まだ夜が明ける前。ふと肌寒さを感じて目覚める。毛布を頭まで被り直して暖をとる。自分の吐息が顔面を温める。
一呼吸、二呼吸、そして三呼吸目を数えたところで、ゆっくりと体を起こす。毛布を肩にかけたまま、ヨロヨロと歩いて冷水で顔を洗う。
「……もう朝か?」
「お前はもう少し寝ていろ、オーリン。朝のパンを買ってくるだけだ」
水音と俺の気配で目を覚ましたオーリンに小声で二度寝を勧め、俺は毛布を畳んで椅子の上に置いた。首を回し、肩を回して筋肉のコリをほぐす。
コーミズ村にいた頃は竈の火を熾して昨夜のシチューの残りを温めるところからが一日の始まりだが、都市部のモンバーバラでは店で買ってきた方が早い。時間をかけずに手早く食事を済ませ、その分も働いて金を稼ぐ。農村での暮らしとは異なり、都市部の労働者の生活とはそういうものだ。
「あら、バルザックさん。おはよう」
「バルザック、オーリンが帰ってきたんだって? 昨夜はマーニャちゃんやミネアちゃんも喜んでただろう?」
まだ日が昇っていないために辺りは薄暗いが、既に起き出して動き始めている住人たちは少なくない。通りに屋台を出して品を並べている店主。逆に、昨夜から遅くまで飲み明かして朝帰りしてきたような連中が赤ら顔と千鳥足でうろついていたりするのもお約束だ。
「おはよう、バルザック。今日も、いつものでいいかい?」
「ああ、頼む」
屋根の煙突からモクモクと煙を立ちのぼらせているパン屋に入ると、亭主が竈から出したばかりの温かいパンを棚に並べている恰幅の良い女性が振り返った。
「それから、そっちの籠の中身も全部くれ。オーリンが昼に食べるだろう」
「あら、そうかい。オーリンが帰ってきたんだね。おかげで売れ行きが良くなるからウチは助かるよ」
切ったパンに干し肉やチーズを挟み込んだサンドイッチを手早く包み、その上に大きな黒パンの塊を乗せる。
「ウチの娘がねえ、自分もマーニャちゃんみたいに踊りが上手になりたい、なんて言うのさ。子供が夢を見るのは良い事なんだがねえ、無理なものは無理だと早めに悟らせてやるのも親の務めじゃないか、なんて思ったりもするのさ」
恰幅の良い女将は俺が並べた硬貨の枚数を笑いながら勘定する。
「最初から無理だと自分で諦めるならともかく、親の言いつけとはいえ誰かに言われたからって諦められるようなものを、夢とは言わないだろう?」
「そうなんだよねえ。それはわかっちゃいるんだが、ただ踊り子になりたいって言うだけならともかく、マーニャちゃんはねえ。挑むにしたって、もうちょっと、こう、手頃なところにしておいてもらいたいもんだよ」
「おい、お喋りはその辺にしとけ! ほれ、次のパンが焼けたぞ!」
竈の前に屈みこんでいたパン屋の亭主が肩越しに振り向いて怒鳴る。
「はいはい、いま行くよ」
「ったく、何をつまらねえことをペチャクチャと。だったらミネアちゃんにでも占ってもらえ。ウチの娘は立派な踊り子になれますか、ってな」
熱々のパンを竈から次々に引き出しながらの亭主の揶揄に、奥方は閉口した。
「あんた、ミネアちゃんはまだ7つだよ。そんな子の占いを真に受けるのかい?」
「だったらマーニャちゃんは9つだ。そんな子の踊りに敵わねえから夢を諦めろなんて言われたからって、一体どこのどいつが頷くってんだ」
俺は思わず苦笑した。
「それもそうだ。これは旦那さんが一枚上手だったな」
「ひどいよ、バルザック。アタシじゃなくて、ウチの人の味方をするなんてさあ」
抗議する声は、しかし次の来店者が開けたドアに取り付けられたベルの音で掻き消された。
「いらっしゃい。ちょうど新しいパンが焼けたところだ。冷める前に持ってってくれ」
他愛ない言い争いが本格的な夫婦喧嘩に発展する前にと、一早く声を上げる旦那に向かって軽く睨むような流し目を向け、それでも女将は商売用の笑顔を満面に浮かべて愛想よく挨拶をした。
これ以上は巻き込まれる前に退散するのが上策だと、買ったパンとサンドイッチを腕に抱えて店を出る。パン屋の向かいにチーズとミルクを扱う屋台が出ているのは、パンを買ったついでに買い求める客を見込んでのことだ。逆に、チーズやミルクが目の前で売っているならとパン屋に入ってくる客もいるから、お互い様である。
「いらっしゃい。いつものかい?」
「ああ、チーズを一つとミルクを…いや、ミルクは二壷くれ」
安い素焼きの陶器に入れられたミルクには、虫がつかないようにと平たい木製の蓋が乗せられている。その蓋の上に買ったばかりのパンを積み、左右の腕に壷を抱えて歩こうとしたが、重さで足元がややふらつきかけた。そんな俺の背中を太く逞しい腕が支える。
「危ないぞ、バルザック」
「オーリン? 寝てなかったのか?」
「単に朝の水汲みのついでだ。そろそろマーニャたちも起き出すからな」
そう言いながらオーリンに片方のミルクの壷をパンごと奪われる。取り返そうにも、俺の腕力では二つも壷を抱えるのは厳しいのが本音だ。仕方なくオーリンに任せる。水場から汲んできた水で一杯になった大きな木の桶を片手で持ちながら、もう一方の手でミルクの入った素焼きの壷を軽々と運ぶオーリンと、両手で壷を持っていてさえもどことなく足取りが危なっかしい俺とが並んで歩く。
「あら、オーリン。おはよう。バルザックもね」
「おはよう」
「顔色が悪いぞ、ちゃんと寝てるか?」
濃い化粧をした朝帰りの女がすれ違いざまに声をかけてくる。歓楽街の娼館で働く踊り子だ。大劇場で踊れるほどの売れっ子ならともかく、そうでない踊り子は食べていくためにも売れるものは売るしかない。
「どうせならオーリンも客として来てくれればいいのに」
「すまないな。だが、もし揉め事が起きたら言ってくれ。喧嘩の仲裁ぐらいなら出来る」
婀娜っぽい流し目と、物憂げな微笑みは娼婦としてもやっていくには当然の商売道具だ。
「揉め事ね。揉め事と言えば、このところちょっと面倒な客も多いのよ」
「どんな客だ」
「兵隊崩れって言うのかしらね。ちょっと前までならお城に勤めるような兵士さんたちは行儀もいいし、支払いもちゃんとしてくれるし、文句なしの上客だったんだけど」
うんざりとした溜め息が、東の空から差し込んできた朝の陽射しの中に溶けていく。
「最近は偉そうにふんぞり返るばかりで支払いになると途端に渋るし、そのくせ女の態度が悪い、ああしろ、こうしろ、客に対する礼儀がなってないって、口を開けば文句と注文ばっかり」
「ああ、そういえばハバリアでもそういう感じの連中を見かけたな」
「……」
なるほど、そういう下世話な話はマーニャやミネアの前ではとても出せたものじゃないだろう。だが、これは俺にとっては聞き逃せない情報だ。
「お城の方で何かあったのかしらね。何にしても、あんな兵隊を使っている時点でろくでもないわ。城の中でなら好きにすればいいから、早くいなくなってくれないかしら」
「そうだな」
オーリンが大きく頷いて見せた隣で、おもむろに俺は口を開いた。
「なあ、そういう兵隊崩れがよく出入りする酒場や娼館に心当たりがあれば教えてくれるか? もちろん礼はする」
「バルザック? おい、どうした?」
「あらあら、何か悪だくみの種でも思いついたの? ずいぶんと悪い顔をしてるわよ」
面白そうに笑った女は、すぐに幾つかの店を教えてくれた。実際、モンバーバラの歓楽街では鼻つまみ者として噂が流れ始めているらしい。そういう話が広まるのは早いものだ。
「オーリン、知ってるか」
「何をだ」
女と別れた俺たちは、再び家路を辿る。マーニャとミネアの耳に入らないよう、俺は家の戸口に足を踏み入れる前に小さく囁いた。
「組織が下の方から腐ることは、まずない。大抵は上から腐るものだ。もちろんこれは俺の推測でしかないが――かなり臭うぞ、今のキングレオ城は」