山あいに生きる薬師の兄妹が、
人と鬼、命と死のあわいを渡りながら、小さな灯を繋いでいく話。
原作『鬼滅の刃』の余白に触れるような静かな補完連作です。
時代は室町末期〜戦国初期頃。
政治の世界における「神秘」や「祈り」の力が、
ゆるやかに失われつつある時代です。
※原作要素を含む二次創作/時代背景に基づく死生・医療描写あり。
※史実・設定改変を含みますが、世界観の整合を重視しています。
※本話には幼少期の巌勝、縁壱と、その家族が登場します。
※朱乃さん(巌勝・縁壱の母)の病気を、出産時のいきみによる脳出血+寝たきりによる体力低下としています。
※シリーズ作品のため、第一話「序 灯明」からお読みいただくのをお勧めします。
それでは、どうぞ、ゆっくりと。
「いと、いと、そこにいる?」
「はい、いとはこちらにございますよ」
いとがそばに寄って右の手を緩く握る。心細そうな顔をしていた朱乃の表情が、ほっとしたものに変わる。
外は明るく爽やかなのに、部屋の中はどこか長雨めいた気配が漂っている。
「いと、私。いままで、たくさん迷惑をかけてしまったわ。あなたの女の幸せを奪ってしまった、病がちの主人でごめんなさいね」
「……!そんなことは、私にとってなによりの幸せは、あなたにお仕えできたことです」
「ふふ……。ありがとう。嬉しいわ。ねぇ、巌勝も、縁壱も、あのひとも。私がいなくなっても、仲の良い家族でいてくれるかしら。みんなこの家で、協力しあって……、遺書に綴っても不安なものねぇ」
床の間に活けられた藤が揺れる。皮肉極まりない、ふじの花。
ここ数日下がり切らない熱が止んだら、この手も左のように冷えるのだろうか。
「月詠さん」
「はい」
「あと3日もないのでしょう」
「……おそらくは」
「そう。思っていたよりずっと早いような、遅いような。不思議な気持ちだわ」
朱乃は、いとの手を握り返して言った。
「私が残していく家族が、ひとりぼっちにならないように。私の代わりに見守ってあげてね。あの人は不器用だけれど、真っ直ぐで傷つきやすいから、心配だわ。あの子たちもまだたった7つですもの。……もっと近くで大きくなるのを見ていたかった」
朱乃の目から、熱のためばかりでない涙が溢れた。
いとは左の手でそれをすくった。人の温かさのある雫だった。
***
綴弦殿が求めた才とは、一体何だったのだろう。
巌勝は布団の中で寝返りを打った。
欄間から落ちた月明かりが、畳の上に筋を残している。布団から手を伸ばしても、あとわずかに手は届かない。
『望む者の下へ、望む才が与えられればどんなにいいでしょうね』
私が望むのは、父に認められるだけの才だった。
文武両道であり、家臣の心を集められるだけの英雄性を身につけた存在であること。
縁壱は、圧倒的な剣の才でそれを一息に提示して見せた。だがそれは、本人の望みではない。
縁壱に抱く羨望も、嫉妬も、恐れも。兄として抱くにはあまりに汚い感情ばかりだ。
綴弦殿は、何を望んだのだろう。
薬師としての腕か、妹君と暮らす場所か。少なくとも、単純な強さではない気がした。
『少なくとも私にとっては、巌勝さまは心優しいお方ですよ』
あの人は、優しいことを純粋に、良いことだと信じていた。父上や、榎本や、萩先生は、優しさを見せてはいけないと言った。寛容である必要はあるが、優しさを利用するものも多いからと。
あの晩、手の力を緩めたのは無意識だった。人を不必要に傷つけないなど、当然のことだ。綴弦殿が嬉しいと言ったのは、きっと指を折られなかったことではない。もし指を折ってしまって謝罪しても、きっと同じことを言う気がした。
変な人だ。変な人だが——。
巌勝は、胸元に両手を握った。自然と口元が笑みをかたどる。
胸の奥がほんのりあたたかくなる。彼が時折訪れる寺なら、すっかり悪いところでもない気がしていた。
「兄上」
「……何だ」
ぼんやりと考え事をしていると、縁壱の声がした。一拍息を呑んで、震えないよう気をつけながら声を出す。
「母上が、身罷られました」
「なんだと」
母の死は、寝耳に水だった。布団から跳ね起きて、障子を開ける。思っていたより近い位置に、縁壱のふんわりした頭があった。
「何故突然そのような、何があった」
「申し訳ありません。仔細は側仕えの”いと”にお聞きください。俺はこのまま寺へ発ちます」
「発つ?今からか?」
「はい。別れの挨拶だけ、させていただきたく」
縁壱の顔は見えなかった。平坦な声からして、きっとまたあの何を考えているのかわからない顔をしているのだろう。
顔を見れば抱きつきに行く母親の死さえ、この生き物には何ら痛手ではないのかも知れなかった。
「この笛を」
「笛?」
「いただいたこの笛を兄上だと思い、どれだけ離れていても挫けず、日々精進いたします」
縁壱は外れた音しか鳴らないがらくたの笛を、宝物のように布にくるんで懐にしまい込んだ。
また、笑っている。そんながらくた。何がそれほど嬉しいのかわからない。気味が悪い。
私は何も言葉を返さなかった。
縁壱は、満足した様子で深々と頭を下げた。そしてそのまま、殆ど荷物も持たずてくてくとどこかへ行ってしまった。
空が薄く白んで、母上の部屋の方角が騒がしくなる。私はじっと、そこに立ち尽くしていた。
***
漆の棺に納められた母上を見ても、涙は流れなかった。ただ、この人が私の母だったんだと思った。
いつも文でのやり取りばかりで、時折入側を縁壱と歩かれる姿を見るだけだった。
父上は、ひたすらどうしてと繰り返しながら泣いていた。男が泣くなと言っていた父が。
結局、僧侶が来る前には榎本に諌められ、いつもの顔を無理やり作っていた。母を亡くして、一雫も涙を流さぬ私は、やはり優しくはないと思った。
初七日が過ぎた夜、横になった途端涙が止まらなくなった。いまさら。母上の野辺送りはもう済んだ。1人部屋で泣いたとて、どうにもなるものではない。
なのに、止めようとすればするほど、涙が溢れて止まらなかった。
母の遺言は、父上の体の心配と、私たち兄弟のことばかり記されていた。普段の文通でいただいた手紙とは違い、大きく歪んで掠れ、不安定な文字で、
側仕えのいと曰く、母上はもう長いこと病で体が不自由だったのだという。綴弦殿と月詠殿は、母の招いた宗教者である以前に、延命に励んだ薬師であった。
禁じられていても、縁壱の離れに通ったように、母上の部屋に向かえばよかった。文箱に重ねられた母の手紙は、母の言葉であっても、
遠目から姿を見かけることしかなかったから、棺の中で目を閉じた表情しか見たことがない。
私は、生きている母上の顔を見たことがない。
頭の芯がぼうっとあつく、重くなっていく。
翌朝、よねが手ぬぐいと水桶を用意してくれていた。何も言わないその気遣いが、ありがたかった。
***
日当たりの悪い納戸を改造した座敷牢は、かすかに残る血と汗の匂いが澱んでいた。
その片隅で、綴弦が細い手足を投げ出してようやく壁にもたれている。
「綴弦さん」
「……よねさん」
綴弦は緩慢に身を起こした。
その姿は、藤の頃と比べて随分やつれていた。癖のある柔らかな髪は埃と脂に汚れ、顔色も悪い。目元に常に居座るようになっていたくまも、随分と濃くなったように思う。
榎本さまの方針で目立つ傷こそないものの、日に一度の食事と、幾分かの睡眠時間を除いては、日のほとんどを怒号と尋問の中で過ごしていると聞いた。
彼は朱乃にも、巌勝にも、縁壱にも手を尽くした。それでもなお届かないことがあると、なぜわからないのか。
「お食事を、持ってまいりました」
盆に乗せた食事を、格子の下から差し込む。ふらりとこちらに寄ってくる綴弦の手の指が、何本かあらぬ方向に曲がっているのを認めて、眉を顰めた。これは明日も給仕役を代わってもらわなければ。
「すまない、いつも。……月詠は、無事か」
「えぇ。過ごされていたお部屋で、軟禁状態だと聞きました。時折萩之介さまの治療に向かうことだけは許されているようです」
「そうか。なら、よかった」
綴弦は慣れた手つきで手のひらに椀を乗せると、こぼれぬように親指の付け根を添えて傾けた。薄粥を持って行くよう勧められたのは、このためだったか。麦粒ひとつも残さぬように粥を啜り切った。
じっとみていると、綴弦さんは少し照れたような顔をした。
「すみません、こんな、はしたない真似」
「いいえ。すこし、手をこちらに出していただけますか」
「……?えぇ、はい」
よねは添えられていた粗末な箸をふたつに折ると、それを添木がわりに割いた手拭いを巻きつけた。
「こんな状態とは知らず、すみません……。有り合わせでしかありませんけれど、無いよりはましでしょう」
「あまり私の味方をしない方が良いでしょうに……。あなたも大概、不器用な方だ」
「そっくりそのまま、お返ししますよ。それに、助けられてばかりいる方が恥というものです」
あらゆる事情を承知の上で、榎本さまは綴弦さんと妹君をこのままにされている。おそらくそれだけ、殿の悲しみや怒りが深いのだろう。
普段の尋問に比べればずっと手ぬるい割に、やつれやすいものを選んでいる。本当にただ、殿の鬱憤を晴らすためだけの見せ物として扱われているのだ。
いとさんが、殿を説得しに向かわれたと聞いた。きっと、うまくいくといい。
祈りを込めて、最後の端を結んだ。
「明日もまた、参ります。これ以上指が折れたら、明日もまた箸を折りますから。……気をつけて」
「えぇ。できるかぎり」
綴弦はひっそりと顔を動かして、看守に見咎められない程度に、小さく笑みをかたどった。
***
早朝、風呂敷1つ抱えて月詠さんの部屋を訪ねた。すっかり顔見知りになった見張りの男は、こちらを見て手をひらりと振った。
「月詠さんは……?」
「また、寝ずの調薬だよ。あんなに根を詰めて、見てられねぇ」
板戸の代わりに簾が下がっているだけの部屋からは、薬草をすりつぶして立つ青々とした匂いが強く立っていた。確かに昨夜は綺麗な月夜だったが……、恐る恐る男を見ると、頷きだけが返された。
背中を軽く叩かれて、簾の端に手をかける。後ろで男の座り込む気配がした。
「月詠さん」
「……いとさん」
簾を上げると、月詠の頬に緑の筋が残っていた。目も心なしかぼんやりとして、ただでさえ少女めいた見た目がさらに幼く映る。
「にいさんは」
「生きておられますよ。ただ……指が数本折られていたそうです」
「そうですか」
月詠の浮かしかけていた腰がすとんと落ちる。以前話していた通り、彼女たちにとって指がおられるのは日常茶飯事らしかった。そのまま、薬草茶を入れる手元をぼうっとみる。
手つきにはなんら迷いはない。指先に草の汁が染みているが、あれは洗えば落ちる程度で済むだろうか。そんなことを考えていると、目の前に湯呑みが置かれた。
相変わらずの青臭さだが、目の前のちらつきが少し和らいだ。冷え切った指先がじわりと温かくなってくる。
「今日は、何かあるんですか?随分緊張されてるようですけど」
「隠し事はできないわねぇ……少し、出陣前に勇気をもらいたくて」
つとめて明るい声を出して、風呂敷を解く。朱乃さまの日記と、押し花帳だ。ぽんとひとつ叩く。
「今日、これを持って殿のところに直談判してくるわ。うまくいけばきっと、綴弦さんもここに戻って来る」
「ほんとう!?」
「えぇ。だから、頑張ってくるね」
「兄さんのこと、よろしくお願いします」
もちろんだ。きっとうまくやってみせると口に出す。自己暗示。
頭を下げるこの子は、自分の兄が見せ物にするため痛めつけられていたと知ったら、怒るだろうか。悲しむ?なんとなく、仕方ないことだと笑って言いそうな気がした。
そういえば、押し花帳の提案をしてくれたのは、月詠だった。
文字をあまり書けなくなってきた朱乃さまでも続けられた、送り主と日付を書くだけの押し花帳。日記を書くたびに悲しいお顔をされていた主人に、新しい拠り所を示した薬師。
こちらをじっと見つめていた月詠と、目が合った。
「どうしたの?まだ何か心配かい?」
首を横に振る。
「私たちは、朱乃さまを助けられなかったでしょう。どうしてこんなに、よくしてくれるんだろうと思って」
虚を突かれた顔をして、いとさんは黙り込んだ。
彼女は特に、朱乃さまを慕っていた1人だ。いくら手を尽くしたとは言え、刺し殺されても文句は言えないと思っている。
いとは、薬湯を一息に飲み干して、月詠の手を握った。
「いいかい、月詠。朱乃さまが亡くなられたのは天命だ。あなたたち兄妹が、どれだけ尽くしてくれたと思っているんだ」
朱乃さまの病、縁壱さまの聾唖、巌勝さまの夜驚……そのうえ、使用人たちの体調にまで気を配ってくれていた。目の下に薄いくまが浮いているのが日常になるほど、尽力してくれた。
もう1年持つだろうかと思っていたあの梅雨の日から、3年が経った。朱乃さまは、縁壱さまと話すことができた。巌勝さまとの文をたっぷりとおおきな文箱に貯めることもできた。十分すぎる、功績だった。
「だからね、あまり卑下しないでおくれ。少なくとも私は、あなたたち2人にとても感謝してるんだよ」
月詠は、反応に困ったように目線を彷徨わせて、ようやくひとつ頷いた。
「私が帰ったら、顔を洗って一度寝なさい。綴弦さんが帰ってきたら心配するよ」
いとは風呂敷を包み直して、とても綺麗な顔でじゃあねと出ていった。
目尻の赤い戦化粧がとても綺麗な朝だった。
***
初めて入った母の私室は、私の部屋よりもずっと生活感があった。
床の間に置かれた花壷には、藤の花が活けられていたのだと、いとが教えてくれた。
「形見分けの前に、朱乃様が存命だった頃のままの部屋を見ていただきたかったのです」
そう言っていとが持ってきたのは、2つの文箱だった。蓋を開けると、見覚えのある筆跡と、崩れて読みにくいそれ。
「こちらが、巌勝様からいただいたもの。こちらは……本当は処分しろと言われておりましたが、朱乃様が書かれたお返事でございます」
「これが、母上の……?」
文箱の一番上を開く。梅の頃にいただいた返事だった。文字の大きさも、墨の掠れもめちゃくちゃなのに、あの頃いただいた整ったそれより、よほど胸が苦しかった。
「えぇ、一度お返事を
「そう、だったのか」
文字は全く読めなくなった。滲まぬよう、袖を当てる。
「えぇ。それでは、私はしばし下がっております。どれも見ていただいてかまいませぬので」
乱暴に目を擦って、涙を止める。母上が使っておられた文机の上に、いくつかの日記が置かれていた。
なんだかとても興味が惹かれて、ぱらぱらとめくる。
日記は飛び飛びで、1日分もとても短い。天気のことや、父に贈られた花の話が続く。不思議なほど、母の体のことについては記されていなかった。
『巌勝の夜驚がひどいと聞いた。何かを探してひどく暴れるのだという。綴弦さんが、診てくれるらしい。彼ならきっと大丈夫だろう』
ぴたり、と手が止まった。暴れる?私が?
私の部屋は母上の私室よりも、いや、縁壱の離れ以上に物が少ない。あれはもしかして。
『縁壱が今日はいつもよりご機嫌だった。綴弦さんから、縁壱が添い寝に訪れた夜は巌勝もぐっすり眠れていると聞いた。表立っては難しくとも、時折の黙認は許されましょう』
『今日は巌勝から文が届いた。あの人と同じ藤の花。優しい子に育っている』
紙片を捲る手はもう止まらなかった。
母上の日記では、私も縁壱も同じ温度で記されていた。私は病床の母上にさえ、心配をかけていた。
縁壱は己が後継ぎに据えられると気づき、予定より早く家を出ることにしたらしかった。
母の病も、死期も、縁壱にはわかっていたようだ。母は何年も前から左半身が不自由になり苦しんでいた。
母を見ればしがみついていたと思っていたあれは、病で弱っていた母を支えていたのだった。
私はその時、嫉妬で全身が灼けつく音を聞いた。縁壱に与えられた才を憎んだ。
それでいて、その資格が一番ないのが自分であることもよく知っていた。
頼むから死んでくれ。
お前のようなものは、生まれてさえ来ないでくれ。
お前が存在していると、この世の理が狂うのだ。
気づくと日が傾いて、鼈甲色の光が戸の隙間から道を作った。
とっさに、日記を元の通りに直して、女中を迎え入れた。
「巌勝様には、こちらを」
後日。母の形見わけとしていただいたものの中には、あの日見せてもらった文箱があった。
***
梅雨になると、屋敷も表面上の落ち着きを取り戻していた。
さあさあと雨が葉を打つ音を聞きながら、勉学に励む。萩先生が回復するまでの繋ぎとして、綴弦殿から応急手当てのやり方を学ぶことになったのは、変化と言えるだろうか。
「傷口を汚れたままにしておきますと、そこから汚れが回って傷が膿み、最悪、切り落とさねばならぬこともあり得ます。たとえ農民足軽といえど、そうなれば領地にとって大きな痛手となりましょう」
「それは、確かに大事だな。戦で土地が増えたとしても、耕す民がいなければ」
綴弦殿は、少し驚いたような顔をして、嬉しそうに笑った。
「ええ。田畑を耕すのは、女子どもだけでは大変ですからね。人間、大切にされたらその人のために尽くしたくなるものです。戦で武勲を上げる手法は旦那さまや萩之介さまがよくご存知でしょう。私は人の心を掴む優しさの表現をひとつお伝えできればと思っているのですよ」
「綴弦殿は、戦の怪我人を見たことがあるのか」
「えぇ。ございますよ。何名か、看取ったことも。みなさん口を揃えて、郷里に残した家族の心配をなさるんです」
「家族の」
「えぇ。田植えまでには帰らなくてはって」
「そうか……」
巌勝は少し考えるように俯いた。綴弦の目は、庭の木を見ているのに、その奥に何かを重ねているようでもあった。おおよそひと月ぶりに見た彼の横顔は、心なしかやつれているようにも見える。
ぱちん!と綴弦が手を打って、こちらを向いた。
「初回から天気に釣られて湿っぽい話になってしまいました。今日はこれくらいにして、少し休憩にいたしましょう」
悪戯っぽく笑って、すみません、お水をお願いします、などと言っている。
心配などしなくていいというような振る舞いに、少しほっとした。
「巌勝さまは、朱乃様の日記を読まれたのでしょう」
巌勝は、ひとつ頷く。
「私が恨めしくはなりませんでしたか」
あんまりな質問に驚いて、顔を上げる。翡翠の目がこちらを見つめていた。こちらも真正面から見つめかえす。
「なりません。なぜ、あなたを恨む必要があるのですか。病身の母上に心配をかけたのも、縁壱のような優しさを持たぬのも、全て私の不徳です。あなたはは薬師として仕事を成しただけ。感謝こそすれ、恨みはしません」
「そう、ですか」
「あぁ」
綴弦の声は少し震えていた。湯呑みの水が半分ほどになってようやく、綴弦が口を開いた。
「巌勝さま。あなたはやはり優しいお方だ」
「そんなことは……。私は、母上の病にも気付けず、母を支えていた弟を、甘えたの軟弱者と勘違いした大うつけです」
巌勝の口元に、綴弦の指が当てられる。
「いいえ。いいえ。それは違います。ねぇ、巌勝さま。ここに飢えに苦しむ童が1人いたとして、その子のためにしてやれることは私とあなたで全く違うのですよ。私は一食の粥しか与えられませんが、あなたはその子に仕事を与えられる」
いつも穏やかな翡翠に、少し怒ったような色が混じる。だが、不思議とその怒りはこちらに向いていない気がした。
「奥方さまのことも、変わりません。縁壱さまは確かに、病身の奥方さまを支えて歩かれました。ですが、あの方の心を支えられたのは、間違いなく巌勝さまもです。……奥方さまは、あなたとの手紙の中でだけは、健康な良き母になれた気がして嬉しいのだとおっしゃっていました。病を知らなかったことは歯がゆいかもしれませんが、知らなかったからこそ、守れた優しさというものはあったのですよ」
***
【世界観補足】
*藤/ふじ
鬼滅の刃の中では、鬼殺を象徴する植物として描かれる藤です。4〜5月頃に見頃を迎え、ゴールデンウィークに見にいった方も多いのでは無いでしょうか。
『ふじ』という名前の由来を調べてみると、『咲き散る』を語源とする説がありましたので、床に伏せる朱乃へ、殿が送った花に選びました。音遊び的な発想なのか、風水の世界においては『不死』や『富士』を連想させる良きものとされたり、『不治』に通づるためあまり良く無いとされる場合もあるようです。
花言葉である『優しさ』や『忠義』は、花そのものの姿から連想されたのでしょう。
鬼の文脈以外で藤の花を登場させたいなぁと思っていたので、作者的にはとても満足です。
*空が薄く白んで
朱乃さんの亡くなった季節は明言されていませんが、原作の縁壱出奔直前の巌勝の夜着の柄や、縁壱とうたの出会いのシーンの稲の生育具合から、穀雨〜立夏ごろとしています。そのため、AM4:00~4:30ごろがこの時間帯の目安です。
原作で虎の刻1つ(AM3:00~3:30)に縁壱が来たと書かれていました。1時間近く立ち尽くしてしまうほど、大きなショックを受けています。
*漆の棺、初七日、野辺送り
現代の仏教式葬儀では、シンプルな棺箱に遺体を収め、それを漆塗りの装飾のついた棺に収めていますが、本作では直接漆の棺に遺体を収めています。土葬が中心の時代に、マトリョーシカ的棺だと不便が多いだろうと思ったからです。
初七日は、仏教における死後の裁判の1つ目で、故人の裁判結果が良くなるように遺族が行う法要(追善供養)です。名前の通り、故人が亡くなってから7日目(亡くなった日を1日目と数える)に行われます。
野辺送りは、実際に墓地に遺体を埋めるための行列や、その行為を指します。現代でいうと、骨壷をお墓に納める納骨が一番近いでしょうか。当時は土葬で、四十九日まで遺体を埋葬せずに過ごすことは困難だったでしょうから、初七日の後、
*朱乃の遺言
原作20巻コソコソ話より引用しています。現代の私たちの感覚からすると、病気なのに家族思いの優しい母親と映りますが、おそらく当時の武家の妻としてはかなり特異な遺書だったのでは無いでしょうか。当時の武家の女性の遺言としては、家の運営や親族への申し送りが含まれることも珍しくなかったでしょうから。
家がこれからも存続するために、奥方から出された最後の『家政の指示書』というニュアンスがほぼ含まれていない代わりに、遺していく家族への情だけで綴られた手書きの遺言書です。
*綴弦と月詠の処遇
武家の奥方の治療に当たっていた平民の薬師がなんのお咎めもないわけがありません。特に、朱乃の死後に病であったことを知った夫(殿)の怒りと悲しみは相当だったでしょう。榎本は、そんな殿と綴弦たちの間に入り、一見与えるダメージが大きく見えるけれど、決定的な外傷は与えない程度の(また薬師として再起できる程度の)パフォーマンスとしての尋問を綴弦に対して行っています。月詠に関しては、ただの助手でしかないこと、調薬の腕は確かであることから、戦の時必要になる傷薬の量産を命じています。
綴弦、いと、よねの3名は、この榎本の采配に気づいていました。
*朱乃の押し花帳
朱乃は元々、夫に贈られた花のことを日記に書くのが幸福でした。しかし、麻痺が悪化するにつれ、文字を書けるだけの身体バランスを取るのも難しくなっていきます。そんなころ、月詠が提案したのが押し花帳です。多少色褪せてしまうとはいえ、日記の代わりとしては十分ですし、花を並べるのは文字を書くより比較的楽にできました。
殿に送られた花の他にも、巌勝との文通に添えられた花や、縁壱が拾ってきた紅葉なども挟まれていました。
*当時の兵士の内訳と、綴弦の授業の意味
末端兵として使い潰す存在ではなく、痛みに寄り添って癒そうとしてくれる主についていきたいものですから、綴弦の授業は応急処置の講義であると同時に、民や足軽の痛みを知るための授業でもあります。
戦国時代の軍勢のほとんどは、職業軍人ではなく、農民(足軽や人足)だったと思います。彼らに寄り添い、治療の術を身につけることは、戦に勝利するだけでなく、その後の統治にも大きな影響を与えたでしょう。
綴弦たちが継国を追われる夏の盛りまでの、ほんのわずかな授業期間です。