「はい、鳥さん。美味しい林檎ですよ」
「あ、ミネアずるい。私も、私も!」
鳥かごから出した小鳥を手に乗せて、皮を剥いて小さく切った林檎の欠片を姉妹が交互に食べさせる。その様子を微笑ましく見ながらオーリンは茶を啜り、のんびりと寛いでいた。
今日は起床もだいぶ遅い時間になってしまったということもあり、全員が骨休めをすることで意見が一致したのだ。だというのに、
「なあ、バルザック。何もこんな日まで書き物をしなくたっていいだろ。少し休め」
今もテーブルに羊皮紙を広げて羽ペンを走らせている姿に思わず眉を寄せる。オーリンの珍しく厳しい声に姉妹達も顔を上げる。その手に止まっていた小鳥までもが林檎を啄ばむのを止め、チチチ、とさえずりながら小首を傾げた。
ペン先の動きが止まり、薄い琥珀色の目の上に瞼が落ちる。そうして瞑目したまま、一秒、二秒と黙ったままだったバルザックは、何事かと意識を向けていた三人の耳には聞き覚えの無い『ソレ』を告げた。
「進化の秘法」
オーリンは目を瞬かせた。マーニャとミネアは互いに顔を見合わせ、互いに『ソレ』が全く聞いたことの無い言葉であることを確認した。
「しんかの、ひほう?」
「そうだ。それがエドガン先生が研究していたものだ。そして、それこそが今もキングレオの城に囚われている理由だ」
オウム返しに繰り返したミネアにバルザックがゆっくりと説明を返し、マーニャが息を飲んだ。
「バルザック、お前は……」
「もちろん先生からは口止めされていた。『例え相手が誰であろうと口外するな』とまで言われていた。それを今、俺は破った。先生に知られたら間違いなく破門されるな」
目を閉じたまま、淡々と告白するバルザックにオーリンは言葉を失う。
「な、んで……今になって……急に、」
「俺が『マーニャとミネアを裏切らない』ために、だ」
そして、あまりにも急な変心の理由を問いかけようとしたマーニャは、あまりにも迷いなく即答したバルザックに言葉を詰まらせた。
三人が三人とも何も言えなくなる中で、小鳥だけがパタパタと羽を動かしてバルザックの肩に移動し、その耳元でチチチと小さくさえずった。まるで、さあ続きを早く話せと促すように。
「先生がいつ、どこで、どのようにして『進化の秘法』のことを知り、どうして研究を始めるに至ったのか。その辺りの経緯や動機については先生だけが知っていることだ。だが、肝心の研究の内容について話す前に、一つ言っておくことがある」
そこでようやく目を開いたバルザックが三人の顔を順番に見つめ、羊皮紙の傍らに羽ペンを静かに置いた。
「もし俺が今ここで語らなかったとしても、いずれ三人とも知ることにはなっただろう。どんな形で、誰から、どの程度のことを知ることになるかはわからない。名前だけか、断片的にか、あるいはもっと深くまで知る機会を得るかもしれない。だが、どうあれキングレオの城の中で『進化の秘法』を手に入れようとする者は、確実に俺たちを狙ってくる。どうしてそれにそこまで執着するのか、その理由を、その危険性を知っておかなければ、きっとこの先のどこかで足元を掬われる」
だから、今ここで俺の口から話せることは話しておく、とバルザックが結んだ。
マーニャとミネアは再び互いの顔を見合わせ、ついで手の上の林檎を鳥かごの中の餌箱に移した。そして水で手を洗い、手拭いで念入りに手を拭いてから、テーブルに座っているバルザックの前に二人並んで座り直す。
オーリンも立ち上がって、姉妹の後ろに立った。二人の肩の上に大きな手を乗せ、前のめりになる。
「……お前がそこまで思い切った上で話すなら、全てを聞かせてくれ」
「話して、バルザック」
三人の顔に、その目に浮かんでいるのは、切実なまでに真摯な光だった。全てを知り、それを受け入れる覚悟をしていた。
「いいだろう」
テーブルの上に乗せていた羊皮紙を逆さにして、三人の前に滑らせる。三人が覗き込むと、羊皮紙には『材料』『触媒』『増幅器』と大きな文字で記されていた。
「錬金術に関する知識が前提になる術式の理論や細かい部分は省略する。だから、『進化の秘法』について覚えておくべきことだけを教える」
子供向けの魔法の講義をするように、バルザックは論理的かつ明晰な口ぶりで続けた。
「まず一つ目。材料。これは生き物だ。犬だろうが猫だろうが、鼠だろうが鳥だろうが構わない。だが、基本的には強い生き物であればあるほど良いとされる。何故なら、『進化の秘法』とは複数の生き物を混ぜ合わせ、その結果――怪物を産み出す術式だ」
姉妹の背筋にゾクリと悪寒が走った。オーリンの肩も強張った。
「怪物、って?」
「人間でもなく魔物でもなく、どちらでもあり、どちらでもないモノだ」
「待って、バルザック。いま、人間って言った?」
「そうだ。この『進化の秘法』は人間や魔物すら材料にできてしまう。むしろそちらの方が効果的ですらある。その方が、より知能が高く、より力が強い怪物を産み出せる」
淡々と、数字の1と1を足すと2になる、とでも言うような平坦な口調で。バルザックが残酷な真実を明らかにしていく。
マーニャとミネアの呼吸が浅くなっていた。オーリンの額にも汗が滲んでいた。
「二つ目。触媒。本来であれば混ざらない別々の生き物を一つに纏める為のものだ。パンは擂り潰して粉にした麦と、塩と、水さえあれば作れないことはないが、ほんの少しのパン種を加えることで大きく膨らむ。それと同じように、触媒がある場合と無い場合では、完成度が大きく違う」
具体的かつ身近な例を引き合いに出すバルザックの説明は、姉妹にとっても分かりやすく納得できた。だが、むしろオーリンは不快感を催した。たったそれだけの差が、怪物と形容すべきモノを産み出してしまうことを想像して。
「なんだ、バルザック。その触媒というのは」
「女だ。若い乙女の魂。つまり、マーニャとミネアは触媒として最適の存在だ。城に捕まれば、間違いなく実験の材料にされる」
名指しされた姉妹は互いの手を握り合って、思わず漏れそうになった悲鳴を噛み殺した。二人の肩を掴むオーリンの手にも力が篭もる。
「だからこれまで、モンバーバラの街の外に二人を出そうとしなかったのか」
「そういうことだ。先生に対する人質にされることもそうだが、もし二人とも捕まれば、最悪の場合どちらかが――ということだってありえた」
歯を食いしばるオーリンの口から、微かに歯ぎしりの音が鳴った。
「バルザック、お前……そういうことは、もっと早く言えよ」
「先生から口外を禁じられていたからな」
唸るような低い抗議の声すら軽く流されて、思わずオーリンの逞しい肩が落ちる。マーニャとミネアの二人が、それぞれの肩に置かれたオーリンの左右の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫よ、オーリン」
「オーリン兄さま。私たちは大丈夫だから」
姉妹の小さな手が、その温もりがオーリンの心を和らげた。
「バルザック、最後の増幅器というのは?」
「黄金の腕輪、と呼ばれている。そこいらの金貨を溶かして腕輪の形にしただけのようなものではなく、錬金術で作られた特殊なものだ」
これまでとは打って変わって端的な説明に、またもや姉妹は戸惑いを浮かべて顔を見合わせる。
「それがないと、どうなる?」
「結果が失敗に終わる、とまではいかないが、出来上がりの完成度が歴然と異なる。さっきのパンの例で言えば、例えば野営の小さな焚き火でもパンを焼こうと思えばできなくはない。だが、煉瓦で組み上げたパン屋の石窯と比べてみればどうだ? 火力が違う。火の通り方が違う。味や触感、風味が違う。増幅器とはそういうものだ、絶対に無くてはならないというものではないが、それが用意できなければ期待したような出来にはならない」
オーリンは一瞬だけ躊躇い、それから尋ねた。
「お前は持ってるのか、それを」
「いや、ない。作れもしない」
「先生は?」
「俺の知る限りでは、先生が持っていたことはない。ただし、先生なら作れるかどうかまでは、俺も知らない」
そこで席を立ったバルザックはインクで汚れた手を洗ってから、新しく茶を淹れて一服する。言ってしまえば煎じて擂り潰した薬草を水に溶いただけだが、コーミズ村にいた頃のように白湯を沸かすための竈もないモンバーバラの小さな家では仕方なかった。
「バルザック、俺にもおかわりをくれ」
「わかった。マーニャとミネアは?」
「いらない。水でいい。苦いのキライだもん」
「オーリン兄さま、一口だけちょうだい」
四人がそれぞれ椅子に座り直し、固まっていた重い空気が少しだけ緩む。
「バルザックは、その黄金の腕輪がどこにあるのか知ってるの?」
「ああ。だが、この国にはない」
「どこだ?」
「ここから北のサントハイムだ。そこの王家の避暑地にフレノールという街がある。そこで作られたものだそうだ。ずっと昔の話だが」
静かに茶を啜るバルザックが疑問に答える。だが、その会話は本題の前の下準備に過ぎなかった。
「――……さて。ここまで話したんだ。エドガン先生が今も捕まっている理由は、もうわかっただろう?」
「そうだな。先生がそんな危険な術に関わるわけがない。『古代の邪悪な術』だとか、城の連中もよく言えたもんだな」
「父さまは、そんなことをさせられるために今も捕まっているの?」
「絶対に許せないわ。早く助けなきゃ」
四人が四人とも、エドガンが協力を今も拒み続けていることを微塵も疑っていなかった。
「コーミズ村での研究成果は全て、俺の目の前で先生が自らの手で炉の中に投げ込んだ。資料も触媒も実験記録も灰になった。いま残っているのは、先生と俺の頭の中にあるものだけだ」
「触媒、って?」
「人の命を使わずとも、他に触媒になり得るものがないかと試すぐらいのことはしたさ。『進化の秘法』そのものは邪悪で危険で、おまけに不完全な代物でしかないが、錬金術の研究としては別の見方もある。例えば北方の寒冷地でも育つ作物と、南方の収穫量の多い作物を掛け合わせて、コーミズ村のような山間の村でも育つ収穫量の多い作物を作り出せはしないか。植物でダメでも家畜ならどうか。そういう方向の実験だって考えられるんだ」
そう言ったバルザックだったが、しかし自分で自分の発言を否定するように首を横に振った。
「だが、そんな研究は本来の『進化の秘法』とは全くの別物だ。何より、城の連中が欲しているのは絶対にそんな生易しいものじゃない」
「だから、父さまは研究を止めたのね」
「そうだ」
「そして、キングレオのお城の中では今も父さまの代わりに『進化の秘法』を研究している誰かがいるのよね」
「いるだろうな。どこまで研究を進めているかは知らないが、もう先生が捕まってから2年だ。コーミズ村から持ち出した資料を調べて、『進化の秘法』の材料がどんなものかぐらいは掴んでいるだろう。早ければ内々に実験も始めている頃だろうさ」
実験。
その単語が意味することを理解していないはずはないのに、バルザックの口振りは普段と変わらなかった。
「それって……」
「マーニャ、ミネア。ここから先の話を聞けば、今日の夕食は食べられなくなるかもしれないぞ。それでも聞くか?」
決して脅すような口調ではなかった。しかし、バルザックの冷たい目には人間味がまるで感じられなかった。
「聞きたい」
だが、意を決したマーニャが強く言った。
「姉さまが知るなら、私も知りたい」
ミネアが小さく頷いた。その声には強い意志があった。
「そうか。それなら教えてやる」
バルザックは淡々と言った。
「いま、キングレオの城に出入りする人間の数が昔に比べてずいぶんと減っているという話は知っているな。以前にオーリンがハバリアで聞いてきたという噂だ」
「うん」
「覚えてる」
「だが、最近の城の兵士は質の低下が目立っている。モンバーバラに来る兵士も以前は行儀が良く、金払いも良かったのに、今では乱暴者で店の代金も払わないような悪質な客が増えてきているそうだ。……そうだろう、オーリン?」
念を押すようなバルザックの声に、しかしオーリンは答えずに顔を蒼褪めさせた。この話の先が、バルザックの言わんとするところが読めたからだ。
「待て、バルザック。まさかとは思うが、お前……」
「そうだ。以前よりも出入りする人の数は減っているのに、昔は確かにいたはずの兵士の姿は見えなくなり、そして性根の腐ったような連中が城に入り込んで幅を利かせている」
「……」
「あるいは、ただ単に職を辞して故郷に帰っただけかもしれない。今の城の空気に嫌気がさして。新しい上司が、同僚が気に食わなくて。そういう理由で城から姿を消した者もいるかもしれないな」
そう言いながらも、自分で言ったことを全く信じていない様子でバルザックは続けた。
「だが、俺はそうは思わない。何より『進化の秘法』なんて不完全な代物を本気で使おうとするような邪悪で狡猾な連中が、わざわざ見逃してくれるはずがない。自分たちの思い通りにならない目障りな人間が近くにいて、最初は成功するかどうかさえもわからない『進化の秘法』の実験のためには材料が必要だ」
「……」
「……」
「……」
三人は無言で冷や汗を浮かべた顔を引き攣らせた。実際のところ、確かな証拠は何もない。全てはバルザックの推測でしかない。
だが、ここまでの話の流れ。エドガンの逮捕と、ハバリアでの噂話と、モンバーバラの歓楽街で生じている事態が全て、綺麗に一本の線で繋がっている。
「まあ、だからこそ、俺たちにも付け入る隙があるんだが」
「「「!?」」」
オーリンが、マーニャとミネアが、ほとんど同時に腰を浮かせた。
「考えがあるの!?」
「父さまを助けられるの!?」
「バルザック、それは本当か!?」
バルザックは間を置くように茶を一口啜った。鳥かごの中で小鳥がチチチとさえずった。
「手はある。細い一本の糸を手繰るような、ひどく頼りない話ではあるがな」
ここから作中時間が1年ほど飛びます。章管理の関係で次話の投稿時間はちょっと前後します