あわいの灯   作:篠乃

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注意書き

山あいに生きる薬師の兄妹が、人と鬼、命と死のあわいを渡りながら、小さな灯を繋いでいく話。
原作 鬼滅の刃の余白に触れるような静かな補完連作です。
時代は室町末期~戦国初期頃。政治の世界における占いなどの神秘の重要性が失われつつある時代です。

※原作要素を含む二次創作/時代背景に基づく死生・医療描写あり。
※史実・設定改変を含みますが、世界観の整合を重視しています。


それでは、どうぞ、ゆっくりと。



序 灯明

 

 

二人の兄妹が山奥の小さな庵の影に立つ真新しい小さな祠へ手を合わせていた。


尋常ならざるものを見聞きする彼らを拾い、導いた老僧が数日前に亡くなったのだ。

 

「澄玄さま、眠るように逝けたんだね」


「俺たちのこと、楽しみに待っててくれてたんだ。家中何を触っても、いつもどおりの声が聞こえる。

……
澄玄さま、そっちに行くのはずっと先です。暇つぶしに、どうか俺たちの道行を見守ってください」

 


す、と手をあわせ、経をあげる。
線香の煙がすぅと祠に吸い込まれるように消えた。


3人で食事をするとき、いつも決まっていっとう幸せそうに食べる澄玄さまらしい、と綴弦が言った。
そうね、本当に。と月詠が返す。

 

庭の柿の葉が一枚、音もなく落ちた。
その軌跡を目で追ううちに、二人の喉の奥で言葉がかすかに震えた。


風が通り過ぎ、竹の葉が擦れ合う。
その音が、押し殺した嗚咽のようにやさしく響く。


半年前、同じ場所で聞いた風の音と、何も変わらない。
けれど、その“変わらない”ことが、今は痛いほど尊いものに感じた。

 

 

秋の陽は釣瓶落とし、とは誰が言ったのか、気づけばすっかり日が落ちて、新月に近い太りはじめの月がのぞいていた。
月詠は明かりのない厨に火を起こし、ひえや粟がほとんどを占める米を炊く。
綴弦が灯明との器と芯を持って近づいてくる。


綴弦も月詠も暗くて目が見えない程度は、苦にならない――長年暮らした庵なら特に――が、今日は少しの贅沢を目溢ししてくれと灯明に火を移した。

 

いつも通りふたりだけの食事は、場所がこの庵であると言うだけで寂しいものに感じられた。


お菜は何も残っていなかったので、ふたりしてご飯だけをよそって黙々と食べた。
この時期にはもう虫が鳴かない。だからきっとこの音は灯明が鳴いているのだ。
なんの味付けもないのにちょうどいい塩加減で、鼻の奥がツンとした。

 

「今日ちょっと水加減間違っちゃったみたい、ごめんね」


「仕方ないな、塩加減はちょうどよかったから勘弁してやる」


形式的に筵に横になって、形式的な言葉を戯けたような口調で紡ぐ。

 

「眠れそうか?月詠」


「まさか。私、いつもの眼では見れないのよ。それが澄じいさまが穏やかに亡くなった証左とはいえ、よかった、うれしい。おやすみなんてできない。……実の両親には何も思わなかったのに」


「そうか」

 

瑠璃の眼が、火よりも静かに光る。
あの眼が視るのは“終わりの瞬間”――生まれた時から、死のかたちに囲まれてきた人間の眼だ。


それでも今、その光はあたたかい。
澄玄さまの死を見て、大切な人がいなくなる悲しみに涙が出るようになった。

 

「うん。綴弦は今も聞こえてるんでしょう?聞かせて」


 

綴弦は雨戸の横に置かれた背負い籠に触れる。俺と月詠で片方ずつ肩紐をつくったそれ。


板の間との温度差に、澄玄さまの手の温もりが残っている気がした。

 

思い出したのは、あのときの笑い声。
ちぎれた紐を見て、おいおい泣きながら結び直してくれたあの顔。
山で拾った子どもらが、自分の手で初めて“直した”ものだった。


あの夜の涙の意味を、今ようやく少しだけ分かる気がする。

 

「どれからにしようか――」


籠の竹がきしむ音が、小さく答えた気がした。


ああ、本当に。
この場所にいると、”嘘も誰かの幸福のための祈りかもしれない”なんて、澄玄さまの言葉を本気で信じてしまいそうだ。

 

灯明の火が、籠の竹をやわらかく照らしていた。
その影が、まるで澄じいさまの手のように見えた。

 

***

 

昨夜青年たちを包んだ灯明は消え、朝日が薄く包んでいた。
囲炉裏の灰の中に、火の名残がひとつ、朱を宿していた。
綴弦は、胸の奥に温かいものを感じて目を覚ました。
自分の肩に、月詠の額が触れている。
夜の冷え込みは厳しく、吐く息が白い。
けれど、互いに寄り添った部分だけが、確かに温かかった。

 

「……夢を、見たの」
月詠が小さく呟いた。


「竹籠の、あの肩紐。澄じいさまが泣いて笑ってた」


 

綴弦も目を細める。


「俺も見た。……同じ夢だな」

 


庵の中を見渡す。薬草を干していた棚、包帯をしまっていた籠、澄玄さまの筵。
すべてあのころのまま静止したようにそこにある。


生きていた時間だけが、もう戻らない。

 

簡素な粥を火にかけ、囲炉裏を囲んで朝食を取る。
湯気が立ちのぼる間に、月詠が口を開いた。


 

「――澄玄さまのこと、村の人たちにも伝えなくちゃ。綴弦は西から、私は東から巡るから、」


綴弦は眉をひそめる。


「お前ひとりで行かせる気はない。女が一人で山道を――」


「いつもどおり、男に見えるように装えばいい。口調もそうしてきたし。それに、一緒に回ってたら雪の降る前に炭焼き小屋まで行けないでしょう?」

 

綴弦の頭に炭焼き小屋の夫婦が過ぎる。
毎年秋になると炭焼きの手伝いに行っていたが、今年は巡回が遅れたために、既にひと月訪問が遅れている。

 

「……ああ。なら、東はお前に任せる。炭焼き小屋の麓の作業小屋で合流しよう。だが、絶対に無理はするなよ」


「うん」

 

食器を洗い、薬箱の中身を確かめる。
乾いた薬草の香りが、ひんやりとした空気に混じる。
月詠がふと、背負い籠の肩紐に触れた。


 

「……ねえ、あの夢の竹籠。澄じいさまがあんなに泣いてたの、なんでだろう」


綴弦は少し考えてから、
「俺は、ちょっとわかる気がする」
と答えた。

 


「おれたちが、自分の手で初めて“直した”ものだったし。竹籠につけると、俺たち家族みたいだろう」


月詠の目がすこしだけ見開かれた。

 

親に捨てさせてしまったおれ。ひとりだけ生き残ってしまった月詠。
拾ってくれた澄玄さまも、もとは天涯孤独の身で医僧の仕事以外は半ば世捨て人のような生活をしていたと聞いた。


きっとあのひとが泣いたのは、自分の手で“つながった”ものを見たからだ。
血ではなく、手の仕事でつながる絆。
それがどんなに脆くても、確かに温かいものだった。

 

無言で肩紐を外し、それぞれの薬箱の片側に、竹籠の紐を結び直した。
残った片方を、お守りとしてお互いに持つ。
これで、どこにいても互いを感じられる気がした。

支度を終えると、できたばかりの小さな祠に膝をついた。
「行って参ります」
綴弦の声に、月詠が静かに頭を下げた。
朝日が差し、白い霜が光を返す。

 

山道の分かれに立ち、ふたりは顔を見合わせる。


「じゃあ、一月後、いつもの作業小屋で」


「それまで、風邪引くなよ」


 

月詠が軽く笑い、草履の先で霜を蹴る。
その背が、東の木立の向こうに消えていった。


綴弦は西の道を見据え、薬箱の重みを背に感じる。
師の灯明の残り火が、まだ胸の奥で小さく揺れていた。

 

***

 

東の村に入って七日。
山裾の霧はまだ濃く、夜ごと白く揺れていた。

月詠は、年老いた産婆の家に身を寄せていた。
産婆は、彼女が師の弟子であることも、女であることも承知の上で、何も問わなかった。


ただ、もうすぐ出産があるから、見ていくといい。と言って、お産の知識を授けてくれた。
焚き木の音だけが優しく響く家だった。

 

その晩、隣家の女が産気づいた。
「すぐ来ておくれ!」と戸を叩く声に、産婆が起き上がる。
月詠は薬箱を抱えて後を追った。

 

小さな家の中は、冬の夜気と汗の匂いが混ざっていた。
女は必死に息を吐き、周りでは近所の女たちが湯を運び、声をかける。
男は手を握ることしかできず、ただうろたえていた。

 


「大丈夫、あんたも支えなきゃ」


産婆の声に、夫ははっとして女の背を支える。
月詠は布を湯で濡らし、額を拭う。

指先がふるえた。
――この温もりから、ひとは始まるのだ。

 

やがて、産声が上がった。
短く、しかし世界を切り開くような声。
その瞬間、女の目から涙がこぼれた。


「この子……」と、息を絞るように笑う。


夫が顔をのぞきこみ、初めてその手で子を受け取った。
小さな命の重みに、男は「父親」になった。
囲炉裏の火がぱちぱちと弾け、冬の夜に温かな色を落とした。

 

夜明け、山の端が白みはじめるころ。
月詠は井戸のそばで、冷たい水に手を浸した。
掌にはまだ、産婦の汗と血のぬくもりが残っている。

 

――わたしも、あのようにして生まれたのだろうか。
あの苦しみの中に、母はいたのだろうか。


たとえ顔も知らず、声も記憶になくとも。
確かに、誰かが命を削って自分をこの世に送り出した。

その思いが、胸の奥に静かに降りていく。
夜明けの光の中で、それはまるで薄氷のように揺れていた。

 

秋の終わりの風が吹く。

なんだか無性に、綴弦に会いたかった。
月詠は小さく呟いた。


 

「……ありがとう。わたしを、この世に置いてくれて」


その言葉は、誰に聞かせるでもなく、霜の白い道に溶けていった。

 

***

 

西側は、霜が降りて雪のようになっていた。
藁ぶき屋根の間を、風が鳴いて抜けていく。

 

お師さまの訃報を告げるたびに、口々に感謝と弔いを受け取った。


あのひとの薬のおかげで、春を迎えられた。
あの言葉のおかげで、生きる気力を取り戻せた。
惜しい方を亡くした。
あまり気落ちせずに、頼っておくれよ。
お師さまの背中の大きさと、里の人たちの人情が沁みた。

 

ある集落を訪れた時、子どもを見てくれと呼び止められた。
父親だという男曰く、五日前から咳が続き、もう三日も熱が下がらないのだという。

 

家に着くと、うすい筵を被った子どもが囲炉裏のそばで寒さに震えていた。
額には滲む汗、頬は赤く、唇の色だけが薄い。
咳がひとつこぼれるたび、細い肩が小刻みに震える。

傍の母親は夜通し診ているのか、くまができ、やつれているようにも見える。

「おい、診てくれるひと連れてきたぞ」


「こんにちは。薬師の綴弦といいます。……よく、持ち堪えてくれましたね。大丈夫ですよ」

 

お師さまの横顔を思い出しながら、安心してもらえるように表情を作り、声音を真似る。
まだ18の自分が信用をもらえるように。

 

「旦那さん。これ、掛け布なんですが、ここから藁クズを詰めて口を縛ってください。お子さんが少しでも温まるように」


「お、おう」

 


「奥さん、囲炉裏の鍋で湯を沸かしてくれませんか。すこし、火の気が勝ち過ぎているようです。それが終わったら、一度横になってください。眠れていないのでしょう、倒れたら大変です」

 


驚いたような女の横から、男が鍋に水を注いだ。
じゅうと音を立てて湯気が立つ。
男は吹きこぼれる心配のないぎりぎりまで注ぐと、早く休め。とこぼして藁クズを詰めに行った。


「ありがとうございます。……いい旦那さんですね」


女は、照れくさそうにこくりと頷き、じゃあ少しだけ……と横になった。

 

子どもを抱き上げ、囲炉裏から少し距離を取る。
口元に掌をかざし、息の熱を確かめる。


浅く、速い。熱は高いままだ。
指先で頬に触れると、火照りの下に冷えが潜んでいた。
手足の先は氷のように冷たく、脈は細く速い。
筵の上に置かれた小さな手を取ると、力はほとんどなかった。

 

熱のわりに、喉の腫れがひどい。
綴弦はそっと唇を開かせ、喉の奥を覗き込む。
かすかな灯に照らされて、赤く腫れた扁桃が浮かんだ。
乾いた呼気がひゅうと鳴り、胸の奥で痰が鳴る。

 

「胸も詰まっている。気管を痛めてるかもしれん」


そう呟いて、綴弦は荷の中から薬包みを取り出した。
乾燥させた杏仁、薄荷、甘草。
喉の熱と咳を鎮め、痰をやわらげる薬だ。
小さな壺に湯を張り、粉を少しずつ溶かしていく。
湯気が立ちのぼり、薬草の匂いが部屋に広がった。

 

子どもがぼんやりと目をひらく。


 

「こんにちは。私は、君の父親に呼ばれた薬師だ。
これは、君の熱を下げ、喉の痛みを楽にしてくれる薬だ。少し、飲めるか」


 

こくん。と頷いた子どもに一声かけ、背を支える。
薬を口に含ませると、子どもはうっすらと眉を寄せた。
喉が焼けるように痛むのだろう。それでも小さく飲み込む。
細い喉がひとつ上下し、息がひゅうと鳴った。
いい子だ。というと女に似た顔でわらって、くたりとまた眠った。

 

がらりと戸が開いて、温藁――掛け布に藁を詰めた携帯寝具――を持った男が帰ってきた。
日当たりの悪いこの里では、藁クズさえ多くはないのか、あちこちの家から分けてもらっただろうにちょうどいい分量に収まっていた。
外気が流れ込み、囲炉裏の火が一瞬揺れる。

 

「ご苦労さまでした」
綴弦は顔を上げて言った。


「お子さんの熱はまだ高いですが、喉の腫れが原因でしょう。呼吸が浅くなっており、今夜が峠かもしれません。
先ほど、喉の腫れを引かせる薬を飲んでくれました。温を保ち、水を少しずつ与えてください」


 

男は温藁をかけ、黙って子の寝顔を見つめた。
男の目の下にも深いくまが刻まれている。

「……あんた、今夜はどうする」
と、かすれた声で問う。


 

綴弦は火を見つめ、短く息を吐いた。


「もし許されるなら、ここで今夜を明かしたい。
薬は効きはじめますが、呼吸が乱れるかもしれません」

 

男はしばし考えたあと、うなずいた。


「ありがてえ……妻ももう限界で。あんたが居てくれりゃ、それだけで心が軽え」


綴弦は軽く頭を下げた。


「では、火の番を私がします。あなたはそこの湯を飲んで身体を温めてください。この冷えでは、看病する方が先に倒れます」

男は泣き笑いのような顔で、何度も頭を下げた。


 

外の風が戸の隙間を鳴らす。
綴弦は囲炉裏の火を整え、薬壺を傍らに置いた。
赤子のように眠る子の呼吸に耳を澄ませながら、静かな夜を迎える覚悟を固めた。

 

子どもの背を撫でてやりつつ、ぼんやりと思索に耽る。


まだ自分が小さかったころ、両親の愛はきっとあったのだろう、と思う。
自分の聴きすぎる耳は、触れたものの記憶する音を容赦なく拾い上げた。
大人の嘘も、恐れも、嫌悪も、すべて。
そして最後に、あの人たちに化け物と呼ばせてしまった。
その時の表情は靄がかかったように思い出せないけれど、泣きそうな顔をしていた気がするから。

 

綴弦は、ふと澄玄さまの庵を思い出した。
初めて庵に連れてこられた夜、緊張で熱を出した。
寒さに震える私に、あのひとが自分の筵を重ねてくれた。


 

「熱は、ひとが生きている証だ」


その声とともに、固くて、でも不思議と冷たく気持ちいい掌が額に触れた。
今、その掌の記憶が甦る。綴弦はもう一度、子の背を撫でた。

 

夜が明ける。
咳は止み、子の寝息が穏やかなものに変わる。
囲炉裏の火がぱちりと弾ける音がした。
綴弦は、温藁を受け取った時に流れ込んできた父の愛情を思った。

 

朝の光が差し込む。
女が微笑み、「ありがとう」と言った。
綴弦は頭を下げ、薬箱を背負い直す。
肩紐に触れる。月詠と交換したあの紐。
師の籠の名残りを繋いだその布が、少しだけ温かかった。

冬を告げる風が吹いた。

 


あの家族はきっと春を迎えられるだろう。

 

***

 

指四本分ほどまで積もった雪は、柊の深緑をすっかり隠していた。

綴弦は肩に積もる雪を払いながら、ようやく山裾の作業小屋にたどり着いた。


待ち合わせの期日を過ぎて十日あまり。
月詠も待ちくたびれているだろうと思っていたが、人の気配がない。

 

小屋の戸を開けると、中はしんと静まり返って薄く埃が積もっていた。
壁際に置かれた竹籠、煤けた天井、乾いた薪の匂い。
このあたりの炭焼きや猟師が使う共同の小屋だ。


 

「……俺と同じく遅れているだけならいいが」

 

独り言のように呟き、天を仰ぐ。
太陽はちょうど中天に差しかかる。


ここから炭焼き小屋に近づくほど雪が深くなるのを考えると、半日以上はかかる。
どう計算しても、今夜はここで一泊だ。
囲炉裏の縁に腰を下ろす。
足裏に伝わる板のざらつきが、妙に生々しい。

 

懐から火打石を取り出し、乾いた焚き付けに火を起こす。
ぱち、と音がして、橙の火が立った。


小屋の中がゆっくり明るくなる。
息を吐くと、白が揺れた。

 

――西の村と途中の集落での旅路は、どうしても弔いが多かった。


村人が家族へ向ける愛を見て、自分に向けられた昔の愛情を思い出しても、
懐かしさや救いの感覚の奥に、かすかな羨望が残る。

 

僧でもない自分たちは、もう結婚を勧められる年ごろでもある。
泊めてもらった家の青年から「妹が春に嫁ぐ」と聞いたとき、綴弦はどうしようもなく、月詠の顔を思い浮かべた。


――雪の向こう、誰かに連れて行かれるように遠ざかる彼女の背。
喉の奥に棘のような痛みが残った。

死に別れるのも、嫁に出すのも、同じくらい「失う」ことだと思った。

 

気づけば、埃をかぶった床に古箒をかけていた。
どうにも落ち着かなくて、体を動かしていないと胸がきしむ。


月詠が来た時、せめて気持ちよく眠れるようにしておきたかった。
鼠が板の下を走り抜ける音がして、綴弦はほっと息を吐いた。
手が動いている間は、何も考えなくて済む。

 

きれいな雪を掬って鍋に入れ、火にかける。
溶けていく雪を眺めながら、綴弦はぼんやりと思う。


あの庵を出てから、もうすぐひと月半。
澄玄さまを見送った夜、西の村の子の咳、青年の妹の嫁入り話、そして――月詠。
考えまいと思っても、結局そこに戻ってくる。

 

囲炉裏の火をかき回したその時、さく、さく、と雪を踏む音がした。
もしやと、戸を開ける。雪の向こうに黒く小柄な影が見える。
月詠だった。
薬箱を背に、胸には布包を抱えている。寒さのためか鼻先が赤い。
こちらに気づくと、ぱっと手を振り、足を速めた。

 


「だいぶ遅くなって、ごめん」


息を弾ませながら笑う顔に、綴弦の肩の力が抜ける。


「いや、俺もつい昼についたばかりだ。……寒かったろう。中へ入れ」

 

戸を閉めると、外の風の音が遠ざかる。
囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。
綴弦は無意識に月詠の肩を撫でた。無事を確かめるように、そっと。
月詠もそれを拒まない。火の明かりの中で、二人の指が一瞬触れ合う。


あれほど荒れた波は、たったそれだけで嘘のように凪いだ。

 

***

 

囲炉裏の火はやわらかく燃えていた。
湯呑みに囲炉裏の湯を注ぎ、月詠に渡す。
「ありがとう」
湯気が立ちのぼるそれから暖を取るように両手で包み、目元を緩ませた。

その横顔を見つめながら、自分の分をひとくち含む。


 

「道はどうだった」


「思ったより荒れてた。途中の橋が大風で流れたらしくて、少し遠回りしたの」


「……それは、たいへんだったな」


 

その声には労りと安堵が滲む。
月詠は膝に置いた布包を開いた。
中から、乾いた薬草と干した山の果実がのぞく。

「うん、でもね、嬉しいことも多かったのよ。
ほら、集落の人たちが今年は柿がたくさんなったからって譲ってくださったの。
それから、お師さまがよく使ってた薬草。雪の前に摘んでおこうと思って」


月詠は小さく笑みを浮かべたあと、言葉を継いだ。


「薬籠の補充もあるし、あって困ることはないでしょう?」

 

綴弦は頷き、梁の下に吊るした籠を引き寄せた。
編み目の隙間から、いくつもの小壺や竹筒が鈍く光る。


取り出した小壺の底には、煤の跡がまだ新しい。
それを見ただけで、彼は心の中で呟く。
――あの子の火傷、まだ癒えていなかったか。

 

隣で月詠も、指先で竹筒の印をなぞっていた。
「×」の印。ふたりの手癖で刻まれた、細い刃のような印。
その線のかすれ方に、綴弦は妹の筆圧を思い出し、
月詠は兄が刻んだ別の印を探すように籠の中を覗き込む。

 


「こっちは“○”ね。去年の冬、咳が止まらなかった猟師さんの」

綴弦は頷き、欠けた分を補うために薬包を取り出した。
乾いた杏仁を包に移し、薄荷の香を確かめる。

 


「これは喉の薬」「これは熱を下げる薬」と口の中で確かめるように呟く。
月詠は、焚き火のそばで果実を布袋に詰めながら、
その声のリズムに合わせて、自分の包みを順に差し出した。

 

二人の手が交わるたび、籠の中で竹や陶片が微かに鳴る。
まるで互いの記憶が音を立てて確かめ合うようだった。
火の音がぱち、と鳴る。
ふたりとも、それ以上はしばらく何も言わなかった。
火の明滅に合わせて、互いの影が壁を渡る。

 

「珠世さん、元気してるかな」


その言葉に、綴弦は思わず目を伏せる。
昨年の夏、炭焼き小屋に生まれた小さな命がうまれた。
母になった珠世は、それから床に伏せる日が増えていた。
春を迎えてからは、起きている時間も増えていたが……。

 

火の明かりが睫毛を染め、唇がわずかに震えた。
言葉より先に、月詠の手が綴弦の指をそっと包む。
子どものころ、熱を出した夜にあのひとがしてくれたように。
それは慰めではなく、ただ存在を確かめ合うだけの行為だ。
綴弦の心の奥にこびりついた痛みを、そのぬくもりが、ゆっくり溶かしていった。

 

「……明日の朝、炭焼き小屋に行こう」

 


綴弦がそう言うと、月詠は小さく頷いた。


「うん。あの人たちに、澄玄さまのことも話さなきゃ」

 


囲炉裏の火が最後の薪を飲み込むように、ぱちりと弾けた。
二人はそのまま、言葉を交わさず並んで火を見ていた。

小屋の外では、雪が音もなく降り積もる。
床に落ちる二人の影は、ゆるやかにひとつに重なった。

 

[newpage]

 

【人物紹介】


*綴弦

18歳、男性。月詠とともに旅の薬師をしている。翡翠色の目が印象的。

 

検証や思索をとおして理解するタイプ。
本来は月詠以上に寡黙な性格。人当たりのいい青年を演じた方が旅をする上で都合がいいので擬態を覚えた。
医療行為をするときにはお師さまの話し方を真似ている。

 

異能:手に触れたもののもつ記録が聞こえる。(本人の感覚に寄せるなら聞かされる)
普通の人だった両親を壊してしまったひと。

 

*月詠
16歳、女性。綴弦とともに旅の薬師をしている。瑠璃色の目が印象的。


静かに、感覚的に理解するタイプ。
情緒の発達がゆっくりしている。表情筋の可動域も広くない。
基本男装しているため、外見だけなら某水柱を華奢にして小さくしたのが一番近い。
旅人をしているだけあって細身でも持久力がある。


異能:死の幻影が見えることがある。死因が病死の場合のみ見えるらしい。
彼女の生まれた村は、疫病で壊滅している。

 

*澄玄/お師さま/澄じいさま

享年60歳くらい、男性。医僧として旅する途中で、綴弦と月詠を拾った。


綴弦たちの成長に伴って呼ばれ方が変化しており、旅を共にしている頃は澄じいさま、別々に旅するようになってからは澄玄さまと呼ばれるようになった。成長を感じた一方で、ちょっと寂しくなったらしい。

開幕早々お亡くなりになられた方。
天涯孤独だったから、家族と食べるごはんがよりおいしかったんだろうね。

 

*珠世18歳、女性。みんな大好き珠世様。
このシリーズ内では、薬屋さんの娘で炭焼き小屋のお嫁さん。
なんとか名前だけ滑り込ませた。次からガッツリ出すので許してください。

 

【世界観補足】


灯明(とうみょう)

古くから寺などで使われた照明器具。
土器のお皿に植物油を張り、いぐさでできた芯を浸して火をつけます。

 

温藁(ぬくわら)

本作オリジナルの寝具。高級な綿入れを庶民向けかつ旅の薬師が携帯しやすい形に改造し(綴弦たちの合作)。
着物を縫い合わせ、襟のところを巾着袋みたいにしたもので、使用時は中に藁クズを詰めて使用します。
綴弦たちはそれぞれの薬箱に1つずつ入れています。中の藁は現地調達なので、携帯性もばっちりです。
制作の背景として、①室町後期~戦国初期くらいの農村では、寒さに凍える病人が十分暖まれる寝具がない。
②旅の薬師としてみる患者は、農村階級がほとんどを占めている。
③医僧であった澄玄は、綿入れ(綿入りの着物。あったか高級寝具)を使う身分の人も診ることがあった。

 

*山仕事する人共用の作業小屋

メイン利用者は、炭焼き小屋の主人(珠世さんの旦那)、猟師、木こりあたりを想定しています。
「利用者は中に置かれた備品を使っていいけれど、自分の提供できるものを代わりに残す」ルールがあります。

作中、月詠たちが補充していた薬籠は、”薬を保管する入れ物”であるとともに、”山の人たちの近況を知るコミュニケーションツール”としても機能しています。
○や×のような記号で薬の薬効を示していたのは、この時代の識字率が低いことが理由です。

 

*炭焼き小屋のお手伝い


炭焼きは冬の寒い時期に行った方が、質の良い炭が作れるらしいです。そして、一度焼き始めると3~7日間は目が離せない。

 




【感想】

お読みいただきありがとうございます。こちら、初めて書いた二次創作作品です。
拙作主人公の綴弦・月詠兄妹は、異能の才(=神秘のかけら)を持つ旅人です。
医療者であり、教導者でもあった澄玄の教えを引き継ぎ、これから出会う鬼に関わった人たちへほんのちょっとの赦しと受容を届けていきます。ふたりの旅を、一緒に見守っていただければ幸いです。
次回からは、炭焼き小屋のお手伝い編です。
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