「おやすみ、オーリン、バルザック」
「おやすみなさい、オーリン兄さま、バルザック」
お昼は踊りの練習でいっぱい汗をかいて、夕方にはお風呂屋でミネアとお互いの髪を綺麗に洗いっこして、夜はオーリンが買ってくれた串焼きをお腹いっぱい食べて。
ミネアと一緒に部屋に戻った頃には、瞼がだいぶ重くなっていた。
「姉さま、眠そう。大丈夫?」
「うん、……あ、でも、寝る前に着替えないと……」
服を脱いで、バルザックが作ってくれた寝間着を頭からかぶる。
大きくて厚手の麻布を切って首を通す穴を開けただけの簡単な服だけど、肌触りはいいし丈夫だし、夏はこれだけあれば他に毛布も何もいらないくらい。
いつもミネアと抱き合って寝るせいで、コーミズ村にいた頃から毛布を蹴落としてばかりだった私たちのために、わざわざ用意してくれた服。
「姉さま、着替え終わった?」
「うん」
「それじゃ、線香を点けるね」
「待って、私がやる」
火口箱から火打石を出そうとしたミネアを止める。線香を持って、ベッドに座る。ゆっくり、静かに、深く息を吸う。
「姉さま、無理しないで」
「無理じゃないわ。私だって、ミネアに負けたくないもん」
私が踊りの練習をしている間も、ずっとミネアは勉強している。そしてこの前、とうとうバルザックからホイミの呪文を教えてもらった。
まだちょっとした擦り傷を治すくらいの、でも間違いなく魔法が使えるようになった。凄い。ミネアはまだ7つだ。私が7つの時にバルザックに魔法を教えてと幾らお願いしても、まだ早いと言って絶対に教えてはくれなかった。でも、ミネアは教えてもらえた。それだけの才能があるんだ。私の妹は本当に凄い。
――だから、私だって負けたくない。
指の爪の先を線香の端に近づける。息を吸う。吐く。吸う。吐く。集中する。額に汗が滲み出てくるのがわかるくらい。
「――……メラ」
小さな声で、扉の向こうにいるオーリンとバルザックに聞こえないように唱える。ほんの一瞬、小さい火花がパチッと散った。
でも、それだけ。線香に火は点いてくれなかった。悔しい。
「うー……ごめん、ミネア。お願い」
「うん」
ポイッと線香を投げ出すようにして渡す。改めて火口箱から出した火打石を鳴らして、妹が線香に火を灯す。軽く一振りして火を消すと、ゆっくりと薄い煙が立ちのぼるようになる。
その線香を金具に挿して、その金具の端を今度は天井から下がった鉤に引っ掛ける。こうすると、夜中に起き出しても間違って線香を蹴って灰を部屋の中に飛び散らせたり火傷をしたりする心配がない。バルザックが図面というか大まかな形を説明した通りに、オーリンが金物屋で買ってきた金属を折り曲げたり丸めたりして作ってくれた。
「オーリン、バルザック。寝る準備が出来た」
「おやすみなさい」
部屋の扉を薄く開ける。蝋燭の光が細く部屋の中に差し込んでくる。線香の煙が部屋の中に篭もらないように、寝る前に部屋の扉を開けておく。
「ああ、おやすみ」
「おやすみ、マーニャ、ミネア」
オーリンの声と、バルザックの声が聞こえる。寝台に入って、ミネアと抱き合う。眠い。このまますぐに眠りに落ちてしまいそう。
扉の向こうから、安い羽ペンの先が安い羊皮紙を引っ掻くカリカリという小さな音が漏れてきている。その音が余計に眠気を誘う。
でも、まだダメ。まだ、寝てはダメ。
「バルザック」
「なんだ?」
「俺がアッテムトに行っている間に何かあったか?」
二人の低い声がする。私たちの眠りを妨げないようにと小声で話している。
「そうだな。一つ目は隣の家の婆さんが、ここのところ椅子に座ると後ろ脚がガタついて困っていると相談を受けた。悪いが直してくれると助かる」
「わかった」
「二つ目は、マーニャが使わせてもらってる劇場のテントが破れて雨漏りをしているそうだ。これも穴を塞いでくれ」
「すぐにやろう」
「三つ目。大劇場の支配人が――」
書き物をしながらバルザックが次々に用件を挙げて、オーリンはそれを二つ返事で承諾する。
二人がやっているのはコーミズ村にいた頃から変わらない。困っている人がいれば、それを助ける。オーリンは主に力仕事で。バルザックは線香を作る他にも、頼まれれば手紙の代筆をしたり、近所の子供たちに読み書きを教えたり。――父さまが、そうしてたみたいに。
「――…今のところ、俺が覚えている限りではこれくらいか」
「そうか。色々あったんだな。で、今は何をしているんだ?」
「写本作りだ。コーミズ村にあった資料は城に持って行かれて全て空っぽになっているだろうが、俺が覚えている分だけでも書き出しておこうと思ってな」
「いや、待て。……今になってか?」
「そんなわけがあるか。これまでも暇を見つけては少しずつ作業はしていた。最近は比較的生活が安定してきたから、こういう時間を作れるようになってきただけだ」
オーリンが低く、でも大きな溜め息をついた。
「なあ、バルザック。お前、ちゃんと寝てるのか」
「寝ているに決まっているだろう。ここでお前と寝ているんだから」
「俺がいない時は?」
答えは無かった。カリカリとペンが羊皮紙を引っ掻く音だけが聞こえる。
「おい、バルザック」
「寝てはいる。いま俺が倒れるわけにはいかない。そうなればマーニャとミネアも心配するし、お前にも余計な負担をかけることになる」
「そうじゃない。そういうことじゃない」
「健康管理はしているさ。昔みたいに読書に夢中になって体を壊したりはしない。……今は、俺を叱ってくれる先生もいないからな」
私の背中を掴むミネアの指に力が入るのがわかった。私もミネアの頭を胸に引き寄せた。
オーリンも、バルザックも、私とミネアよりも長く父さまと一緒に暮らしてきた。私たちが父さまを心配するのと同じくらい、二人も父さまを心配してる。あるいは、私たちよりも、ずっと。
「……。先生の、ことは」
「何もわからなかったんだろう?」
ペンの音が止まる。私もミネアも、息を止めた。
「――…すまん」
「どうして謝る。お前を危険な城の近くにまで一人で行かせて、安全なところで羽を伸ばしていた俺に何かを言う資格はない」
席を立つ音。インクで汚れた手を洗う水音。
「焦るな、オーリン。先生を助ける機会は、いつか必ず来る。必ずだ」
バルザックの声は不思議なくらい確信に満ちていた。バルザックは一体何を知っているんだろう。私たちの知らない何かを。まだ何かを隠しているのか。それとも、ミネアみたいに未来を予感する力でもあるんだろうか。
だけど、バルザックがそうやって何の疑いもなく父さまのことを信じているから、私たちが不安に怯え過ぎずにいられるのも確かだった。
「それよりも、さっさとお前も寝ろ。今も監視されているであろうコーミズ村には立ち寄らずに、街道を大きく外れて山越えをしてきたんだ。お前だって疲れているはずだ」
チチチ、という小さなさえずりが聞こえた。鳥かごの中の小鳥が、そうだそうだとバルザックに賛成しているみたいだった。
ミネアが笑いを堪えるように喉を微かに震わせたのを感じた。私はミネアの頭を撫でた。オーリンが太い息を吐く音がした。
「わかった。寝る」
「おやすみ、オーリン」
「おやすみ、バルザック」
蝋燭を吹き消す音がした。二人も寝るんだ、と思った次の瞬間には、私はもう眠気に抗えなくなっていた。
真っ暗になった部屋の中で、私はミネアの温もりを感じながら眠りに落ちた。