ゴール板を駆け抜けた瞬間、ジェンティルドンナは勝利を知った。
実況が名を呼ぶよりも早く。
掲示板に着順が灯るよりも早く。
観客席から噴き上がる歓声が、春の仁川を満たすよりも早く。
彼女は、自分が勝ったことを理解していた。
それは予感ではない。
願望でもない。
勝者だけが持ち得る、冷徹な確信であった。
最後の数完歩。
自らの脚がどれほど伸びたか。
他者の脚がどれほど届かなかったか。
ゴール板までの距離、速度、身体の傾き、隣と後方の気配。
それらは、走り終えた彼女の肉体に正確に刻まれている。
桜花賞。
初めてのGⅠ。
春の一冠。
勝者、ジェンティルドンナ。
当然である。
当然である、はずだった。
だが、その当然は、これまでの当然とは少し違っていた。
ジェンティルドンナは速度を落としながら、深く息を吐いた。肺が熱い。喉の奥が乾いている。脚には確かな疲労がある。けれど、どれも不快ではなかった。
身体の芯に、まだ何かが残っている。
単なる疲労ではない。
達成感とも違う。
勝利の確認だけでもない。
もっと濃いものだった。
胸の奥で、まだレースが鳴っている。
百秒余りの時間。
たったそれだけのはずなのに、あの時間の中には、異様なほど多くのものが詰め込まれていた。
ゲートの中で聞いた、隣の呼吸。
金具が閉じる音。
スタートの衝撃。
芝を踏み込んだ時の反発。
周囲から押し寄せる脚音。
馬群の圧。
前方の背中。
外から来る気配。
誰かが仕掛ける前の、空気のわずかな変化。
直線に入った瞬間、視界がひらける感覚。
観客席の声が、風ではなく塊となって身体へぶつかる感覚。
それらは、すべて勝利ではない。
けれど、勝利へ至る道を形作っていた。
なるほど。
ジェンティルドンナは、息を整えながら思った。
なるほど、味とは言ったものだ。
奇妙な表現であった。
あのトレーナーらしい、曖昧で、どこか頼りなく、実務の言葉から少し外れた比喩である。
だが、今日に限っては、完全な戯言とは言い切れなかった。
レースには味があった。
それは甘いものではない。
優しいものでもない。
むしろ、熱く、濃く、舌の上に残るようなものだった。
新馬戦にも、重賞にも、もちろん勝負はあった。相手もいた。勝利もあった。だが、今日の桜花賞には、それらとは別種の密度があった。
あれは何だったのか。
観客か。
GⅠという舞台か。
同世代のウマ娘たちが、一斉に己の名と未来を賭けたからか。
理由はひとつではないだろう。
だが、そこには確かに熱があった。
ジェンティルドンナの胸中には、二つの思いが占めていた。
まず、苛立ちに近い感嘆。
なぜ、皆さん初めからやらないのかしら。
ずっと、新馬戦も、重賞も、待っていたのに。
やればできるではありませんの。
これほどの熱を持ち込めるのなら、なぜ今までそれを隠していたのか。
もちろん、理屈ではわかる。
桜花賞だからこそ、今日の熱がある。
GⅠだからこそ、観客も、出走者も、関係者も、すべてがこの一点に向かって凝縮する。
誰もが最初から同じ密度で走れるわけではない。
しかし、理屈と感情は別である。
彼女は、待っていたのだ。
自分が力を出しても、なお相手が踏みとどまる感触。
抜き去っても、背後から熱が消えない感触。
自分以外の者たちもまた、このターフに何かを持ち込んでいるという実感。
それが今日、初めてあった。
だからこそ、思ってしまう。
できるなら、初めからそうなさいな。
そして、もうひとつ。
ずるい。
その感情は、唐突に胸の奥から浮かび上がった。
もし、この熱を彼女たちが、わたくしよりもずっとずっと前から感じていたのなら。
もし、この熱が、ウマ娘たちをレースへ引きつけていたのなら。
もし、勝つことだけではなく、この濃密な時間そのものが、彼女たちにもう一度走りたいと思わせていたのなら。
自分だけが、知らなかったことになる。
自分は勝ってきた。
当然のように勝ってきた。
勝利を己の証明とし、レースを屈服させる場として扱ってきた。
それは間違いではない。
勝った者が勝者である。
最も先にゴール板へ届いた者が、そのレースを語る権利を持つ。
だが、もし他のウマ娘たちが、自分とは違う何かを、もっと早くから味わっていたとしたら。
彼女たちは、敗北の中にすら、何かを得ていたのかもしれない。
その考えは不愉快だった。
勝者である自分が、敗者たちに対して遅れているものがあるなど、到底認めがたい。
いえ。
ジェンティルドンナは、内心でその感情を切り捨てる。
ですが、勝ちは勝ち。
このレースを一番屈服させたのは、わたくしジェンティルドンナなのですから。
そうだ。
今日の桜花賞を、最も速く、最も強く、最も明確に制したのは自分である。
どれほど熱があろうと、どれほど味があろうと、それを勝利として味わったのは自分である。
味というものがあるのなら、最も上等な一皿を口にしたのは勝者だ。
ジェンティルドンナは、ようやく胸の内を整えた。
そして、自然と視線は自分のトレーナーを探す。
彼はこのレースを、どう見ただろう。
味を知れと言った。
桜花賞で、GⅠで、レースの密度を知ってほしいと言った。
ならば、今こそ彼は言うべきである。
君は味わった、と。
君は勝者として、このGⅠを制した、と。
君は強かった、と。
その言葉を聞いたなら、少しくらいは認めてやってもよい。
たしかに、あなたのおっしゃる“味”とやらにも、一理ありましたわ。
ですが、それを最も高貴に味わえるのは勝者です。
今日、それを証明したのはわたくしです。
そう返してやる。
少しだけ楽しみだった。
その感情を認めるのは癪であったが、否定するほどのことでもない。担当トレーナーが担当ウマ娘の初GⅠ勝利をどう称えるか。勝者として確認する権利はある。
ジェンティルドンナは、勝者として歩いた。
息はまだ完全には整っていない。
肩も肺も熱を持っている。
脚にも余韻が残っている。
だが、姿勢は乱さない。
観客席から、彼女の名が呼ばれる。
ジェンティルドンナ。
ジェンティル。
勝った。
強い。
すごい。
声が身体に当たる。
先ほどまでは、ただ遠くから押し寄せる熱だった。今は、それが自分へ向けられていることがわかる。
勝者の歓声。
悪くない。
彼女は、ほんのわずかに口元を緩めた。
トレーナーは、関係者のいる場所に立っていた。
顔には、明らかな興奮がある。普段の頼りない雰囲気は消えていないが、目だけは輝いていた。手元の記録用紙を握りしめ、まだレースから戻ってきていないような顔をしている。
まったく、仕方のない方。
ジェンティルドンナはそう思った。
これほどわかりやすく緊張し、これほどわかりやすく安堵し、これほどわかりやすく興奮するとは。担当トレーナーとしてはいささか情けない。だが、今日くらいは大目に見てやってもよい。
なにしろ、彼の担当は桜花賞を勝ったのだから。
ジェンティルドンナは、トレーナーへ近づいた。
彼がこちらに気づく。
そう思った。
だが、違った。
彼の視線は、彼女の方を向いていなかった。
正確には、彼女を通り越していた。
彼が見ていたのは、ジェンティルドンナの背後。
レースを終え、まだ肩で息をしながら、悔しさを全身に残している青黒い髪のウマ娘。
ヴィルシーナ。
そしてトレーナーは、開口一番、言った。
「おおー。すごいなあ。ヴィルシーナ。ありゃあセンスかなぁ」
空気が、止まった。
少なくとも、ジェンティルドンナの内側では、完全に止まった。
歓声は続いている。
実況は勝者の名を称えている。
関係者は慌ただしく動いている。
桜花賞の熱は、まだ競技場全体を包んでいる。
だが、彼女の耳には、そのすべてが一瞬だけ遠くなった。
「……は?」
声が出た。
自分でも驚くほど、間の抜けた声だった。
トレーナーは、まだヴィルシーナを見ている。
「いや、最後すごかったね。あの感じ。うん。あれは、なんて言えばいいのかな……。脚があるとか、根性があるとか、そういうのとも少し違うんだよ。もちろん脚もあるし、気持ちもあるんだけど、それだけじゃなくて」
「は?」
二度目の声は、一度目より低かった。
トレーナーがようやく彼女を見る。
「あ、おかえり。おめでとう、ジェンティルドンナ」
「あ、おかえり」
「うん」
「おめでとう」
「うん。勝ったね。すごかったよ」
「……」
ジェンティルドンナは微笑んだ。
それは、勝者にふさわしい優雅な笑みであった。
品位があり、余裕があり、いささかの乱れもない。
ただし、それを正面から受けたトレーナーの背筋には、明らかな緊張が走った。
「トレーナーさん」
「はい」
「今、あなたは何をご覧になっていましたの?」
「ええと」
「何を、見て、いましたの?」
「レースを」
「誰の?」
「桜花賞の」
「勝ったのは?」
「ジェンティルドンナ」
「そうですわね」
「うん」
「では、まず見るべき相手は?」
「君、です」
「そうですわね」
彼女は、さらに微笑む。
「にもかかわらず、あなたは、初めてのGⅠを勝った担当ウマ娘が近づいているにもかかわらず、その担当を見ず、二着のウマ娘をご覧になっていた」
「……はい」
「そして開口一番、二着のウマ娘を褒めた」
「……はい」
「桜花賞を勝った、わたくしの前で」
「はい」
「初めてのGⅠを勝った、あなたの担当ウマ娘の前で」
「本当にごめん」
トレーナーは、即座に頭を下げた。
早い。
判断は早い。
だが、遅い。
そもそも最初にそれをしてはならなかった。
「謝罪が必要なことをしたという自覚はありますのね」
「あります」
「結構です。最低限の知性は残っていらしたようで安心しました」
「返す言葉もない」
「返さなくて結構」
ジェンティルドンナは、静かに息を吐いた。
本来なら、ここで彼から称賛を受けるはずだった。
今日のレースには、彼の言う味があった。
それを認めてやってもよいと思った。
勝者として、少しばかり寛大になってやるつもりだった。
それを。
それを、この男は。
よりによって、二着のヴィルシーナを見ていた。
「それで」
彼女は、声の温度を少し下げて言った。
「ヴィルシーナさんの何が、それほど素晴らしかったのです?」
「え?」
「そこまでわたくしを差し置いて見ていたのです。相応のご説明があるのでしょう」
「いや、差し置いたつもりは」
「ありますわね?」
「……はい」
「では、おっしゃいなさい」
トレーナーは口を開きかけ、閉じた。
珍しく、言葉を探している。
ジェンティルドンナはそれを見て、少しだけ眉を動かした。
彼は普段、曖昧なことをよく言う。味だの、熱だの、気配だの。決して理路整然としているわけではないが、何かしら言葉は出てくる男である。
その彼が、今、言葉に詰まっている。
「センス、というのが、一番近いと思うんだけど」
「先ほどもそうおっしゃいましたわね」
「うん。でも、センスって言うと、ちょっと雑なんだよね」
「ご自分で雑だとお思いの言葉を、開口一番にお使いになったの?」
「それは、ほら、咄嗟に」
「咄嗟に担当を傷つける才能はおありのようですわね」
「本当にごめん」
「続けなさい」
「はい」
トレーナーは、もう一度ヴィルシーナの方を見た。
ジェンティルドンナの視線が冷える。
彼は慌ててジェンティルドンナへ向き直った。
「今のは説明のためで」
「減点です」
「はい」
「続けなさい」
トレーナーは深呼吸した。
「ヴィルシーナの最後の直線は、すごく自然だったんだ」
「自然」
「いや、自然というと違うな。無理がない、でも緩くはない。力んでいないのに、ちゃんと届こうとしているというか」
「凡庸ですわね」
「うん。僕も今そう思った」
「ご自覚があるのは結構です」
「ええと、じゃあ……レースの流れを掴むのが上手い」
「凡庸です」
「だよね」
「続けて」
「仕掛けどころがいい」
「凡庸」
「脚の使い方が上手い」
「凡庸」
「勝負勘がある」
「凡庸」
「馬群の中で、自分が一番伸びる場所を見つけるのが――」
「少しだけましですが、やはり凡庸です」
「厳しいなあ」
「あなたがわたくしを差し置いて褒めた理由です。凡庸で済ませられては困ります」
「それはそう」
トレーナーは困ったように眉を寄せた。
彼は、本当に説明しようとしていた。
そこはわかる。
適当なことを言っているのではない。ヴィルシーナの走りに、彼は確かに何かを見た。その何かを言葉にしようとしている。だが、口にした瞬間、それらはひどく平凡な競走評になってしまう。
自然。
流れを掴む。
仕掛けどころ。
脚の使い方。
勝負勘。
どれも間違いではないのだろう。
だが、そんなものは誰にでも言える。
桜花賞の勝者を前にして、二着のウマ娘を開口一番に褒めるだけの理由としては、あまりに薄い。
「つまり」
ジェンティルドンナは、冷ややかに言った。
「あなたは、ヴィルシーナさんの走りに何やら感じ入り、それを説明しようとした結果、どこにでもある解説のような言葉しか出てこなかった、と」
「返す言葉もない」
「本当にありませんわね」
トレーナーは、記録用紙を握り直した。
「ただ、違うんだ」
「何が?」
「言葉にすると、そういう普通の表現になる。でも、実際に見たものは、それだけじゃない」
「では、それを説明なさい」
「だから、そこが難しい」
「まあ」
ジェンティルドンナは、優雅に首を傾げた。
「わたくしを差し置いて二着の方に見惚れていた理由を、説明できないと?」
「見惚れていたわけじゃ」
「見惚れていましたわ」
「……はい」
「素直でよろしい」
トレーナーは、少し肩を落とした。
だが、目だけはまだレースの余韻を追っている。
ジェンティルドンナは、それがまた面白くなかった。
彼は自分の失礼を理解している。
謝罪もしている。
しかし、それでもヴィルシーナの走りへの驚きを捨てていない。
つまり、あの二着の走りは、彼にとって本当に見逃せないものだったということだ。
それが、腹立たしい。
「君は強かった」
トレーナーは、改めて言った。
「それは間違いない。今日の桜花賞を一番強く走ったのは君だ。直線で前が開いてからの伸びも、最後にもう一段ギアを上げたところも、本当にすごかった。あの熱の中で飲まれずに、自分の脚を使い切った。いや、使い切ったというより、まだ奥があるようにも見えた」
「当然です」
「うん。君は本当に強い」
「当然ですわ」
その言葉は、聞きたかった。
聞きたかったはずだった。
だが、今言われると、なぜか少し遅い。
最初に言うべきだった。
最初に自分を見るべきだった。
桜花賞を勝った自分が、レースの熱を初めて知り、少しだけ彼の言葉を認めてやろうと思いながら近づいた、その瞬間に。
彼は、自分ではなくヴィルシーナを見ていた。
その事実が、妙に胸に残る。
「それでいて、ヴィルシーナさんにはセンスがあると」
「うん」
「説明はできない」
「うまくは、できない」
「言葉にすると凡庸」
「そうなる」
「では、あなたの言うセンスとは、便利な逃げ言葉ではなくて?」
ジェンティルドンナの問いに、トレーナーはすぐには答えなかった。
逃げ言葉。
才能。
センス。
勘。
流れ。
それらは、理解できないものを理解したふうに扱うための言葉になり得る。ジェンティルドンナはそういう言葉を好まなかった。曖昧な言葉は、しばしば努力や構造への観察を怠らせる。
だが、トレーナーは少し考えたあと、首を横に振った。
「逃げ言葉にはしたくない」
「したくない、ですか」
「うん。たぶん僕は、まだちゃんと見えていないんだと思う」
「あなたが?」
「そう。見えている気はする。でも、説明できるほど掴めていない」
ジェンティルドンナは、意外に思った。
彼は自分の観察に、妙な自信を持っている男だと思っていた。普段は頼りなく見えるが、見るべきところは見ている。そして、見たものについては曖昧ながらも口にする。
その彼が、今、自分にはまだ掴めていないと言った。
「では、なぜ褒めたのです」
「見えたから」
「掴めていないのに?」
「うん」
「矛盾していますわ」
「たぶん、そういうものなんだと思う」
「また曖昧な」
「ごめん」
彼は本当に困っているようだった。
「でも、ヴィルシーナの走りには、レースを聴いている感じがあった」
「聴いている」
「うん。自分だけで走っているんじゃなくて、レースの中にある音を拾って、それに合わせているような」
「音楽家ですの?」
「違うと思う」
「詩人でもなく?」
「たぶん違う」
「では、もっとましな表現を探しなさい」
「探してる」
「見つかっていませんわね」
「うん」
トレーナーは正直だった。
それは美徳かもしれないが、今のジェンティルドンナには腹立たしいだけである。
それでも、彼の言葉の中に、ひとつだけ引っかかるものがあった。
レースを聴いている。
凡庸ではない。
少なくとも、他の言葉よりはましである。
そして、今日の桜花賞を走った直後の彼女には、その言い方が完全な無意味とは思えなかった。
聞こえたのだ。
ゲートで。
道中で。
直線で。
周囲の呼吸が。
脚音が。
馬群の圧が。
観客の声が。
背後から迫る、あの青黒い気配が。
ただし、ジェンティルドンナはそれらを聴こうとしたわけではない。勝つために必要な情報として把握していただけである。
一方、ヴィルシーナは。
彼女は、もしかすると最初からそれを聴いていたのかもしれない。
レースの中で、どこに自分を置けば最も届くのか。
誰の動きに合わせ、どの瞬間を待ち、どの隙間へ入ればよいのか。
能力で押し開くのではなく、流れの中へ自分を差し込むように。
そう考えると、最後に彼女が最も近くまで迫ってきた理由も、少しだけ輪郭を持つ。
少しだけ、である。
ジェンティルドンナは、その考えを胸の奥で握り潰した。
今、認める必要はない。
「トレーナーさん」
「うん」
「あなたの説明は、ひどく拙いです」
「はい」
「凡庸です」
「はい」
「担当ウマ娘への配慮も欠いています」
「はい」
「ですが」
そこで彼女は、一拍置いた。
悔しいが、ここは認めねばならない。
「あなたが何かを見たことだけは、理解しました」
トレーナーは、少しだけ目を開いた。
「本当に?」
「調子に乗らないでくださる?」
「はい」
「何を見たのかは、説明できていません。言葉にすれば凡庸。比喩に逃げれば曖昧。つまり、現時点であなたの評価は不十分です」
「手厳しい」
「当然です」
ジェンティルドンナは、遠くのヴィルシーナを見た。
彼女はまだ息を整えている。悔しさを隠しきれていない。だが、折れていない。二着という結果を受け止めながらも、どこか次を見ているような目をしている。
敗者の目ではある。
だが、終わった者の目ではない。
そこに何かがある。
それを認めることは、ジェンティルドンナにとって不愉快だった。
けれど、知らないままでいる方が、もっと不愉快である。
「ヴィルシーナさん、ですか」
彼女は小さく呟いた。
トレーナーが聞き返す。
「うん?」
「何でもありません」
「気になる?」
「まさか」
即答した。
あまりにも早い即答だった。
トレーナーは何か言いたげだったが、賢明にも口を閉じた。
ジェンティルドンナは、再び彼へ視線を戻す。
「それより」
「うん」
「あなた、まだ大事なことを言っていませんわ」
「大事なこと?」
「ええ」
彼女は、勝者として当然の顔で言った。
「わたくしは、桜花賞を勝ちました」
「うん」
「初めてのGⅠを、勝ちました」
「うん」
「あなたの言う“味”とやらも、少なくとも完全な戯言ではないと認めて差し上げました」
「そこまで?」
「差し上げました」
「はい」
「でしたら、まず言うべき言葉があるのではなくて?」
トレーナーは、一瞬きょとんとした。
それから、すぐに表情を改めた。
今度は、きちんと彼女を見た。
「桜花賞、おめでとう。ジェンティルドンナ」
彼の声は、先ほどよりも静かだった。
「君は強かった。初めてのGⅠで、あの熱の中を走って、勝った。最後に迫られても崩れなかった。むしろ、そこからもう一段伸びた。君は今日、ちゃんとレースを味わって、それでも勝ったんだと思う」
ジェンティルドンナは黙って聞いた。
ようやくである。
まったく、順序というものを知らない男だ。
けれど、その言葉自体は悪くなかった。
ちゃんとレースを味わって、それでも勝った。
その表現には、わずかに胸の奥を満たすものがあった。
勝利だけではない。
味だけでもない。
味わい、その上で勝つ。
なるほど、それならば悪くない。
ジェンティルドンナは、少しだけ顎を上げた。
「当然ですわ」
「うん」
「ですが、今後は順序をお間違えにならないことです」
「肝に銘じます」
「本当に?」
「本当に」
「では、よろしい」
彼女は満足したように言った。
ただし、完全には満足していなかった。
胸の奥に、二つの熱が残っている。
ひとつは、桜花賞の熱。
初めてのGⅠで感じた、濃密なレースの味。
勝者として味わった、強烈な余韻。
もうひとつは、青黒い気配。
最後に迫ってきたヴィルシーナ。
トレーナーが、うまく説明できないままセンスと呼んだもの。
ジェンティルドンナは、まだその正体を知らない。
知る必要がある。
なぜなら、知らないものがあるという事実は不愉快だからだ。
そして、自分の担当トレーナーの目を奪ったものが、自分に理解できないまま残ることも、やはり不愉快だからだ。
「トレーナーさん」
「うん?」
「次も勝ちますわ」
「うん。勝とう」
「そして、あなたの言うセンスとやらも、きちんと見極めます」
「ヴィルシーナの?」
「ええ」
彼女は優雅に微笑んだ。
「二着の方に、担当トレーナーの目を奪われたままでは、勝者として少々面白くありませんもの」
トレーナーは、一瞬黙った。
そして、少し困ったように笑った。
「君らしいね」
「わたくしをわかったように言うのはおやめなさい」
「まだわかっていないよ」
「なら結構」
ジェンティルドンナは歩き出した。
勝者としての手続きが残っている。祝福を受け、言葉を述べ、次の舞台へ向かうための準備を始めなければならない。
観客席から、再び彼女の名が呼ばれた。
ジェンティルドンナ。
その声は、先ほどよりも少し近く聞こえた。
彼女は顔を上げる。
歓声。
春の光。
芝の匂い。
肺に残る熱。
背後から迫った脚音。
そして、隣で説明の下手なトレーナーが口にした、センスという曖昧な言葉。
それらが、今日の桜花賞の中にあった。
勝利だけでは形作れない。
その言葉を、彼女はまだ認めきっていない。
だが、完全に否定することも、もうできない。
桜花賞は終わった。
勝ったのはジェンティルドンナである。
しかし、勝利の味の奥に、ひとつだけ異物が残っていた。
青黒い髪のウマ娘。
二着。
ヴィルシーナ。
届かなかったはずの者が、最後に最も近くまで迫ってきた。
その理由を、ジェンティルドンナはまだ知らない。
だから、彼女は次へ向かう。
勝つために。
味わうために。
そして、聞こえ始めたものの正体を知るために。