次話は18時に投稿予定です。
第一話:姉と妹と
「姉さま、迎えに来たよ」
「うんっ、いま行くわ!」
モンバーバラの隅の方にある、劇場とは名ばかりの小さなテントの裏手で声をかけると、汗びっしょりになるまで踊りの練習に熱中していた姉さまに手拭いを渡す。
この辺りは通りも石畳で舗装されておらず地面の土が剥き出しのままだから、いつも埃っぽくて雨が降れば泥だらけになる。姉さまが顔を拭いた手拭いもあっという間に茶色く汚れた。
「久しぶりにお風呂に入って、さっぱりしたいわ」
「今日、きっとオーリン兄さまが帰ってくるから、そうしたら一緒にお風呂屋さんに誘ってみたらいいと思う」
幸い、と言って良いのかわからないけど、私や姉さまの肌の色は濃いから土ぼこりで汚れても目立ちにくいところはある。それでも身綺麗にしておきたいことに変わりはないし、寝る前に水に濡らして絞った手拭いで体を拭くだけではどうしても物足りなくなる。
ちゃんとしたお風呂に入って、汗を流して綺麗にしたい。
「バルザックは?」
「……今日も同じ。ずっと書き物か、作業してるのどっちか」
代わり映えの無い答えに、姉さまはつまらなさげに鼻息を吹いた。
――父さまがお城に捕まって、コーミズ村から逃げ出した私たちがモンバーバラの街に移ってから2年。
私たちの生活は思っていた以上に安定していた。食べ物、飲み物に困ったことはない。私たちの体が大きくなっても、ちゃんと手足の長さにあった着るものが用意された。冬の寒さに凍えたこともない。温かい服、温かい食べ物。夏の暑さが辛ければお風呂屋に行って汗を流すこともできた。
今となってはもうほとんど覚えていないけれど、実の両親に連れられて旅から旅へと各地を流れていた一座にいた時よりも快適な暮らしが出来ているかもしれない。
もちろん、そのために私や姉さまが何かをしたわけではない。オーリン兄さまとバルザックのおかげ。
オーリン兄さまは体が頑丈で力持ちだから、すぐに荷物持ちや力仕事で街の若い衆の中に溶け込んだ。骨惜しみせずによく働くからと言われて、モンバーバラで一番の大劇場の大荷物の運び入れにまで雇われた。その縁で劇場の踊り子さんとも知り合って、姉さまも小さな劇場で踊らせてもらえるようになった。と言っても、本当に小さなテントの下で、今はまだ他の子供や若手の踊り子たちと一緒に、だけど。
最近はアッテムトで鉱夫の仕事をするついでに、そこまでの行き帰りでハバリアにも立ち寄りキングレオのお城の噂を聞きこんできては色々と話を聞かせてくれる。父さまの事はまだ何もわからないけれど、最近はお城に出入りする人の数も昔よりめっきり減って、お城の雰囲気もどこか寒々しく、刺々しくなって、もしかしたら王様に何かあったのではと不安がる人が増えているそうだ。
「ただいま」
「帰ったよ、バルザック」
貧民窟にあるような掘っ立て小屋や粗末なテントよりは多少マシな、モンバーバラのどこにでもあるような小さく目立たない家。
奥にある小部屋は私と姉さまの部屋。手前の食堂兼作業場は、夜になるとオーリン兄さまとバルザックが毛布にくるまって寝ている。
今はテーブルの上でバルザックが陶製の鉢に入れた薬草や香草その他の材料を練り上げて線香を作っていた。コーミズ村では獣避けに使っていた匂いの強い塗料を改良したもので、主に虫除け目的で焚くものらしい。今も作業場には青臭い薬草の匂いと、香料の匂いが入り混じった独特の空気が立ち込めている。もう慣れたし、コーミズ村にいた頃の家畜の糞尿の匂いとかに比べたら全然大したことないから、私も姉さまも気にしないけど。
特にモンバーバラの劇場でよく使われているような肌を大きく晒して客に見せるための踊り子の衣装を着ていると、姉さまに限らず虫刺されは悩みの種だ。踊っている時に痒くなっても客の前ではどうにも出来ないし、踊るための集中力も妨げられる。
特にバルザックの作った虫除けの線香は調合した香草の匂いも良くて、劇場の出番を待つ控え室で使えば緊張も和らげられるし、家で使えば寝る時も虫の羽音も気にせず気分が落ち着いて寝つきが良くなると評判で、作れば作っただけ売れた。
「お帰り。マーニャ、汗をかいた踊り子の服は隣の婆さんに言えば洗濯してくれるよう話しておいた。代わりに、そこの台にある線香を持って行ってやってくれ」
バルザックが作業場にしている部屋の中はいつも整頓されて掃除もされていて、逆に私と姉さまが使っている奥の小部屋の方が散らかっているぐらい。でも、そんな綺麗好きのバルザックが私たちの部屋に勝手に入ることはない。別に鍵をかけているわけでもないのに。
「わかった。オーリンは?」
「まだ戻ってきてない。門まで迎えに行くのか?」
姉さまが私の方をチラッと見て、私も頷く。それだけで考えは通じた。
「行く」
「私も」
「そうか。すまんが俺は手が離せない。二人で行く時は気をつけてな」
姉さまが奥に入って着替え始める。私はバルザックが作った隣家に届ける分の線香を持った。さほど待つまでもなく、普通の服に着替えた姉さまが戻ってきたので、手を繋ぐ。
「行ってくるね、バルザック」
「ああ。きっと疲れてるだろうからオーリンを労ってやってくれ。何なら帰りにどこかで一緒に食事をしてきてもいいぞ。俺は一人でも何とかなる」
掃除も。洗濯も。もちろん食事の支度も。
オーリン兄さまもバルザックも、一緒に暮らしている私たちに負担がほとんどかからないようにしてくれていた。
だから姉さまも踊りの練習だけに集中して時間を費やすことが出来ていた。私も勉強にだけ集中することができた。
「姉さま」
「どうしたの?」
「……バルザックのこと」
「ああ、晩ご飯のこと? ホント、バルザックって勝手よね。私たちやオーリンが、バルザックだけ除け者にして三人でご飯を食べても平気だって本気で思ってるのかしら」
私の手を引く姉さまは唇を思い切り尖らせた。コーミズ村にいた頃から姉さまはバルザックに当たりが強くて、私も私でバルザックを見てると得体の知れない不安に襲われることがあったから、父さまやオーリン兄さまのようには甘えたりしなかったし、出来なかった。
「こんにちは、お婆さん」
「こんにちは」
「おや、マーニャちゃんにミネアちゃん。バルザックさんから聞いてるよ。洗濯する服を持ってきたのかい?」
「お願いします」
「これはバルザックから」
「ああ、ありがとうね。ホント、これのおかげで寝る時に羽虫がブンブンと顔の近くを飛び回ることが減って助かってるよ」
隣家に住むお婆さんを訪ねる。気さくで明るくて優しくて話好きだけど、オーリン兄さまもバルザックも口数が多い方ではないから、この長々としたお喋りがちょっと苦手らしい。
「オーリンさんは働き者だし、バルザックさんは頭が良いし、なのに二人とも独り者だなんてもったいないよねえ。特にオーリンさんなんかは体も大きいから、ここいらで狙ってる踊り子さんも多いんじゃないかねえ?」
「……」
知ってる。
オーリン兄さまはコーミズ村にいた頃から女の人にも人気があった。真面目で、働き者で、しっかり者だ。モンバーバラにいても女遊びをしてるところを見たことなんか一度もない。
姉さまなんか、若い踊り子からそういう相談を受けたこともあるぐらいだ。「どうしたらオーリンさんと仲良くなれる?」って言われたとか。私たちのような子供にそんな相談を持ち掛けてくる時点でどうにもならないと思うけど。
「でもね、マーニャちゃん。ミネアちゃんも。気をつけるんだよ。バルザックさんみたいに若いけど頭が良くてお金を稼ぐ方法を色々と知ってる男ってのはね、何かと周りから嫉妬されやすいんだ」
お婆さんは鹿爪らしく指を立てた。
「ほら、アレだ。ちょっと前だかにお城の方に連れてかれたっていう、何とかって名前の先生がいたろう? その人の知り合いだか、弟子なんじゃないかって噂してる人もいたりしてね。全く、根も葉もない噂だよ」
「へえ、そんな噂を流す人って一体どんな人ですか?」
姉さまはニッコリ笑い、何食わぬ顔でお婆さんから話を聞き出す。
「ああ、どうだったかねぇ。ああ、うん、確か北の方って言ってたから、多分ハバリアとか、その辺から来たんじゃないかねぇ」
「そうですか。わかりました、気をつけますね。それじゃ私たちはそろそろオーリンを迎えに行くので、服の洗濯はよろしくお願いします」
「失礼します」
「ああ、行っておいで。暗くなり始めたら周りには気をつけるんだよ」
お婆さんに見送られて外の通りに出た私と姉さまは、何気ない素振りで周囲を見回す。暗くなり始めたら、ではない。私たちは、いつでも周りに気を配らなくてはならない。
もし私たちが捕まったら、もし私たちがお城に連れて行かれたら、そうなったら父さまが困るし、迷惑をかけてしまう。父さまが悪いことをさせられてしまう。それは、絶対に嫌だ。
「大丈夫かな」
「うん、大丈夫だと思う。行こう、姉さま」
姉さまが前を向いて、私の手を引く。私は姉さまが歩いていく後ろで、周りを見て危険がないかを確認する。
もしもの時に備えてバルザックからは幾つか道具も渡されているし、2年前からずっと魔法の勉強も欠かしていない。
私も姉さまも、オーリン兄さまもバルザックも心は一つだ。いつか絶対に父さまを助け出す。いつの日か、また必ず家族5人で暮らすって。