貴婦人の一角獣   作:全肯定逆張りおじさん

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怯えているのは「触れたい」気持ち

 ジャパンカップの勝利は、記録の上では揺るぎなかった。

 

 勝者はジェンティルドンナ。

 

 掲示板はそう示し、実況はそう叫び、観客はその名に沸いた。

 

 三冠バが、世界を砕いた。

 

 その言葉だけを取り出せば、十分すぎるほど美しい。春から秋へ三つの冠を戴いた女王が、さらに年長の強者たちを相手に勝利を奪い取った。誰もがその名を語り、誰もがその強さを認める。

 

 だが、勝利の縁には、薄い影が残った。

 

 審議。

 

 繰り返される映像。

 

 ざわめき。

 

 一部の講評。

 

 勝った。

 しかし。

 強い。

 だが。

 女王ならば、もっと。

 

 そういう言葉が、勝利の周囲にこびりついた。

 

 ジェンティルドンナは、それを不快に思った。

 

 勝利は勝利である。

 

 先にゴール板を越えた者が勝者である。

 

 競馬に絶対はない。だからこそ、結果こそが裁定である。

 

 それ以上に、何を語る必要があるのか。

 

 観客も、記者も、勝手なものだった。

 

 彼女ならば圧倒してほしい。

 彼女ならば議論の余地なく勝ってほしい。

 彼女ならば、誰もが黙るほど明瞭に、レースをねじ伏せてほしい。

 

 その期待は、粗雑で、無遠慮で、いかにも外側の者らしい。

 

 だが、まったく遠い声でもなかった。

 

 レースは屈服させるもの。

 

 勝利とは、他のすべてを己の足元へ伏せること。

 

 その考えは、ジェンティルドンナ自身の内側にもある。

 

 だからこそ、苛立つ。

 

 批評が癪なのではない。

 

 批評ごときに苛立っている自分が、癪だった。

 

 ドバイシーマクラシック。

 

 異国の空の下、ジェンティルドンナは再び世界を屈服させるつもりで走った。

 

 今度こそ、明瞭に。

 

 今度こそ、誰にも何も言わせぬ形で。

 

 身体は悪くなかった。

 

 脚も動いた。

 呼吸も乱れていない。

 力はある。

 

 彼女は、強いまま走っていた。

 

 だが、勝負どころで、ほんのわずかに硬くなった。

 

 押す。

 

 前へ出る。

 

 屈服させる。

 

 その意志が、脚の先へ重く乗る。

 

 流れを掴むより早く、流れを押さえつけようとする。触れるべきところで、砕こうとする。待つべきところで、形を決めようとする。

 

 大きな乱れではない。

 

 見苦しい失態でもない。

 

 誰が見ても、ジェンティルドンナは強かった。

 

 強いまま、届かなかった。

 

 ゴール板を越えた時、彼女の名は一番上にはなかった。

 

 異国の歓声が、別の勝者へ流れていく。

 

 ジェンティルドンナは息を整えた。

 

 敗北は、明瞭である。

 

 ならば、扱える。

 

 負けた。

 

 次は勝つ。

 

 それだけでよい。

 

 それだけでよいはずだった。

 

 レース後、通路の奥にひとつの影があった。

 

 黄金のような髪。

 

 王のような目。

 

 尊大で、傲慢で、そしてその傲慢さを許させるだけの走りを知る者。

 

 オルフェーヴルである。

 

 彼女は壁にもたれるでもなく、ただそこに立っていた。立っているだけで、通路の空気が彼女のものになる。

 

「ジャパンカップのような足掻きもなく、ずいぶん珍妙な走りだな」

 

 第一声から、それだった。

 

 普段ならば、ジェンティルドンナもその不作法を受けて、涼しく返しただろう。互いに一歩も引かず、言葉の先で矜持を鳴らし合う。それは不快でありながら、退屈ではなかった。

 

 けれど今日は、余白が少なかった。

 

 ジェンティルドンナは、微笑みを崩さずに答える。

 

「ええ。今度こそ屈服させてみせますわ」

 

 オルフェーヴルは、黙った。

 

 それは珍しい沈黙だった。

 

 尊大さが消えたのではない。呆れが、王の装いの隙間からわずかに覗いたのだ。

 

「……貴様は子供か」

 

 ジェンティルドンナは、瞬きをした。

 

「……?」

 

 本当に、意味がわからなかった。

 

 その沈黙が、オルフェーヴルには十分すぎたらしい。

 

 彼女は、ほんのわずかに顔をしかめる。

 

「……さすがの余にも語る言葉が無い」

 

 あまりにも低い声だった。

 

 呆れた

 

 そんな気配が、尊大な目の奥に混ざっている。

 

 それが、癪だった。

 

「ずいぶんと簡素なご批評ですこと」

 

「簡素にせねば届かぬかと思ったが、簡素でも届かぬとはな」

 

「見当違いですわ」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

「ならば、そのまま走るがよい。走れば走るほど、よく見える」

 

「何が?」

 

 オルフェーヴルは鼻で笑った。

 

「貴様の、今さらなところが」

 

 それだけ言って、彼女は踵を返した。

 

 説明はなかった。

 

 当然のように、なかった。

 

 走る者ならば、本来わかる。

 

 そう言われたような気がした。

 

 子供。

 

 今さら。

 

 どちらも粗雑な言葉である。

 

 不作法で、単純で、ジェンティルドンナに向けるにはあまりにも品がない。

 

 そう裁けばよい。

 

 裁いたはずだった。

 

 だが、胸の底に細い棘が残った。

 

 宝塚記念へ向かう頃、周囲の言葉は少しずつ濃くなっていた。

 

 ドバイでは届かなかった。

 

 力は見せた。

 だが勝てなかった。

 女王ならば、次こそ押し切ってほしい。

 議論の余地なく勝ってほしい。

 

 勝手なものだ。

 

 勝てば勝ち方を語り、負ければ絶対性を語る。

 

 ジェンティルドンナは、それを涼しく聞き流すべきだった。

 

 聞き流せるはずだった。

 

 だが、苛立ちは消えなかった。

 

 宝塚記念のターフは、湿りを含んでいた。

 

 空気が重い。観客席の熱も、肌へまとわりつく。走りにくいというほどではない。だが、レース全体が少しずつ重い。

 

 それでも、屈服させればよい。

 

 彼女はそう走った。

 

 流れを掴む。

 

 位置を取る。

 

 勝負どころへ向けて脚を残す。

 

 だが、また少し硬い。

 

 押し切ろうとすると、流れが重くなる。支配しようとすると、レースが指の間からずれる。

 

 ジェンティルドンナは強かった。

 

 崩れてはいなかった。

 

 だが、届かなかった。

 

 ゴール板の先で、観客席の声が割れる。

 

 強いのに。

 

 また勝ち切れない。

 

 らしくない。

 

 女王なら押し切ってほしかった。

 

 その声を背に受けながら、彼女は息を整えた。

 

 そこへ、やけに軽い足音が近づいてくる。

 

「ずいぶん硬い走りしてんなー、ドンちゃん」

 

 ゴールドシップだった。

 

 宝塚記念連覇ウマ娘。

 

 その肩書きにふさわしい走りを持ちながら、態度は肩書きというものを片端から蹴飛ばすように雑だった。

 

 距離の詰め方も、声の大きさも、顔の出し方も、すべてが乱暴である。

 

 ジェンティルドンナは、視線だけを向けた。

 

「ドンちゃんはおやめなさいな」

 

「どーしてくれんだよ! ゴルシちゃんの万バライブチケット兼特製焼きそばが無駄になっちまう!」

 

「あなたの事業が赤字なのは、わたくしの知ったことではありませんわ」

 

「赤字じゃねーし! 未来への先行投資だし!」

 

「なおさら知ったことではありません」

 

「冷てーなー。焼きそば冷める前に売り切る予定だったのによ」

 

「でしたら、まず販売計画を見直すべきですわね」

 

「うわ、普通に正論言うじゃん。やめろよゴルシちゃんの商魂が泣くだろ」

 

 ゴールドシップは、けらけら笑った。

 

 その笑いが、ふと止まる。

 

「てゆーかよぉ」

 

 声の調子が、わずかに変わった。

 

「今日の走り、マジでやってる?」

 

 ジェンティルドンナは、静かに目を細める。

 

「侮辱ですの?」

 

「いやぁ」

 

 ゴールドシップは、彼女をまじまじと見た。

 

「てんねんものかぁ」

 

「何のお話かしら」

 

「この年のはしかはこわいからなぁ。ちゃんと飯食って走って治せよ!」

 

「理解に苦しみますわ」

 

「しょーがくせーどんなちゃん!」

 

 ジェンティルドンナは、ゆっくりと瞬きをした。

 

 オルフェーヴルの声が、胸の奥で重なる。

 

 貴様は子供か。

 

 近い。

 

 あまりにも近い。

 

 しかも、こちらはさらに粗い。

 

「……あなたのお言葉は、相変わらず品位というものから遠いですわね」

 

「品位で勝てたらゴルシちゃん今ごろ世界征服してるわ」

 

「なさらなくてよろしい」

 

「な? そういうとこだぞ」

 

「どういうところかしら」

 

「そういうところだよ」

 

 ゴールドシップは、それ以上説明しなかった。

 

 ただ、少しだけ肩をすくめる。

 

「ま、頑張れよ。どんなちゃん」

 

「ドンナです」

 

「知ってる知ってる」

 

「では、正しくお呼びなさい」

 

「やーだね」

 

 ひらひらと手を振って、ゴールドシップは去っていった。

 

 ジェンティルドンナは、その背を見送らなかった。

 

 見る必要などない。

 

 子供。

 

 小学生。

 

 今さら。

 

 はしか。

 

 どれも下品で、粗雑で、品位の欠片もない言葉である。

 

 にもかかわらず、残る。

 

 残ることが、気に入らない。

 

 天皇賞秋。

 

 東京の直線は、長く、美しかった。

 

 空は澄み、芝は整い、観客席の熱は秋の光の下で鋭くなっていた。

 

 ここならば、すべてが明瞭になる。

 

 長い直線は、力を隠さない。

 

 仕掛けの正確さも、脚の残りも、勝者の資格も、すべてを晒す。

 

 ジェンティルドンナは、ここでレースを屈服させるつもりだった。

 

 ドバイの敗北も。

 

 宝塚の敗北も。

 

 外野の声も。

 

 オルフェーヴルの言葉も。

 

 ゴールドシップの悪口も。

 

 すべて、この直線で伏せさせる。

 

 ゲートが開く。

 

 流れは悪くない。

 

 道中の位置も、呼吸も、折り合いも、崩れてはいない。

 

 そして直線。

 

 東京の長い直線が開く。

 

 前にいる者の背中が、光の中で揺れる。

 

 トーセンジョーダンだった。

 

 脚色が鈍らない。

 

 むしろ、直線へ入ってなお、前へ進む力が増しているように見えた。

 

 ジェンティルドンナは踏む。

 

 強く。

 

 さらに強く。

 

 前へ。

 

 差を詰める。

 

 詰める。

 

 詰めているはずなのに、前の背中は崩れない。

 

 観客席が燃える。

 

 声が割れる。

 

 時計が、異様な速さを刻んでいる。

 

 トーセンジョーダンは止まらない。

 

 その脚は、馬鹿げたほどまっすぐだった。

 

 計算というより、勢い。

 

 理論というより、熱。

 

 それでも速い。

 

 あまりにも速い。

 

 理屈を越えている。

 

 ジェンティルドンナは、その走りに、以前見たものを思い出しかけた。

 

 秋華賞。

 

 七センチ。

 

 ゴールだけを見ていた目。

 

 つややかな青黒の――。

 

 それを最後まで形にはしない。

 

 だが、近いものがあった。

 

 能力だけではない。

 

 展開だけでもない。

 

 フォームの良し悪しだけでもない。

 

 走りの奥に、ゴールへ向かう一本の線がある。

 

 トーセンジョーダンは、その線から目を逸らさない。

 

 ジェンティルドンナは届かなかった。

 

 ゴール板を越えた瞬間、場内が爆ぜた。

 

 歴史的なレコード。

 

 勝者、トーセンジョーダン。

 

 熱狂が、別の名へ流れていく。

 

 ジェンティルドンナは息を整えた。

 

 胸が熱い。

 

 喉が乾いている。

 

 脚にはまだ力の残響がある。

 

 それでも、届かなかった。

 

 トーセンジョーダンは、少し先で息を切らしていた。

 

 肩が大きく上下している。

 

 派手な顔をしているくせに、今は言葉もすぐには出ないようだった。身体中でレースの熱を吐き出しながら、それでも目だけはやけに明るい。

 

 ジェンティルドンナは、思わず足を向けていた。

 

 問いなど、いくらでもあった。

 

 なぜ、あの脚が止まらなかったのか。

 

 なぜ、あの直線で崩れなかったのか。

 

 なぜ、あのようにまっすぐ走れたのか。

 

 彼女は、息を切らすトーセンジョーダンの前で足を止めた。

 

「……先ほどの直線」

 

 自分でも、声が出たことが意外だった。

 

 トーセンジョーダンが顔を上げる。

 

「え? あ、あたし?」

 

「ええ」

 

「な、なに? なんかした?」

 

 その反応には、先ほどのレコード走の迫力が少しもない。

 

 むしろ、相手がジェンティルドンナであることに、少し緊張しているようだった。

 

 それもまた、奇妙だった。

 

 あれほどの走りをしておきながら。

 

「あなたは、何を見ていましたの」

 

「え?」

 

「直線で。最後まで」

 

 トーセンジョーダンは、きょとんとした。

 

「ゴール」

 

 即答だった。

 

 あまりにも即答だった。

 

「それだけ?」

 

「それ以外あんの?」

 

 ジェンティルドンナは、すぐに返せなかった。

 

 ゴール。

 

 それだけ。

 

 その単純さが、秋華賞の記憶と重なる。

 

 ヴィルシーナも、ゴールを見ていた。

 

 座り込み、肩を落とし、失意の底にいながら、それでもゴール板だけを見ていた。

 

 ジェンティルドンナは、あの瞬間、何を見ていたのか。

 

 そこから先は、語らない。

 

 トーセンジョーダンは、まだ肩で息をしている。

 

「てか、急にどうしたん? ジェンティルドンナさんがあたしに聞くとか、めっちゃ怖いんだけど」

 

「怖がらせるつもりはありませんわ」

 

「いや、普通に怖いし。顔が強い」

 

「顔?」

 

「なんかこう、勝つ顔」

 

「レースにおいて、勝者の顔をして何が悪いのかしら」

 

「いや、悪くはないけど」

 

 ジョーダンは、少し困ったように眉を寄せた。

 

 最初は緊張していた。

 

 だが、ジェンティルドンナが言葉を重ねるうちに、その顔が少しずつ変わっていく。

 

 わからないものを見る顔ではない。

 

 少しずつ、違和感の輪郭を掴んでいく顔だった。

 

「レースとは、勝者がすべてを定める場所ですわ」

 

 ジェンティルドンナは言った。

 

「己の脚で流れを従え、相手を退け、ゴール板の向こうで勝者として立つ。そのために走るのでしょう」

 

「……へえ」

 

 トーセンジョーダンは、曖昧に頷いた。

 

「強い者がレースを支配する。勝者がレースを終わらせる。それだけの話ですわ」

 

「……うーん」

 

「何か?」

 

「いや、なんかさ」

 

 ジョーダンは、まだ息を整えきれていない。

 

 それでも、顔には遠慮よりも苛立ちが混ざり始めていた。

 

「めっちゃ難しいこと言ってるけど」

 

「難しいことではありませんわ。当然の話です」

 

「いや、違くない?」

 

 ジェンティルドンナは、静かに見る。

 

「何が?」

 

「勝ちたいって言えばいいじゃん」

 

 その言葉は、裸だった。

 

 あまりにも軽く、あまりにもまっすぐで、あまりにも飾りがない。

 

「……勝つために走っておりますわ」

 

「だから、それ!」

 

 トーセンジョーダンの声が、跳ねた。

 

「それ、とは?」

 

「ハァッ!? なめんなし」

 

 先ほどまでの緊張は、もうなかった。

 

 トーセンジョーダンは、真正面からジェンティルドンナを見ていた。

 

「勝ちたいって言葉に蓋するような奴に開くゲートなんかあるわけないし!」

 

 観客席の熱が、遠くなった。

 

 勝ちたい。

 

 その言葉だけが、妙に裸でそこにあった。

 

 ジェンティルドンナは反論できるはずだった。

 

 レースをなめたことなどない。

 

 勝利を軽んじたことなどない。

 

 誰よりも勝つために鍛え、誰よりも勝つために走ってきた。

 

 勝つとは、レースを屈服させることだ。

 

 勝ちたいなどと、わざわざ声高に叫ぶ必要などない。

 

 そのような剥き出しの言葉は、淑女の口にふさわしくない。

 

 そう言えるはずだった。

 

 だが、ジェンティルドンナは口をつぐんだ。

 

 その沈黙が、彼女自身を苛立たせた。

 

 まるで、揺らいでいるようではないか。

 

 レースとは屈服させるもの。

 

 勝者は支配するもの。

 

 敗者は伏すもの。

 

 その明瞭な価値観から、ほんのわずかに足を外したようではないか。

 

 トーセンジョーダンは、理屈を持っている顔ではなかった。

 

 ただ、まっすぐだった。

 

 まっすぐすぎた。

 

「……ずいぶんと、率直な物言いですこと」

 

「まっすぐじゃなきゃ走れないっしょ」

 

 当然のように、トーセンジョーダンは言った。

 

「あんた、なんか難しい顔してるけどさ。勝ちたいなら勝ちたいって走ればよくね? それ隠して、レース支配しますみたいな顔して、でも届いてないとか、普通にダサいし」

 

 ダサい。

 

 品位の外にある言葉だった。

 

 しかし、彼女にとっては、それが最も正確な言葉なのだろう。

 

 ジェンティルドンナは返さなかった。

 

 返せなかったのではない。

 

 返さなかった。

 

 そうでなければならない。

 

 トーセンジョーダンは、少しだけ気まずそうに目を逸らした。

 

 言いすぎた、とでも思ったのかもしれない。

 

 だが、撤回はしなかった。

 

「ま、知らんけど。ゲートってそういうとこじゃん」

 

 それだけ言って、彼女は仲間の方へ呼ばれていった。

 

 ジェンティルドンナは、その背中をしばらく見ていた。

 

 歴史的なレコードを出した勝者の背。

 

 深い理屈など、おそらく背負っていない。

 

 ただ、ゴールを見ていた者の背。

 

 その夜、トレーナーは彼女の隣を歩いていた。

 

 天皇賞秋の喧騒は、もう遠い。

 

 だが、耳の奥にはまだ、観客席が爆ぜる声と、トーセンジョーダンのまっすぐな悪口が残っている。

 

 ジェンティルドンナは沈黙していた。

 

 トレーナーもすぐには言わなかった。

 

 少し歩いてから、彼女の方が先に口を開く。

 

「言葉をお探しですの?」

 

 トレーナーは、小さく頷いた。

 

「探してる」

 

「見つかりまして?」

 

「少し」

 

「では、早くなさい。長く待たされるのは好みません」

 

 トレーナーは、少し困ったように笑った。

 

「君は、レースを屈服させようとしてる」

 

「当然でしょう」

 

「うん」

 

「レースとは、そういうものですわ」

 

「君にとってはね」

 

「一般的にもそうです。勝負とは、勝者と敗者を分けるものですから」

 

「そうだね」

 

「でしたら」

 

「でも君は今、屈服させたいのに、壊したくない」

 

 夜風が吹いた。

 

 ジェンティルドンナは黙った。

 

 壊したくない。

 

 また、その言葉。

 

「まるで、わたくしが怯えているような言い方ですわね」

 

「そう聞こえたなら、そうなんだと思う」

 

 彼女は静かにトレーナーを見た。

 

 声を荒げる必要はない。

 

 淑女は、感情を投げつけない。

 

「ずいぶんと見当違いな観察ですこと」

 

「君から見れば、そうだと思う」

 

「訂正なさい」

 

「でも、僕から見ると見当違いじゃない」

 

 腹立たしい。

 

 それでも、言葉は胸に残った。

 

 壊したくない。

 

 触れ方を間違えたくない。

 

 トレーナーは、少し声を落とした。

 

「君が怯えているのは、負けることじゃないと思う」

 

 ジェンティルドンナは答えない。

 

「触れたいと思ったことだよ」

 

 触れたい。

 

 その言葉は、あまりにも幼かった。

 

 あまりにも無防備だった。

 

 あまりにも品がなかった。

 

 ジェンティルドンナに向けられるには、あまりにも似合わない。

 

 だから彼女は、薄く微笑んだ。

 

「詩人にでもおなりになったら?」

 

「向いてないと思う」

 

「ええ。わたくしもそう思います」

 

 それで会話は終わった。

 

 終わらせた。

 

 だが、言葉は消えない。

 

 貴様は子供か。

 

 しょーがくせーどんなちゃん。

 

 勝ちたいって言葉に蓋するような奴に開くゲートなんかあるわけないし。

 

 触れたいと思ったことだよ。

 

 どれも粗雑で、乱暴で、まっすぐで、淑女の耳には似合わない。

 

 それなのに、線になる。

 

 一本の線に。

 

 ジェンティルドンナは、語らなかった。

 

 語る必要などない。

 

 勝つ。

 

 次は勝つ。

 

 疑いの余地なく。

 

 議論の余地なく。

 

 すべてを黙らせるように。

 

 そう思うほど、胸の奥で、別の香りが残る。

 

 触れれば壊れてしまいそうなもの。

 

 壊したくないと思ってしまうもの。

 

 それでも触れたいと、どこかで願っているもの。

 

 ジェンティルドンナは、それをまだ知らない。

 

 知らないまま、姿勢を正す。

 

 勝つために。

 

 屈服させるために。

 

 女王として。

 

 その指先が、何かを壊すことを恐れているなどとは、まだ知らないまま。

 

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