かつて錬金術師エドガンが使っていた工房兼自宅は、すっかり廃墟と化していた。ありったけの資料や錬金術に使う器具類を全て運び出し、あるいは他に何か隠してあるものでもないかと徹底的に調べ尽くしたのだろう。煮炊きに使う竈は割られ、机も椅子も残らずひっくり返され、床の隅々まで舐めるように調べられた痕跡が残っていた。床板を引き剥がし、天井にも穴を開けて、荒らしに荒らされ尽くしていた。
まるで空き巣に遭ったように、というのは空き巣に入る盗人にとってさえ失礼な形容だろう。空き巣にだって最低限の慎みがある。少なくとも、空き巣に入る連中は金目のものを探すことはあっても、ここまで家を徹底的に荒らし尽くしたりはしない。
開けっぱなしのままで放置された扉から吹き込んだ風雨と土埃で汚れた室内の中央に立って周囲を見回すバルザックは不快げに眉をしかめたが、口に出しては何も言わなかった。
「……ひどいもんだな」
入り口から中を覗き込んだオーリンが忌々しげに吐き捨てる。かつては自分とバルザック、そしてエドガンと、マーニャとミネアの家族5人で暮らしていた場所だ。そこがただの廃墟と化しているのは、家の中だけでなく心の中までも荒らされているような惨めさがあった。
「まあ、こうなってるのは当然だろうな」
対するバルザックは、少しも驚いた様子はなかった。むしろ、最初からこうなっていることを予期していたかのような平坦な口調だった。
「城の連中が『進化の秘法』を欲している以上、ありったけの資料を持ち出すのは当然のことだ。そして、自分たちの目から隠されているものがまだあるはずだと疑うのもな。俺や先生が、何か隠し玉を用意していないとも限らないと考えるのが、ああいう輩の常だ」
「だろうな。……だが、これなら、もう家の中に何も残ってないと見ていいんだろう?」
「ああ。俺が知る限り、もうここには何もない」
バルザックは床の上に転がっている椅子を持ち上げようとして、しかしそれが脚が無残に折れて立て直しても座れそうにないことに気付いて息を吐いた。
「これでは少しばかり掃除したところで無駄だろうな」
「せめてベッドくらいは残っていて欲しかったが」
「無いものねだりをしても仕方ない。地下に降りよう。どうせ荒らされているだろうが、ここよりはマシだ」
オーリンに続いて入ってきたマーニャとミネアも目の前の惨状に息を飲み、そして唇を噛んだ。
「ねえ、バルザック。地下って、貯蔵庫の? あそこで寝るの?」
「この家に地下は他にないぞ。もし他の隠し部屋があるとしても、それを知ってるのは先生だけだろうな」
荷物袋からランプを取り出したバルザックは芯に火を灯す。
古い石段を降りていくと、煉瓦を組んで四方を漆喰で覆った頑丈な地下室があった。かつては日光で傷む蔵書や写本、錬金術で使う器具や干した薬草や香草なども貯蔵されていた。だが、今やそれらは残らず運び出され、がらんどうになっていた。
「ここも荒らされてるか」
バルザックと同じく用意していたランプを掲げたオーリンは、壁一面に取り付けていた木製の棚は叩き壊され、その奥の漆喰までも引っ掻かれて煉瓦がところどころ剥き出しになっている壁や床を目にして、さすがに苛立ちを隠せない。
「だが、これくらいならまだちょっと掃除すれば何とかなる。空気が埃っぽいのは我慢するしかないだろう。オーリン、毛布を頼む」
「わかった」
4人は役割を分担して動いた。バルザックが散乱した棚の残骸や漆喰を手早く片付けて床を広げる。オーリンが運び込んできた毛布を広げ、二つのランプを光源にして、姉妹が潜んでいた箱の中から持ち出した干し肉やチーズ、干し葡萄などを中心にして遅い夕食にする。明日も乗合馬車に乗れるので、昨日や一昨日ほどには暇潰しの種に事欠くということにはならないだろう。
「ミネアがね、村の手前で『魔物が来る』って叫んだでしょ? おかげで馬車の人たちがすっかりミネアの占いを信じるようになっちゃって。あれから村に着くまでだって、明日は無事にハバリアに着けるか占って欲しい、ハバリアから出る船が無事にエンドールまで着けるか占って欲しい、って、ものすごい人気だったのよ」
「姉さん、あまりそういうことは言わないで。あれはたまたま、本当に偶然なんだから」
「いいじゃないか。ミネアのおかげで俺たちも助かったんだ。なあ、バルザック?」
「そうだな」
「姉さんだって、メラで魔物を倒したじゃない」
「倒せてないわよ。……倒したかったけど」
悔しそうなマーニャの頭を、オーリンとバルザックが代わる代わる撫でた。
「俺だって魔物と初めて向き合った時は震えてたよ。先生が後ろで見ててくれたから何とかなったんだ。それに比べたら、マーニャは立派だよ。ミネアをちゃんと守っただろう?」
「少しでも早くギラを覚えようとしていたせいで、ここのところ足元が少しおろそかになっていたんじゃないか? もっとメラを練習する時間を増やすんだな」
「う、うるさい! バルザックは一言余計なのよ! どうせ褒めるなら、オーリンみたいに素直に褒めなさいよ!」
地下室にマーニャの遠慮のない大声が響く。そんな姉を見ながらミネアは微笑んでいた。
モンバーバラの街から旅立ってからは人前で大っぴらに喋ることも出来ず、しかも初めて馬車の旅を体験する中でどうしても気疲れもしていた。
それを思うと、この地下室は本当に久しぶりに過ごす我が家のように落ち着けた。いや、実際に我が家だったのだが。
「さて、予定通りに行けば明日はハバリアだ」
「そこで一泊。その後はアッテムトに、か」
「ハバリアでの用事が無事に済んでくれれば、だがな」
バルザックとオーリンが相談する。そこで二人は、ほとんど同時に何かを思い出したように異口同音に口を開けた。
「オーリン、小鳥――」
「バルザック、あの、小鳥さんは――」
そして、これまたほとんど同時に話し始めた姉妹の声が綺麗に重なり、オーリンとバルザックは思わず互いの顔を見合わせる。そして小さく笑った。
「ああ、あのカナリアも俺たちの家族だ。この家にも入れてやるべきだな。バルザック、いいか?」
「いいぞ。というか、二人が乗合馬車に移った時点で鳥かごから出してやっても良かったな。まあ、おかげで魔物の襲撃にも巻き込まずに済んだが」
腰を上げたオーリンが地下室を出て行き、さして待つまでも無く鳥かごを持って戻ってくる。野営のたびにオーリンとバルザックが水と餌を補充してやっていた小鳥は、安心したように笑う姉妹の顔を見て小さくチチチと鳴いた。ただし、
「おい、オーリン。なんだ、それは」
バルザックが光の加減で金色にも見える目を鋭く細めた。鳥かごとは反対側の手にオーリンが手にした皿には、吹かした芋が乗せられていたからだ。
「ああ、実は戻ってくる途中で村人に見つかってな。押し付けられた」
「何だと?」
「もちろん、これは俺たちにじゃないさ。お尋ね者の罪人なんか見ていない。これはたまたま村に迷い込んできた小鳥に餌をやっただけ。明日にはどこかに飛び去っていったから、何も見てないし何も知らない。そういうことだ」
慌てず騒がず、ゆっくりと答えたオーリンに向かってバルザックは呆れたように首を振った。
「昔に比べて随分と言い訳が上手くなったじゃないか」
「それはまあ、目の前に悪いことを教えてくれる先生がいるからな。俺だって毒されもする」
各自が思い思いに手に取って、まだ微かに湯気を立てている芋にかぶりつけば、口の中に塩気が広がった。その素朴な味わいは、期せずして4人の胸に懐旧の念を呼び起こさせた。
エドガンと一緒に暮らしていた頃も、オーリンが畑で取ってきた芋をマーニャとミネアが小さな手で洗い、今は壊されてしまった竈でバルザックが蒸し焼きにした熱々の芋を家族で頬張った。ただ塩を振っただけの味付けでも、十分に美味だった。そこに家族が揃っていて、皆が笑ってさえいれば。
「うん、美味しい。けど……でも、やっぱり、父さまと一緒に食べた時の方がもっと美味しかったな」
マーニャは感慨深げに呟き、また一口食べた。舌先に感じる塩味と柔らかい食感が懐かしかった。ミネアもまた小さく頷きながら芋を噛みしめる。その表情には郷愁が浮かんでいた。
その肩に止まる小鳥は興味深げに芋を覗き込んだものの、しかしミネアから差し出されても食べようとはせずに部屋の隅に飛んで行って、おもむろに嘴で羽をつくろい始めた。
「あ!」
その羽つくろいで落ちた羽根を何気なく見たマーニャが、急に何かを思いついたように声を上げた。すわ何事かとばかりに他の三人が注目する中、立ち上がると落ちた小鳥の羽を拾いあげる。
「えへへ……」
そして、それを地下に持ち込んでいた帽子に差し込み、出来栄えを確かめるように矯めつ眇めつする。
使い古されていた帽子も、そこに色鮮やかな金糸雀の羽が加わっただけで随分と様変わりした。踊り子らしいファッションの完成にマーニャは得意げに笑った。
「なんだ、それは」
「村の子からもらったの。旅をするなら日よけの帽子は必要だろ、って」
先ほどはいなかったバルザックに、マーニャが自慢げに答えた。それにバルザックはどこか遠いところを見るような目で、小さく呟いた。
「はねぼうし、か」
「え?」
「いや、なんでもない。いいものをもらったな」
「うん!」
大切そうに帽子を持つマーニャを見守るオーリンは、その傍らのミネアを見た。
「だが、そうなるとミネアにも帽子を用意しても良いかもしれないな」
「そうだな。ハバリアに行ったら探すか」
「え、でも……」
「それはいいわね! 私にはコレがあるから、ミネアには新しい帽子を買ってあげて!」
妹が遠慮がちに何かを言う暇もなく、即座に姉が賛成した。
「荷馬車の中に隠れていられたなら、まだ今のままでも良かったが、もし明日も乗合馬車でミネアも魔物に襲われる可能性を考えると、ちゃんとした防具は用意しておくべきだった。これは俺の手落ちだ」
「あ、う、うん。別に、バルザックが悪いとか、そういうつもりじゃ……」
バルザックが論理的に説明を加えると、それ以上は何も言えなくなる。マーニャであれば感情に任せて言い返すことも出来なくはなかったが、良くも悪くもミネアはそういった激しい感情に身を任せることが苦手だった。
「いいから、ミネアも一緒に選びましょうよ。可愛い帽子があるといいわよね!」
「おい、マーニャ、」
「どうせ『遊びじゃないんだぞ』って言うつもりでしょ! わかってるんだから! いいじゃない! 私もミネアもちょっとぐらいお洒落したくなったって!」
「……」
「ぶ、ぷふっ……!」
続きを言う前にマーニャにお株を奪われたバルザックが閉口すると、思わず顔を背けたオーリンが口元を手で覆って笑いを堪える。このところ、マーニャがバルザックと威勢よくやり合うことが目に見えて増えていた。
昔、コーミズ村にいた時は、あれほど姉妹揃って距離をとってバルザックを露骨に警戒していたのが嘘のようだと思えば、オーリンは笑わずにはいられない。
「……オーリン、俺に背を向けても肩が震えてたら笑っているのが丸わかりだぞ」
「す、すまん。だが、こう、どうしても我慢できなくてな、つい」
「いや、謝る必要はない。ないが……少しは助けろ」
「ぶっ…!」
そして、バルザックもバルザックだ。あのバルザックが。人前で、誰かに言われる前に、自分から弱音を吐くなど。このコーミズ村でさえ師であるエドガンを除けば、ほとんど人と馴れ合わなかったはずなのに。この変化に本人は気付いているのだろうか。
――地下室の隅に掃き寄せられた埃と漆喰の山が目に入る。気付かぬうちに溜まっているもの。気付かぬうちに変わっているもの。そして、いずれ新しいものに入れ替わっていくもの。
「ああ、もう、全く、いい加減にしろ。そろそろ戻ってこい」
「あ、ああ。わかった。明日も早い。寝るとするか」
広い背中をバルザックの手が軽く叩いた。それで何とか気を取り直して、4人は寝る準備をする。姉妹は床の上に敷いた毛布とは別の毛布に包まるようにして抱き合い、バルザックが鳥かごを近くの隅に置く。しかし当の小鳥は姉妹の枕元で止まり、籠の中には戻らなかった。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
ランプの灯が一つ吹き消された。一つだけ点けられたままのランプにも覆いがかけられ、地下室には薄闇が落ちた。そこに4人分の寝息が響くのは、それから間もなくのことだった。