あわいの灯   作:篠乃

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【注意書き】

山あいに生きる薬師の兄妹が、
人と鬼、命と死のあわいを渡りながら、小さな灯を繋いでいく話。
原作『鬼滅の刃』の余白に触れるような、静かな補完連作です。

時代は室町末期~戦国初期。
政治や医療の場から神秘の力が遠のき、
人が“祈り”と“生”の境を探していた頃の物語です。

※原作要素を含む二次創作/時代背景に基づく死生・医療描写あり。
※史実・設定改変を含みますが、世界観の整合を重視しています。

※珠世の夫と子どもが登場します。
※珠世の体調不良は「産褥熱の後遺症」と「慢性の貧血・栄養失調」によるものとして描いています。

※本作は二次創作のため、原作設定とは一部異なる解釈を含みます。

それではどうぞ、ゆっくりと。



炭窯と椿1

山裾にある作業小屋を出て二刻ほど経つ。
山を登るほどに雪も深まり、いまでは脛の中ほどまで埋もれている。

綴弦が先に足を踏み入れるたび、雪の下から凍った土の音がくぐもって響く。


その跡を、月詠が一歩ずつ確かめるように踏んでいく。
小さな足が、綴弦の残した形にぴたりと収まるたび、雪がかすかに鳴いた。
彼は振り返らない。ただ、歩幅をほんの少し狭める。
それだけで、月詠が無理なくついてこられることを知っている。

 

吹き抜ける風が道脇の枝を揺らし、頭に雪を落とす。
風の向こうに、黒い煙がのぼっているのが見えた。

――炭焼き小屋の煙だ。
胸の奥に灯がともるような感覚がして、綴弦は早まりそうになる足を押さえて歩いた。

小屋のそばでは、篝一が鉈をふるって薪を割っていた。
髪も肩も雪まみれで、息を吐くたび白が弾ける。

 


雪を踏む音に気づいた篝一が顔を上げた。
驚きと安堵が一度にほどけたような表情をして、「――来たか」と笑う。

「遅くなってすみません」
ふたりが頭を下げると、篝一は首を振った。


「お前たちが無事で良かった。珠世も喜ぶ」
そう言って、斧を立てかけると、ふたりを中へ招いた。

 

小屋の中は、炭の甘い匂いと、焚き火の焦げた香りが入り混じっていた。
囲炉裏のそばでは、珠世が澄羽を抱いて座っている。
春よりすこし頬の丸みが減っているが、目はかわらずやわらかい。

月詠が静かに頭を下げると、珠世は微笑んで「よう来たね」と声をかけた。
澄羽はその声に安心したように小さく身じろぎしたが、月詠の顔を見ると、きゅっと母の衣の裾を握った。
大きな瞳が、知らない人を見るように瞬きを繰り返す。

 

「……澄羽、大きくなったね」


月詠がそっと膝を折り、目線を合わせる。
けれど澄羽は小さく首を傾け、月詠の袖の先をじっと見つめたまま、手を伸ばさない。
綴弦が笑みを含んで言う。


「一年ぶりだ、無理もないさ。忘れられちまったな」


珠世がくすりと笑い、「この子、人見知りが始まってね」と頬を撫でる。


「知らない人だと思ってるんだよ」

 

火のそばに腰を下ろすと、足の先からじんわりと温かさが戻ってくる。
囲炉裏にかけられた鍋からは、何かを煮ている音がする。


炭の赤が珠世の顔を淡く照らし、澄羽の頬の白さをひときわ際立たせていた。

 

***

 

綴弦たちは、雪を払って、旅支度を解いた。
濡れた蓑を壁際に掛けると、ふわりと藁の匂いがした。


薬箱の表面をさっと拭い、薬棚の横に並べて、囲炉裏のそばへ座る。
凍えていた手足に、火の温もりがじんわりと戻ってきた。
外から戻る熱に、指先がようやく自分のものになる。

 

ほどなくして、珠世が粥をよそってくれた。
湯気が立ちのぼり、米の甘い匂いが小屋の中にひろがる。
ひと口すすれば、胃の奥からゆっくりと温かさが広がった。
空腹が満たされるにつれて、張りつめていた肩の力が抜けていく。

 

澄羽は珠世の腕の中で、もうとろとろと眠り始めていた。
母の胸のぬくもりに包まれ、小さな手を握ったまま、すうすうと寝息を立てている。
篝一は火箸で炭を動かしながら、何度目かの湯を注いだ。
四人の間に、しばらく静かな時間が流れる。

 

やがて綴弦が口を開いた。


「……師匠が、亡くなった」

 


その言葉は、火の音に吸い込まれるように低く落ちた。
珠世が小さく息をのむ。篝一は目を伏せ、長く息を吐いた。

 

「そうか……。あの人には、何度も助けられた」


「うん。俺たちも、もう少し早く知らせたかったんだが……」

 


綴弦は、指先で湯飲みを回しながら言葉を探した。

 


「峠が吹雪いてな。橋も流されてた。道を戻りながら、集落を回って……気づいたら一月半も経っていた」


「そりゃ、仕方ねえさ」

篝一は火に枝をくべ、ぱちりと音を立てた。

 


「お前らの道中を思えば、そのくらいのずれで済んだのは奇跡だろう」


「炭焼きの方は?」


「情けない話、まだ木割りがいくらか残ってる。お前たちが来たらすぐ終わるくらいの量だ。五日もすりゃ、窯を焚けるだろう」

 

珠世がその言葉に顔を上げ、夫の横顔を見つめた。
火がぱち、とはぜる。


「……今年の冬も、なんとか持ちこたえられそうね」


「おかげさまで、な」
篝一はそう言って微笑んだ。

 

雪と火のはざまで、人の暮らしがかろうじて灯っている。
旅の話や村の様子に話題が移る。
月詠は言葉少なに、湯飲みを両手で包みながらその声を聞いていた。
ただ、囲炉裏をまた五人で囲めたこと――
それだけが胸の奥にじんわりと沁みてくる。

 

ふと澄羽に目をやると、赤子は珠世の胸に顔をうずめ、穏やかな寝息を立てていた。
その小さな吐息が、珠世の喉もとで上下している。

 

「……生きる音って、こういうものなんだね」


月詠の声は焔の音にまぎれるほど静かだった。

 

綴弦は答えず、ただその横顔を見つめる。
彼の中で、雪と火とがゆっくり溶け合っていく。
師を弔った夜に見た光――
あの消えゆく火と、いま珠世の胸の中で眠る命とが、どこかでひとつにつながっている気がした。

 

外では、また雪が降り出していた。
風が戸を鳴らすたび、小屋の中の火がゆらめく。
綴弦はその火を見つめながら、ふと掌を伸ばした。
あの師の冷たい手も、こうして誰かを温めようとしたのだろう。

火の粉がはぜて、珠世の髪にひとひら光が落ちた。
夜は、深く、静かに積もっていった。

 

***

 

翌日。炭焼き小屋には、俵を編むささやきと、藁の柔らかな匂いに満ちていた。
その間を木割りの澄んだ音がすうっと抜けていく。

月詠は、炭俵用の藁を編んでいた。
6年目になるそれは、初めて作った10歳のころよりずっと手早く編み上がっていく。

 

ちら、と珠世の横顔を見る。
囲炉裏の火が揺れて、珠世の頬の色が見え隠れする。
けれどその下にある血の気の薄さは、隠しきれなかった。
珠世の手が止まるのをみて、静かに話しかけた。

 

「珠世さん、手に、触れても?」

 

すこし驚いたような顔をして、いいわよ、と許可が出た。
細い手首に触れ、脈をとる。
心臓の動きは弱く、だが規則正しい。 
お産のあとの血虚。気の衰え。……でもきっと、それだけじゃない。

 

頭の中で、かつて出会った産婆の言葉がよみがえる。

『女の命は、子を生むたび削れていく。けれど、削られるほどに強くなるんだよ。』

その言葉の意味を、ようやく目の前で知った気がした。
人の肉体の脆さと、心の炎の逞しさ――
それが、ひとりの母の中に同時に宿っている。

 

「珠世さん、食は摂れていますか」


「ううん……澄羽の残した粥を少しだけ。どうも、すぐ胸に詰まってね」

月詠は頷くと、掌を取った。
触れる指先に、血の気が感じられない。冷たく、皮膚が薄い。
掌の真ん中――「労宮」と呼ばれる場所を親指で軽く押す。
珠世が小さく息を呑んだ。

 

「ここ、熱が通いにくくなっています」


「……あなた、そんなことまでわかるの?」


「東の村で産婆殿に教わりました。血が足りぬとき、ここが冷えるそうです。春までに少しずつ温めて、戻していけば、きっと良くなります」

 

珠世はゆっくりと笑った。


「そう、ずいぶん成長したのねぇ」


細い指が、月詠の手をそっと握り返す。


「でもね、篝一さんには言わないで。あの人、心配性だから」

 

仕事に支障が出ちゃまずいわ、と冗談めかした声に、月詠は言葉を失った。
珠世の瞳は、笑っているのに深い湖のように澄んでいる。
その奥に、どれほどの痛みと覚悟を沈めてきたのだろう。

 

「もうすぐあのひと、炭窯に籠るでしょう。あのひとの妻として、この子の母として、恥ずかしくないひとでいたいの……」

 

そう言いながら、珠世は自分の膝の上で藁を撚り直した。
指先の動きは、もう弱々しく震えていた。

月詠は「そんなこと――」と言いかけて、唇を噛んだ。
珠世の横顔が、あまりに静かで、言葉が届かない気がした。 

俵を編む手の音が、二人のあいだの沈黙を埋める。
窓の外では、木を割る音が一定の間隔で響いている。

 

――どうして、こんなにも静かなのに、胸が痛むのだろう。

澄羽が転がした藁束が、ころりと珠世の足元にぶつかる。
珠世は「おっと」と小さく笑い、抱き上げて頬を寄せた。
その笑みが、月詠には一瞬、炎のように見えた。
あたたかく、そして、今にも消えてしまいそうな光だった。

 

***

 

その夜、月詠は囲炉裏の火が落ちるのを待って、綴弦にだけ小声で打ち明けた。

珠世の血の気が薄く、息が浅いこと。
春まで保つかどうか、確信が持てないこと。

 

「篝一さんには……まだ言わないでって。あの人、きっと窯を焚けなくなるから」


月詠の声は、炭の匂いに溶けるほどかすかだった。

 

翌日から、二人の“共犯”が始まった。
篝一の目を盗んでは薬草を刻み、湯に溶かしては、「風邪の予防です」と笑いながら珠世に飲ませる。
俵を編む手が止まると、「稽古をさせてください」と言って指先をほぐす。

 

炭窯に籠るあいだの食事運びは、もともと兄妹の役目だった。
炊事が遅れた時は、「まだ煮えてなかったんです」と笑ってごまかした。

そうして、少しずつ無理をやりくりしながら、冬は深まっていった。
月詠は夜なべで藁を編ぎ、綴弦はこっそり俵を補った。
小さな嘘の積み重ねが、雪に覆われた屋根のように静かに重なっていく。

 

年の瀬を目前にした三度目の窯籠り――
火を絶やさぬ夜が三日続いたその朝、珠世は高熱を出して倒れた。

 

***

 

雪は昼のうちにいったん止み、夜にはまた、静かに降り始めていた。
風はなく、世界の音は雪の下に沈んでいる。
外の炭窯は、五日目を迎えようとしていた。

 

月詠は囲炉裏の火を細く保ち、珠世の額に当てていた布を絞り直す。
雪を溶かした冷水に手を浸すたび、皮膚の奥まで痛むような冷たさが沁みてくる。
けれどその痛みは、珠世の熱を分けてもらっているようにも感じられた。
布を取り替えると、珠世は浅く息を吸い、かすかに目を開いた。

 

「……まだ、戻ってこないのね」


「ええ。まだ」

 

珠世はうすく微笑み、瞼を閉じる。
頬はこけて、手の甲の青い筋が浮き上がっている。
けれどその手はまだ、温かい。
月詠はそっと指を包み、心の底で呟いた。
――この温もりが、どうか、冷えませんように。

 

部屋の隅では澄羽が、雪を詰めた桶に手を入れて遊んでいる。
赤い髪が火のように揺れ、黒目の奥に小さな光が宿る。


「火の子だな……」月詠は思わず呟く。
珠世は目を開け、微かに笑った。

 

「……ねぇ、月詠。あなたは、母の手を知ってる?」問われて、月詠は言葉を失う。

いいえ、と微かに首を振ったあと、
「でも、いま触れているこの手が、それだと思います」と答えた。

珠世は少しだけ目を細めた。


「ありがとう、優しい子ね。どうにも、紅葉の頃から疲れっぽくなってしまって……澄羽を抱いていられる時間もね、ずいぶん短くなってしまったの」

 

「あの子の匂いを嗅いでいないと、母親じゃなくなってしまう気がしていたのだけど……あなたたちが来てくれて、本当によかった。澄羽は……きっと、あの人に似て、強い子になるわ」

その笑みは、儚く、けれど凛としていた。燃えることを選んだ者の、覚悟の微笑み。
月詠は胸の奥に、ひやりとした痛みを覚えた。
彼女は誰よりも強く、清らかな母なのに――どうして、こんなにも自分を削ってしまうのか。

 

***

 

青い煙が、夜気の中でゆるやかにたなびいていた。
雪は細く、音もなく降りている。

炭窯に籠り初めて六日。
篝一が窯の口をのぞき込み、炭材の一本を軽く倒すと、かん、と澄んだ金属音が返った。
――その音が、胸の奥のどこかを外したように響いた。

 

「篝一さん、ひとつ、いいか」

篝一が振り向く。炎に焼けた頬の奥で、目だけが静かに光っていた。

 

「……珠世さんが、倒れた」

短く、それだけ言う。篝一の肩が、かすかに動いた。綴弦は続ける。

 

「秋からどうも、体の具合が悪かったらしい。
熱を出して、三日になる。いまは月詠が診てる。……産のあとからの、長引いたやつだ」

「なぜ、俺に言わなかった」

その声には怒りはなかった。ただ、深く沈んでいた。
綴弦は小さく息を吐く。

 

「本人が、嫌がった。心配かけたらいけないって。俺らも、なんとか誤魔化してきたが……もう隠せねぇ。昨日、食を受け取りに行ったときは、まだ熱が下がってなかった」

雪が薪の上で音もなく溶ける。
炭の匂いの奥で、空気がわずかに焦げるような気がした。

 

綴弦は、少しだけ目を伏せて言った。

「……覚悟、しておいたほうがいい」

篝一は何も言わなかった。ただ、握った拳が白くなる。
しばらくして、かすれた声で問う。


 

「月詠は……ずっと、看ていたのか」


「ああ。あいつなりに必死だ。薬湯やら、ツボ押しやら、産婆に習ったこと片っ端から。
だが、もう――おまえでなきゃ、どうにもならねぇ」

長い沈黙のあと、篝一はゆっくりと頷いた。
「わかった」
その声は低く、けれど迷いがなかった。
綴弦はその横顔を見て、黙って頭を下げた。


翌朝。雪は止んで、日の光が薄く差している。
炭焼き釜から上る煙が白くなったのを見て、篝一は無言で山道を歩き出した。
綴弦も、少し遅れてその背を追う。

 

冷却の三日間――炭焼きの合間にしか許されぬ、束の間の帰り道だった。
ぞっとするほど青白い雪が辺りを覆い尽くす中、椿の赤だけが浮き上がって見えた。

 

***

 

囲炉裏の火に照らされた小屋の中は、薬草の匂いが湯気とともに漂っている。


その奥に、温藁を被り横たわる珠世の姿があった。
昨日より少し熱は引いたとはいえ、頬の赤みはまだ強く、息は浅い。
傍らの月詠は、雪の桶に手を浸し、額の布を取り替えている。

 

かたり、と静かに開いた戸を見やる。
戸口に立つ人物を認識した瞬間、手が止まった。

「……篝一、さん……」


絞り出した声は震えていた。自分が隠してきた罪を、とうとう突きつけられるような気がしたのだ。

 

返事の代わりに、篝一は雪を払って上がり込む。
背後では、綴弦が脱ぎ捨てられた蓑を拾い上げ、そっと珠世の足元にかけた。
戸口の隙間には、風よけに板切れを立てかける。

静かに眠る珠世は、記憶の中より頬がこけ、やつれてしまっている。
顔に手を添えると、命の熱と濡れた手拭いの冷たさが伝わってきた。

 

「まだ……間に合うな」

小さく呟いたその声に、月詠が顔を上げた。
驚きと、救われたような色が一瞬にして混ざる。

 

「……叱らないのですか」



篝一は、答えずに珠世のそばにしゃがみ込んだ。長い沈黙ののち、低く、掠れた声が落ちる。

 

「叱られるなら……俺の方だろ」

 


月詠が息を呑む。篝一の顔は、濃い影が落ちて判然としない。

視線がす、と囲炉裏の湯に流れる。
囲炉裏の火がその顔をうつした。直感的に「間違ったのだ」と思った。

 

「なぁ、教えちゃくれねぇか。何をどうすりゃいいかなんて、知らねぇ。だが――なにもやらなきゃ、きっと後悔する」

その言葉に、月詠の喉が震えた。
赦されたのだとわかった。けれど、赦された分だけ苦しかった。
自分がどんなに動いても、彼の覚悟には届かないと知ってしまった。

 

「……はい。すぐ、薬湯の加減をお教えします」

そう言って膝を寄せた月詠の指が、わずかに震えた。篝一は無言でうなずく。
月詠は薬草を湯に溶かしながら、傍らの篝一に分量を伝えた。

 

「これをひと匙、湯の色が浅緑になるまで。……飲ませる時は、少し冷ましてください」

篝一は無言で頷き、指示どおりに動いた。火を扱い慣れた手が、ぎこちなく薬匙を握る。
その姿に、月詠はふと胸が熱くなった。
この人は、火を扱うのは得意でも、人の熱を扱うのはきっと初めてなのだ。

湯が静かに泡立ち始め、薬草の香りが立ちのぼる。
苦味の奥に、春先の野を思わせる青さがあった。

 

「……これで、いいか?」
篝一が小さく問う。月詠は頷き、布で包んだ椀を受け取った。


珠世はまだ浅い眠りの縁にいる。唇が乾き、呼吸のたびに胸が小さく上下していた。
月詠が椀を差し出そうとしたとき、篝一がその手を止めた。


「俺がやる」

その声は、火のように低く、揺らがなかった。月詠は少し迷ったあと、椀を託す。
篝一は片膝をつき、珠世の肩を支えた。

 

「……珠世」

その呼びかけは、まるで熱を持った炭のように静かで、確かな熱を持っていた。

珠世がかすかに目を開ける。
焦点は合っていない。
それでも、夫の声を探すように喉が動いた。
 


 

「……おまえが飲まねぇと、俺まで冷えちまう」 

篝一は微かに笑って、椀を唇に寄せる。
珠世は小さく息を吸い、苦い薬湯を一口飲んだ。
その喉の動きに、篝一の手が震える。

 

やがて椀が空になり、珠世の呼吸が少しだけ落ち着いた。頬に残る熱が、ほんのわずかに和らいでいる。



月詠は、囲炉裏の火を見ながら、そっと目を閉じた。

 


――生きようとしている。
それは薬でも祈りでもなく、ただ、隣に在る誰かの手が呼び起こしたのだ。

雪明かりが、戸口の隙間から滲み込む。
冬はまだ長い。けれどその静けさの奥で、確かに春へ向かう息づかいがあった。

 

***

 

雪は、三度降っては溶け、降っては溶けた。
それでも山の空気はまだ鋭く、朝に息を吐けば、白い靄が頬を撫でていった。

小屋の軒先では、篝一が椿を手にしている。
まだほとんどが雪に覆われた畑を見ると、まだらに藁がのぞく。
冷たい地を覆うその藁の下には、小さな青い芽が潜んでいた。

 

それを見下ろしながら、篝一はふと、あの夜の珠世の姿を思い出した。
温藁に包まれた、微かに息づくぬくもり――あれもまた、冬の芽だったのだ。

 

今、珠世は囲炉裏のそばに座って、澄羽の髪を梳いている。
顔にまだ青白さは残るものの、頬にうっすら血の色が戻った。


温藁はそのまま布団として使われ、夜は澄羽と一緒に丸くなって眠っている。
綴弦が用意した薬湯と、月詠が煮た根菜の粥が少しずつ珠世の体を温め、ようやく歩けるほどになった。

 

「……今年も、もうすぐ終わるね」

 

月詠が呟く。
手元では、年の瀬の飾りに使う藁縄を綯っている。
澄羽がその横で、余った藁をちぎっては丸め、転がして遊んでいた。
綴弦は囲炉裏の火をかき混ぜながら言った。

 

「来年の初窯は、しばらくしてからだな。新しい炭を焼く前に、あの窯の壁を少し直さないと」



「……ああ。けど、今年は、こうして五人で年を越せるだけで、十分だ」

 

その言葉に、珠世が静かに微笑んだ。
彼女の眼差しの中には、あの夜の苦しみがまだ影を落としていたが、その奥に小さな灯がある。
生きることへの願いが、確かに灯っている。

 

外では雪がまた降りはじめた。
月詠が戸口を開けると、夜の闇の向こうに、白い雪片がゆっくりと舞っている。
その静けさに、思わず息を呑んだ。

 

「……音がないね」


「雪は、音を全部吸うからね」

 

その声はどこか、母のような響きを帯びていた。

 

綴弦は囲炉裏の上に鍋をかけ、根菜と芋を煮込んでいた。
ふつふつと立つ湯気が、藁縄の香りと混ざる。

篝一は澄羽を膝に乗せて、火の粉を避けるように軽く揺すってやる。
澄羽が笑う。
その笑い声が、外の雪空に溶けていった。

 

やがて夜が深まり、皆が寝床に入る。
月詠は最後に囲炉裏の火を確かめ、珠世の温藁をみる。
ゆったりとした調子で上下し、微かな呼吸の音が聞こえた。

 

その藁の下には、春を待つ種のように、小さな生命の灯があった。
それを確かめるように月詠は目を閉じる。
彼女の胸の中にもまた、暖かなものが芽生えつつあった。

珠世の命を繋いだのは、薬や祈りではない。
この小さな家で交わされた、互いの想いの温度だったのだ。

 

夜が明ける。

初日の光が山の端を照らし、炭焼き小屋の煙突から立つ白煙が空にのぼる。
その光の下で、藁をかぶった畑の端から、ひとつの緑が顔を出していた。

 

それを見つけた澄羽が、嬉しそうに声を上げる。
篝一も、珠世も、月詠も綴弦も、その声に振り向いた。
みんな、同じ瞬間に、笑った。

――新しい年が、始まった。
藁に包まれた命たちは、もう一度、息を吹き返していた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

【世界観補足】


*炭焼きの仕事

炭焼きは「冬が本番」。寒さで木の水分が少なく、良質な炭ができる季節です。
生活は「伐採→炭焼き→運搬→修繕」の循環。
男(篝一・綴弦)の仕事:伐採、木割り、炭窯の管理と修繕、炭焼きなど。
女(珠世・月詠)の仕事:家の守り、薪拾い、炭俵作り、保存食作りなど。

篝一家の冬の間の炭焼きサイクルは以下の通り。だいぶファンタジーでお送りしています。

① 窯入れ・炭焼き期間:約6~7日間。窯に木材を詰め、火加減を調整しながら焼成。昼夜を問わず見張りが必要。完全な不眠不休ではなく、交代で仮眠を取る。煙の色で炭の焼け具合を判断。窯籠りの期間はここ。


② 冷却期間:約3日間。炭窯を密閉して炭を冷ます。この間、燃え残りや爆ぜ防止を兼ねて休養。


③ 炭出し・分別:約4日間。窯を開け、炭を取り出して品質ごとに分別。炭粉が舞うため、防寒と目の保護が必要。


④ 整備・木材運び込み:約7日間。次の炭焼きに備えて窯内を整え、材を運ぶ。

合計 約21日周期。1シーズン(3ヶ月)で4サイクル可能。作中では綴弦たちの遅刻により1サイクル分遅れています。

 

*炭焼き小屋周辺イメージ

炭焼き窯は山の中腹にあります。
関東あたりの盆地を想定しているので、日本海側ほどの大雪ではありませんが、それなりの量は降ります。

冬の間は炭焼きで離れられないため、炭焼き窯の近くに小屋を建て、そこで生活していました。
炭焼き小屋(居住・作業スペース)と炭焼き窯の間が50mくらい離れていて、炭焼き小屋に隣接する形で炭小屋(納戸)があり、そこに炭俵を積んでいくイメージです。

冬季の炭焼き小屋の中は、囲炉裏と厨(台所)を除けば光源がないため、かなり暗いです。
藁を編む時は、ほとんど指先の感覚だよりでやっています。出来上がった炭の選り分け作業もここの土間でしていたため、炭の粉混じりの空気が漂っています。この中で呼吸器系の病気は一発アウトだと思ったので、珠世の病気候補から結核、喘息、肺炎が外れました。

篝一が珠世の容体に気づかなかった理由は以下の5つ。
①女優・珠世の演技、②小屋内部の暗さ、③冬場は日中ほとんど小屋にいない職業特性、④体調悪化のタイミングと進行スピード、⑤珠世の協力者、綴弦・月詠の存在。

 

*産褥熱《さんじょくねつ》

出産後の感染症のこと。現代では連鎖球菌やブドウ球菌感染などにあたります。
自宅出産が主流だった当時、出産直後に感染し、帰らぬ人となる母親も少なくなかったでしょう。
一命を取り留めても、慢性的な炎症が子宮などに残り、長期化することがあります。
冷えや疲れが原因で悪化しやすい特徴があります。
「産の瘡うみ」「産の穢けがれ」「血の道ちのみち」と呼ばれました。

症状:体力低下、慢性の微熱、倦怠感、食欲不振、腹部の痛み、顔色の悪化など。

 

*慢性の貧血・栄養失調

出産+授乳による出血量に血の生産が追いつかずに発症。
(母乳は、主に血液から生産されます)
冬になると食糧事情が悪化するので、栄養不足も相まって悪化しやすい傾向にありました。
「血の道症」や「虚きょ」、「血が足りぬ」「気が下がる」「火が弱る」と表現されました。

症状:微熱、めまい、息切れ、倦怠感など

本作の珠世は、
産褥熱後遺症による食欲不振
→十分な栄養が取れない
→十分な量の血が作れない
→慢性の貧血・栄養不足も発症という設定を採用しています。

 

温藁(ぬくわら)

前回に引き続き登場した寝具。超高級あったか布団の綿入れを庶民的にアレンジしたものです。

現実世界でも、江戸時代頃から寒冷地を中心に”藁布団”というものが使われていました。麻や木綿の布団皮に、乾燥させた藁の葉などをたたいて柔らかくして入れたものです。稲の収穫時期になると、藁を新しいものと交換します。古い藁は肥料として利用します。無駄がない。関東地方では、綿入り布団が先に浸透したためあまり使われなかったそうですが、安く暖まれるだけでなく、床ずれがしにくいというメリットもあったそうです。

特に目立った描写はしていませんが、本編の珠世は温藁を敷いた上にちょっと丸まって寝て、上からさらに温藁を被っています。ぬくぬくですね。

 

*畑の藁

現代でも畑の作物の越冬のためにとられる手法。
初雪が降り出す前に、作物の上から藁をかけて保護します。
通気性や水はけがよく、保温・保湿効果もある昔ながらの雪除けです。

篝一家の食料調達は、炭売りの報酬(米・麦などの穀物)+山菜・きのこ+畑の作物+山の住人ネットワークのお裾分けのイメージです。たまに川魚取りに行くくらい?

 

*暦と数え年

時代背景に合わせて、旧暦+数え年を採用しています。
旧暦の正月は”新春”の名の通り、冬が終わり春を迎えるタイミングですが、実際には雪があることも多かったようです。
山の中腹にある炭焼き小屋は雪解けが遅そうだなぁと思ったので、雪の中の初日の出を拝んでもらいました。

数え年は、生まれるとまず1歳。元日を迎えるたびに1歳ずつ歳をとる、という数え方です。
澄羽のような年頃だと、私たちのイメージする○歳ならこのくらいかな?という感覚のズレが発生しやすいですね。
注意して書いていきますが、おかしいのでは?となったら教えていただけると幸いです。

 




【感想】

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。とってもうれしいです。
今回書くために調べてびっくりしました。珠世さん、肉体年齢19歳ってまじですか……?
拙作の珠世さんは、原作に登場する鬼の珠世さんと比べると、ちょっと背伸びをしていたり、余裕がなさそうだったりする感じになっています。個人的に、鬼の珠世さんが19+400(?)歳くらいなのを踏まえると、あの陰のある美しさや気配りは鬼になっての経験から滲んだもので、元の性格はわりとしのぶさんに近いのでは?と考えたからです。
そこで、拙作では性格のベースにカナエさんが存命の頃のしのぶさんを据えて、当時の恋愛観が女性優位、篝一・綴弦・月詠との関係性、原作珠世さんの家族愛なんかをこねこねした結果生まれた女性を”生前の珠世さん”として扱っています。
辺境の中に生きる女性の精神的なうつくしさを表現できるようがんばってみました。
伝わっているでしょうか。愈史郎さん珠世さん過激派に闇討ちされないか心配です。
今回はちゃんとみんな揃って歳を重ねられました。うれしいですね。
次回は新年のお祝いからです。

【追記】
珠世さんの文字間違ってました……。誤字指摘いただきありがとうございますm(_ _)m
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