あわいの灯   作:篠乃

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注意書き

山あいに生きる薬師の兄妹が、
人と鬼、命と死のあわいを渡りながら、小さな灯を繋いでいく話。
原作『鬼滅の刃』の余白に触れるような静かな補完連作です。

時代は室町末期〜戦国初期頃。
政治の世界における「神秘」や「祈り」の力が、
ゆるやかに失われつつある時代です。

※原作要素を含む二次創作/時代背景に基づく死生・医療描写あり。
※史実・設定改変を含みますが、世界観の整合を重視しています。
※本話には幼少期の巌勝、縁壱と、その家族が登場します。
※朱乃さん(巌勝・縁壱の母)の病気を、出産時のいきみによる脳出血+寝たきりによる体力低下としています。
※シリーズ作品のため、第一話「序 灯明」からお読みいただくのをお勧めします。

それでは、どうぞ、ゆっくりと。



月と日1 山紫陽花

 

昼下がり、ようやくお会いできた朱乃様は、雨の匂いの中にあってなお、冬の気配がする方だった。

 

「お待たせしてごめんなさいね、遠いところをありがとうございます。継国朱乃といいます」

「……とんでもございません。私は綴弦、こちらが妹の月詠と申します」

「月詠と申します」

 

綴弦の紹介に合わせて、頭を下げる。

男のような髪をした女に、側仕えの女性——いと様の視線が厳しくなった。

朱乃様はふたつみっつ目を瞬かせて、おっとりと頷いた。

 

「早速で申し訳ありませんが、診察に入ってもよろしいでしょうか。今日は雨で冷えますゆえ、あまりご無理いただきたくはないのです。」

「まぁ……。ふふ。よろしくね」

 

「では、おそばに……お手を失礼致します」

「ええ」

 

新雪のような手に、調薬で荒れた手を重ねる。

指先は見た目通りひやりとしているのに、手のひらからはじわりと熱の籠りがあった。

 

冬の椿。下がらない、あの熱。

 

きゅっと手を握られる感覚に顔を上げると、こちらを案じるように見つめる目とあった。

 

大丈夫。彼女は珠世姉さんじゃない。

ひとつ息を吸って、照れたように口角を上げる。

 

「すみません。あんまり綺麗な手でいらっしゃるので、つい、感動してしまって」

 

朱乃様もほっとしたように笑った。

 

脈は、正常。

微熱と……目元のくま。

寒さで血の気が少し引いているのかしら。

 

あれ……?

遠目で見た時は気づかなかったが、口元に違和感がある。

 

もしやと左手に触れる。

「少しだけ、力を込めていただけますか」

問う声は、震えていなかっただろうか。

 

握り返された手は、先ほどよりずっと弱く、冷え切っていた。

 

「少し、冷えてしまわれたようですね。先ほどよりもお辛そうだ。

……ご安心ください。余計なことはもうしませぬ」

 

瞳を覗き込むと、戸惑ったように揺らいだ。

朱乃様から見て右側にある庭は、まだ雨が降りしきっている。

 

雨音だけが部屋を充した。

振り返ると、綴弦がいと様にしていた問診も終わったらしかった。

 

「血の道が冷えで鈍っているようでしたので、明日、薬湯をお持ちいたします」

「夜は冷えます。火鉢のおそばでお眠りください」

「……ええ。わかったわ」

 

朱乃様の口の端は、やはり少し歪だった。

 

 

***



 

 

今日もまた、飽きずに雨は降っていた。雨は苦手だ。体の軋みがひどくなる。

小さな箱庭で見える範囲では、岩にむした苔がいっとう楽しげに、青々としている。

花桃の若葉から滴る雫で潤んだ紫陽花は、そこだけ宵の空を切り取ったような花をぽつぽつと咲かせていた。

 

昨日、また新しい薬師の方がいらしたらしい。

昼下がりに一度、診療に来ると。

 

膝の薄掛けを、両の手で緩く握り込む。

ふた月前から左の顔を動かすのに、妙な感覚があった。

数日前からは、左の手に触れても、布越しのような遠さがある。

 

その上、冬が終わっても、私だけ冬が終わらぬように寒い。

立ち歩くどころか、床で身を起こしているだけでも疲れてしまう。

武家の妻であることも、あの子たちの母であることも満足にできぬ我が身が呪わしかった。

この不具合は、誰にもいえない。このまま誰にも打ち明けぬまま、秘密にしておくものだと思っていた。

 

 

 

だから、あの薬師の女性——月詠殿には驚いた。

小柄で歳の頃も近いだろう彼女は、少年のような髪をまとめて、兄の横で堂々としていた。

 

実際に診てもらうと、言葉少なに手や顔、首元を見て、そっと触れられた。

小さな手は仕事人らしく傷だらけで、ざらりとしているのに心地よかった。

 

「少し、冷えてしまわれたようですね。先ほどよりもお辛そうだ。

……ご安心ください。余計なことはもうしませぬ」

 

深い瑠璃色の目の中、青白い顔を誤魔化しきれない女がこちらを見ていた。

隠していた不具合を見透かされているようで、ぞくりとした。

 

温石(おんじゃく)を抱えて床に入る時、紫陽花の花に目が留まった。

月詠殿と同じ色のそれに、雫がきらりと光っていた。

 

 

***

 

 

離れの坊ちゃん——後継でない男児の扱いは全く異なると聞いていたが。

奥方様の部屋を後にしてしばらく、外廊を渡って歩き続けるも、一向につく気配はなかった。

徐々に障子戸が途絶え、実用一辺倒の板戸ばかりが目につくようになっていた。

 

先導の男が振り返ったのは、そんなあたりだった。

目線をあげたり下げたりと、どちらに目を合わせるか迷っているようだったので、少し膝を折る。

男は目を丸くして、目尻の皺をさらに増やした。

 

「兄ちゃんたちも難儀だんべなぁ。あんな気味の……いや、離れの坊ちゃんのことをとやかく言うもんじゃねぇが……」

 

だんだんばつが悪い顔をして、庭の方に視線をやった。

何となくそれをなぞると、草の生えた壺が集まっているのが見えた。

 

「あのう、どうしてあそこ、桶が集まっているんですか」

「ん?あぁ、あそこけぇ。奥方様の庭に咲く花を世話するとこだいよ。ふせりがちな奥方様がいつでも花を楽しめるようにって、旦那様がわざわざ整えてくださったんさ。……離れの坊ちゃんのことじゃあ揉めてるったって、奥方様への情けは昔っから変わらんのよ、あの方は。」

 

どこか誇らしげに、それでいて寂しげに男は言った。

古びた桶から伸びる花たちは、大きく手を広げて雨を飲んでいる。

もう十分でしょうと雨が上がるまで、3人してぼうっと見つめていた。

 

ぱちん。と手を鳴らした男が、悪戯っぽい顔でわらう。

天気と同様晴れたそれに、こちらもついて行かないわけにはいかなかった。

 

 

*


 

 

「縁壱様、薬師殿が参られましたよォ。縁壱様ァ」

 

離れの障子越しに、間延びした声が響く。

すると、後ろの茂みから、ちょうど3つくらいの子どもが出てきた。

 

ぼさぼさの髪にボロの着物ではあるが、まさか。

 

「縁壱様!……じじぃを脅かさねでけさいよ。ちっとこの方達とお話なすったら、今日はそれでえいがんね」

 

まさかだった。

本当に耳が聞こえていないのか、ぼうっとこちらを見た後、ふらりと離れの中に入っていった。

炭の赤い目に、心がざわつく。

 

「兄ちゃんらも中に入って診察をお願いするよ。俺はちっと腰が痛くてだめだ」

男は終わるころにまた来ると言って、どこかに歩いて行った。

 

呆気に取られていると、くん、と袖を引かれた。

「兄さん、兄さんの体じゃあ、きっとあの口からは入られないよ。ちょっと待っててくれない?

……私はもう、大丈夫だからさ」

 

月詠は以前よりずっと自然な笑顔で笑った。

懐から走り書き用の帳面だけを渡して、庭の隅に置かれた岩に手拭いをひいた。

 

 

 

 

「お邪魔します。……わぁ……」

 

離れの中は、外見通りこぢんまりとしていた。

それでも、覗き込んだだけで香る床敷きの畳や折り畳まれた寝具から、我が子への情が滲んでいるような気がした。

部屋の主人は、入り口から一番離れた部屋の隅にいた。

 

「お初にお目にかかります。薬師の月詠と申します。行円殿の代理で参りました。中に入ってもよろしいでしょうか」

 

縁壱は、ぼうっと入り口のあたりを見つめたまま、膝を抱えている。

耳が聞こえないのかもしれない、と話していた篤燕を思い出した。殊更ゆっくりと、口の動きが読みやすいように話す。

 

「待ち人様も、私がここに居れば帰られてしまうやも知れませぬ。お時間は取らせませんから……」

 

ぴくり、と右の手が動いた。しばらくして指先がゆっくりと丸まっていく。

それを了承と捉えて、月詠はようやく部屋に上がれた。帳面はにじり口のすぐ横に、手拭いに包んだ草履と並べた。

縁壱様の待ち人が草履を見て帰られたら、どちらにも申し訳ないような気がした。

 

「これから少し、お体に触れます。少しでも嫌だと感じられたら……この紐を引いてください。思い切り引いて構いません。多少の痣より、あなたを傷つけてしまう方が私は嫌です」

 

どことなく不安げな顔をした縁壱に、左腕に結んだ紐の向こう側を握らせる。

拾われてすぐ、まともな意思表示ができなかった自分に綴弦がしてくれたのと、同じことをするのがいいと思った。

 

 

 

 

縁壱はしばらく、その紐を見ていた。

目の前では痩せ細っていてもなお、しなやかな体が動いている。

思い切り引いていいというものの、そんなことをしたら骨まで折ってしまいそうだった。

 

視線が微妙に合わない。

でも、他の医師たちのように嫌がって合わせないというより、合わせようとしてずれている気がした。

 

耳に触れたその人の手に、自分のそれを重ねる。

緊張で硬くなったそれが少し緩むのに合わせて、顔に触れさせた。

 

彼女は、顔を見る時だけ少し迷う。

だから、触れればわかりやすいと思った。

 

少し驚いたように脈が揺れて、両の手で形をなぞるように触れられる。

自分の顔の筋肉は、人よりずっと動きが鈍いようだから、これで彼女も少しわかるようになるだろう。

 

兄上のようにできただろうか。

ものが聞こえぬふりをして甘える自分に、口元を見せて話しかけてくれた兄上のように。

 

 

 

 

額の痣のおかげで、覚えやすいと思ったのが口から漏れたのだろうか。

離れの若君は、顔の形をなぞらせるように触れさせた。

 

子どもらしい丸みと、滑らかさのある頬。

伏せられた目元には、きっとまつ毛の影が落ちているのだろう。

特徴的な痣は、予想に反して周りの肌と同じだった。

 

ほんの少し、誇らしいような、嬉しいような表情に動いた。

発熱を疑うほど高い体温であるのを除けば、ほんとうに普通の、よくいる子どもにすぎなかった。

 

 

***

 

 

翌日。通されたのは母屋の一室だった。

 

「寺から参りました、薬師の綴弦と申します。本日はお時間頂戴し、ありがとうございます。早速ではございますが、奥方様とご子息様のご報告をさせていただきます」

 

何度も口の中で繰り返した口上を、どうにか声に出した。

頭を下げる拍子に見た部屋の中は、年嵩の使用人の方が数名並んでいた。襖の奥からも感じる視線に、喉がきゅうと絞られる。

 

「して、薬師殿。朱乃様の『患い』、もはや手遅れなのであろう」

「畜生腹の女を妻としているなど、継国の家の名に傷がつく。患いなどと言っているが、ほんとうは呪いでも受けているのだろう?」

「いえ、滅相もございません。奥方様のご病根は確かに深く、一朝一夕に除けるものではございませぬ。ですがこれは、ひとえに産後の肥立ちの悪さによるものです。昨日見た限り、奥方様の体の中に、血の道が滞っていらっしゃる部分と、過剰に巡ってらっしゃる部分がございました。これは日々の適切な養生と神仏のご加護があれば十分に和らげることが可能です」

 

さらに鋭さを増した視線に、じわりと冷や汗が滲む。目の前にいらっしゃる方々の傍に刀がなくとも、襖の奥に何振りあるのかなんて、考えだしてはいけない。

舌打ちの音に、身をすくませても、いけない。

いまここで意地を張り通せなければ、あの母子の立場は無くなってしまう。

 

「ふむ、それは喜ばしいことだ。では、離れの若君はどうかね。やはり、聾唖(ろうあ)であるか」

「申し訳ないのですが、そちらはまだ」

「まだ、とは」

「昨日お話しさせていただいた際、耳が聞こえているようにも思えたのです。ご子息様はまだ齢4つと伺いました。であれば、まだ言葉を話さぬ子どもも、少数とはいえ、いるものです」

 

正面から、鷹揚に頷くような気配がした。少し右にずれたあたりからは、殺気のこもった視線も。

 

「もう少し診させていただきたく存じます。拙速に判断すべきではないかと」

「……あい、分かった」

「榎本様?!」

「気でも触れられましたか、こんな、平民の薬師風情に」

 

榎本と呼ばれた男が手で制したのか。どよめきが急におさまった。

 

「薬師殿」

「はい」

「お二人を、よろしくたのむぞ」

「承知いたしました」

 

少なくとも今は、あの母子の時間を守れたのだ。

 

 

***

 

 

ふぅ、と明かりを消すと、部屋はすっかり青く変わった。

月詠は、この暗さの中で見る綴弦の瞳がいっとう好きだった。

昼間は陽を透かす若葉が、夜露に濡れて細められる。

隣に寝転ぶと、大きな木に抱かれている心地だった。

 

出入り口にかけられた筵が擦れて、月明かりを揺らす。

夜の木陰にぎぃ、と床鳴りが混じった。

 

臨時の使用人が使う部屋だというここは、使用人棟の端にあった。

薬特有の匂いで気を遣わぬようにと、寛浄殿が申し添えてくださったという。

 

綴弦を見ると、彼も困惑しきった様子だった。

音からして男性だろう。他の滞在人はいないと聞いていたが。

身を起こすと、一際大きくぎぃといった。

 

「どなたかは存じませんが、どうぞお入りください」

綴弦が先ほどまでの穏やかさを知らぬように、固い声で言った。

 

 

 

 

来訪者は、榎本憲忠(えのもとまさただ)と名乗った。

側仕えとして長く勤めているのだという。

 

「このような時間の訪問、申し訳ない。明日のことで、ひとつ、個人的な依頼があったのだ」

 

ぽつぽつとほつれた(まげ)に似合わぬ目でこちらを見た。

自然と背筋が伸びて、喉がきゅうと締まった。

 

「ご依頼、でございますか。私どもは奥方と、離れのご子息様の診察と伺っておりましたが」

裏返ったり掠れたりしたみっともない声が出た。

榎本様は目元だけ小さく笑った。

 

「それに加えてもうおひと方——嫡男様も診ていただきたい」

 

榎本様の話をなぞると、嫡男様に夜驚(やきょう)の症状が出ているらしかった。

昼日中は勤勉で優秀な跡取りであるのに、夜になると眠ったまま起き、声をこらえて泣くのだという。

ご本人にお聞きしても、何のことやらわからぬという様子で、尋常ならざることだと気づいたそうだ。

 

「離れの子息様は聾唖であるし、奥方様も次のお子は望めませぬ。

殿の内心を思えば、新しい奥方を勧めるのも躊躇われ……嫡男様が正しくあられれば……」

 

榎本の顔を見た綴弦は、正しさの狂気を見た気がした。

彼の目に映るのは、殿でも、ましてや奥方様や子息様方でもない。

多少は殿に情があるとしても、本質的に継国の家のみを想っているのだ。

 

「多少なりとも、お役に立てるのであれば」

 

榎本は満足げに笑った。

うっすらと、役に立たなければどうなるのだろうかという考えがよぎった。

 

榎本が帰った後もしばらく、早鐘はおさまらなかった。

いつもは師を思わせる灯明の橙が、恐ろしかった。

 

筵の擦れる音と、乱れた月光だけが残る。

隣の青に包まれて、ようやく目を閉じた。

 

 

***

 

 

嫡男さま——巌勝さまにお会いする許可が降りたのは、それから3日ほどたってからだった。

 

先導役の少年の後をついていくと、板の間に通された。

6畳ほどの小さな部屋には、夜番らしい女中が2人控えていた。衣擦れの音さえ聞こえぬような所作で一礼され、慌ててそれに返す。武家の女中のたおやかさよりも、丈夫さや無骨さの印象が先立った。

 

「診ていただきたいのはこの向こうの……」

 

空気に溶けるような声で少年が言った。話の通りであれば、襖の向こうには3歳の子どもが眠っているはずだ。微かに聞こえる寝息もそれらしい。それなのに少年は、月光のためとは言い切れぬほど血の気の引いた顔をしていた。

少年の背に手を添えると、襖越しに聞こえる寝息と調子を合わせてさすった。もう片方の手に縋ってきたので、少年のまだ骨張始めた細い手を包んでやる。かさついた手の温もりに少年の緊張がほぐれたのを感じ取って、密かに息が漏れた。

 

寝返りを打ったような衣擦れが聞こえた。

女中が、わずかに腰を浮かせ、少年が袖を掴む力が強くなった。

 

「どこ……」

 

女中が戸を開け放した。倒れた几帳の横で、空な目をした幼子が辺りを見回している。

 

「わっ、私たちは、薬師さまがもう十分だというまで、止めるなと仰せつかっています」

 

ばたん、と大葛籠が倒される。幼子は布の山を探って何かを探している。

 

「どうか、どうか……」

「……えぇ、もう十分です。止めていただけませんか」

 

この場で一番力があるのは自分だろうが、一番触れることが許されないのも自分だ。

女中たちに押さえつけられてなお、巌勝さまはなにかを探しに出ようとする。

 

「まって、まってよ……」

 

女中を引きずってでも、その誰かに追いつこうとしている。幼い体のどこからその力が出ているのか、少しでも気を抜けば、逃げ出されてしまうと思うほどだった。

四半刻ほど過ぎた頃、糸が切れたようにくたりと動かなくなった。

女中たちは慣れた様子でその体を布団に戻す。先ほどまでの荒々しさが嘘のような穏やかさだった。

 

落ち着いて部屋を見回すと、嫡男とは思えないほど、物が少ないことに気づいた。

畳敷の床や部屋の広さは、なるほど確かに嫡男らしい。

だが、広々とした部屋にある物が寝具と几帳、葛籠(つづら)が1つだけというのは異様だ。

離れの縁壱さまの部屋にも、簡素な文机があったというのに、それすらない。

 

女中と少年は、葛籠の中から散乱した衣を拾い集め、しまいなおしていた。

これだけの衣服が収められていれば相当に重いだろうに。

 

振り返ると、続き間の隅に置かれた漆塗りの文机が目についた。

武家の嫡男らしい、立派な細工の唐櫃(からびつ)も。

一見軟禁されたようにも見えるような部屋は、怪我を防ぐための策なのだろう。そして今夜の件を受けて、葛籠すらこの部屋から消える。

 

——これは、本当にただの夜驚か?

 

 

***

 

 

五月晴れのある日、朱乃様のお加減がいくらか良く、外に出てみようという話になった。

 

「たまには陽を浴びねば、他の病まで呼び込んでしまいますから。入側に掛けるだけでも違いましょう」

「そうねぇ。これだけ綺麗な青空だもの。お庭まで降りてみたいわ」

様子を伺うように朱乃が綴弦を見る。

 

「あまり急に動くのはおすすめできませんが……、そうですね。息が上らない程度なら」

 

朱乃が少女のように顔を輝かせた。いとの手を借りてゆっくり立ち上がる。

朱乃の傍でぼうっと座っていた縁壱が、するりと朱乃の左足に抱きついた。幼子が母に甘えるような仕草なのに、どこか、己の務めを果たそうとしているようにも映る。

 

「……縁壱は、優しい子ねぇ」

 

朱乃はたちまち母親の顔になって、嬉しさと申し訳なさが入り混じったように目を細めた。

縁壱の頭を麻痺の残った左手でひとつ、そのあとは感触を確かめるように右手で繰り返し撫でた。

表情はほとんど変わらないのに、縁壱はなんとなく誇らしげだった。

聾唖であっても、ずいぶんと周りを見ている子どもだと思った。

 

 

***

 

 

今日もまた、続き間から巌勝さまの様子を窺う。

昼時に見かける姿は、聡明ではあるものの、まだ”優れた子ども”の範疇に収まっている。だが夜の力強さは、4つ5つの子どもが出すようなそれではない。

うなされながら歩き回り、大人でも容易に動かせないものまで引き倒す。夜の間だけ何かに憑かれてるようだった。

 

かたん、と音がした。入側の障子がわずかに開いている。刺客かと身構えたが、隣の女中が袖を引いた。

人影は、子どもの形をしていた。ちょうど、巌勝さまや縁壱さまと同じくらいの。

 

人影は足音もなく枕元に寄ると、うなされ始めた巌勝の手をそっと握った。すると、眉間の皺が嘘のようにほどけていく。しばらくすると、安堵しきった様子ですうすうと寝息を立て始めた。

探しものは、この人影だったのだ。

 

翌日、女中に尋ねると、あの人影はおそらく離れの若君——縁壱さまであろうとのことだった。

彼が訪れた晩だけ、巌勝さまは心安く眠られる。だが、それを誰か、それこそ榎本さまに露見すれば、どんな仕打ちを受けるかしれない。それが恐ろしくて、打ち明けられなかったのだ。

 

以前一度だけ、月光の加減で縁壱さまの表情が見えた。この上なく満たされたような顔で、巌勝さまの枕元に座り、寝顔を見つめていた。家族相手でも、あんな目で見つめることはしない、微笑ましさより恐ろしさの勝つような顔だった。

縁壱さまが化生のもので、巌勝さまを狂わせているのではないかとさえ思ってしまった。

 

女中は話し終えてもなお、落ち着かなげに手の甲を撫で続けていた。

綴弦は、双子というのはやはり、そういう存在なのだ。

 

 

***

 

 

恵篁殿

 

梅雨の晴れ間も短く、山の緑がひときわ深みを増す頃となりました。

そちらはいかがお過ごしでしょうか。

 

先の件より報告が遅くなり、申し訳なく思っております。

弥六殿、佐平殿の形見は、それぞれのご家族のもとへ無事届けることができました。

受け取られた折のご家族の様子については、筆に余るものがございましたが、

確かに、帰り着いたことをお伝えできたかと思います。

 

現在は、ご紹介いただいたとある武家にて厄介になっております。

場所については、今しばらくご容赦ください。

 

一つ、お力をお借りしたいことがございます。

 

こちらの奥方様のご様子を拝見いたしますうちに、以前の巡回中に診たある患者のことが、思い起こされました。

その方も、お産の後から体の具合が優れず、右半身の冷えと動きの鈍さ、左半身の微熱が続き、臥せりがちになっておりました。

また、師から伝え聞くところによると、夏の盛りに重いものを運んだ際に倒れ、同じような症状が出た男もいたそうです。

 

記録殿にお残りの事例の中に、似通ったものはございますでしょうか。

当面はこちらでできる限りのことを試してまいりますが、

先人の知恵があれば、処置の方針を固めるにあたって心強く思います。

 

ご子息方はいずれも、人の痛みに細やかな、よい心根をお持ちの方々です。

お会いできたことを、静かに喜んでおります。

 

月詠も変わりなく過ごしております。

 

手間をおかけして恐縮ですが、記録の確認をお願いできますか。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

綴弦

 

 

 

 

 

【世界観補足】

 

*朱乃さんの病気

キャプションにも書いた通り、出産時のいきみによる脳出血+寝たきりによる体力低下です。

実際の医療の現場でも、出産時のいきみが原因で脳出血が起きた事例はあるようでした。原作で左半身が不自由そうだったことから、勝手なイメージだけで結びつけています。あくまでも軽度な脳出血の繰り返し+生んだ子どもたちの特殊性から、これなら7年かろうじて持たせられるんじゃないかなぁと。

 

手紙に書かれていた通り、綴弦と月詠は似た事例に遭遇したことがあります。彼女はなんとか一命を取り留めたものの、次のお産で命を落としてしまいました。

 

そして、脳溢血の後遺症である以上、麻痺は治らないものとして、延命治療に励むことになります。

この時代感覚に合わせると、左半身は血の道が滞り、右半身は過剰に巡っている状態です。左半身を温めたり、ほぐしたりする対処療法を行いますが、あくまでも原因は指示を出す脳機能の障害なので、完治することはありません。

 

*朱乃さんが怯えた理由

大きく2つあります。

①体が動かなくなったり、早逝したりすることへの恐れ。②武家の妻らしく、母らしくないと断じられてしまうことです。

朱乃にとって病気の診断がつくというのは、①の恐れから解放される代わりに、②のおそれが現実のものとなるリスクを抱えています。月詠の言う余計なこと、というのは、②の恐れを刺激するようなことはもうしませんよ、と言う意味です。

 

*温石

昔の湯たんぽやカイロのようなもの。軽石などを火で焼いて熱し、布に包んで抱えこみ、暖をとっていました。

 

*園芸と愛情

当時、鉢植えの植物や苔玉は、あまりメジャーではない園芸でした。底穴の空いた植木鉢などもまだ存在していない時代です。

コミックス21巻のコソコソ噂話にて「父は妻の朱乃さんのことを心から愛していた」とあったので、体裁上あまり仲良くできない代わりに、季節の鉢を送り、同じものを自室で愛でて思いを馳せるくらいはしていたんじゃないかなぁという私の完全な妄想です。

巌勝と縁壱の父親ですから、ストレートな愛情表現なんてできないでしょうしね。

 

*床敷きの畳

当時としてはとっても位の高いお部屋です。室町以前は家具としてワンポイントで使われていた畳が全面に敷かれているって、かなりすごいことです。ちょっと人によって感覚は違うでしょうが、現代だと”絨毯敷きのお屋敷”や”無垢床のお家”、”天井画の描かれた建物”みたいなイメージでしょうか。

 

*寝具

原作描写では、現代的なお布団セットが描かれていますが、当時は綿=真綿(絹糸に加工する前の綿)のため、別の形の寝具を使っていました。

本作では敷布団=茣蓙(ござ)、掛け布団=仕立ての良い夜着のつもりで書いています。

どちらも平民のものよりずっと上等で、肌触りが良いものです。

たった3畳しかないとはいえ、畳敷きで家族と同じ上等な寝具を与えられていた縁壱。武家の家長としての体裁と、家族への愛情の間で揺れる父親像がのぞきますね。

 

*畜生腹

かつての日本にあった蔑称の一つ。双子や三つ子など、一度に複数名の赤ちゃんを産んだお母さんがこう呼ばれていました。

 

()聾唖(ろうあ)

それぞれ、耳が聞こえない人、言葉を話せない人、そのどちらも難しい人の意味。

縁壱はずっと話せないふりをしていたので、周囲からは耳が聞こえないから話せないのだと思われていました。

 

夜驚(やきょう)

いわゆる”寝ぼけ”や”夜泣き”の酷いものです。

幼い子供に多く、甲高い叫び声や泣き声をあげて、大変怖がったり怯えている様子が特徴とされます。体は起きていても頭は寝ている状態なので、周囲の呼びかけは全く聞こえず、本人も覚えていません。大人になるにつれて自然に収まることが多いようです。

 

*板の間、続き間

嫡男の部屋に入る際は、基本的に隣の続き間と呼ばれる板張りの部屋を通って入る仕組みになっています。ここは女中などの使用人が控えたり、部屋で使うものを仮置きしたりしていました。

 

*巌勝の部屋にあった(あるべきだった)調度品

大葛籠:おおきな竹製の蓋付きバスケット。中には着物が納められているため、結構重い。

几帳:布製のパーテーション。屏風と違って風を通すので、夏場にも使いやすかったです。

文机:書き物をするのに使う机。巌勝のは嫡男用に代々受け継がれたもののため、漆塗りの立派なもの。

唐櫃:4本足のついた木製のチェスト。湿気を防ぐことができたため、この中に勉強用の書物などが収められています。

 

*四半刻

だいたい30分くらい。一刻が2時間、半刻が1時間。季節によっても結構変わったらしいですが、私が混乱するため基本この時間で。

 

*五月晴れ

作中では旧暦を採用しているため、梅雨の合間の晴れのことを指す。なんとなく字面からゴールデンウィークの時期くらいの晴れを想像してたら、全然違いました。

 

*双子というのは〜そういう存在なのだ

双子などの多産そのものや妊婦、生まれた子供のことを、畜生腹などの蔑称で呼ぶ場合が全国的によく見られました。朱乃や縁壱の扱いがあまり良くない(風に装わなければならなかった)のは、この辺りに原因があります。

多少の地域差はありますが、『双子が生まれた場合、必ず片方の命を断って養育しない』というのが割とスタンダードだったようです。

 

その根幹をなす考えの1つに『双子は本来ひとつの魂を分割して生まれた存在である』というのがありました。どちらかの存在を殺めなければ、どちらも0.5ずつの存在で不安定になってしまう。でも、『双子は2人でひとつの存在である』とも。

綴弦が双子を見て感じ入ったのは、この神秘的な光景を目撃したような気持ちになったためです。

別作品ではありますが、呪術廻戦の真希さん、真依さんの双子はかなりこの性質を強く反映したような存在ですね。

 

彼らの父親が縁壱を殺めようとしたのも、出家させようとするのも、当時の慣習に習ったものです。出家で済ませようとしたあたりかなり穏当な処置にも見えます。ちなみに、彼もきちんと屋根に乗って、「双子の父親はここだ」と何度も叫ぶ(双子の父親としての)役目を果たしています。ちゃんと縁壱の魂を迎えに行ったんですよね。

 

*恵篁宛の手紙

しばらく経って送られてきた手紙には、症例はいくつかあったものの、癒されて天寿をまっとうした者はいなかったと綴られていました。恵篁、片っ端から蔵書をひっくり返して探したんですがね……。

残念ながら見つけた症例はごく僅かで、それらを全て写したものが添えられていました。綴弦たちは、その手紙とたった1回の経験をもとに、朱乃の存命に力を尽くすことになります。

 

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