたものの正体を知るために。

 

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