山あいに生きる薬師の兄妹が、
人と鬼、命と死のあわいを渡りながら、小さな灯を繋いでいく話。
原作『鬼滅の刃』の余白に触れるような静かな補完連作です。
時代は室町末期〜戦国初期頃。
政治の世界における「神秘」や「祈り」の力が、
ゆるやかに失われつつある時代です。
※原作要素を含む二次創作/時代背景に基づく死生・医療描写あり。
※史実・設定改変を含みますが、世界観の整合を重視しています。
※本話には主人公(綴弦、月詠)は直接登場しません。
※本話には人間時代の巌勝、縁壱と、その周囲の人々が登場します。
※うた(縁壱の妻)の死因に関する独自解釈を含みます。
※シリーズ作品のため、第一話「序 灯明」からお読みいただくのをお勧めします。
それでは、どうぞ、ゆっくりと。
【日蝕】
初めて戦場に出たのは、13の春だった。
傷口の血が止まらない様子だったので、手拭いを裂いて縛った。血がぬるりと滑って、難しかった。その足軽は、数日後に亡くなった。
初めて人を切ったのは、今日。14の夏だ。
本陣まで切り込んできた敵兵を1人。夢中で刀を振って首を落とした。
手応えは竹を払うのと大差なかった。あの日の足軽と変わらぬ血の熱さに……なんと思ったんだか。
戦が1日終わるごとに、負傷者の呻きも増えていった。おそらく敵陣もそう変わらないだろう。
矢の刺さった者。押し合いで骨を痛めた者。腕を斬られた者。
その中を歩いて、救護所まで辿り着けぬ者を送ってやるのが、いつの間にか習慣になっていた。
「若様」
声を掛けられた。先の戦で助けた男だった。
「ご無事で何よりです」
「お前も無事でよかった。また、力を貸してくれて感謝する」
そう返すと、男は目を丸くして、照れくさそうに頭を掻いた。
「へへ」
たったそれだけ。それだけで、男は明日も戦えると笑った。
*
その晩。巌勝はどうにも眠れなかった。
初めて人を斬った夜は興奮して眠れぬものだと聞いていたが、これはなんだか違う気がした。
ただ、昼に斬った男の顔と、以前助けられなかった足軽の顔が交互に浮かんでいる。
年はどれほどだっただろう。妻や子は、いたのだろうか。
考えても仕方のないことばかり浮かぶ。
「巌勝様」
「弥三郎」
「眠れませぬか」
「……寝つきは、良い方だと思っていたんだがな」
胸元に当てた拳の甲を落ち着かせるように撫でる。いつもならこうしていると眠気が来るのに、どこかに旅に出たままだ。
「目を閉じるだけでも、体は休まります。眠れる夜など、誰にでもあるものですから」
いつも厳しい傅役にしてはずいぶん優しい。わかった。と答えて、目を閉じた。
翌朝。
何事もなかったように起き上がり、ずしりと重い鎧を身につける。昨日と同じ重さのはずなのに、肩にかかるそれは少しだけ重く感じられた。
***
よねさま
霜も深くなってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
こちらはおかげさまで変わりなく、月詠も息災にしております。
若君が初陣を迎えられたとうかがいました。
おめでたいことである反面、案じる心もございます。
幼い頃より、人一倍ご自分に厳しいお方でした。
どうか夜くらいは、肩の力を抜いてお休みになれていれば良いのですが。
もっとも、今さら私などが案じることでもありませんね。
私どもは今、産屋敷という方のもとに身を寄せております。
身寄りのない子らの世話をしながら、以前と変わらず薬の仕事を続けております。
こちらへ来る子らの話を聞いておりますと、継国領の名を耳にすることがほとんどありません。
それだけ領内が穏やかであるということでしょう。
若君も、皆さまも、よき政をなさっておられるのだと存じます。
寒さはいよいよ厳しくなります。
よねさまも、どうかご自愛ください。
草々
綴弦
*
手紙を折じわの通りにたたみ直す。器用にも、紅葉の形におられた表紙。
手紙をもらうたびに季節の花をもらう気分にさせてくれるそれは、普段使っている文箱にきっちり収まる大きさだ。
筆まめなこの人に、ようやく返事を返せるのが嬉しい。
巌勝さまの夜驚は、おさまって久しい。最近は、許嫁さまとも仲良くされているようで、城内の雰囲気もずいぶん穏やかだ。
はずむ気持ちのまま、筆を走らせる。
つい言葉を書きすぎていないか、後でいとさまに確認いただこう。
よねは、仮の手紙をひっそりと隠して、仕事に出た。
*
「はぁ……」
謎の存在『つづるさん』から、母のよね宛てにまた手紙が来た。何年も向こうから一方的に送られてくる手紙に、父がやきもきしていたのを見ていたが、つい先日、いとさまと連名で返事を書いていると聞いてしまった。
おかげで父はすっかり不貞腐れてしまって、愚痴まみれの酒に付き合わされる始末だ。徹夜の目にお日様が沁みる。
「どうした、
「あぁ、いえ。なんでもないですよ。巌勝さま」
「そうか……?あくびを噛み殺していたように見えたが」
巌勝様が少し悪戯っぽく笑う。1つ年が違うだけでこんなに大人っぽくなるものかとよく思う彼の、他にはあまり見せないらしい顔。
木刀を渡す手から力が抜けて、落としかけたそれを巌勝さまが拾った。
「あ、すみません」
「いや、だが、だいぶだな。悩み事があるなら話すといい」
「おれ個人のというよりは、父の
「誰かはわかんないんです。でも、つづるって名前だけ聞こえて、男と文を交わしているに違いないって……。おれは女性だろうっていうんですが。いや、すみません。こんなどうでもいい話」
軽く項垂れて、話を切り上げようとする。部下の家族の話、ましていい年をした男の悋気など、耳障りでしかないだろう。ちら、と巌勝さまの顔を仰ぐと、懐かしげに口元を緩めていた。
「いや。久しぶりに聞く名だ。綴弦殿、ご健勝だったのだな」
「お知り合いだったんですか」
「あぁ。兄妹で旅の薬師をされている方だ。一時、うちに滞在していたことがある」
「なんと」
「宗介はそのとき、屋敷で養生していたころだったから、会ったことがなかったんだろう。綴弦殿は男性だよ。今は、30になる頃かな」
清乃助は、父親の勘というのも存外、馬鹿にできないものだと思った。急に現実味を帯びてきた家庭崩壊の危機に、冷や汗が滲む。
「心配しなくても、あの2人が色恋で繋がることはなかろうよ」
「……ほんとう、ですか」
巌勝は口元を少しだけ緩めた。
「どちらかといえば同志に近い。肩を並べて戦った戦友のようなものだろう」
「戦友……」
自信ありげに頷く巌勝を、ついじっとみてしまう。女性に困らない顔立ちの我が主人は、まだ男女の友情を信じているらしい。だが、ここまで純粋に信じているのをみていると、本当にそうな気がしてきた。
「じゃあ、大丈夫かな」
「あぁ、大丈夫だとも」
まぁ、巌勝さまがいうならそうなんだろう。そう思わせてくれるのが、うちの若君のすごいところだ。
***
お七夜の儀が無事に終わった。私の妹は、
「
「はい、父上」
儀の最中よりも今の方がずっと、心の臓がうるさい。たった数歩分の距離を歩くのにずいぶんぎこちなかったのか、父上が仕方ないという顔で笑った。
「これ、そんなに肩肘張るものでないよ。……ごらん、お前の妹だ。お前が、守ってやる子だよ」
背に大きな手を添えられて、母の腕で眠る赤子を覗きこむ。まばらに生えた髪の毛に、赤い顔、自分のそれよりずっと小さい手。柔らかそうな頬に触れようと手を伸ばすと、ぎゅうと指が握り込まれた。どうしよう。思ったよりも力が強い。でも、無理やり指を抜いたら、満足げに眠るこの子を泣かせてしまいそうだ。
「あ……」
「ずいぶん、澪に気に入られたようだな」
「お兄ちゃんだって、分かったのね」
陽希の顔から少しずつ緊張が剥がれて、満たされたような、嬉しそうな表情に変わっていく。巌勝はふと、陽希が生まれた日を思い出した。
* *
4年前、同じ季節の継国家は張り詰めた緊張感に包まれていた。産室から漏れ聞こえる呻き声に、元気な産声が重なった。
「産まれました!おめでとうございます、巌勝さま。健やかな男の子にございます」
「……そうか」
巌勝は、懐にしまっていた守り袋をひとつ撫でた。握りしめたままだった拳には、秋だというのにじわりと汗が滲んでいた。
開かれた襖の隙間からは、白木のように血の気の引いた妻がやっとの思いで息をしているのが見える。よくやり切ったと微笑むと、彼女は少し誇らしげに笑った。
「これより、主君へ無事出産の使者を送る。産湯の儀、および鳴弦の儀の支度を進めよ」
控えていた家臣たちに淡々と命じるその声には、父親としての慈しみよりも、家長としての揺るぎない覚悟が満ちていた。
* *
「澪、兄さんが守ってやるからな」
つい先日まで赤子だと思っていた陽希が、すっかり兄の顔をして澪の手を握り返した。夢の中にいるのに、澪も嬉しそうに笑う。巌勝はその様をどこか苦い思いで見ていた。かつての自分も、縁壱の手を引いてそう言っていた。だが、その約束が果たされることはなく、ただただ弟に醜い嫉妬心を抱く男が残っただけ。
「巌勝さま……?」
「あぁ、いや。陽希もずいぶん大きくなったものだと思ってな」
桔梗が不安げにこちらを伺う。大仕事を終えたばかりの彼女の前で、物思いになど耽ってはいけなかった。幸福に酔った男の顔をつくって、微笑みかける。そうするといつも、仕方のない人だという顔をして受け流してくれる。何度も繰り返してきた茶番のひとつだ。
大丈夫。我が子はどちらも私と違って忌み子ではない。ここには人を狂わせる『例外』はなく、儒学の教本に記されたように妹を守る兄と、それを敬う妹。家を継ぐ兄と、家のために尽くす妹がいるだけのはずだ。世の秩序の内側にある、正しいとされる家庭のあり方だ。
「桔梗も陽希も、今日はずいぶん疲れただろう。今日はゆっくり休みなさい」
陽希の頭を撫でると、見慣れた甘えん坊のふにゃりとした顔に戻る。握りしめたままの澪の指を一本一本開いていく。自由になった手を見た陽希が名残惜しげな顔をして、掴まれていた指を撫でた。
「おやすみなさい、父上、母上。澪も、おやすみ」
陽希が少し照れくさそうに妹の耳元で囁くと、ふぁぇ、と返事にならない返事が返ってくる。嬉しそうにこちらを見てくる我が子が愛おしい。おやすみ、と返すだけなのに、心が満たされる。
この、秋の庭のような家族を守っていくのが、私の仕事なのだ。
【月食】
パチ、と小さな爆ぜる音を立てて、いろりの残り火が赤く爆ぜた。
山あいの夜は驚くほどに更けるのが早い。外はとうに漆黒の闇に包まれ、虫たちの声だけが、薄い板壁を通り抜けて優しく響いている。
部屋の隅にうず高く敷き詰められた藁の寝床の上で、うたは身じろぎをした。
臨月を迎えたそのお腹は、命の重み分大きくふくらみ、ずっしりと重い。
「……ふう」
小さな吐息。仰向けに寝ることはとうに諦め、右の脇腹を下にして横向きに丸くなってみるが、どうにも腰のあたりが落ち着かない。農作業で鍛えたうたの体をもってしても、ふたり分の命を支える腰の軋みは、じわじわと鈍い痛みを訴えていた。
「うた」
腰のあたりがじんわりと温かくなって、乾いた藁の匂いの中に、ひだまりのような縁壱の匂いが重なる。
「起こしてしまったか、縁壱。ごめんね」
「いや。ちょうど眠れなかったから」
嘘だ、とうたは小さく笑った。縁壱の規則正しい呼吸が、さっきまで眠りの海にいたことを教えていたからだ。けれど、彼はうたが小さく呼吸を乱すだけで、どんなに深い眠りからでもこうして戻ってくる。
縁壱の、あの不思議な、すべてを見通すかのような静かな瞳が、闇の中でうたをじっと見つめた。
彼には見えているのだ。うたの皮膚のその下で、健気に、けれど必死に脈打つふたつの心臓と、それを支えるために引き絞られているうたの骨や筋肉の緊張が。
縁壱は何も言わず、部屋の隅にまとめてあった、干したての藁の束へ手を伸ばした。
それを古布で丁寧に包むと、うたの体の前に膝ずく。
「……少し、お腹を持ち上げる。痛むか」
「ううん、大丈夫だ」
縁壱の手が、うたの大きなお腹の下に形を整えた藁をそっと滑り込ませた。
「あ……、楽になった。縁壱はすごいな。まるでお医者様みたいだ」
「……いや。ただ、そこが苦しそうに見えたから」
お返し、というわけではないけれど、うたは自由な右手を伸ばし、縁壱の大きな手をきゅっと握りしめた。
昼間、うたが水瓶を持とうとした瞬間に、どこからともなく飛んできて奪い去っていった、あの不器用で頑丈な手だ。
「もう、お昼の水汲みだって、私これくらい平気だったのに。縁壱が大げさにするから、お隣のサトさんに笑われちゃったよ。『過保護な旦那様だねえ』って」
少しだけ拗ねたように口を尖らせてみせる。けれど、繋いだ手のひらから伝わる熱が心地よくて、うたの胸の奥は、こそばゆいような、甘い幸福感で満たされていた。
縁壱は、握られた手をじっと見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「サトは、揶揄って笑ったわけじゃない」
「え?」
「うたを見て、とても温かい色をしていた。あれは”嬉しい”だと思う……たぶん」
「そっか。縁壱は、自慢の旦那さまじゃな」
その様子がおかしくて、愛おしくて、うたは握る手に少しだけ力を込めた。
うたが微笑むと、縁壱の端正な顔が、ほんの少しだけ和らいだ。
どくん、どくんと、力強い小さな生命の鼓動が、縁壱の掌を押し返す。
「……もうすぐ、生まれる」
「うん。もうすぐ会えるね」
「私は」
縁壱は、お腹の鼓動を愛おしむように目を閉じ、囁いた。
「私は、これ以上何もいらない。この家と、うたと、この子が、こうして静かに息をしていられるならそれで」
「縁壱は、もっと欲を持った方がいい。私は、子どもは多ければ多いほど嬉しい。賑やかな家がいい」
「ああ」
うたは、藁のぬくもりとお腹の安心感に包まれながら、今度こそ心地よい眠りへと誘われていく。
最後に見たのは、うたの髪を優しく撫で続ける縁壱の、どこまでも穏やかで、深い慈愛に満ちた眼差しだった。
縁壱が産婆を呼びに山を降りる、その前夜のことだった。
*
翌日。
「縁壱、遅いのう」
決して広くはない家に、ぽつんと音が落ちた。
日はずいぶん傾いて、晩の食事の準備ももう終わるというのに、縁壱はまだ帰っていなかった。人助けを好んでする人だから、体も丈夫な人だからと思っても、どこか落ち着かない。
鈴虫の音に、わずかに足音が混じる。
「おかえり!ずいぶん遅かった……な……?」
「こんばんは。娘さん。道に迷ってしまいまして、一晩屋根を借りられないでしょうか」
初めの印象は、ずいぶん腰の低いお侍様だと思った。仕立てのいい袴をつけて、腰に刀を刺しているのに、穏やかな雰囲気。
うたも生来世話焼きであったため、一晩の粥と宿を貸そうと招き入れた。
「そうか、人探しを……。お侍様も大変なんじゃなぁ」
「いえ、お家のためですから。娘さんは、この家に1人で?」
「いや、縁壱……夫がいるぞ。時期に子が生まれるからって、産婆を呼びに行ってくれたんだ」
「縁壱……」
男は、そう言って考え込んだ。
うたは、家で一番きれいな器に、温かな粥を注いだ。秋の夜の冷たさに、ふわりと湯気が立つ。
「その、縁壱さんについていくつかお聞きしても?」
「あぁ、いいぞ。だがそのまえに、ほら。お侍さんの家で出るような立派なものじゃないが、冷める前に食べてくれ」
「これは、ありがたい。いただこう」
男が刀に添えていた手で椀を受け取る。気むずかしげな顔が少し緩んで、うたは内心ほっとした。
縁壱も表情は薄いが、纏う雰囲気は地蔵の精のように穏やかだ。腹が空いて気が立っていたのかもしれない。
湯呑みに水をふたつよそって、男の向かいに座った。
「縁壱は、おそらく時期に帰ってくるだろうから、先に食べてしまってくれ。私の知っている縁壱であれば、いくらかつたえられるから」
「では、遠慮なく。……うん、おいしい。優しい味ですね」
いくらか茸の浮いた味噌がゆは、今の時期らしい滋味に富んでいた。部屋の隅は娘の寝床だろうか、藁を積んで、着物をかけてある。この家の縁壱が、探し人でないことを願いたくなるほど、素朴な愛情に満ちた家だった。
「私の探し人の名も、縁壱というのです。彼はいつごろからこちらに?」
「だいぶ前だなぁ、ひとりぼっちになった頃だから、10年くらい前じゃろか。田んぼに立ってた私のそばに、いつの間にかいてな。『じゃあ俺が一緒に家に帰ろう』って。それから、ずうっと一緒じゃ」
「それは、苦労されましたね。その頃、どんな見た目をされてましたか」
「暗い赤色の、大人物の着物を着ていたよ。昔は私とほとんど目線が変わらなかったのに、今じゃあずいぶん大きくなってな、出入りするのにずいぶん身をかがめて入ってくるんだ」
娘はおかしそうに笑いながら話を続ける。私は適当な相槌を打ちながら、粥を啜った。
この家の主人はずいぶん大柄な男らしい。
「あぁ、そうだ。あった頃からずっと、顔に痣があったんだ」
「痣、ですか」
「そうそう。何かの傷跡かと思ったんじゃが、体が大きくなるのと一緒に傷も大きくなったから、多分違うんだろうなぁ。縁壱は体があったかいんだ。痣のところは一等あったかくて、冬場はそれで暖を取るんじゃ。それでな、縁壱は……」
どくん。
目の前の朗らかな女が、巌勝様に害なす赤子を産もうとしているのだ。幼少期に出奔したという男が成長すれば、この女と釣り合いの取れる年頃だろう。何か話しているのは分かっても、音が言葉にならなかった。
「それは、素敵ですねぇ」
空虚な声。
味噌がゆの味は、ずいぶんと苦くなった。
無理やり流し込んで、椀を返す。おかわりを辞退して、土間に降りる女を呼び止める。
「すみません」
腹から胸にかけて、斬る。力の抜けた女の手から椀が落ち、すぐ隣に転がった。
そのまま血溜まりに倒れ込む女の腹を繰り返し刺した。女は腹を庇うように身を丸くした。
しばらくそうしていただろうか。ようやく、女の呻き声が止んだ。
うるさいくらいに鳴いていた虫の声も静まり返って、男の荒い息だけが響く。
腹からまろびでた赤子の胸をもう一度刺して、男はようやく深い息を吐いた。
これでいい。
これでいいんだ。
これで継国は、巌勝様は。
がっ。がっ。がたんっ。
入り口の戸が無理やりに開かれ、直後、男の意識は途切れた。
男をすっかり平らげた鬼は、膨れた腹を叩いて、家を後にした。
鬼は、誰かの食べかすのような死体を食べるほど、飢えてはいなかったからだ。
どこぞの武家にでもいたのか、刀はいい値段で売れるだろう。弾む気持ちで家路についた。
***
明け方、戸を開け放したままの民家が目についた。
夏場ならよく見るが、もう冬に入る今の時期に開け放したままは考えにくい。
嫌な予感に従うように、その家に近づいた。刀の重みだけが頼りだった。
一歩踏み入れると、むっと鉄錆の匂いがあたりに立ち込めていた。
見回すと光が僅かに差すあたりに、背を向けて男が1人蹲っている。
「……おい」
声をかける。返事はない。
おそるおそる、一歩近づく。
「……おい、大丈夫か」
男の正面に回り込むと、ようやく少し身じろぎした。
男は女と、肉のかけらを腕に抱いたまま、茫然としていたようだった。女の血はすっかり乾いて、その欠片がぱらぱらと落ちた。
女に、もう息はなかった。
男がいない時に、鬼がこの家を襲ったのだろう。女の腹が執拗に狙われている様子から見て、腹の子のみを狙ったのか。
涙のひとつも流せないほど、憔悴し切ったこの男は、父になることも、夫であることもできなくなった。
「なぁ、悲しいことに違いないが、弔ってやらなきゃ可哀想だ」
男とようやく目が合った。この世の絶望を煮詰めたようにも、迷子の子どものようにも見える、不思議な目をしていた。
「私が表に穴を掘ろう。あなたはその間、その方を綺麗にしてやってくれ。向こうでも血まみれなんて、可哀想だろう」
男はこくん、と頷いて、のろのろと動き始めた。立ち上がった時の上背があまりに大きかったことに驚いたのは、内緒だ。
壁際にかけられた農具を拝借して、横になれる大きさの墓穴を掘った。
途中、ふらりとこちらにきた男が手伝ってくれたので、半日ほどで穴はできた。
日が高くのぼり切った頃、女——うたさんと、その子どもは死出の旅に出た。
鬼殺を始めてから旅装束に入れている小さなおりんの音が、冬のはじめの空に、悲しいくらいよく響いた。
男がようやく、涙を流した。嗚咽のひとつもなく、ただはらはらと泣いていた。
「煉獄さん、ありがとうございました」
「いや、それよりも。私は縁壱殿、あなたに謝らねばいけない。私が遅かったばかりに、奥方と子どもを失わせてしまった」
縁壱は、不思議そうな顔をした。
「鬼、と呼ばれる生き物がいることは知っているか」
彼は首を横に振った。あんなに大きな男なのに、童のような仕草がよく似合う。
「昔語りの鬼によく似た、人喰いの鬼が、夜毎出ては人を食うのだ。私は、その鬼を狩る仕事をしている。荒唐無稽な話に思えるかもしれないが、おそらく縁壱殿の奥方やお子は、鬼にやられたのだろう」
目を少し見開いて、考え込むように俯いた。無理もない。すぐに信じられる者の方が稀だろう。
「縁壱殿、よければ私と共に来ないか。私が所属している鬼殺隊というところは、皆、鬼に日常を壊されたものばかりだ。家族の仇を討ちたくはないか。同じように悲しむかもしれない誰かを、守りたくはないか。……もし戦いが嫌であれば、畑を耕してくれれば良い。なぁ、どうだ?」
「……私は、自分の妻子さえ守れなかった男です。それなのに……」
「あぁ、少なくとも私はできると信じている。鬼を一体倒せば、何十人という人の日常を守れたのと同等だ。縁壱殿が鬼狩になっても、そうでなくとも。鬼を倒す一助となるのは確かだ」
「……ついて、行かせてください。煉獄さん」
望洋としていた目に、わずかに意志が宿っていた。
【世界観補足】
*日蝕
地球から見て、太陽が月に隠される現象。月が太陽面を全部隠すのを皆既食、一部を隠すのを部分食、太陽の縁が月の回りにはみ出すのを金環食という。→皆既日食
[補説] 書名別項。→日蝕
デジタル大辞泉より引用
縁壱の居場所を巌勝が独占していた期間。
*月食
月が地球の本影の中に入って、月面の一部または全部が暗くなる現象。月の一部が本影に入るのを部分食、全部が入るのを皆既食という。→皆既月食
デジタル大辞泉より引用
巌勝のいない生活を送る縁壱の期間。
*
世継ぎ(この話においては巌勝)の育成を任せられる、家庭教師兼生活指導役のような人です。幼少期から教育や護衛を担当し、成長後も生涯にわたって支え続ける一蓮托生の関係を気付きます。この役職には人生経験豊富なベテランが選ばれることが多く、精神的支柱の役割も果たしました。
初陣から嫡男が前面に出て手柄を上げることはほとんどなく、最初は後方の伝令役から始まりました。傅役は嫡男の護衛役として側に控え、野営地では隣で眠って守ることが多かったようです。
月と日1などに登場した榎本正忠は、巌勝らの父親の傅役にあたります。
*綴弦の手紙
綴弦たちは継国家を出立後、行商人の一団を転々としながら旅をしています。綴弦は時折手紙を書いては恵篁に送り、その手紙に同封されたよね宛ての手紙を恵篁から送っているという形です。噂と手紙、それぞれにかなりのタイムラグがあり、生花や押し花では届くまでの間に形を損ねてしまうからというだけの理由で、綴弦は折り紙をしています。
よねや恵篁は住所が安定してるので手紙を受け取ることができますが、綴弦は旅人のためそれができません。そのため、産屋敷家に滞在することが決まったという便りに、返事を返せると喜んでいます。
*よねさん一家(
清乃助は巌勝の1歳年下の幼馴染です。幼少期から小姓(遊び相手兼身の回りのお世話役)として巌勝に仕え、元服(14〜15歳ごろの成人式)後は側仕えとして働いています。側仕えは、一番身近な秘書役であり、巌勝が抱え込んでしまいがちな感情を吐露する先でもあります。
この一家は情熱的な愛情というよりは、お互いへの確かな信頼や敬愛で結びついている家族のイメージです。そのため、作中で清乃助が心配していたような家庭崩壊の危機は、全くの杞憂です。
*
嫉妬ややきもちの古風な言い方です。
*お七夜
赤ちゃんの名前のお披露目と、健やかな成長をお祈りする行事です。現代でも続いています。
名前の通り、赤ちゃんが生まれた日を1日目と数えて生後7日目の夜に行われます。(1/1生まれの子なら、1/7がお七夜)
作中ではこのタイミングで家臣たちへのお披露目もしていた、という設定です。出産直後の産婦さんにとってはかなりハードスケジュールですよね……。
*出産の知らせ
現代でも子どもが生まれると上司や同僚に報告することがありますが、現代よりずっとこの報告が重要視されていました。
①主君に対しての、戦力の保証
②近隣のライバル(他家)への牽制
③一族や家臣の結束を強める
などのニュアンスが加わります。生まれて嬉しいからというよりは、家を守るためという印象になるんですよね。
ちなみに、長女である澪の報告は、長男である陽希ほど重要視されませんでした。後継の男の子とは、明確な分類があったんですね。
*
赤ちゃんが生まれるとすぐに湯をつからせます。生後三日目につからせる湯を昔は産湯といって重視していました。
産湯には、氏神さまがお守りくださるその土地の水を使いました。赤ちゃんにとって産湯は、出産の際の穢れ祓い清める
(福島県神社庁HPより)
*
弓に矢をつがえずに弦を引き、音を鳴らすことにより気を祓う魔除けの儀礼です。音を四方に向けて発することで、邪気を退けられると考えられていました。元々は誕生儀礼として始まったものですが、年が下るにつれ、様々なシーンで行われるようになっていきます。
*巌勝一家(
拙作オリジナル設定です。子どもたちの名前は幼名なので、14〜15歳くらいで別の名前に変わります。(元服などで成人すると名前を改めるのが通例だったため)家族4人で並んだ時に、しっとりとした秋の水辺を連想させたいなぁと思って名付けました。
桔梗:巌勝の奥さん。名前は、原作20巻で着用していた着物の柄から。花言葉も素敵だったので。
陽希:巌勝の息子。お兄ちゃん。太陽のように希望を託される子になってほしいと巌勝が名付けました。(縁壱のような素晴らしい男の子になってくれ。間違っても、私のような出来損ないには似てくれるな)
澪:巌勝の娘。妹。澪標のように、困難な場所でも道標となる子に育ってほしいと桔梗が名付けました。(巌勝は太陽に焦がれてやまないようだけど、私にとってのあなたは
*うたさん死亡の経緯
ちょっと入り組んでてわかりにくくなってしまったので、こちらで補足します。
鬼→(捕食)→腰の低い侍→(殺害)→うた・お腹の子
本作では、うたさん及びお腹の子を殺害した下手人は、継国家の熱狂的な部下でした。家に対して熱狂的というのが厄介なポイントで、巌勝及び先代が縁壱をまた家に引き戻したいを思っていても、お構いなしです。危険因子になりうる縁壱の子どもと配偶者を殺害し、一安心したところを、通りがかりの鬼に捕食されました。なんともまぁ、ついていない。
縁壱は、うたと子どもを殺した犯人は鬼ではないと気づいています。