自分の死期が間近に迫っているというのを悟ってからの日々は実に穏やかなものだ。
もちろん未練はある。まだ死にたくない。欲もある。あれも、これも。やり残したことは幾らでもある。
とはいえ、その時間はもはや自分には残されていない。人生とは実にままならないものだと今さらのように悟る。
「先生」
「――…オーリンか。どうした?」
静かな部屋でポツリと零れた小さな声が鼓膜を震わせる。それに私が応えたことに、むしろ驚いたように体をビクッと震わせた気配がすぐ近くで感じられた。
「お、起きていらしたのですか」
「うん?……ああ、そうか。儂は寝ていたのか」
「あ。い、いえ……すみません、起こしてしまいましたか」
今や起きている時と寝ている時の意識の境目すら曖昧だ。体に痛みはない。苦しくも無い。ただ水の中に揺蕩いながら微睡んでいるように、砂時計の中をサラサラと落ち続ける砂粒を数えている。
「先生、お食事は」
「いや、食欲がない」
「……そう、ですか」
最近は寝てばかりのせいか、何かを食べたいという欲もほとんど感じない。出されれば口に運ぶくらいのことはするが、それも一口か二口で胃が受け付けなくなってしまう。
「ああ、いや。だが、そうだな。オーリン、蜂蜜酒の木箱はまだ儂の手元にあるか?」
「は、はい。今も先生の枕元に」
「そうか、良かった」
体が良くなったら一緒に飲もう。そう
「バルザックを呼んできましょうか」
「儂にベホマをかけさせるためだけにか。オーリン、あまり義弟を便利使いし過ぎぬことだ。己に驕らず謙虚なのはお前の美徳だが、他人に頼り過ぎるのもそれはそれで良くはない」
さほど厳しく叱ったつもりはないが、涙ぐむのを堪えるように喉を鳴らす音が聞こえた。ああ、確かにコーミズ村に引き取ったばかりの昔は泣き虫のところがあったな。体が大きくなっても、そういうところは変わらない。こういうのも三つ子の魂、というものか。
だが、呼びつけるまでもなく聞き慣れた足音が聞こえてくる。いや、普段よりも足取りがやや荒いか。
「オーリン、すまないが先生を起こして――…いや、もう起きていらっしゃいましたか」
「どうした、バルザック。儂に客かな? もしそうなら、茶の支度を頼む。オーリンは椅子を」
最後に客の相手をしたのはいつのことだったか。このところ時間の感覚も曖昧で、最後に娘たちが大勢で見舞いに来てくれたのも昨日のことか、あるいは先週か、先月だったかさえもよくわからない。ひどく賑やかで楽しい時間だったことだけは覚えているが。
「いえ、そうではなく。先生に薬湯を飲んで欲しいと、マーニャとミネアが」
「薬湯?」
バルザックが調合した薬湯ならば毎日飲んでいる、はずだ。もはや自分ではそれが一日に一度の服用なのか、あるいは二度か三度かさえも数えられなくなっているが、少なくとも律儀で几帳面な弟子たちが二人揃ってそれを忘れることなどあるまいと信頼している。
「そうか。まあ、どんなものであろうと出されたものは飲むとも。あまり苦くないと良いのだが」
冗談半分に軽口を舌の上に乗せながら、オーリンの手で上体を起こしてもらう。
階段を上がってくる二人分の足音は、普段よりも静かで、どこか恐る恐るだった。昔、初めて二人に配膳を任せた時を思い出す。幼い娘たちが小さな手で懸命に食器を運ぶのを、オーリンはハラハラしているように見守っていたものだ。
「お父様、ただいま戻りました」
「具合はどう?」
「おかえり。ああ、悪くはないとも」
口を動かすと、手入れを怠った髭の先が唇や歯に絡まった。だが、もはや手も満足に動かない。もどかしいものだ。
「旅先で、珍しい薬草を手に入れたんです。これなら、お父様に効くかもしれないと思って」
「きっと効くわ。……ええ、きっと」
そんな風に祈るような物言いをするということは、娘たちの目には、今の自分はよほど窶れて見えてしまっているのだろうか。
ならば、少しは空元気でも出して見せねばなるまい。せっかく意気込んだ娘たちを気落ちさせたくはない。
枕元に近づいてくる娘たちの気配と共に、嗅ぎ慣れない匂いを感じる。少なくとも、バルザックが調合する薬湯とは違うものだ。なるほど、旅先で手に入れた珍しい薬草というのは本当らしい。
「お父様」
「いただこう」
口元に木製の椀があてがわれる。口を開けると、微かなとろみのついた液体が流れ込んできた。それは苦い。非常に苦い。ああ、それこそ初めて料理に挑戦した幼い娘たちが火加減を誤ってしまった芋の残骸のようだ。
だが、せっかくの娘たちの心尽くしを無駄にするつもりはない。あの時、炭になった黒焦げの芋だろうと笑って食べた経験は無駄ではなかった。むせて吐き出してしまわぬように、慎重に喉を鳴らして飲み込む。
一口。また一口。零してしまわぬように、ゆっくりと飲む。空っぽの胃の中に薬湯が溜まっていく感覚。嘔吐してしまわぬように、少しずつ、少しずつ。
「……」
「……」
時間をかけて薬湯を飲み終えた後も、誰も口を開かなかった。私が次に何を言うかを待っているのだ。
――…初めに感じたのは、突き刺すような瞼の裏の痛みだった。思わず反射的に目元を
「オーリン、すまないが窓を閉めてくれ。急に目の前が、眩しく……」
「せ、先生? 窓を閉めるも何も、今は夜――」
「マーニャ、燭台の火を消せ。今すぐに」
「わ、わかったわ」
部屋の扉を乱暴に閉める音。
「ミネア、先生の目にベホイミをかけろ。ただし先生の手をどけようとするな。先生の目の上から、慎重にだ」
「う、うん。お父様、なるべく頭を動かさないでください」
娘の手が私の手の甲に触れ、手のひら越しに癒しの力が目の痛みを和らげていく。
「先生、部屋の明かりは消しました。静かに、ゆっくりと、薄く、少しずつ目を開けてください」
「……」
バルザックの声に応じて、瞼を少しだけ開く。暗い。暗いが、視界の中で影が動くのが
「お、お父様……?」
目の前にある手を
「ミネア……か?」
「……っ!?」
息を飲む音。続いて、私の体に誰かが抱きついてきた。
「お父様っ!」
「――マーニャ、メラだ。出来るだけ小さな火を灯せ」
「うん」
暗い部屋に、爪の先ほどの小さな灯火が点いた。その光を手で包むように覆い隠し、私の目には届かないようにしながらも、昔と変わらぬ『幽霊のような』血色の悪い細面の青年と、縋るようにそのローブを手で強く握りしめている娘が
「マーニャ……それに、バルザックも」
「お、お父様……お父様の目が、また、見えるように……」
紫の目に涙をいっぱいに溜めて、それでも歓喜に口元を緩めている娘は、記憶にあるよりもずっと大人びていた。
それとは対照的にバルザックは歯を食いしばっていた。昔から、泣いても良いところで自分の感情を抑え込もうとする妙に強情な息子だった。
「せ、先生。本当に、……本当に、目が……」
「ああ、オーリン。見えているとも。お前の泣き顔も、よく見える」
滂沱の涙を拭くことすら忘れているオーリンは、崩れ落ちるように床に両膝を突いて泣き咽んでいる。
「お父様……お父様ぁ……っ!」
私の胸に縋り付いて啜り泣いているミネアの頭を反射的に手で撫でて、そして、また思い通りに自分の手が
「目も見えて……そして、手も動く、か」
「先生、他に具合の悪いところは」
「ああ、そうだな。……息も、ずっと楽に吸えるようになった。足は、――どうだろう。歩いて見ねば、まだわからんが」
「ミネア、先生に手を貸してやれ。――もし立てるようなら、先生の杖も」
涙で目元を赤くした娘の手を借りて、久しぶりに床に足を下ろす。膝が震え、娘に寄りかかる。杖に縋り、娘に支えてもらって、しかし久々に二本の足で立つ感覚を噛みしめる。
「は、はは……は、はは、は……立てる、か。また、立てるようになった、か」
「お父様、あまりご無理は……」
「そうだな。まだ歩くのは無理そうだ」
立っていられたのは一瞬か、数秒か、立ち眩みに襲われて再び寝台に腰を下ろす。
「マーニャ、ミネア。この薬湯は」
「バルザックが教えてくれたのよ。ソレッタのパデキアっていう万病に効く薬草なら、お父様にも効くかもしれないって」
枕元に置かれた空の椀を見ながら問いかけると、思いがけぬ答えが返ってきた。ソレッタと言えば、ここから遥か大海を隔てた遠方の国だ。そんなところまではるばる薬を取りに行ったことも驚きだが、そんなところにある薬のことをどうやって知り得たのか。
「俺も、確信があったわけではありません。それに、この効果がいつまで続くのかも」
「……なるほど。効果が一過性で終わる可能性もある、か」
例えそうだったとしても、こうして大きくなった娘たちの顔を再び見れたというだけで私としては十分すぎるほどだが。ほんの一瞬の重い沈黙を私は軽く切り捨てる。
「ならば、マーニャとの『約束』を果たすのは今しかあるまい。オーリン、そこの木箱を開けてくれ」
「は、はいっ」
マーニャとバルザックの分として、グラスを三つしか箱に入れていなかったのは今にして思えば失敗だった。だが、構うまい。
「バルザックはオーリンと、マーニャはミネアと分け合って飲むように」
囀りの蜜から作れた蜂蜜酒は、さほど多くはなかった。三つのグラスに注ぎ分ける私の手に、ミネアが手を添えて優しく介助してくれる。
オーリンは勿体無さそうに私の酌を受けて、それをバルザックに渡そうとして断られている。
「先に飲め、オーリン。お前にはその資格がある。先生の回復を真っ先に祝うべきはお前だ」
「……そう、か。お前がそう言ってくれるなら」
逞しい肩を義弟に叩かれたオーリンが、また込み上げてきた新しい涙を堪え切れずにいる。
「姉さん」
「私は後でいいわ。ほら、生まれて初めてのお酒をお父様とオーリンと飲めるのよ? こんな幸運は二度とないわ」
逆にミネアは姉から笑いかけられて泣きそうになっていた。
――…嗚呼、これこそが二度と見ることはあるまいと諦めていた、私がずっと見たかったものだ。
家族が揃って、再び笑い合う。この景色こそが。
「「「「「……乾杯」」」」」
五人の声が綺麗に唱和した。
本作における船の名前は?
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ゲームブック準拠で『トリスタン号』
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小説版準拠で『聖なる種火丸』