あわいの灯   作:篠乃

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注意書き

山あいに生きる薬師の兄妹が、
人と鬼、命と死のあわいを渡りながら、小さな灯を繋いでいく話。
原作『鬼滅の刃』の余白に触れるような静かな補完連作です。

時代は室町末期〜戦国初期頃。
政治の世界における「神秘」や「祈り」の力が、
ゆるやかに失われつつある時代です。

※原作要素を含む二次創作/時代背景に基づく死生・医療描写あり。
※史実・設定改変を含みますが、世界観の整合を重視しています。
※本話には原作キャラクターは登場しません。
※シリーズ作品のため、第一話「序 灯明」からお読みいただくのをお勧めします。

それでは、どうぞ、ゆっくりと。



古寺4 菫

 

その夜、養生房の人手が一人、急に欠けた。

 

夕餉の後、僧坊から夜間手伝いに来ていた僧が熱を出し、そのまま床についたのだという。

冬の疲れが抜けきらない時分だった。誰にでも起こり得ることだと、行円は淡々と言った。

 

峻縁はその時、すでに日付をまたいで働いていた。

夜半から朝までの遅番を終え、そのまま日勤に入って、気づけば空の色が二度変わっている。

 

庄吉の咳は治まらず、昼過ぎからは膿も久しぶりに見えた。

落ち着いていたはずの呼吸が、夕刻になってまた浅くなる。

病状としては、決して珍しい揺り戻しではない。それでも、胸の奥がざわついた。

 

——今夜は、何か起きる。

 

そう思った時には、すでに体が動いていた。

 

行円と篤燕は別の患者に手を取られていたし、そもそも2人の方が働き詰めだった。代わりを探すしかない。

夜の養生房を離れ、宿坊の廊下に出ると、冷えた空気が一気に肺に入った。

 

綴弦と月詠なら、夜の手伝いを引き受けてくれるかもしれない。

そう思ったのは、理屈というより、切羽詰まった期待だった。

 

客間の前まで来て、声をかけようとして——

ほとんど同じく、戸に手がかかっていた。

 

いつもなら、そんなことはしない。

ほんの一瞬、焦りが勝っただけ。

戸は、わずかに開いただけだった。

 

湯の気配が、先に流れ出てきた。

湿った熱と、ほのかに残る薬草の匂い。

 

視界に入ったのは、裸の背だった。

 

薄く、骨の線がそのまま浮いている。

月詠の体はやわらかな華奢さを残していたが、起伏と呼べるものはほとんどなく、ただ静かに在った。

綴弦もまた、同じように痩せていた。いつもの穏やかな表情はなく、声もなく、しかし不思議な落ち着きだけが残っていた。

 

言葉のない親密さが、そこにはあった。

 

綴弦が先に気づいた。

視線が合い、ほんの一拍の後、彼は何も言わずに着物を取り、月詠の肩にかけた。

自分の影に隠すように、その体を包み込む。

 

「……申し訳ありませんが」

 

静かな声だった。

 

「少々、お待ちいただいても?」

 

その一言で、峻縁は我に返った。

 

「あ……」

 

何か言おうとして、言葉が見つからなかった。

戸を閉める指先が、微かに震えていた。

 

廊下に座り込んでからも、しばらく立ち上がれなかった。

胸の奥が、ひどく静かだった。

神仏の領域に踏み込んでしまったような、そんな錯覚だけが残っていた。

 

どれくらい経ったのかは、わからない。

 

やがて、戸が静かに開いた。

 

事情を聞いた二人は、何も問わなかった。

夜の養生房を手伝うことを、いつも通りの穏やかさで引き受けた。

 

「峻縁殿も、お疲れでしょう」

 

綴弦は、いつもと変わらぬ声でそう言った。

 

「今夜は、どうかお休みください」

 

峻縁はうなずいた。

落ち着かないまま、床に入った。

眠りは浅く、夢も見なかった。

 

その夜、綴弦と月詠は夜番を務め、

明け方にはそのまま、いつもの持ち場へ向かった。

 

[newpage]

 

冬至、大寒の訃報で大きく揺れたあと、ようやく持ち直したと思われていた青年が、また沈んでいる。

僧侶の中で一番若い彼が揺らぎやすいのは自明だが、それはそれとして心配になるのが人というもの。

 

「最近、峻縁さま、元気ねぇな……」

「綴弦さんか月詠くんと何かあったんでねぇか?」

「いや……にしては峻縁さまだけだぞ」

 

患者たちの雑談のひとつとして、そんな話が交わされる。

小坊主——すけは、戸板越しにそれを聞いていた。

(きれ)の入った桶をぎゅうと抱え直して、努めて落ち着いたふうに歩いた。

 

 

同日、子坊主たちの部屋にて。

 

月明かりだけの部屋で、寝息に溶けるくらい声をひそめて。

下の子達が起き出さないくらいで話すのが、年長の子坊主たちの楽しみだった。

 

「すけ、今日は……?」

「今日も、なんだかおかしかった。どうしたんだろう……峻縁さま」

 

子坊主たちは、歳の近い峻縁や恵篁に世話を焼いてもらったものも多かった。

彼らが郷里を思って泣くときに、一緒に泣いてくれた優しいのに傷つきやすい青年の笑顔が曇るのは、小坊主たちにとって大事件だった。

 

「こた、お守りちゃんと渡したんだろう?」

「う、うん……。あれ、やっぱり峻縁さまのだったよ。良かったって言ってたけど、やっぱりいつもとちょっと違った」

「なんであんなところに落ちてたんだろうなぁ。広間に向かうのに通るわけでもないし……」

 

「でも、あのお守り拾った日から、峻縁さまおかしいんだ。……なにか、あったのかなぁ」

「なにかって、なにが?」

「それは、わかんないけど……」

 

「落ちてたとこって、薬師さんたちの部屋の前だったんだっけ」

「うん」

「こたが拾った前の晩、峻縁さま、あそこでしばらく座ってたもんな」

「なんかあったのかなぁ」

「あぁ、どうしたんだろうね。でもあの人たちも、不思議だよなぁ。月詠さんなんて、すけやおれと大して変わらないだろ」

「うん、かっこいいよね。あこがれちゃう」

 

「あの部屋、他の部屋より灯明の油が減らないんだ。毎回行くだけ行って、差さずに帰ってくる」

「あ、おれ、綴弦さんに聞いたことあるよ。目の色が薄い分、光がよく見えるんだって。だから、月明かりで足りるんじゃないか?」

「へぇ……すごいなぁ」

「よもぎやおこげたちと、おんなじ目なんだねぇ」

「今日、ユキさんみたんだぁ。あいかわらずまっしろできれいだったぁ」

 

少年たちの会話は、ゆったりとまどろみに包まれる。

僧侶が様子を見にくる頃には、皆すっかり夢の中だった。

 

 

翌日から、彼らは何も言わなかった。

 

綴弦や月詠と顔を合わせても、挨拶は変わらない。

ただ、視線が微妙にずれていたり、言葉を選ぶ間が長いように感じたりするだけだ。

もしかすると、あの夜より前からずっとこの調子だったのではないかと思うほど、些細な違いだった。

 

自分だけ、彼らを呼ぶ声が、ぎこちなくなった。

 

仕事では、小さな取りこぼしが増えた。

薬草の分量を間違え、桶の水をこぼした。

それを指摘されるたび、ただ頭を下げるしかなかった。

 

綴弦と月詠は、いつも通りだった。

患者に寄り添い、必要以上のことは語らず、淡々と働く。

 

なぜあの夜に固執しているのか、自分でも分からなかった。ただこの春霞のような気持ちに名前をつけて、形を持たせたらいけないという、妙な確信だけがあった。

 

夕餉の席で、からし菜が出た。

ぴりりとした辛みに、叱咤された気がした。

 

寝支度を整えていると、相部屋の恵篁がいやに真剣な調子で言った。

 

「なぁ、お前あの晩、何があったんだ」

「あの晩って、どの晩だよ。昨夜か、一昨日か、それとも十日も前か?」

「一昨日だ」

 

語気が強くなって、誤魔化そうとしたのは悪手だったと悟る。これは逃げられないぞと観念して、恵篁に向き直る。

真剣な目をした彼は、小坊主の頃から見慣れた、年下を心配する兄貴分の顔をしていた。

 

「一昨日の晩、なかなか寝つけてなかったろう。落ち着かない様子で帰ってきてたし、今も変わらない。

今日記録殿で綴弦殿に聞いてみたが、なんだか気がかりなことがあるような仕事ぶりだと……。

なぁ、話せる範囲で教えてもらえないか。少しでも、お前の揺らぎを分けてほしい」

 

恵篁があんまり変わらないものだから、なんだか感極まってしまった。あっという間に恵篁の姿が歪んだ。慌てて抱き止めてくれた彼の肩に縋りついて、声もなく泣いた。

恵篁は私が泣き止むまで、いつかの夜と同じように背を撫でてくれた。

 

落ち着いてから、ぽつぽつとあの晩のことを話した。

綴弦と月詠を呼びに行ったこと、うっかり彼らの肌を見てしまったこと、自分でも驚くほどそれに動揺してしまったことが不安だったこと……。

順序も事実もごちゃ混ぜの、わかりにくい話をよく聞いてくれたと思う。途中からまた、涙も出てきてしまったし。

 

恵篁はずっと手を握って、寄り添ってくれた。彼の口からどんな言葉が出てくるか、話しているうちに恐ろしくなってきて、自分でも訳の分からないことさえ話した気がする。

 

「そうか……。教えてくれてありがとうな。私からも、少し話していいか?」

 

こくん。

 

「じゃあ、話すな」

 

恵篁の話によれば、少なくとも綴弦殿の身体の薄さは、冬の始めからだという。養生房の手伝いに行き始める少し前、綴弦殿が倒れた時の介抱で、その薄さに驚いたそうだ。

 

「それに、綴弦殿や月詠殿の肌を見たら、私もきっと動揺するなぁ」

「恵篁も……?」

 

「あぁ。私たちよりいくつか幼いけれど、本質のところではずっと年嵩のように感じるからかもなぁ。

うっかり寛浄様の部屋を開けて、禅をしておられたり、写経の最中であられたりしたら、動揺するだろう?

峻縁は、私たちが仏の道を辿ろうとする時と似たものを、身を清めるふたりに見て、落ち着かなくなったんだろうさ」

 

あっさりと、名付けが怖かった霞に名前がついた。

これ以上なく似合っているそれに、気が抜けてしまってそのまま凭れる。

恵篁はそのまま、ちょうどいい位置にいた頭を撫でることにしたらしい。

 

「……恵篁はすごいなぁ」

「うん?」

「名前つけるの怖いやつに、いつもぴったりの名前つけてくれる」

 

久しぶりに下から見た顔は、きょとんとして間抜けだった。

手を伸ばして頭に触れると、暗がりでも頬を染めたのがわかった。目を閉じたのを見て、何度か頭の上を往復する。

 

綴弦たちが身を清めるのは、自分たちのこれと同じなのかもしれない。と素直に思えた。

 

 

翌朝、すっきりした気持ちで目が覚めた。

朝の弱い相部屋を揺する。昨夜の兄貴分はどこへやら、丸く縮こまって何やらもごもごいっている。

 

「本当、変わらないなぁ。お互い!」

 

 

日は延びたとはいえ、まだ夜は冷えた。ぶり返して痛む腰の按摩を慈円に頼むと、二つ返事で引き受けてくれた。

横になると、かさついた温かい手が体をほぐしてくれる。うっかり寝てしまっては大変だと梅の蕾が膨らんで、明日にでも咲きそうだとか、今年の初音は随分下手くそだなんて、たわいない話をしていた。

 

「そういえば篤燕。おまえさんも聞いたか?」

「なにをだい」

「近頃持ちきりの噂だよ。薬師さんたちが異形じゃないかって話さ」

 

また肩が張ってるとこぼすように、慈円が言った。

 

「薬師さん……ってのは、綴弦殿と月詠殿のことか?」

「あぁ。人ならざるもの……狐狸の類か、あるいは神仏の使いかって、な」

 

慈円が弾みをつけるように背を強く押した。施術の終わりの合図、あまりの痛みに思わず呻き声が出る。頭上から聞こえる含み笑いに、むくれそうになった。

だが。

 

「あの子たちはただの人だよ」

 

身を起こして、慈円の目を見る。

慈円はなんだか少し嬉しそうな顔をして、そうか。とだけ言った。

 

「篤燕。私も彼らと会ったことがある。痛みを隠すのがあまりにも上手い子たちだね。心配になる一方で、私はどこか、恐ろしくもあったんだよ」

 

弥六や佐平が亡くなった直後のことが頭をよぎる。

泣き崩れた峻縁と、涙ひとつ見せず彼を送った彼ら。目元が少し赤くなっていたが、よほど近くに寄らなければわからないほどだった。

 

私も、慈円も、行円も。

震える声で話しかけながら、生きている患者に対するように顔を拭った月詠を見ていた。

記録殿と養生房の掛け持ちで疲れているだろうに、暇を見つけては手を合わせていた綴弦を知っている。

 

だが、その姿を知らぬものたちからしてみれば、確かに人ならざるもののように感じるかもしれない。

私自身、その姿を見てなお、御仏の使いだろうかなんて感じてしまいそうになることさえあるのだ……。

 

軽くなった体の分以上に、胸の奥がずっしりと重く感じられた。

 

 

さして広くもない寺の中。異端の兄弟は格好の的になった。

少しずつ、骨を固め、肉をつけて。

霞のような噂は、やがて実態を持った主張へと変わっていった。

 

——あの二人は、何かが違う

 

その認識だけを、確実に共有するばかりで。

その実、霞のままでしかないことは、誰も気に留めなかった。

 

 

夜番の交代時、記録をつけておくから、月詠に綴弦を起こしてきてくれと頼む。

月詠はひとつ頷くと、衝立の向こうに消えていった。

 

暖かくなるにつれて、荒い呼吸や呻き声が、間延びしたいびきに変わっている。

行円さまと篤燕さまがそろって休めるほど、患者たちの容体が安定している証拠だった。

気づくと、衝立の向こうから聞こえる声は、今夜の具合を説明するものに変わっていた。

 

綴弦たちとの関係は、以前より良くなったように思う。

恵篁と話した翌日、それぞれに急に部屋に入ってしまったこと、肌を見てしまったことを謝った。

余計なことかも知れないが、暗闇の中に浮かんだ体の薄さに、驚いてしまったのだと添えて。

 

すると、ふたりとも意外そうな顔をして、気にしなくていいと答えた。

普段からあまり豊かでない村々を回るため、常に食事は控えめなのだという。

無論、医療の対価に食事や軒先をもらうこともあるが、あまり多く持ちすぎてはいけないと澄玄さまに言われたと。

ふたりの生活の奥深くに師匠の教えが溶け込んでいて、じんわり胸が熱くなった。

 

それからなんとなく、夜番で一緒になるたびに、彼らの知恵や思い出話を聞くようになった。

少し表情の柔らかな、ぎこちない話を聞かせてくれるのが好きだと気づいた。

そんな話をする余裕さえなかった、冬の厳しさが沁みた。

 

筆を置いて、一息つく。

薬と墨の匂いの部屋に、ひそめられた声が混じる。

いつもと違う響きの声が、なぜか聞き覚えのあるものに思えた。

 

 

 

翌朝自室の筵に転がると思わず、あっ、と声が出た。

雨水の夜聞いた、あの声だ。

少しすっきりした気持ちで、そのまま眠りについた。

 

 

最近、妙な噂が回っている。

綴弦殿と月詠殿が、人ではないというものだ。

 

あるひとは「あの兄弟は我々を騙し、害をなす狐狸の類だ」と言う。

またあるひとは「戦で疲弊した私たちを癒すために、御仏が遣わしてくださった救いだ」と言った。

 

まだ若輩者の恵篁には、熱を帯びたような目でそう話す先達がどうにも気味悪かった。

確かに綴弦殿は、歳の割に落ち着いているし、弟の月詠殿もしっかりしている。

だからと言ってそれが人でない理由になるとは、どうにも思えなかった。

 

峻縁はあの晩以降、大きく揺らぐ様子はない。きっと噂はまだ、養生房にまでは回っていないのだろう。

噂話をする者たちも、さすがに本人に問いただすことはしないはずだ。

 

大きく息を吸い込んで、うずくまるように吐き出した。

 

彼らが知らずにいるならそれに越したことはない。

握りしめた手を解いて、爪の跡を擦る。

峻縁が帰ってくるまでに、いつも通りの恵篁に戻らなければいけなかった。

 

[newpage]

 

近頃、寺の中が少し騒がしい。

雪解けと共に鳥の声が増えたとか、明るい話し声が増えたとかではない。

おそらく、おれの耳にだけ聞こえる音だけが随分と増えた。

 

この声の不思議なところはいくつもあるが、ひとつは話し手の感情の強さや、ものと話し手の結びつきの強さで聞き取りやすさが変わるらしい、ということだ。

今回は遠くの世間話くらいの大きさだから、そこまでではないのだろう。

 

頼まれた書物を抱え直す。

もうすぐ桃の花が咲く。寛浄さまや行円さまに、そろそろお暇をいただかなくては。

篤燕さまの体も随分落ち着いたようだし、記録殿の仕事はそもそも私がいなくてもなんの支障もない話だ。

 

ふわりと香る古紙と墨の香りに、肩の力が抜ける。

早く立ち去った方がいいと知っていても、ついつい長居したくなってしまう。

薄布越しに拍子を撫で、存外過ごしやすい場所だったな、と内心こぼした。

 

ふたつ目の角を曲がる手前で、自然と足が止まった。

なにか、言い争うような声が聞こえてきた。

 

「だから、あれは——」

「……人の理では測れぬものだ——。あの所作、あの気配。見た者もいると聞く」

「測れぬものではあるが、そちらとは限らぬだろう。穢れを祓うための——そういう務めを負った方々である可能性もある」

 

「峻縁の様子を見ただろう?ありゃあ“何かを見た”顔だ」

「あまりにも静かすぎる、気配も薄い。熟達した僧侶でもないのに、あれが人の在り方か?」

「……だからといって」

 

聞き慣れた声が、聞き慣れてしまった色を帯びている。

恵篁さんが時折、否定するように間に入る。やさしい人だ。

せめて彼の目に映り込まないようにと一歩身を引いた。

 

「養生房の件もある。亡くなった患者を前にして、動揺しないなんて。行円殿さえ揺らぎがあるのに、あのふたりは恐ろしくいつも通りだった」

「狐憑きのような患者も、弟の方がそばにいれば落ち着くようになったらしい」

「相変わらず読経は怖いらしくて、弟君に縋り付きながら正月の経も受けたそうだがな」

 

「だが、救われた者がいる。それが事実だろう」

「人だとしても、そうでないとしても、御仏が遣わしてくれた存在に違いない」

 

「正体の知れぬものを、内に招く理由にはならぬ」

「では、お聞かせください。あなたはあの二人を見て、なぜ害があると断じられるのか」

 

恵篁さん、もう十分ですから。

これが私たちのいつも通りです。これ以上はあなたの立場に障りがでる。

 

「お疲れ様です」

 

声は、震えなかっただろうか。

今来たばかりを装って、角を曲がる。

 

恵篁さんが、泣きそうに顔を歪めた。

気を使わせてしまってすみません。慣れたものですから、安心してください。

 

「皆様お集まりになって……一服でしたか。申し訳ありません、今、白湯をお持ちしますね」

 

恵篁さんを伴って、部屋の隅に移る。

恵篁の冷え切った指先を包みながら、いつかの日と反対だなと思う。

 

「恵篁さん、大丈夫ですよ。もう、慣れてしまいましたから」

「……慣れてしまったとしても、痛みを感じないわけじゃあないだろう。ならばやはり、申し訳なく思うよ」

 

いつもの顔に何か不具合があったんだろうか。

さらに刺されたような顔をして、俯いた恵篁が、こちらの目を見て言った。

見つめ返すのが苦しくて、手元の湯呑みに目線を落とした。

 

柄杓から落ちた透き通った湯が、湯呑みの中に入ると途端に黒く染まる。

いつもより熱く感じるそれに、いつのまにか自身の指先も冷えていたことに気づいた。

 

 

“今夜の夜番をかわるから、恵篁の様子を見にいってほしい”

 

昼下がりの日向にいたのに、指先が氷のように冷え切って、表情もぎこちなかったという。

なんとか夕餉まではもっていたようだが、部屋の中で倒れているといけない。

旅のものである自分が僧房に立ち入るのも障りがあるだろうから、頼む、と。

 

綴弦も今日1日記録殿で働いて疲れているだろうに、恵篁への心配だけが滲んだ顔で言った。

正直なところ、綴弦が僧房に立ち入るのになんら障りはない。子坊主同士の頃、何度か春の冷えで風邪をひいていたのを思うに、きっとその類だろう。

だが恵篁の場合、よほどでなければ周りはおろか、本人も気づかないことがほとんどだ。綴弦の目がいいのを差し引いても、熱が出始める頃なのかも知れない。

 

あまり他人(ひと)に弱っているところを見られるのを好かないところのある彼が、綴弦の前では虚勢を張って、一人になったところでぱたんと倒れるのがありありと想像できる。

快く変わってくれた綴弦に礼を言って、自室に急いだ。

 

 

 

一声かけて戸を開けると、寝床の上に力無く座った恵篁がのろのろと振り返った。

影になっていた恵篁の顔に月光の筋がかかる。寺に来たばかりの子坊主が、周囲の人間に家族の面影を探すような……切実で途方に暮れた目をしていた。

しばらくして、峻縁……?と弱々しい音がした。

 

「ただいま。夜番を綴弦殿が変わってくれてな。……なにか、あったか?」

努めて穏やかに言って、灯明皿を引き寄せる。今の恵篁のそばにこそ、この灯りが要ると思った。

 

しばらく、二人並んでその火を見ていた。

灯明の鳴き声と、葉が擦れる音。ときどき、遠くで人の話す声がした。

ぬるい雫が、手の甲に落ちてきた。目だけ動かして隣を見ると、頬が一筋光っている。

もう一度自分の手に目をやると、灯りがそこにも増えたように揺らいだ。

 

恵篁の背に、そっと手を添える。上から下に、恵篁がよくしてくれるような調子でさする。

ここでまで意地を張らずともいいと、少しでも伝わるように。

 

 

 

「……寺を巡っている、噂話のことは知ってるか」

 

嗚咽がおさまった頃、目尻の赤くなった恵篁が、かしこまった調子で言った。

養生房は寺の中でも独特な立ち位置で、噂話があまり回ってこない。

首を横に振ると、少し安堵したような、苦しいような顔をした。

 

ひとつ深呼吸をして、恵篁の耳に入った範囲で噂を語ってくれた。

・綴弦と月詠が、人ではないナニカであるという噂が、雨水ごろから回り始めた。

・養生房の患者が亡くなった時に動揺がなかったのは、彼らが人でないからだ。

・気が触れているのだとされていた患者——おそらく庄吉——を落ち着かせられたのは、彼らがナニカであるためだ。

・ナニカの正体をめぐって、寺では大きく2つの派閥ができ始めている。

 

「あの兄弟は、我らから奪おうとする狐狸の類だから悲しみなど感じないし、同類の患者のそばにいたから落ち着かせられたんだって、和秀さまが……。

智真さまは御仏の使いだから外に悲しみを漏らさなかったし、鎮められたのだ。なんて……」

 

恵篁は、ぎちぎちと音が聞こえそうなほど手を強く握りしめる。涙の膜が光る。

峻縁は、自分の脈が耳のすぐ横で鳴っているように感じた。

恵篁が気恥ずかしそうに力を緩め、打って変わって穏やかな目でこちらを見た。背筋に汗が伝う。

 

「今日の昼も、そんな言い争いがあったんだ。綴弦殿が書庫に行っている間だった。

たぶん、その声が聞こえていたんだろうな。お疲れ様です、一服でしたかなんて、いうんだ」

 

恵篁の声がまた、震え始めた。今の彼の背は、添える手を拒んでいるような気がして、白く冷えた手に、自分のそれを重ねた。

 

「慣れているから大丈夫なんて訳、ないんだ。痛いものは何度経験したって痛い。

その後、綴弦殿と俺とで白湯を配って、一服したんだ。綴弦殿を御仏の使いだなんていう奴らは、彼から湯呑みを受け取って、幸福そうな顔をしてた。他はわざわざ俺のところまできて受け取った。差し出された湯呑みを断ってまでだぞ。なにが『得体の知れないものの椀はなぁ……』だ。

皆っ、何を見ているんだ……!泣き腫らした目を冷やして、目の下からくまが外れなくて、生傷だらけの手をした綴弦殿のどこが……!」

 

恵篁が峻縁の肩に顔を埋めた。

峻縁は右肩がじんわりと暖かく湿っていくのを感じながら、揺らぐ灯りを見ていた。

 

一際大きく揺らいだ後、しゅん、と夜が光を呑み込んだ。

後には、熱を持った芯から立ち上る一本の白煙と、焦げた菜種の重苦しい匂いだけが残された。

 

「これは、ただの妄言でしかないが——」

 

「俺があの夜に見たふたりは、いつもの穏やかな笑顔もない無表情で、声も少し低く感じたんだ。つい先日の夜番の日も、二人の会話は同じ声だったよ。ちょっと人間味が薄いような、ぞくりとする感じの。

本当に綴弦殿のいうように、こんなことに慣れているとしたら、少し無愛想に感じるけれど情の深い彼らがほんとうの姿なんじゃないか……?いつも見ている姿は、こんな噂を避けるための手段なんじゃないのか……?」

 

峻縁が口に出した妄言は、本人の胃をきりきりと締め上げた。

こんな噂が立ったのは、あの夜の後じゃないか。

あの兄弟が避けようとした事態を招いた原因は……。

 

そこまで零したら、恵篁を取り返しがつかないほど傷つけてしまう気がして、奥歯を強く噛み締めた。

冷たく湿った夜のなかで、お互いに縋って横になった。

 

夜明け前にそっと起き出して、わずかに残った雪で目元を冷やしあった。

目尻に面影だけを残して、昨夜の出来事は隠された。

 

 

 

 

夜番が峻縁から綴弦に代わった。慈円の言葉が思い起こされて、内心どきりとする。

 

「すみません、篤燕さま。記録殿の恵篁さまの顔色があまり良くなかったものですから、心配になって……私の方から頼んだんです」

「いや、構わないよ。調子の悪い者に寄り添い、整えるのが養生房の役割だ。代わりに来てくれて助かるよ。無理はしない程度に、よろしく頼むよ」

 

うまく“いつもどおり”はできただろうか。

綴弦は少し驚いたような顔をして、所作なさげに目線をさまよわせた。膝の上の手をぎゅうと握って、目をその辺りに向けている。

 

「……桃の、花が……」

「うん?」

「桃の花が一輪咲いたら、ちゃんとでていきますから……。いましばらく、おねがいします」

 

痛みや悲しみよりも、諦めと恐れが先に出たような、こちらの負担だけを慮っているような声だった。

そうか、とだけ返した。いくら仏の教えを学んでいても、こんな時には何にも出てこなかった。

 

私は、養生房(わたしたち)を助けてくれた彼らの正体が、人でなくても構わないのだ。

彼らの献身を享受して、そのくせ、根幹を守る大人にはなってやれない。

——口先だけでもよき導き手になれれば良いものを。

 

薄い肩にのしかかるそれを払ってやろうにも、下手に触れたら彼自身ごと壊してしまう気がして、目を逸らした。

 

 

翌朝、行円にも出立の時期を伝えた。

おそらく後10日も掛からぬ先の話に、少々面食らったような顔をして、一呼吸分目を閉じた。

 

「そうか……冬ももう、終わったものな。寛浄さまには、私からお伝えしておく。残り少し、頼むぞ」

 

行円が文机に置いた梅の枝から、凛とした匂いが立ち上った。

目尻によった皺は、秋に別れた鷹丸のそれを思わせた。

 

「綴弦殿」

「峻縁さま。おはようございます。恵篁さまは大丈夫でしたか」

 

「えぇ、幸い風邪の類ではなさそうで……。それより、そんなに早く去らずとも」

「峻縁さま、私たちは……もう、はぐれものなのです」

 

綴弦はきっぱりと言い切った。真っ直ぐに峻縁の目を見るものだから、つい、そらしたくなる。

 

「はぐれものが長く集団の中にいるのは、あまりよろしくありませんから。……私たちが出ていけばきっと、皆さま元通りになられます」

 

伏せられた目に、朝日が差し込む。朝露を纏った緑が、きらりと揺らいだ。

綺麗で、それでいて、どうしようもなく悲しかった。

峻縁は何も言えなかった。言葉が形を得る前に、浮かんだ端から解けて消えた。

 

 

***

 

 

小さな花が咲き始めたように思えるほど、桃の蕾が膨らんだある日、綴弦達は僧房の一室に招かれていた。

北東の端にあるそこは、晴れの昼下がりといえどすでにうっすら陰り始めていた。

 

一人部屋にしては広いその部屋は、積み上がった古書に囲まれた文机と、少し高めの衝立が目についた。衝立の奥には、高さのある筵のようなものが覗く。

昔のお師さまを知る部屋の主は、よくきてくれたと円座を勧めてくださった。腰掛けると、幾つもの季節が沈んだ匂いの中に、乾いた草の気配が混じった。

 

「この冬は、よく働いてくれた。おまえさん達のおかげで助かったものも少なくないだろう」

「恐れ多いことです」

 

どちらの気配もまだ穏やかで、形式をなぞるだけのものだ。

障子越しの陽光はあまりにも頼りなく、声だけで相手の表情を探る。

 

「もう、ここを立つのだろう」

「ええ。約束通り。ずいぶん長居させていただき、ありがとうございました」

 

「……頼みがある。寺の派遣として、とある武家の奥方とご子息を診にいってくれないか」

「武家の方、ですか。私どもの手には余りますよ」

「一度でも構わぬ。……梅雨までに定期の検診に訪れる約束だったが、今の養生房で行円が抜けた穴を埋められはしない。恥ずかしい話だが、手の施しようが見当つかないのだよ。澄玄は下野国の出だろう?その弟子であるお前さん達なら……」

「……承知いたしました。少しでも恩返しができるのなら」

 

寛浄はほっと胸を撫で下ろした。去年の春会った幼子の望洋とした目が、光をうまく捕まえられるようになるかもしれない。

よろしく頼む。それから、と言葉を続けようとする。二、三度口を開いては閉じ、ようやく音を絞り出した。

 

「それから、こちらは断ってくれて構わないが……弥六と佐平の村に、立ち寄ることはできるだろうか」

 

意外な名前にふたりの体がこわばった。息が喉の奥に詰まる。

 

「彼らの形見を、ご家族に届けてやりたいのだ。こちらは急がずともどうにかなるが、できるだけ早く帰してやりたい」

 

日が延びてからの養生房では、長く歩く練習にと患者達が入り側をぐるぐる歩くことが増えていた。練習のしすぎでうっかり無理をしてしまう者も。

皆一様に、故郷の村に帰ることを待ち望んでいた。

 

この寺からどの村に降りるとしても、山下りは必ずしなければいけない。

まだ足元が不安定な者や老爺には、寺のものが付き添うと言っていた峻縁を思い出す。20名余りの患者達のうち、一人旅を耐えられるほど健康になったのはたった4名にすぎない。

彼らを送りに何度も山を上り下りする峻縁の負担も考えれば、綴弦達に断る選択肢はなかった。

 

「ぜひ、お受けさせてください」

「……っ、そうか。では、これを彼らの郷里に」

 

寛浄が取り出したのは、飴色に変わった小葛籠(こつづら)だった。

受け取ると、ちゃり、と小さな音がした。

 

「弥六と佐平、それぞれの遺品だ。彼らが彼岸から戻るとき、それを頼りに家族のもとへ帰れるよう、届けてやってほしい」

「謹んで、お受けいたします」

 

綴弦の声が僅かに震えた。月詠が彼の袖に触れる。

 

「寛浄さま、私からひとつ、お願いがございます」

 

露を纏った翡翠が、寛浄のそれをまっすぐに見た。

 

「時期が来ましたら、澄玄の墓へ、一度。師は、白岩観音のそばに、庵を結んでおりました。白岩観音の方に、管理をお願いしておりますゆえ」

「……そうか、そんなに近くに……。むしろこちらから願うところだ。折りを見て、訪問させてもらおう」

「ありがとうございます」

「月詠殿は、何かあるかね。私にできる限りのことなら、応えられるが」

 

月詠は少し視線を彷徨わせた後、伏目がちに言った。

 

「では、寛浄さま。寺を立つ日、白湯を3杯用意していただけませんか。ひとつは、お師さま——澄玄の使っていた器で」

「白湯だけで、いいのかね」

「えぇ。それと桃の花が一輪でもあれば」

 

月詠は、それがいいのだというようにふわりと笑った。

こういう掴みどころのない顔が、そっくりだと思った。

 

二言三言交わして、綴弦達は部屋を後にした。

しん、と静まり返った部屋を誤魔化すように、寛浄は長い息を吐いた。

 

「大丈夫だ、楽にしていい」

 

寛浄は足を解くと、衝立をそっとずらす。身を縮こまらせていた恵篁が、姿を現した。

潤んだ目元と濡れた袖。自身の我が儘のために、無理をさせてしまった。

 

「どうしても、聞いておいて欲しかったのだ。……酷なことをさせたな」

 

恵篁は言葉もなく首を振った。

寛浄も、それ以上口を開かず、隣に座った。

 

『後ほど、手拭いと桶をお持ちします』

 

去り際の月詠の言葉が頭をよぎる。

障子の向こうに桶の置かれる音がするまで、小さな雨音に耳を傾けていた。

 

[newpage]

 

灯明の間に差し込む光が、少しずつ色を変えはじめていた。

障子の白が、昼のそれよりもやわらかく、どこか橙を含みはじめる。

 

寛浄は手元の書き付けを整え、向かいに座るふたりを見た。

 

日が傾きはじめ、綿雲が梔子色に縁取られている。

僧房の一室は、墨と柔らかな梅の香りに満ちていた。

 

道中の心配事は尽きないが——話すべきことは、もう終いだ。

この様子なら、きっと。

 

「下りは、存外長く続きます。まだ土も浮いて足元も悪い。

急がずに……そう。菫や一輪草を探しながら歩けば、自然と歩みも揃います」

 

 

『庄吉さんなら、菫を探しながら帰れますよ』

 

 

「……あ、」

 

最後になってしまった夜、村にかえれるのかとこぼした自分にあの少年が言った言葉。

あのときは何を呑気なことをと思ったけれど。

きっと、このことだ。

 

ゆっくりでいい。

春の芽生えを感じながら。

しっかり地に足をつけて歩いていけるから。

 

寛浄さまの姿が滲んで、鼻の奥が痺れる。

峻縁さんの動く気配がして、夕焼けが遠くなった。

 

頭を下げたら、涙になってしまう。

詰めた息を吸ったら、嗚咽になりそうだった。

それでも、

灯明越しのふたりの顔が、あんまりやさしいものだから、つい。

 

「……見捨てられたと……」

 

ちがう、こんなことがいいたいんじゃ。

 

右手に座る峻縁が硬くなったのがわかった。

咄嗟に口を塞いでも、言葉がしまえるはずもなかった。

 

「そう、思われたのですね」

 

寛浄だけが、変わらぬ顔でこちらを見ていた。

今日の夕餉の話でもするような穏やかさで返した。

 

「違うんです……。違うと、今ならわかります……

あの子たちは、痛みを罰だなんて言わなかった。

俺が村に帰れるとただ信じてくれていた……」

 

「ゆっくりで大丈夫です。ひとつひとつ、教えてはいただけませんか」

 

背に添えられた手のひらがあたたかい。

いつの間にかすぐ隣に座っていた峻縁が、「疲れたら寄りかかっていいですから」と小さく笑った。

庄吉は、少し目を彷徨わせ、灯明を見つめた。

 

「あんまり、気持ちのいい話じゃねぇですが……」

 

 

おれは、足軽になる前、ただの百姓でした。

兄さんの隣の小屋をもらって、嫁さんと子どもと畑だけ見ていられた幸せもんでした。

柄振りも終わって、田植えの前の晩だったと思います。

 

「庄吉、おまえの名が挙がった」

 

数日前から、近々戦でおれたちも呼ばれるだろうとは聞いていた。

うちから出るなら、長男坊の兄ではなく、自分だろうとも。

 

「嫁さんと子どもは任せていい。お役目を、頼む」

「……わかった。もしもの時には、新しい旦那をみつけてやってくれ」

 

恨み言のひとつも言おうと思った口は、物分かりのいい男を演じた。

それは囲炉裏の向こうに見えた兄の手が、白くなるほどきつく握られていたからかもしれないし、

膝の上で眠った子どもが、袖を握り直したからかもしれなかった。

 

兄さんは、安堵と罪悪感とが混ざったような顔をしていた。

それだけで、戦に行く理由は十分なのかもしれないと思った。

 

*



 

ぽつぽつと焼け跡の残る田畑が、朝露でやわらかく濡れていた。

故郷の香りの稲掛けは、いろんなものから守ってくれた。

その朝も、隣で眠った男とふたことみこと言葉を交わして、顔を洗った。

 

日が昇るにつれて、おそろしい雰囲気になっていったのを覚えている。

おれは端の錆びた槍ひとつ持って、最前列に立たされた。

 

「進め」

 

お武家様の声で、おれたちはみぃんな前に足を進めたんです。

えぇっと、あぁ、そうだ。

まだらにぬかるんだ土に、足を取られて。

 

雷が落ちたんです。

すぐ後に、隣の男がみえなくなりました。

びっくりして動けないうちに、槍を掴んでいた右腕がいやに熱くなって。

 

その間もずっとずっと雷が落ち続けて。

そのまま泥の中に倒れこんで、、

 

目を開けるころには、動いているのはおればかりでした。

隣の男は、倒れ込む前に見たのと変わらず、目を開いたまま伏せていました。

 

あの雷は、神様がお怒りになったんでしょう。

おれが倒れたところに並ぶように、ひとがばたばた倒れていました。

見えない壁でもあるみたいに、みんなその手前で雷に斃れました。

 

みんな泥だらけで冷たくなっていて、じぶんの右腕の熱さだけが生きていました。

にたりと笑うような細い月の明るさに、喉が潰れる心地でした。

 

あとはもう、よくある話です。

 

じゅうじゅう肉の焼けるいやな匂いと、雷の落ちた後より酷い熱さと、途切れ途切れに聞こえる念仏と。

どうやってここまで来られたのかはさっぱり覚えちゃいません。

ただ、神も仏もまだ罰を与え足りないのだというのだけは、わかりました。

 

腕、もうないのに、痛くて熱くってたまらないんです。

あの雷の音も、目を覚ましてすぐ触れた男の瞼の感触も、ずっとずっと追いかけてきた。

 

 

庄吉はくすんだ目で灯明が映る木目と影との間を見ていた。

彼が見てきたものは、この影よりもよほど暗かったのだろう。

 

「悪かったなぁ」

 

驚いて彼を見ると、穏やかな顔でこちらを見ていた。

 

「訳のわからないことわぁわぁ騒いでさぁ。

だが、おれにとっては本当だったから、恐ろしかったのさ」

 

峻縁の口からは、言葉ひとつ返せなかった。

佐平を見送った日、励ましてくれた篤燕と同じ色の目をしていた。

 

そんな目をしないでくれ。

私にそんな気持ちを感じることはないのだ。

私はあなたを一度線の外に置いてしまった愚か者だ。

夜毎に上がる呻きに怯え、虚空に怯えるあなたを厄介者と感じてしまった。

 

庄吉はほんのすこし見慣れない顔をして、板に揺れる光の縁に目を落とした。

親に手を引かれる子どものように、自然にそれをたどった。

 

この部屋で一番暗いところと明るいところとが、細かく震えながらせめぎ合っていた。

 

 

だからあの晩、月詠が来た晩は驚いたなぁ。

腕が痛いなんて言ってないのに、今はなんにもない、右腕があったところを撫でたんだ。

『痛むんですね』って、それだけ言って。

 

綴弦も、あってすぐの頃に『おれたちは僧侶じゃないから安心してくれ』なんてさ。

あいつの前で、経を聞いたことなんてなかったのに。

 

傷がすっかり治るわけでも、戦の幻が追いかけるのをやめたわけでもないけれど、

ほんのすこしだけ、雪解けを夢見るようになりました。

初日を浴びて、なんだか赦されたような心地がしました。

 

最後に月詠と話した日、一丁前に大人みたいな顔をしていったんです。

『庄吉さんなら、菫を探しながら帰れますよ』って。

 

何言ってるんだと思いました。

片腕のおれは、村に帰れないだろうと思っていましたし。

よしんば帰れたとしても、もっと先のことだと思っていたから。

 

今、寛浄さまが『菫や一輪草を探しながら』っておっしゃられたとき、それを思い出したんです。

あの子は本当に、おれが菫の季節には村へ帰れるだろうと信じてくれていたんですね……。

 

ねぇ。おれも一度は神さまみたいに思っちまった側だから、いいにくいけどよ。

あの子たちは、ただただ受け止めるだけの人でしかなかったよ。

 

年ばかり上のおれは、あの子達をありがたがって利用するばかりで、声にならない悲鳴に寄り添ってはあげられなかった……!

目に見えるものばかりが本当じゃないなんて、おれが一番わかっていたのに……!

 

***

 

灯明がじりっとないた。

閉じかけの傷を焼かれたようだと思った。

 

「   」

 

目を伏せていた寛浄が、静かに言った。

庄吉の左手だけでは覆いきれなかった涙がひとつ、夕焼けどきの氷柱みたいに光った。

峻縁にそれを拭ってやる資格はないような気がして、そっと背に手を添えた。

 

夕餉を告げる鐘が鳴った。

障子越しの音が増えて、部屋の中だけ沈んでいた。

 

菫の花を見るたびにこの冬を、あのふたりを思い出すのだろうと思った。

 

[newpage]

 

【世界観補足】

 

*猫たち

寺内では、薬草や書物などをネズミ被害から守るため、4匹の猫たちが活躍しています。軽く紹介させていただきますね。

・おこげ

白地に黒い焦げ跡みたいな模様のある、恰幅のいい猫です。厨房や広間のあたりを担当しています。お魚の日は、端きれをもらいに金色の目でジィッと見つめたり、足元に体を擦り付けたりしておねだりしている姿をよく見かけます。

・よもぎ

人懐っこいキジトラです。薬草畑や養生房を守っています。人懐っこく、天気のいい日は入側で患者さんとまどろんでいることが多いです。抱き上げるとほんのり薬草の匂いがします。

・すみ

薄墨色に緑色の目をした賢い猫さんです。記録殿の資料を脅かすネズミを、音もなく仕留める仕事人です。基本とても静かですが、休憩の時間を見計らって控えめに鳴くこともあります。

・ゆき

名前の通りまっしろな毛並みと、青空色の目をした、ちょっと気位の高い猫です。決まった担当場所を持たずに寺の中を歩き回っています。最近は宿坊の辺りにいたみたいです。

*記録殿の構造

記録殿には、主に3つの部屋があります。ミッ◯ーマウスの左耳の位置が書庫、右耳の位置が応接室、顔の位置が複写室(作業室)です。書庫は日光による劣化を最小限にするため、北側にのみ出入り口が設けられています。収蔵量を最大化するために複写室との間の壁一面にも棚が設けられているため、書庫ー複写室の直接の出入りはできず、縁側経由で出入りします。

反対に、日光を多く取り入れられるように南側が障子戸になっているのが複写室です。光が柔らかい日や、影が短い時間帯は障子を開け放して作業します。今回は影の短い昼時、開け放そうと何枚か障子を外している作業中の出来事でした。

 

*季節感を表すものたち

いくつかの言葉が季節感を表す表現として登場します。それぞれ現代のカレンダー感覚ではこれくらいの時期です。本作では季節感と暦のずれによる混乱を避けるため、二十四節気で管理していました。

冬至:12月22日〜1月5日ごろ。現代では冬至かぼちゃを食べる時期。

大寒:1月20日〜2月3日ごろ。立春の前の日までを指し、ここまでが前の年。

雨水:2月19日〜3月4日ごろ。降る雪が雨へと変わり、雪解けがはじまる頃。

梅:本来なら立春(2月4日〜18日ごろ)に咲きますが、山の上+日陰に植えられているため、少し遅れて咲いています。

桃:啓蟄(3月5日〜19日ごろ)に咲きます。こちらは日当たりのいいところに植えられているため、あまり遅れていません。

一輪草と菫:4月中旬〜5月上旬ごろに咲きます。春の行楽シーズンがこれくらいでしょうか。

 

円座(えんざ)、置き畳

円座は藁で編まれた円形の座布団のことです。

このお話は、室町末期〜戦国初期くらいの想定で書いているので、まだ全面畳の床は珍しい寄りです。銀閣の書院造りとかが出だした頃ですから、かなりイケイケな感じですね。そのため、一番格式の高い寛浄の部屋(灯明の間)に置き畳がある程度の描写にしています。社会的地位の高さを表す指標の1つが座る場所が畳でした。

ちなみに、今回描写したシーン、どちらも寛浄は畳ではなく円座に座っています。

 

*噂の周り方

これは蛇足かもしれませんが……、小坊主達→厨や僧房など、子坊主が多く所属する大人コミュティ→記録殿や寺社区画などの大人が多く所属するコミュニティ→陸の孤島扱いされている養生房の順に噂が回っています。悪意のない素朴な疑問に、なんらかの理由を求めた結果、寺の大半にとって『綴弦たちは人ではない』と言う結論に至りました。

 

*小葛籠と遺品

小葛籠の中身は、軍札(徴兵された者に配られたドックタグ的なもの。部隊名と名前が書かれている)、戒名の書かれた木札、それぞれの奥さんが端切れで作ったお守り、持ち主の使用感が残された銭袋です。

また、弥六や佐平がまだ生きていて、意識が比較的はっきりしていた頃、篤燕が処置の合間に郷里と家族の名前を聞き出していました。軍札と本人達の証言、記録殿の情報を突き合わせて身元の確認をし、スパイでもないことが証明されたため、綴弦達が遺品を届けられる状況になりました。

 

*桃の花と白湯

花桃をお読みください。澄玄の器は、故人の器でもあります。

 

*庄吉について

庄吉は片腕を失う程度の外傷+重めの心的外傷の患者です。心理的な治療はだいぶ月詠によってなされましたが、未だに念仏を聞くと身がすくむ程度には、傷口を焼かれた時のことがトラウマになっています。(金創医とよばれた外科医の祖先は、お坊さんであることがほとんどでした。そのため、念仏を唱えながら治療にあたることも多かったようです)

彼は幸い、足に大きな傷はありませんでしたが、腕一本分バランスが取れない状態で歩くのはかなり難しく、山道ともなれば相当だったでしょう。熱心に歩く練習をしたことが伺えます。

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