あわいの灯   作:篠乃

8 / 11
注意書き

山あいに生きる薬師の兄妹が、
人と鬼、命と死のあわいを渡りながら、小さな灯を繋いでいく話。
原作『鬼滅の刃』の余白に触れるような静かな補完連作です。

時代は室町末期〜戦国初期頃。
政治の世界における「神秘」や「祈り」の力が、
ゆるやかに失われつつある時代です。

※原作要素を含む二次創作/時代背景に基づく死生・医療描写あり。
※史実・設定改変を含みますが、世界観の整合を重視しています。
※本話には原作キャラクターは登場しません。
※シリーズ作品のため、第一話「序 灯明」からお読みいただくのをお勧めします。

それでは、どうぞ、ゆっくりと。


古寺3 花桃

ある晴れた昼下がり。
軒に連なった氷柱(つらら)が、わずかに傾き始めた陽の光を透かしている。


部屋は、膿と、香と、汗とが混ざった匂いに満ちている。

月詠が戸を開け放して、格子に薄い紙の貼られたような見た目の衝立を置いた。

部屋の澱んだ気を留めておくと、治りが遅くなっていけないらしい。

 

部屋の澱んだ空気が、澄んだそれと代わっていった。

 

衝立越しに見る空は、こんなに高かっただろうか。

ひんやりとした世界の中で、自分の足の熱だけが、異様なもののように思えた。

 

月詠はいつものように、静かに、黙々と働いていた。

桶の湯気が立ちのぼり、細い手が濡れた手拭いを絞る。

 

その仕草の合間に、ふと——

逆光に白く浮かんだ手だけが、やけに目についた。

 

小さくて、痩せていて、

でも思っていたよりずっと強い手。

 

水仕事で荒れた指先が、青い光を拾って白く見える。

 

……似てるな。

 

胸の奥に、風みたいな声が蘇る。

 

——桃の花が咲く頃までには、絶対に帰ってきて。

——祝言をあげるまでには。

 

十四になった娘の声だった。

出征の前、震える声で言わせてしまった約束。

 

「あの時は、もちろんだなんて……軽う言ったが」

 

ぽつり、とこぼれた。

月詠がぴたりと手を止めて、こちらを見る。

 

「ああ……すまん。変なこと言ったな」

 

せめて笑おうと思ったが、うまくいかない。

 

「おまえさんくらいの娘がいるって話したこと、あったろう。桃の花が咲く頃、祝言をあげる予定なんだ。

間に合うように帰るって……約束したんだが」

 

自分の足を見下ろす。

また膿んで疼く傷。

春の峠越えなんて、どう考えても無理だ。

 

「……この足じゃあ、到底……」

 

月詠は、手拭いをもう一度丁寧に絞って、弥六の肩からそっと滑らせた。

凍えるほど静かな声で言う。

 

「そう、ですねぇ……」

 

冷たさではなく、沁みこむような落ち着いた声音だった。

思案しながらも手つきは確かで、傷の縁をなぞるように優しく拭う。

膿のふれた側をうちに折り込んで、ぱっとこちらを見た。

 

「弥六さん、この寺にも桃の木があるんですって」

「え?」

 

「……花が咲いたら、ふたりでこっそり、その花の下でお祝いをしませんか」

 

青白い光の中で笑うその顔は、哀しいくらいに綺麗だった。

手拭いには皺がよって、湯で赤くなった手は握りしめたためにより白くなっている。

 

胸がぎゅっと締まる。

でも、だからこそ——諦めてたまるかと思う。

 

「……ははっ。そりゃあ、いいな」

 

声が掠れたが、気持ちは本当だった。

 

「白湯の一杯も用意して、な」

 

冗談めかして言うと、月詠はまた、静かに笑った。

 

百舌の声が梢を渡っていく。

甲高いそれは、柏の葉のさざめきと共に澄んだ空へ吸い込まれた。

 

 

***

 

 

行円はかんじきの紐を締め直して、入側を降りた。

横たえられた弥六は、雪灯りで青白く光っている。

ただ眠っているだけの様にさえ見えるのに、彼の息がもう白く染まることはない。

 

ひとつ合掌して戸板を持ち上げる。

筵が擦れ合う音が、返事の様に感じた。

行円と綴弦だけの短い葬列が、綿雪の上を渡る。

 

僧房の南に回ると、僧侶が一人佇んでいる。

無用の品になることを願ったくぼみに積もった雪は除かれ、薄く残るだけになっていた。

 

戸板をくぼみの縁に寄せて下す。

雪の上に薄く貼った氷がひび割れると、溶けた朝日が天上の甘味の様にあまく光る。

顔を覆う布を取ると、弥六の顔に血の気がさしたように思えて、思わず息を詰めた。

 

綴弦が筵ごと弥六を抱き抱えて、土の上に横たえた。

雪の影に入った途端、亡くなった人特有の色がもどった。

 

読経の声が響く中、行円と綴弦はただ黙って雪をかけた。

何の言葉も交わさずとも、弥六の被るそれはやわらかく清いものだと共有していた。

 

祈りが衆生を救い切らぬことも、己の手の小ささも、わかっている。

それでもなお、できるかぎり手を施すことを諦めない医僧であろうと誓ったはずだった。

 

ほんとうは、そうあれていなかったのではないか。

 

僧房で取り乱した峻縁は、弥六の生を純粋に信じていた。

自分は弥六が危ういと聞いて、いよいよかと思ってしまった。

その心持ちの差で、弥六はこぼれ落ちてしまったのではないか。

 

弥六の胸に雪をかける。

綴弦がその上に、かけ布の様に薄く重ねた。

かじかんだ手は互いに真っ赤で、雪になじむ弥六の肌との差をまざまざと見せつけられる。

 

ふと顔を上げると、空から綿雪が降ってきた。

弥六の薄くかかった雪の上に、やわらかく積もっていく。

雪解けが一番早いこの場所で、春まで眠る彼をあたたかくおおった。

 

 

***

 

 

じゅっ……ぐつ……

 

咳で目覚めた夜、藁の擦れる音の中に混じる水音にもすっかり慣れてしまった。

胸の奥で何かが煮詰められるような音が鳴るたびに、春が遠ざかる。

 

 

いくらか前、あまりの胸の熱さに耐えかねて、ふらりと外に出たことがあった。

寺を訪ねてきた時は紅葉していた木々は、雪化粧を済ませている。

ほう、と吐いた息は雪のように白くけぶった。

白い息ごと冷えた空気を吸えば、熱も引くような気がして深く息をした。

 

——喉に氷が刺さったのかと思った。

 

咳が出た。

涙が出て、立っていられなくてその場にうずくまった。

息の苦しさよりも、自分は雪の美しさを眺めることさえできないのかという苦しさの方が強かった気がする。

 

 

体を丸めて、口にきれを当てる。

このままゆっくり息をすれば胸の熱はゆっくりと緩むと知っていた。

 

戸の擦れる音。ひそめられた足音。

夜の巡回が始まった。

今夜は医僧の方々か、薬師の兄弟か。

 

きれの端に増えた黒いしみが目に留まって、力もないのに握りしめた。

峻縁さまが見れば、また、顔が曇る。その顔を見たくない一心で、彼以外の訪れを願った。

 

「……佐平さん、お邪魔しますね」

 

ひやりとした夜の風に息が詰まったと同時に、安堵した。

今夜は峻縁さまではなく、綴弦さんらしい。

 

目を開けると、綴弦さんが小さな桶と片手鍋を置いて戸を閉めていた。

桶の上に何か乗っているのか、少し不思議な形で湯気が上る。

月詠さんもだが、雪に音を奪われたように静かに動かれる方だ。

 

今夜は一段と冷えますねと話しながら、桶から水を掬って火鉢に乗せた。

黒い鉄鍋を炭の赤がなぞる。所々に残る雫が火の粉みたいで目が離せない。

 

しばらく炭の鍋が燃えるのをそのまま眺めていた。

火の揺らぎ、炭のはぜる音、藁のささめき、静かな人の気配。

なんだか実家の囲炉裏に帰ってきたような、懐かしささえ感じた。

 

炭の鍋を男の手が連れていくと、ぼんやりと香っていた草の匂いが鮮やかになる。

親の影は、闇に溶けた。

 

「佐平さん。これ、口に当てて見てくれませんか」

 

右手にのせられた麻布は、いつもより優しい。

口元に寄せると、あの草——薄荷草の爽やかさと温もりに包まれた。

焼かれた喉の痛みが、ほんのひと息ぶんだけ遠のく。

失礼しますねと、囁くような声が藁の擦れる奥に聞こえた。

 

相手は薬師とはいえ5つも下の青年だ。

なのに、あの日の弥六がちらつく。

 

 

高く澄んだ空。青い草の匂い。木々の擦れる音。

その間を通る自分たちの、異様さといったら……!

 

途中の川で身を清めても、傷が治って家に帰れたとしても、

きっと、ほんとうには戻れないのだ。

 

そんなことを、弥六にこぼした夜があった。

弥六はただ、そうだなぁと返して、それっきり何も言わなかった。

 

いつもはあんなに大声で、力強く引っ張るような彼が。

覗き見たその顔は、諦めとも覚悟ともとれる、痛みに耐える顔をしていた。

 

あの夜、この人だけでも家に返さなければと思ったのに。

もし亡くなるとしても、こんなにつよくてやさしい人より、

 

「……俺の方が先だろうって……思ってたのに」

「……弥六さん、ですか」

 

綴弦さんのいつも落ち着いた声が、ほんの少しこわばっている。

いつも篤燕さまのように振る舞うから、ほんとうは年上なんじゃと思うことさえあったが……

年相応に、可愛いところもあるじゃないか。

 

「この寺に着くまで、いっしょに歩いてきたんだ」

 

ぽつぽつと、自分の知っている弥六の話をした。

いつになく口が滑らかで、不思議と咳も出なかった。

綴弦さんは火鉢や桶の様子を見ながら、黙って話を聞いてくれた。

 

「ねぇ、綴弦さん。俺、あの夜の弥六がどうしてあんなことを言ったのか、まだわからないんです。綴弦さんは、どう思いますか」

 

もう失われたあの夜の答えを、彼なら知っている気がした。

 

「そう、ですね……。弥六さんがどんなことを考えたのかはおれにも分かりません。

ただ、佐平さんのわだかまりの破片くらいは、近いものを知っています。おれも、やさしくてつよい人に、諦めさせてしまった側ですから」

 

隙間風がふたりの間の湯気を晴らし、壁にうつる影を揺らした。

ひとしずくの欠片が、すこし遅れて胸に落ちてきた。

 

どうして彼のそばにいると落ち着くのか。

どうして初めて会ったときから懐かしかったのか。

どうして弥六に話した夜と、感触が重なって見えたのか。

 

きっと、同じだからだ。

 

この人も、同じところに傷を負っている。

 

自分と同じように、

“ゆるされてしまったまま” 生きている。

 

贖う方法が見つからず、痛みだけを抱えて歩いてきた。

 

その全部が、胸の奥で形になった。

 

彼も、俺も、同じ罪人なんだ。

 

そう思ったら、不思議と息が楽になった。

 

「そうかぁ」

 

何も変わっていないのに、なんだか気が楽になった。

翡翠のように綺麗なひとも、自分と同じ罪人なのだ。

 

「ええ。そうなんです」

 

冷め切ってしまった麻布ごと手を包まれた。

かさついて、少し冷たい、自分と同じ傷だらけの手。

握り返そうとしても添えるだけしかできない、ままならなさに歯噛みする。

 

彼がこれ以上責苦を負わずに済むように。

せめて春までは、地獄行きは待ってくださいと願った。

 

 

***

 

 

峻縁は、入側側に置かれた火鉢を掻いた。

炭の残り具合からして、虎の刻になっただろうか。

障子の裾からは底冷えした空気が入り込んでくる。

夜番を代わってからずっと響く風の唸り声は、いまだにやまない。

 

青年のずり落ちた筵を、肩口まで引き上げる。

二の腕の傷跡をおさえてうなされる背をゆっくりと撫でると、うなされていた険しい顔が、少年めいたあどけないものに変わっていった。

 

今なお響く風の低い唸り声から、ひとり守れたような気がした。

 

かつっ、からん。

 

高いところから下駄の音が聞こえた。

西側——佐平の部屋の欄間に竹筒が当たっている。

 

隣室の襖に駆け寄って、ひとつ叩く。

 

「……行円さまを」

 

月詠の声だった。

低く、抑えられている。

 

その後ろでは絶えずみぞれ混じりの咳がした。

返事をする前に、襖越しに声が落ちてくる。

 

ものを吐き出すような、短く切れる呼吸。

藁の擦れる音が重なり、背筋がひやりとした。

 

「わかった」

 

そう答えた自分の声が、思ったよりも硬い。

 

事務室へ走る。

足音を立てすぎないようにと意識するほど、廊下が長く感じられた。

 

行円は机に向かっていた。

帳面に落ちていた視線が、峻縁を見てすぐに上がる。

 

「佐平が」

 

それだけで十分だったのだろう。

行円は何も聞き返さず、立ち上がると薬袋を掴んだ。

 

北の入側へ出る。

冷気が、衣の内側まで一気に入り込む。

 

峻縁はその背を追った。

何ができるのかは、わからない。

それでも、行かなければならない気がした。

 

佐平の部屋の前で、行円が一拍置いてから襖に手をかける。

 

開いた隙間から、湯と血の混じった匂いが流れ出た。

 

峻縁は、行円の肩越しに中を見た。

 

横向きに寝かされた佐平の背に、月詠の手が添えられている。

布団の上、肩口が暗く濡れていた。

 

月詠が何かを言おうとした、その瞬間。

 

佐平の身体が、かすかに大きく揺れた。

息を吸おうとして——吸えなかった。

 

喉の奥で、空気が空回りする音がした。

 

行円が一歩踏み出す。

その動きで視界が遮られ、峻縁には、佐平の顔は見えなくなる。

 

それでも、わかった。

 

部屋の中の音が、ひとつ減った。

 

月詠の手が、佐平の背から離れないまま止まる。

行円が肩を落とし、静かに首を振った。

 

峻縁は、その場に立ち尽くしていた。

 

さっきまで、夜が終わるのを待っていたはずなのに。

朝は、まだ遠かった。

 

 

***

 

 

峻縁は一人、詰所にいた。

欄間から差す冬の光さえ避けるように、部屋の隅でうずくまっている。

 

「……そうだ……。藁……」

 

ゆるゆると顔をあげると、抱えていた温藁の紐をほどいた。

温藁から、藁くずを引き抜く。

 

さら、さら、と乾いた音。

つい先程まで佐平を包んでいたそれは、すっかり冷たくなっていた。

 

障子越しに滑り込む冷気。

からんとなった竹の音。

低くおさえられた月詠の声。

襖越しに聞こえた、みぞれ混じりの咳。

 

——行円の肩越しに見た、あの、

 

ひくり、と喉が詰まる。

 

濃い藍色に染まった表地の裏、

生成色の裏地にだけ、ところどころ赤黒い染みが残っていた。

 

食事を届けに行った時も、雪桶を変えに行った時も、いつのまにか生成色を見ることは無くなっていた。

それどころか、顔を見たのさえ、ずいぶん前だ。

 

「あ、あぁ……」

 

きついくらいの薄荷の匂い。

月詠の肩にのせられた青白い顔。

口元から垂れるそれで、月詠の背がぬらりと光っていた。

 

気がつくと、ここにいた。

誰もが通る道だから、しばしここで心を落ち着かせよと背をさすられた。

もしできそうだったらと、佐平の温藁を置いていってくれた。

行円様と篤燕様のやさしさが痛かった。

 

 

***

 

 

納骨堂に踏み入れると、薄荷の涼やかな香りの下に、うすく香が漂っていた。

寝ず番に一礼し、枕元に座る。

 

経机の端に置かれた灯明が、おだやかに佐平の顔を照らす。

外はすっかり夜になって、ここだけが置き去りにされた夕暮れのままだった。

 

彼が、せめてまっすぐ歩いていけるように。

何度繰り返しても、上手く息ができない時間だ。

口元に残った病の跡はすっかり消えて、ただ眠っているだけの様な気さえした。

 

あの夜。

月詠の手の中で冷たくなっていった佐平は、血を吐きながらも穏やかな顔をしていた。

 

死出を一番近くで見送った月詠も、間に合わなかったほかの者も、流れる様に痛みを奥底に沈めた。

峻縁だけが取り残されたまま、佐平はここに移された。

 

ふと顔を上げると、佐平の筵の上に薄く藁くずがかけられていたのに気づいた。

なんとなく、峻縁が温藁をかけていったのだと思った。

 

彼もまた、何度も繰り返す中で、心を鈍くする術を覚えていくのだろうか。

あるいは、崩れ落ちていても、穏やかに微笑む技術を磨くのだろうか。

”旅は体も心も削る”というなら、彼らは削られ切って泣くことさえできなくなったのだろうか。

 

大人の体のまま子どもの純粋さを抱え続けるのと、子どもの体のまま大人に変わるのとでは

「いったい、どちらが……」

 

砂の様に崩れる雪道に、納骨堂から自室までがずいぶん長く感じられた。

 

 

***

 

 

「山の縁が白んでまいりました。じき、ご来光でございます」

 

白い息と共に、小坊主が夜明けを告げた。

ずいぶん青年に近づいたと感じることが増えたけれど、寒さと高揚に頬を染めていると少年らしさが前に出る。

 

「あい、わかった。伝令ありがとう。行円殿、ご来光の準備を」

「はい。長殿も、観音様への御読経、お願いいたします」

 

行円はひとつ礼拝をすると、奥の患者室へ消えていった。

月詠が、湯に沈んでいた湯呑みを軽く拭って、子坊主に握らせた。

ここは欠けているから気をつけてください、と手渡されたそれはほんのりと湯気を纏う。

薄手の麻ごしに感じる温もりが、指先の凍えを溶かしていった。

 

患者室のざわめきを背に、かんじきの紐をしめた。

医僧ではない自分が、彼らのためにできることは限られているのだから。

 

*



 

「ご来光の準備を」

 

行円の声に、まどろんでいた大部屋が動き出した。

 

峻縁は衝立を端に寄せながら、ざわめきが少しずつ広がるのを聞いた。

雪の下を耐えた彼らが、春の芽吹きを迎えられるよろこびに震える音。

 

綴弦が板戸を開いたのだろう。

大部屋全体が、やわらかい金色に包まれた。

障子越しに届いた初日は、大部屋の彼らに等しく届いた。

 

手を合わせて拝むもの、声もなく涙を流すもの、手を握り合うもの。
皆、新しい春をそっと胸に抱いている。

 

篤燕は肩にもたれる青年の目に張った涙が、光に揺れるのを見た。

胸が苦しくなって、右の裾を握りしめる。

傷も病も皆癒されて、それぞれの愛する人のそばで笑えるように、祈る。

目を伏せると、左肩がじんわりとあつくぬれた。

 

行円は部屋の隅で手を合わせていた。

佐平、弥六……この日を迎えられなかった彼らの名を、ひとりひとり胸の中で呼ぶ。

皆、自分の力が及ばないばかりに亡くなった。

あの日の少年の名を最後に、まぶたを開いた。

 

 

大部屋にすこし遅れて、庄吉の部屋にも光が差した。

冬の黒を、初日のやわらかい金が塗り替えてゆく。

 

庄吉はそれがゆっくりと自分も包んでいくのを、ただ呆然と見つめた。

羽織った温藁が騒がしい。

月詠の手が自分のそれに重ねられて初めて、震えていたことに気づいた。

 

縋るように見ると、夜明け空のような目がゆるく細められる。

光はもう、すっぽりと庄吉を包んでいた。

 

——赦された。

 

足の力がすとんと抜けて、前に倒れ込みそうになる。

咄嗟に支えてくれた月詠の肩に頭を預けると、涙が止まらなかった。

 

神も、仏も、もう罰を与えるだけの存在になったのだと思っていた。

戦場の雷鳴も。無くなった腕の痛みも。

自分が何か罪を犯したからだと、きっともう赦されることはないと。

 

そう、思っていたのに……。

 

掠れた嗚咽と涙が、薄い肩に吸い込まれていった。

大丈夫だというように、ゆっくりと頭を撫でられる。

 

庄吉はようやく、自分が人に戻れた気がした。

 

 

***

 

 

事務室に入ると、ほのかな甘さが鼻に触れた。

月詠が患者用の椀に初粥をよそっているところだった。

 

「おつかれさまです、峻縁さま。ちょうど食べ頃ですよ」

 

柔らかい声に、肩の力がふっと抜ける。

粥と椀のあいだを湯気がぼんやりと繋いでいた。

火鉢を挟んで向かいに座ると、それだけで体の芯がゆるむ。

 

「ありがとうございます。月詠殿は、もう食べられましたか?」

「いえ、まだで。庄吉さんが起きられたので、先にそちらを」

 

嬉しそうに話す月詠に、つられて笑みが溢れる。

彼に頼むことしかできない後ろめたさを、気にするなと励まされたような気持ちがした。

 

「すみません、峻縁さま。開けていただけませんか」

 

障子を開くと、綴弦が立っていた。

抱えられた桶には、いくつもの木椀と箸が、薄く張られた水に沈んでいる。

 

「ありがとうございます。皆さん、すっかり食べ切ってくださいました」

 

部屋の隅に桶を運びながら、綴弦が笑う。

年を重ねたばかりなのに、ずいぶんあどけない表情だ。

 

「それはよかった、お疲れ様」

 

返したはずの自分の声も、大部屋の声と同じくらい遠くに聞こえる。

背にした障子が気になって振り返るも、きちんと閉められているのに拍子抜けした。

座り直した火鉢のそばが、少しあつい。

 

「月詠……?」

「おつかれさまです。綴弦さん。では、私は失礼しますね」

「えぇ、いってらっしゃい」

 

盆を軽く掲げて会釈した月詠は、落ち着いた様子で部屋を去っていった。

 

綴弦の呼びかけがいつもと違うのも、月詠の目線が綴弦のそれと少しずれるのも。

月詠の姿が峻縁や桶で隠れて、気づくのが遅れただけのようには思えなかった。

ざらついた胸の内を沈めて、小鍋にかけられた蓋を開けた。

 

 

 

片隅に置かれた木椀に初粥をよそうと、湯気がふわりと立ちのぼった。

白い粥を口に含むと、優しい甘みがほどけて広がる。

いつもよりずっと、一口に時間をかけてしまう味だ。

 

半分ほど食べた頃、綴弦の椀を見ると、ほとんど減っていない。

その目は、手元の粥ではなく——湯気の向こうの“誰か”を見ているようだった。

 

(誰のことを思い出しているんだろう……)

 

患者たちから郷里の話を聞くことはあった。

白粥のために、家族で少しずつ米を分け合った話を。

峻縁は胸の奥がじんと熱くなる。

 

(私は……ただ美味しいと喜んでいただけなのに)

 

恥ずかしさがつっと込み上げてきた。

 

「おいしいですね。皆さんが召し上がっている間からずっとお腹が空いていて……私ばかり箸が進んでしまって、お恥ずかしいです」

 

慌てて笑いかけると、綴弦は小さく瞬いて、

 

「いえ……。俺こそ、あんまりおいしいものだから、つい……。ほんとうに、おいしい」

 

どこか懐かしい人を思い出す声音だった。

 

「綴弦殿は……今までも、月詠殿と食い初めを?」

「ええ。冬の間、一緒に過ごさせていただいた方と。……峻縁さまは?」

「私はずっとこの寺ですからね。子坊主か医僧か、役目が変わったくらいですよ」

 

話をそっと逸らされた、と気づく。

ふたことみこと会話を交わし、空になった椀を桶に沈めた。

 

(……“一緒に過ごさせていただいた方”は、月詠殿だけではない)

 

綴弦の横顔には、懐かしさと……少しの痛みが混ざっていた。

厨房に向かう道すがら、桶の中で木椀の当たる音だけがやさしかった。

 

 

 

 

 

【世界観補足】

 

*軒先の氷柱

平屋の軒先(ななめ屋根の低い部分)にずらっと並んだ氷柱が個人的にとても好きなので入れ込みました。

日中屋根に積もった雪がちょっとずつ融けて、小さな氷柱を包んだ状態で冷えて固まることで、だんだん大きくなっていく様子に観葉植物みたいな楽しさを感じています。

弥六の個室は北西(本来は仏間なのを急拵えで個室にした)のため、大きな氷柱が育つのにぴったりの環境です。あんまり日当たりいいと氷柱が大きくなる前にすぐ落ちちゃうのであんまり育たないんですよね……。

夕日に染まった氷柱が欄間の向こうにのぞいてきらめくの、限られた期間しか見られないからこその綺麗さって感じがします。

 

*衝立

目隠し+簡易的な区分けとして、養生房では重宝しています。大部屋がメインで、処置室に移動させるにも一苦労な密度ですから、寝所でそのまま処置が多いためです。Aの処置を見たBやCが、自分もあんなことされているんだと恐怖を感じて治療拒否しないよう、最低限の目隠しが必要でした。また、ささやかなプライバシー確保や、冷気の緩和としても使用されています。

木の板に脚がついた形状のもの、障子のフレームに脚がついた形状のもの、衣桁や几帳のような作りのものなどが混在しています。どれも高さは70〜85センチ程度(座った時に視線は抜けるが、体の大半は隠れる)です。

弥六の部屋は視線を遮りながら換気する必要があったため、衝立の中でも高価な衣桁・几帳型を使っていました。かけてあっる布は洗濯中の包帯です。

 

*澱んだ気をとどめておくと〜

現代の私たちにもわかりやすい、空気が気持ちいいと元気になるよねって話です。澄玄や行円はこのスタンスで治療をしており、すんなりその方針を受け入れた月詠らに行円がちょっと驚く一幕もありました。なぜなら、この時代的にはまだ珍しい寄りの方針だからです。

いわゆる加持祈祷のテンプレートイメージだと、病人の周りを取り囲んでお香モクモク焚いて、読経をすごい音圧で聴かせたら治る!(これは私の偏見でしかないのですけれど)ですから、真逆の考え方に近いです。現代の外科医の先駆けとなった金創医は、戦国時代ごろにぽつぽつ生まれ出したようですし。

まぁ、少なくともこの養生房内では、このスタンスで行かせていただきますというお話でした。

 

*花桃/桃の花の時期

厳密に言えば、花桃と桃の花は別ものですが、今回は語感を優先してタイトルとしています。

寺には2本桃の木が植えられており、梅→桜→桃の花のリレーが楽しめます。もちろん実もなるので、養生房の患者や来訪者優先で食べられます。

 

*体の汚れを拭う

弥六などの重症患者には、うっかり傷口を強く拭きすぎないようにするため、医療者たちが体を拭き清めていました。

その際に包帯の交換や、褥瘡(じょくそう)(血流不全により皮膚が赤くなったり、ただれたり、組織が壊死したりする皮膚疾患)がないか確認したりしています。

 

*花見の約束

この約束をした時点で、花見ができるほど生きられないことを知っています。

その上で白湯を交わすことを願うのは、それが生き延びられたら叶えられる、一番現実に近い夢物語だからです。

 

百舌(もず)

他の鳥の鳴き声がとっても上手な小鳥です。雀よりひと回り大きいくらい。拙作では、サントリーホールディングス様の”日本の鳥百科”に掲載されている『さえずり』音声のイメージです。

 

*柏

こどもの日になるとみんな食べる、柏餅の柏です。冬でも葉が残る木のため、寂しくなりがちな冬の庭に彩りを添えています。

 

*入側

現代でいう縁側に当たります。ちょっと呼び名が違うだけで多分大体同じです。

 

*仮埋葬

冬場は雪+凍みついた土のため、通常の埋葬を行うのが困難でした。そのためこの寺では、冬越えの準備の一環として、地面を浅く掘った窪みを2〜3個掘り、目印の竹を立てておく慣習があります。寺社区画で弔いを行うことが多い、比較的若い僧侶の担当です。

今回弥六の埋葬に随伴した僧侶は、元養生房務めで、精神的負荷に耐えられず弔いの道に進みました。穴は彼が掘ったものです。

 

*咳の音と薄荷(ハッカ)

佐平の咳の音は、私が肺炎になった時、そう聞こえた気がするなぁという朧げな記憶のみで設定しました。なんだかちょっと水っぽい呼吸音になってたんですよね。

喀血している佐平なら、たぶん似たような音しただろうと思います。

薄荷のスプレーをひと吹きしたティッシュ胸元に一枚入れるだけで、息が楽になるんですよね。

 

*桶の上に乗っていたもの

桶の中のお湯が冷めないよう、簀巻きや筆巻きが古くなったものをもらって、蓋がわりに使っていました。簀巻きは海苔巻き作る時の調理器具で、筆巻きは書写用セットに入ってた筆をクルクルするやつです。

簀巻きは水や熱によるダメージが多く、劣化スピードも早いため、割と高頻度で本来の用途で使えなくなっていました。この寺では湯桶の蓋や、衝立の素材などに再利用されています。

 

*「戻れない」という感覚

今回は戦場を知る前後というちょっと重ためなテーマですが、身近なものでも結構ありますよね。近頃だとコロナとか、スマホとかでしょうか。個人的には半熟の目玉焼きを知る前には戻れないですね。

現代人も、佐平たちも、ちょっとずつ変化しながら生活しているはずです。でも、大きな変化があるとその差の大きさに苦しむのは、きっと共通しているんじゃないかなと思います。

 

*納骨堂

佐平が亡くなったのは、春の近い、あともう少しで歳を重ねられる一歩手前でした。そのため、弥六のような雪の中への仮埋葬ではなく、冷え切った納骨堂への安置が選ばれました。

寝ず番は弥六の仮埋葬に随伴したのと同じ僧侶です。篤燕とは一時期同僚で、会えば立ち話をするくらいには仲がいいです。今回は故人を惜しむ場であったことと、篤燕が以前仏の道と人の情とで葛藤していた時と同じ顔をしていたため、彼は声掛けをしませんでした。たぶん後日、食堂とかでフォロー入れるんだと思います。

 

*障子

この寺の障子は、下半分ほどは木の板で、上半分だけが私たちの見慣れた障子の形をしています。これには紙が高価だったという理由もありますが、大部屋で眠る患者の寝相のために生じる張り替えの手間を惜しんだためでもあります。寒さを防ぎつつ明かり取りをするだけであれば、上半分が光を通す和紙貼りであれば十分でした。

引き違いは室町中期ごろ生まれた書院造りから寺院などにも広まり始めた形式のため、おそらくまだ一本レールのタイプだったと想定されます。そのため、綴弦が板戸を開けるシーンでは彼が一枚ずつ頑張って外していますし、よく開閉する障子の隣は引き戸を呑み込めるよう壁や柱が薄くなっています。

作中では何も表現できなかった自由研究の供養です……もっとうまくなりたい……。

 

*少年

行円が祈りを捧げていた少年は、彼の医療スタンスを決定づけた存在です。行円はもともと、加持祈祷をメインの治療法とするお寺の僧侶でした。ですが、ある少年はその治療も虚しく亡くなってしまいます。行円は落ち込み、観音巡礼の旅に出ることを決意します。その後、なんやかんやあって現在の養生房勤務に落ち着くのですが、彼の原点はいまでも助けられなかったあの少年です。

 

*食い初め

拙作オリジナルの意味の単語です。作中では単純に、「新年一番最初の食事」をそう呼んでいます。本来の意味のお食い初めといえば、生後100日頃に「一生食べ物に困らないように」「丈夫な歯が生えるように」と願い、赤ちゃんに初めて料理を食べる真似をさせる行事ですよね。最初はおせちにしようかとも思ったのですが、まだおせち文化が確立されていないことや、寺の大所帯で竈を休ませるって無理すぎるなと思い直しまして、ちょっと贅沢な白粥を食べてもらうことにしました。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。