「トレーナーさん、これを受け取ってもらえませんか?」
担当ウマ娘から手渡されたのは契約解除に関する書類だった。
「…理由を聞いてもいい?」
「トレーナーさんが私の事を思ってメニューや予定を組んでくれたりしてるのはわかってるんです。それでも最近のトレーナーさんは私と勝ちたいのか、それともただ仕事をこなしているだけなのかがわからなくて…」
「……」
言葉を返すべきだった。そんなことはないと、即座に否定しなければならなかった。 けれど、喉の奥まで出かかった反論は、形を成さずに消えていく。
「……否定、しないんですね」
「……すまない」
「別に謝って欲しいわけじゃないんです。きっとトレーナーさんにも何か事情があるんでしょうし、それを責めるつもりもありません。ただ、今のあなたとやっていける自信が私にはないんです。」
言葉の端々が、刃となって胸を抉る。 いつも笑顔で、誰かのために真っ先に動ける彼女。そんな優しい心を持つ彼女がいま、俯き、申し訳なさそうに顔を歪めている。 悔しかった。あまりにも、悔しかった。彼女にこれほど辛い顔をさせるまで、自分の欠落に気づきもしなかった。その愚かさと、彼女を傷つけ続けていた自分自身が、心の底から憎かった。
「俺と契約を解除した後、受け入れてくれそうなトレーナーはいるのか?」
「……います」
「なら引き止める理由もない…か。わかった、この書類は俺が責任を持って理事長に提出しておく、受理されたら学園側から連絡が来るはずだからそれを待ってくれ。君の貴重な現役期間を奪ってしまってすまなかった。」
彼女たちにとっての一年は、自分達トレーナーの一年とは重みが違う。 彼女達の人生の中で、トゥインクル・シリーズを走れる時間はたった三年ほど。その三分の一を、俺は無為に浪費させたのだ。謝って許されるはずがないことくらい、分かっていた。
「....一年間、ありがとうございました」
彼女は深く一礼し、出口へ向かって歩き出す。だが、ドアノブに手をかけたところで、その足が止まった。
「何か困っていることがあったなら、私に相談してほしかった。私にも、あなたの悩みを背負わせてほしかった。.....隣にいたはずの私を、あなたが一度も頼ってくれなかった。それが、何よりも悲しかった」
背中を向けた彼女の顔は見えない。けれど、去り際に響いたその声は、今にも消えてしまいそうなほどか細く震えていた。
彼女が去り、1人になったトレーナー室を見回しこの一年を反芻する。彼女と出会ったばかりの頃の記憶は鮮明に思い出せるのに最近の記憶になればなるほど曖昧になっていった。一気に押し寄せてくる後悔の念。しかし、どれだけ後悔したところで自分が彼女から奪った時間は戻らない。
……部屋が静かだ。耳鳴りのような沈黙が、どうしようもなく鬱陶しかった。
「確認ッ!ここに書いてある情報に誤りはないな?」
「はい、ありません。彼女から理由を聞き、これ以上私が担当を続けても彼女のためにならないと判断し、双方合意の上で決めました。」
私は今、担当契約解除届を提出しに理事長室まで来ている。
「疑問!理由の欄に『トレーナーとの方向性の違い』と書いてあるが具体的にはどういう事だ?」
「……言葉通りです。彼女は前を向いて勝利を求めていますが、今の私には、彼女と同じ景色を見ることができません。隣に立つ者が後ろを向いていては、彼女の脚を引っ張るだけです」
「残念!君が優秀な能力を持っているだけにこのような結果になってしまったことが残念でならない!」
「……期待に応えられず申し訳ありません」
しばらく悩むような仕草をした後に理事長が口を開く。
「ふむ……承諾!彼女の意思も尊重しこの担当契約解除届を受理しよう!」
理事長の言葉に、私は深く頭を下げる。
「……。ありがとうございます」
立ち去ろうとした私の背中に、重く、鋭い声が投げかけられた。
「しかし!彼女と担当契約を解除したとて、君の状態が変わらなければ根本の解決にはならない!今の君の状態は今後君が担当するであろうウマ娘達にもきっと悪影響を及ぼしてしまうだろう。それは私としても非常に不本意である!」
理事長は言葉を続ける。
「休暇ッ!君には明日から3日間休暇を与える!一度仕事から離れ、心身共にゆっくり休ませたまえ!」
「……休暇、ですか。ですが理事長、まだ整理すべき書類や、彼女の次の環境への引き継ぎが――」
「そちらは私が代わりに済ませておきます。ですからトレーナーさんは、今はご自身の休養に専念してくださいね?」
理事長の隣で控えていたたづなさんが、柔らかな、けれど拒絶を許さない微笑みで私を制した。
「…………。わかりました…」
トレーナー寮の自室に戻り、手の中のスマホを見つめる。 彼女に送った短い感謝と謝罪のメールには、すでに『既読』の二文字がついていた。いくら待っても、そこから返信の通知が鳴ることはない。
「はぁ……」
暗い部屋に、ぽつりとため息が落ちる。 これで本当に、俺と彼女の契約は終わった。――これからは、俺が連れて行けなかった場所へ、新しいトレーナーと共に進んでいってほしい。ただ静かに、彼女が次の環境で活躍することを祈ろう。
「……。」
明日からの3日間、どうしようかと考える。理事長が言っていた通り、今の自分の精神状態はウマ娘にとっていいものではない。今後もトレーナーを続けていくなら改善しなければならないだろう。
…そもそも自分はトレーナーを続けるべきなのだろうか。ふと彼女と書き込んだトレーングノートや、担当時代の資料が目に入る。そもそも自分はどうしてトレーナーを目指したんだったか。
初めてレースに興味を持ったのきっかけは小学生のとき、トレーナーの父に連れられて父の担当ウマが出走する重賞レースを見に行ったことだった。普段はおとなしい父が大きな声を出して応援していたのが衝撃的で、今でも印象に残っている。
だが、何よりも俺の心を動かしたのはレース後、一着でゴールした父の担当ウマ娘を迎え行った地下馬道での出来事。大粒の汗を流して帰ってきた彼女が父に抱きつき、父もそれを受け止める。涙を流しながら喜び合っている二人はとても眩しくて、子供ながらにかっこいいと思った。自分もいつか、父や彼女と同じ舞台に立ちたいと思った。
それなのに今の俺はどうだ?自分の精神状態に気づけなかっただけでなく、一人のウマ娘の人生を棒に振って。
「…俺には向いてなかったのかもな、この仕事。」
――いや、よそう。 悪い考えを振り払うように頭を振る。これ以上考えたところで、今の頭では答えなんて出ないだろう。今日はもう休んで、明日からの三日間でゆっくり考えよう。
凝り固まった思考を強制的に打ち切り、俺はベッドに体を沈めた。
誤字等ありましたら教えてください。