翌日は、幸いにして魔物に襲われることはなかった。姉さんもバルザックが買ってきた食べ物をつまみながら鼻歌を歌ったりして、ずっと上機嫌だった。再び野営で一泊してから、コーミズ村へと続く山の方へと登っていく坂道に入る。
「……ミネア、大丈夫?」
「姉さんこそ」
覚えてる。違う。ところどころの記憶はぼんやりしてる。
ジプシーの一座が使っていた馬車は、こんなに大きくなかったと思う。もっと小さくて、でもその代わりに人が大勢――いや、どうだったろう。私の記憶では、とにかく賑やかだった。山道を登る時も歌を歌って、手拍子を叩いて、楽器を鳴らして。
まだ小さかった私と姉さんは親に抱き締められてた、ように思う。親だったかもしれない。違ったかもしれない。とにかく背中から抱き締められてた。私も姉さんも楽しくて、笑ってた。だって、皆が楽しそうに笑っていたから。
でも、急に誰かが悲鳴を上げて、それから――。
「?」
急に馬車が止まる。コーミズ村に着いたにしては早すぎる。何かあったのか。私と姉さんは顔を見合わせ、蓋の隙間から顔を覗かせる。
「おーい、どうしたー!?」
「石だ! 道の横に生えてる木の根と、石の間に車輪が嵌まり込んじまった!」
「チッ…! 動けるか!?」
「ああ、クソッ! 乗合馬車なら客を一度下ろせば荷を軽くもできるが、コイツは荷馬車だぞ!」
隊商の頭目や馬車を操る御者たちが叫び合い、やがて近くで対応策を話し合うのが途切れ途切れに聞こえる。だけど、徐々に興奮というか苛立ってきたように声が大きくなって、会話が全部聞こえるようになってきた。
「――…ないと、日が暮れちまう。どうする?」
「積んでる荷を下ろして、馬車を動かし、また荷を積み直す。口にすりゃそれだけだが、一体どれだけかかると思ってんだ?」
「空いている馬車は……いや、あるわけねえか。でなきゃ乗合馬車から客を下ろし、荷をそっちに積む。馬車が動けば、降りた客をそっちに乗せるってのは?」
「おい、乗合馬車と荷馬車じゃ乗り心地もまるで違うぞ。まして、全員ならともかく一部だけなんてことになったら、下ろされて移ることになる客が黙っちゃいねえ。不公平だ、払った分の金を返せと言い出すだろうよ。その分の金をそっちが出してくれんのか?」
「てめえ……」
話し合いの場は殺気立っていく。打開策が見つからなければ誰だって苛立つに決まってる。
「待て」
半ば怒鳴り合いになりかけてた会話に割り込んだ、妙に冷静な声が近くで聞こえた。バルザックの声だ。
「なんだ、ロレンス。こっちは今、大事な話をしてるんだ。傭兵は黙って――」
「スコットの力は知ってるな。こいつの力も合わせれば、移す荷物は少しで済むはずだ。荷物を移す先にも心当たりがある」
「本当か? どの馬車だって一杯に詰め込んでるんだぞ?」
「大丈夫だ。俺がなんとかする。――だが、条件がある」
そこで声が途絶える。ひそひそと密談しているような囁き声がする。
「姉さん。荷物を纏めましょ」
「え?」
急に言い出した私に姉さんが目を丸くする。
「もうすぐ、こっちにバルザックが来るわ。
「え? それって……ああ、もう、わかったわよ」
私と姉さんは箱の中に置いてあった保存食の袋や水袋、革袋、その他のこまごまとした荷物を手早くまとめる。
そうこうしているうちに、馬車の幌が開いてバルザックが乗り込んできた。
「すまない、状況が変わった。二人とも、悪いが荷物を急いで纏めて――なんだ、早いな。もう用意が出来たのか」
「ミネアが言い出したの。どうせなら、馬車が立ち往生することの方が先に
私は黙って首を横に振る。占いはそんなに都合の良いものじゃない。良いこと、悪いことの全てを見通せるわけじゃない。でも、完全に無意味というわけでもない。何か大きな流れの中で、クルクルと翻弄される枯れ葉みたいに頼りない人生に、一つの指針になってくれればいい。
「バルザック。私たちはどうすればいいの?」
「乗合馬車に移ってくれ。荷馬車に潜んでた二人の詮索はしない。馬車の代金も俺たちの報酬分から払う。水や食事も他の客と同じでいい、というところで話をつけた。立場としては、『城に呼ばれた踊り子たちが羨ましくて、ここまで黙ってついてきてしまった妹分』ってところだな。今、オーリンが踊り子たちに話をしに行ってる」
「わかったわ。そんな風に話を合わせればいいのね。任せて」
姉さんなら、踊り子たちとすぐに息を合わせられるだろう。他の客たちともすぐに打ち解けるに違いない。
「じゃあ、行くか」
バルザックと一緒に荷馬車から下りる。隊商の頭目らしき髭面の男が私と姉さんをチラッと見て、すぐに目を逸らした。
「俺は何も見てない。何も見てないから、今のうちにさっさと向こうに行っちまってくれ」
「助かる」
バルザックが男に軽く声をかけてから、私たちを馬車の列の先へと連れて行ってくれる。乗合馬車の隣にはオーリンが立ってて、私たちを見ると軽く笑いかけてくれた。
「首尾は?」
「大丈夫だ」
二人が頷き合って、私たちに馬車に乗るよう促した。
「あら、マーニャ。ついて来ちゃったの? 困った子ねぇ」
「ごめんなさーい」
「もう、ミネアちゃんまで一緒だったのね。仕方ないわ。ほら、こっちにおいで。お姉さんの膝の上が空いてるわよ」
「お姉さんって年じゃないでしょ、あんたは。お母さんとか、せいぜいおば――」
「なあ、おい。その無駄に動く口を今すぐ針と糸で縫い付けてやろうか?」
思い切りドスの利いた声で馬車の中を震え上がらせる踊り子の顔を視界に入れないよう目を逸らして、私は他の客が少しずつ身を寄せ合うようにして作ってくれた隙間に姉さんと一緒に滑り込む。
「スコット、すまないが馬車を頼む。お前がいないと動かせないだろう」
「任せろ。すぐ戻る」
馬車の外ではバルザックとオーリンが声を交わしているのが聞こえた。
「あらあら、可愛いお嬢ちゃんたちだね。荷馬車の中に潜り込んでたんだって?」
「街の外に出たら何があるかわからんってのに、こんな年で勇敢というか無茶というか……」
乗り合わせた旅客たちが私と姉さんを見て口々に感想を言い合う。
「よーし、動いた!」
「すぐに出発だ! 急げ! 余計な時間を喰っちまったせいで日が傾いてる!」
少し経ってから後ろの方で声がしたので、問題の馬車は無事に抜け出せたとわかった。
「このままだとコーミズ村に着くのは夜になっちゃうかもねぇ」
「それじゃ、暇潰しに何か歌でも歌おうか」
「あら、いいわね。お城で披露する前の練習にはちょうどいいもの」
誰からともなく、乗合馬車の中で歌声が響き始める。
「ミネア?」
懐かしいような、不安なような、なんとなく怖いような。でも、どうしてそんな気分になるのかわからない。
馬車の外にはオーリンもいて、バルザックもいるのに。
「ミネア? 大丈夫?」
皆が歌っている。笑っている。手拍子が鳴る。楽しそうに。
外では日が暮れて、山の稜線にゆっくりと陽が沈んでいく。馬車の中にまで差し込んできていた黄昏の光がゆっくりと黒ずんできて。
「ねえ、ミネア? ミネアったら!」
「……姉さん、
「え?」
私は立ち上がった。皆が私に注目する。危ないよ、とか、座っていないと、とか、心配して声をかけてくれる。
でも、私は構わなかった。大きく息を吸う。姉さんが慌てて立ち上がった。馬車の外を見た。
「
そして、ありったけの大声を張り上げた。――だから、辛うじて
「
「おい、ありったけの松明を点けろ! 道を照らせ!!」
「もうすぐコーミズ村だ! そこまで持ちこたえろ!!」
馬車の中からの悲鳴、馬車の外からの怒声。
誰かが私の肩を抱いた。横を見ると、姉さんが今まで見たことも無いほど張り詰めた横顔で外を見ていた。
「姉さ――」
「よくやったわ、ミネア!」
姉さんの頬は蒼褪めて、額には汗が浮かんでいて、私の肩を抱いた手も震えていて。違う。私の体も震えていて。それでも、姉さんは叫んだ。
「
馬車の外は大騒ぎだったけど、それでも誰かが点けた松明の光が夜道を照らした。
何かが見えた。茶色い体。私や姉さんと同じくらいの大きさの体。三日月のように大きく開いた口からダラリと伸びた、臍の辺りにまで届くほどの長い長い舌。
覚えてる。忘れてない。忘れられない。夜の森で、私の、姉さんの、私たちの両親を、ジプシーの一座を襲った魔物。
皆で頑張って倒しても、倒しても倒しても、次々に仲間を呼んで数を増やしてきて。とうとう一人が、そしてまた一人が力尽きて倒れていくのを。
「つちわらし!」
「メラ!!」
私が叫ぶと同時に、姉さんが右手を前に突き出した。姉さんの拳くらいの小さい火の玉が真っすぐに飛んだ。魔物の腹に当たって、魔物が倒れる。肉が焦げるような嫌な異臭が鼻を突く、でも、倒しきれなかったのか、起き上がろうとする。細い目も笑っているように見える三日月形の口もそのままなので、効いているのか効いていないのかもわからない。
「もう一度!」
たった一回。たったそれだけしか魔法を使ってないのに、もう姉さんはフラフラだった。顔は真っ青で、ガクガクと膝が笑ってる。それでも無理をして立ち続けてた。
「姉さん! 無理しないで!」
「ミネアは絶対に私が守るんだから!」
意地を張って立ち続ける姉さんだけど、でも、起き上がる魔物の横に、もう一体、同じ魔物が並ぶ。
「そん、な」
最初に一体目を倒しきれていれば。そう思っても、もう遅い。
「ギラ」
だけど、そんな私たちを助けてくれたのは。あの時の父さまやオーリンと同じように、今の私たちを救ってくれたのは。
「「バルザック」」
2体の魔物が纏めて火に巻かれて踊るように倒れ込む横で、松明の光に照らされたローブ姿に、私と姉さんは異口同音に呟いていた。