山あいに生きる薬師の兄妹が、
人と鬼、命と死のあわいを渡りながら、小さな灯を繋いでいく話。
原作『鬼滅の刃』の余白に触れるような静かな補完連作です。
本作『旅人と司書』兄妹の師であり養父の澄玄の青年期と、古寺のまとめ役である寛浄のお話です。
序 灯明や、古寺編の前日譚にあたります。先にお読みいただくと、より深くお楽しみいただけます。
時代は室町末期。
政治の世界における「神秘」や「祈り」の力が、
ゆるやかに失われつつある時代です。
※原作要素を含む二次創作/時代背景に基づく死生・医療描写あり。
※史実・設定改変を含みますが、世界観の整合を重視しています。
※本話には原作キャラクターは登場しません。
※シリーズ作品のため、第一話「序 灯明」からお読みいただくのをお勧めします。
それでは、どうぞ、ゆっくりと。
拾われてひと月ほど経ったある日、医僧から「今夜、灯明の間に来るように」と伝えられた。
水澤観音の守り番からのお呼び出しらしい。
今年最後の満月は、雪の白に覆われて音も色もない世界を、まざまざと見せつける。
灯明の間に向かう
木戸越しに声をかけると、穏やかな声で入室を促された。
灯明がジリ……と鳴き、老僧と奥の土壁を橙色に照らす。
坐禅を組む老僧の背は、ひとすじの線のように通り、微動だにしない。
自然と膝をつき、頭を下げる。
どうにか戸を閉め、老僧の向かい、灯影の端に割座する。
視線は上げられなかった。
木戸越しに、北風が微かに聞こえ、それを合図に老僧が口を開いた。
「そなたを、この寺付きの医僧として迎えたい」
「……恐れながら、私のようなものでは不相応にございます」
老僧が少し目を細める。
澄玄は腹の前で重ねた手を痛むほど握りしめた。
「“ようなもの”とは?」
「……人でなし、でございましょう。狐狸か、あるいは……」
老僧が静かに問いを変える。
「修験の旅であったか。……この冬、どこで行き倒れた」
澄玄は唇を震わせ、怯えた子どものように目を固く閉じた。
灯明がジリ、と鳴いた。
やがて観念したように、静かに口を開いた。
***
田圃に立つ稲ぼっちが金を弾き、彼岸花の名残と、山菊の青紫がその足元を彩っている。
澄玄は、朝焼けの色をそれぞれに引き受けたような彼らの間を、静かに歩いていた。
山裾の集落にたどり着いたのは、日がいっとう高く昇った頃だった。
いつものように、集落の出入り口の脇に筵を引いて、診療を始める。
時節柄、鎌で手を切ってしまった者や、稲刈りで腰を痛めた者が少しばかり多かった。
途中、手持ちの薬草が尽きかけてしまったが、子どもたちのおかげで、どうにか癒すことができた。
「みなさん、ありがとうございます。薬草の場所に案内してくださったおかげで、仏の癒しを届けることができました。何か、お礼にできることはないでしょうか」
子どもたちは面食らったような顔をして、襤褸を着た僧侶を見た。
「じ、じゃあ、さ」
少年の1人が、おずおずと願い出た。
「もうひとり、診てくれないか。風が冷たくなってから、咳が止まらないやつがいるんだ」
「っ、今日の薬草の場所見つけたのもそいつなんだ。たのむよ」
「ええ、もちろんです。それが私の勤めですから」
*
咳の音は、板戸の向こうから小さく洩れていた。
案内してくれた少年が声をかけると、嬉しそうに名前を呼んで、すぐうつるといけないから、と遠ざけた。
澄玄は声をかけるまえに、戸を指の腹で軽く叩いた。
「旅の僧です。お加減が悪いと伺いました」
しばらくして、衣の擦れる音。
現れた少年は、熱のせいで頬を上気させ、唇が乾いていた。
手を合わせる力もなく、ただ小さくうなずく。
澄玄は荷籠を開き、干した桔梗根と蘇葉を取り出した。
薪の減り具合を見て、囲炉裏に新しい枝を足し、薬湯を煮立てる。
炊けていく間、少年は布団の端から僧の指先をじっと見ていた。
その眼差しは熱の霞の中にあっても、どこか聡く澄んでいた。
「……その袋、全部、薬草ですか」
「ええ。山を歩きながら集めています。仏の山は、薬の山でもあります」
「へぇ……」
咳がこぼれ、湯気に咳が吸い込まれた。
薬湯を匙でゆっくり口に含ませると、少年の呼吸は少しずつ整っていった。
湯が尽きるころには、額の汗が熱の退きはじめを知らせていた。
澄玄は空の椀を手に、合掌した。
「薬よりも、母上が帰られたら、あたたかいものを少し召し上がるとよいですね」
少年はうとうととしながら、途切れ途切れに言った。
「母ちゃん……働きに……」
そのまま眠りに落ちる。
*
日が暮れかけた頃、戸を引く音がした。
戻った女は、濡れた手を布で拭いながら、家の中の見知らぬ僧に目を見張った。
「……なにか、ありましたか」
「息子さんに薬湯を差し上げました。熱はもう峠を越えましたよ」
「まあ……まあ……」
女は何度も礼を言いながら、膝をついて息子の額に手を当てた。
その手が震えているのを見て、澄玄は静かに言葉を添えた。
「お代は、一夜の屋根をお借りできれば、それで十分です」
女は、口を開きかけて、また閉じた。
唇の端に浮かんだ安堵の色は、薪の火のように小さく、確かなものだった。
その夜の食卓には、麦と味噌の雑炊が一椀。
薄く香る浅葱と、少しの大根葉。
澄玄は箸を取らず、まず合掌した。
「……ありがたいものです。仏も、こうしたぬくもりをこそ尊ばれるでしょう」
戸の外では、風に吹かれた稲ぼっちが、こすれあってざわめいていた。
それが、どこか祈りの声にも似ていた。
*
夜。囲炉裏の火が静かに小さくなっていく。
息子はもう眠っていた。
母親は火の明かりに照らされた手を見つめながら、口を開いた。
「……あの子が、薬草の場所を教えたって言ってました」
「ええ。たいへん助かりました」
「山の奥ですよね。あんなところ、いつ覚えたんでしょう」
「聞くに、ほかの子の荷を持って、薪を拾いに行くうちに覚えたと」
女は、少し俯いた。
「やっぱり……。あの子、私が働きに出ている間に、いろんなことを覚えてきました。
薪の割り方も、縄の縒り方も。ほかの家の奥さんに教わって……。
情けない話です。あの子を子どものままにしてやれないなんて」
澄玄は、囲炉裏の上でゆらぐ火を見つめたまま、ゆっくりと首を振った。
「その薬草の場所を、あなたはご存じでしたか」
「いえ……私は、知らなくて」
「けれど、そのおかげで、今日癒せた人が何人もいました。あなたが育てた子が、人の痛みを見て、動いた。
それは、あなたが日々を尽くしてきた証です。たとえ他人に教わったとしても、その“手を伸ばす心”は、あなたから生まれたものですよ」
女の目がわずかに見開かれた。
囲炉裏の火が、ぱち、と音を立てる。
「……あの子が教えてくれた場所が、そんなふうに」
「ええ。そして、今度はその薬草で、あなたの家の灯が守られた。
人の情けは、遠いところで巡り、またここへ帰ってくるのです」
風が戸口を鳴らした。
女は、息を吸い、掌を合わせた。
「……ありがたいことです。少し、気が楽になりました」
「それがいちばんの薬でしょう」
澄玄の声は、まるで風そのもののように穏やかだった。
*
軒の露が光り、地面に薄く水の匂いが立ちのぼっていた。
少年の呼吸は、二日前よりもずっと穏やかだった。
澄玄は旅支度を整え、家に向かってひとつ、礼をした。
少年が、いつのまにか戸口に立っていた。
「もう、行くの?」
「ええ。陽が高くなる前に、峠を越えねばなりません」
少年は手に何かを握っていた。
昨夜、澄玄といっしょに煎じた薬草の束だった。
紐の結び目が、まだ拙い。
「これ……少しだけど、持っていって」
「ありがとう。君の薬草は、すごく良く効きますから」
「……ほんとに効いたの?」
「“人の情けは巡るもの”——その巡りのひとつが、これでした」
少年は目を瞬かせた。
澄玄は屈み、束を受け取ると、その結び目を指先で整えた。
「きっと、これもどこかで誰かを癒します。君が教えてくれた山の草が、知らない誰かを癒す。そう思うだけで、私の足取りは軽くなります」
母親が、静かに頭を下げた。
「……どうか、お気をつけて」
「あなたも。どうかこの灯を、絶やさぬように」
澄玄は深く礼をして、坂道を下りていった。
稲ぼっちの影が背後で長く伸び、遠くで、少年の声がかすかに追いかけてきた。
「また、どこかで!」
少年の声を運ぶように、風が吹いた。
稲ぼっちが寡黙な僧侶の代わりに返事をした。
*
夜明け前、澄玄は吐く息の白さで目を覚ました。 寝床代わりの岩陰に霜が降り、衣の裾が薄く凍りついている。 掌で払うと、霜は粉のように舞い、風にさらわれて消えた。
昨夜、焚き火の残り火に干していた薬草は、硬くなり、指の間で折れた。 火が恋しい、と思ったのは久しぶりだった。
澄玄は肩の荷籠を背負い、足を踏み出す。 踏みしめた霜柱が、しゃり、と音を立てた。 空は透き通るように高く、東の端が白く染まりはじめていた。
朝の山道には、まだ小さな生きものの気配があった。 栗鼠が落ち葉をかき分けて、硬い実を咥え、澄玄の足音に驚いて、枝の上へ駆け上がる。 その尻尾のふるえが、冬の気配をまるで知っているようで、僧はふと立ち止まり、掌を合わせた。
「……生きるもの、みな急ぐのだな」
風が鳴き、赤くなりかけた楓の葉がひとひら、彼の肩に落ちた。 それを摘み上げると、葉脈はすでに脆く、ほんの指の熱で形を崩した。
山の色が、ゆっくりと抜けていく。 紅葉が終わりを告げ、枝先が次々と裸になっていく。 その下を歩くたび、澄玄は自分が森の影といっしょに薄くなっていくような錯覚を覚えた。
*
昼を過ぎるころ、風が変わった。 乾いた赤城おろしが谷を抜け、木々の枝をきしませながら吹き抜けていく。
道の向こうに、白い煙がひと筋だけ立っている。 それも、すぐに風に裂かれて細くなり、ほどなくして、消えた。
(……一つだけ、か)
かつて、出流の里では、夕刻になれば竈の煙がいくつも棚引いていた。 米の匂い、藁を焼く匂い、そして人の気配——。
だが今は、どこを見ても、風ばかりが村を撫でている。
(人の暮らしの灯が、こうも少なくなるものか……)
——あの日、麦雑炊の湯気に宿っていたぬくもりが、ふと遠い夢のように思えた。
山道の先、見えぬ村へ向けて、ひとひらの落葉が、風に押されるように転がっていった。
風が強まるにつれ、空の色が鈍く沈んでいった。
山の陰は早く、もう夕暮れのように薄暗い。
澄玄は、僅かに見えた煙を頼りに、
落ち葉に埋もれた細道を下っていった。
道の脇には、栗鼠が一匹、割れた木の実を抱いている。
ふくらんだ頬を膨らませたまま、僧の足音に驚いて、枯れ枝の上を跳ねて消えた。
その仕草に、澄玄は思わず微笑んだ。
——こんな寒さの中でも、生きるものはいる。
霜が降りた夜だった。 白くかすれた地面に、旅衣の裾が冷たく貼りついていた。 谷を抜ける風は細く、赤城おろしの匂いを運んでくる。 その中に、微かに煙のにおいが混じっていた。
ひとつ、ふたつ、またひとつ——。 谷の底の黒に散る火の数は、思っていたよりも少なかった。 竈に火を入れられる家が、もう片手で数えられるほどになっていた。
澄玄はそのうちの一軒に辿り着き、戸を叩いた。 夜も更けていたせいか、しばらくしてからようやく戸が開いた。 顔を出した女は、痩せた頬を火の赤で照らしていた。
「……もう薪も食もないが、それでもよければ」
女の言葉に、澄玄は深く頭を下げた。 土間の隅に筵を敷かせてもらい、白湯を一椀だけ受け取った。 今夜はそれで十分だった。
火を囲んでいたのは、十人あまり。 どの家も竈の火を惜しみ、こうして“ひとつ屋根の下”で冬支度をしているという。 藁を編む者、縄を縒る者、薪をまとめる者。 子どもたちは囲炉裏の影で丸くなり、母親の膝に頭を預けていた。
その中に、咳き込む老人がいた。 澄玄はためらいながら、荷籠から小さな布包みを取り出した。 干した桔梗根と、少しの蘇葉。
それを湯で煮て、木椀に注ぎ、老人に差し出した。 薬草の香が立ちのぼり、囲炉裏の火に混ざってゆく。
静まり返った土間で、誰かが囁いた。
「……匂いが、きついな」
「あぁ。だが、人のは薄いな」
澄玄は何も聞こえないふりをして、湯の温度を確かめた。
老人が息を整え、咳が少しおさまると、女が安堵の息を洩らした。
その横で、若い男が澄玄の背負い袋を見つめていた。 口を結び、言葉を飲み込むようにして。
その夜は、それで終わった。 火が細くなるまで、澄玄は合掌し、静かに目を閉じていた。
*
戸を開けると、風の音が土間に吹き込んだ。 夜の間に降りた霜で、薄く雪が積もったようになっていた。
「あれは”ものを渡して”きた」
「あの袋から白いのが見えて……」
「それ、しっぽじゃぁ……」
「よりによって村長のいる家だ」
「あそこが一番子どもも穀も多い。奪われたらみんな終わりだ」
——言葉が、霜のように地を這って広がっていく。 それを払う手立ては、どこにもなかった。
*
戸の外が、ざわついていた。
まだ夜は明けていない。
風の音の中に、かすかな足音と、焚き木の弾ける匂いが混ざる。
——オサキモチだ。
——手遅れになる前に、たたねば。
囁きが土壁を這うようにして、澄玄の耳へ入り込んだ。
息を潜めたが、次の瞬間、木戸が割れる音が響いた。
松明の赤が、闇を裂いて流れ込む。
光が乱れた。
鎌の刃が光を弾き、火の粉が霜の上で跳ねた。
誰かが怒鳴り、誰かが祈った。
声が重なり、何を言っているのか分からない。
袋を掴まれた。
抵抗するより早く、裂ける音。
麦粒が宙に散り、白い地に落ちる。
その金の粒を、誰かが見た。
それが引き金になった。
「——— ——!———!」
叫びと同時に、棒が振り下ろされる。
光が跳ね、風が喉を切る。
顔に泥が飛び、口の中が鉄の味で満ちた。
祈りにも似た怒号が遠ざかる。
どこかで火の束が崩れ、火の粉が舞った。
——走れ。
それは声ではなく、本能だった。
澄玄は土を蹴り、闇へ溶けた。
頬を裂く風の冷たさだけが、まだ生を告げていた。
谷の底に灯る火が、ひとつ減った。
*
風の音が、雪に沈んでいた。
音があるのに、形がない。
白があたりを満たし、空と地の境が消えていた。
足が動かない。
何度も転び、そのたびに雪を掴んだ。
掌が痺れて、冷たいのか痛いのか、もう分からなかった。
夜も昼も、もう区別がつかない。
白い光がどこからともなく滲み出て、
影さえ奪ってゆく。
——なぜ、あの村には慈悲がなかったのか。
息が漏れた。
声にならず、白い気配だけが空に溶けた。
思い出すのは、土間の火と、麦の匂い。
火を囲んだ人々の顔。
それが、いまはもう見えない。
灯が消えたのだ。
風が鳴いている。
獣の遠吠えのようにも、誰かの読経のようにも聞こえた。
雪が頬に触れ、涙か雪かも分からぬまま、澄玄は掌を合わせた。
——もし仏が在すなら、
——この冷たさにも、意味を。
その言葉が終わるより先に、膝が折れた。
視界が傾き、白がすべてを呑みこんだ。
風の音も遠のき、
ただ、心臓の鼓動だけが、
どこかで確かに、まだ打っていた。
*
次に光を見たとき、それは灯ではなく、朝だった。
雪の白が仏の衣のように見えた。
誰かの手が額に触れ、遠くで「息がある」と声がした。
世界が戻るより早く、澄玄は静かに目を閉じた。
その後のことを、彼はほとんど覚えていない。
水澤観音の巡回僧に拾われ、幾日も熱にうなされ、また目を閉じた。
***
「その後は、ご存知の通りでございます」
油の焦げる匂いと、芯の爆ぜる細い音が、沈黙の底をゆっくりと満たしていく。
壁は煤に沈み、ただ一つの灯明だけが、二人の影を畳の上に落としていた。
老僧は、しばらく何も言わなかった。
澄玄の膝の上には、血のにじむほどに握り締められた掌があった。
白く乾いた指の隙から、細い震えが漏れている。
「……私は、あの村で慈悲を説こうとしたのです」
声は擦れ、熱を失っていた。
「病を癒やし、困窮の者には薬草を分け、ただそれだけのことを。
けれど、彼らは私を——狐狸だと。仏を騙るものだと」
灯の光が、澄玄の顔を柔らかく撫でる。
老僧は、静かに息を整えた。
「……それで、君はここへ来たのだな」
「はい。……狐か、人か、それももう分からなくなりました。
仏は灯をお置きになったのに、なぜ、あの村には届かなかったのでしょうか。
あれは、私が……彼らから奪ってしまったのでしょうか」
老僧は言葉を探さず、ただ灯を見た。
炎がひときわ高く揺れ、部屋の空気がわずかに暖かくなる。
「仏の灯は、消えることはない。君が見たのは、灯を受け取る手を凍らせてしまった者たちの姿だ。
彼らが取り落とした灯を、君は拾ったのだよ」
澄玄は顔を上げられなかった。
涙が畳を濡らし、息が浅くなる。
「……私は、拾っても、よいのですか」
「拾うために、生かされたのだろう」
老僧の手が伸びる。
皺に覆われた掌が、澄玄の拳を包んだ。
油の匂いがふたりの間に溶け、炎の影が、まるで祈るように揺れた。
そのとき、灯芯が小さく鳴った。
泣くような音だった。
澄玄は、初めてその灯の内側に、自分がいることを知った。
誰かの手に触れた温もりの中で、長く閉ざされていた胸の奥が、かすかに震えた。
「……ありがとうございます」
かすれた声が、炎の揺れと一緒に消えていく。
老僧はうなずき、灯を見守るように目を細めた。
灯明の灯は、まだ消えない。
誰のためでもなく、ただ静かに、そこに在り続けていた。
***
夕勤の鐘が鳴る前に、六角堂の前に立った。
山の気は日に日に冷えて、息を吐くたび胸の奥まで乾いていく。
明日からは宿坊の手伝いに回ることになっている。
荷を運ぶ僧や、薪を割る音があちこちから響いていたが、一瞬だけ、境内が静まり返った。
ふと顔を上げると、六角堂の垂木が陽を受けて淡く光っていた。
緑の塗りがまだ鮮やかに残っていて、その先に伸びる木々の枝が、空の光を透かしていた。
枝と垂木が交わるところに、どこからどこまでが人の手でどこからが山の造りなのか、わからなくなった。
その混ざりあいを見つめているうちに、この世のものがすべて、少しずつ“冬”に渡っていく気がした。
翌日、小坊主たちから受け取った食器の中に、友人——澄玄の茶碗があった。
木箱を置くと、陶器のすれあう音がする。
そのときふと、この器はもういらないかもしれないと思った。
毎年冬になると彼が寺に来て、いろいろなことを語り合った。
旅の医僧である彼の話はどれも新鮮だった。
それぞれに違う考えを話すのは楽しくて、いつの間にか雪あかりが朝焼けにかわっていたこともあった。
お互い歳ばかり取って、言葉で語らうことが絶えて久しくとも、彼の薬草の染みた乾いた指が静かに書を捲るのを見かけるだけで、満たされたような気持ちになった。
洗い桶の中、静かに茶碗が沈む。
去年も一昨年も、彼は寺に帰らなかった。
けれど以前、ここで冬を越すようになる前は三十三観音を巡礼する旅をしていたと聞いた。
「あの人なら、今もどこかで……」
きっと、巡礼の道中に立ち寄った里で治療を請け負って、あの低く穏やかな声で仏の灯を灯しているのだ。
水気を拭った茶碗は、ざらりとした手触りで、彼の乾いているのに優しい手を思い起こさせた。
巡礼を終える日はずっと先だろう。
ならば彼が帰る場所を守り続けるのが己の仕事だ。
洗い終えた食器を木箱に納め、厨へ足をむける。
冷え切った手をあたためて欲しい人がいない寒さは、気づかないふりをした。
*
灯は、燃やし続ければ煤を生む。
誰のものかもわからぬまま、黒く積もっていく。
寺はすっかり雪に閉ざされ、今もなおその壁を厚くしている。
養生房の患者に湯を運びながら、澄玄なら、なんと声をかけるだろうと思う。
記憶を辿ろうとして、背に雪が入ったような心地がした。
どうにか養生房の僧侶に湯を渡して、無理やりに足を動かした。
自室の戸を閉めた途端、くたりと体の力が抜けた。
声が、思い出せない。
低く、穏やかな声で紡がれる旅先の話も、お互いの考えを語り合った夜明けも覚えているのに、彼の声だけがすとんと抜け落ちている。
赤く冷えた手を包んでくれた彼のあたたかさを覚えている。書を捲る指先も。
けれど、その手のざらつきは、茶碗のそれに代わって辿れない。
うっかり迎えた朝焼けに笑い合ったとき、彼はどんな顔をしていた……?
沈黙が積もるほどに、澄玄の姿が、雪の底に沈んでいく。
今ではもう、灯明の揺らぎの中にしか、その姿を見つけられなくなった。
「どうして……」
どうして、あの人は何も言わずに去ったのか
どうして、私は声をかけなかったのか
雪が降り続いている。
寛浄の漏らした嗚咽も、澄玄の姿も、全て雪の下に埋もれた。
*
澄玄を見送った春から、もう十二年の年月が経った。
あの頃の彼と同じ歳になってようやく、彼はもう亡くなったのかもしれないと考えることが増えた。
過酷極まる東国の巡礼を、今自分が始められるか、と問われれば否だ。
そも、旅する者の天命は50に届かぬことがほとんどだ。
彼の書いた記録をなぞる。
筆の流れを追っていると、一文字ごとに、ためらいと決意の呼吸が交じっているのがわかる。
線が細るところで、彼は何を思っていたのだろう。
誰かを赦そうとしたのか、それとも己を責めていたのか。
墨の重なりは、まるで心の迷いの層のように濃い。
それでも筆先は、逃げずに最後まで紙を走りきっている。
その律義さが、澄玄らしいと思った。
あの人はいつも、人の苦しみに立ち会う時も、自らを責めるようにして静かだった。
言葉を減らしながらも、灯を絶やさぬために動き続けた。
その筆の痕跡は、今の自分にはもう描けない形をしている。
寛浄は、書の端に落ちた自分の影を見た。
老いた手が、澄玄の筆の上をなぞっている。
墨の黒に重ねた指先が、わずかに震えた。
この文字を書いたとき、澄玄は何を思っていたのだろう。
あの静けさの中で、すでに別れを覚悟していたのか。
それとも、またこの寺に戻る約束を信じていたのか。
——わからない。
けれど確かに、この紙の上に、いまも彼がいる。
灯明の陰で、寛浄は筆を置いた。
息を吐くと、紙がわずかに揺れた。
そこに映る影は二つだった。
一つは今の己、もう一つは、遠い昔の彼。
その距離のまま、静かに夜が降りてきた。
*
石畳を竹箒で掃きながら、ふと澄玄の茶碗を旅の者に使ってもらおうと思った。
この17年待ち続けてきたが、彼が生きていても62歳。とても旅の医僧は続けられまい。
ようやく、諦められる筈だったのだ。
二人の若者が澄玄の名を口にしたとき、一度に17年の冬が駆け抜けて、また始まったような気がした。
綴弦と月詠。
彼らの声に澄玄の語り口を見出し、その沈黙に澄玄の祈りを聞いた。
彼によく似た、生きるのに不器用な子どもだった。
灯を継ぐということは、
炎そのものではなく、温もりの記憶を渡すことだ。
寛浄は灯明を見つめながら、そっと呟く。
「あれでよかったのだな」
火が、静かに芯を食む音がする。
涙とも、油ともつかぬきらめきが、灯皿の縁を満たす。
その夜、寛浄はようやく澄玄を“待つ”ことをやめ、“継ぐ”側の人間になった。
灯は、絶えてはいなかった。
ただ、場所を変えて燃えていたのだ。
***
恵篁と時折交わす文に、珍しく小包がついている。布に巻かれ、小さな木箱に収められたそれは、あの日に借りた器だった。
いつもより少し、白檀の匂いの濃い文を開く。
寛浄さまが亡くなったらしい。雪の深い頃、眠るように逝ったと。
器は、埋葬が済んで部屋を訪れるとすでに割れていたそうだ。
震えた文字をそっと撫でる。
涙もろい彼と、だんだん似てこられたのだろう。
この文とともに、君たちの元にこの器が届いていることを願う。
これは寺ではなく、君たちのそばにあるべきだと思ったから。
読み終えた綴弦は、器を箱に納め直した。
今年の秋の墓参りは、少し早めてみようと思った。
【世界観補足】
*オサキモチ/人でなし
群馬県近郊で信じられていた憑き物の1つにオサキ(オサキ狐とも)があります。それに取り憑かれたり、飼育したりしている家や人のことをオサキモチと呼びました。取り憑かれた家は一時的に裕福にはなりますが、周囲からは「お先を使って他家の富を盗んでいる」と忌み嫌われました。オサキは血筋で受け継がれてしまう呪いと考えられていたので、婚姻の拒否や村八分など、実生活に害があることもしばしばあったようです。
澄玄の場合、普通の人よりほんの少し光や音に敏感であったこと、持ち物の中にわずかばかりの穀物があったこと、村自体がかなり追い詰められた状態であったことなどが重なり、襲撃を受けました。
※怪異・妖怪データベースでざっくり調べた程度の理解で書いています。間違いがありましたら申し訳ないです。
*巡礼の医僧
澄玄がほぼ無償で医療行為をしつつ旅をしているのは、坂東三十三観音の巡礼僧(関東各地に点在する札所を巡り、修行する僧侶)だからです。巡礼の心得のなかに、
・専ら慈悲の心を持って巡礼すべし。
・身の回り軽く金銭も少しもつべし。
とありますから、医療行為を無償ですることや、金銭を積極的には受け取らない姿勢は、修行の一環であるから。と言う意識があったのでしょう。
ちなみに一般村人が彼ら巡礼僧を泊めたり、食事を提供したりすることは、仏の教えを支える善行になりました。
*赤城おろし
山から吹き下ろす乾いた寒風で、雪を伴わずに体温だけを奪っていきます。降り積もる寒さではなく、吹きさらしの中で削られるような冷えが特徴です。
*貧しい村の追い詰められ度合い
元々この村は、比較的日当たりに恵まれない寒村でしたが、この年は様々な悪条件が重なりました。
秋の長雨で収穫直前の稲が倒れ、冬用の薪の乾燥も間に合いません。残されたわずかな時間で、近隣の村からわずかな食料と薪を分けてもらい、ぬかるんだ山でわずかに残った山の幸を拾い集めて命を繋いでいました。村のかまどの数が少なかったのは、そんな背景があったためです。
彼らの切迫した状況では、白湯を1杯渡すための薪さえ、かなり痛いものでした。
*水澤観音の巡回僧
字面が似ていて紛らわしいのですが、彼らは巡礼僧とは全くちがう存在です。寺社区画及び記録殿の僧侶がペアを組んで、近隣の村の状態確認のついでに行き倒れた巡礼僧の埋葬や、救助を行っていました。
赤城おろしと呼ばれる冷たい風の吹く季節になると、無理が祟って倒れたまま亡くなるものも多く、放置された死体が原因で病気が蔓延するのを防ぐために、塚や土饅頭を作ることも多くありました。
*六角堂
現実世界の水澤観音にある六角堂が綺麗で、紅葉を背景にこれを見上げてみたいと言う願望から、古寺のモデルを水澤観音にするのを決めました。とっても綺麗な建物なので、公式サイト様をみていただけると嬉しいです。
ちなみに私は公式サイトを見ただけのエアプで書いているので、ずっと素敵なお堂でしょう。