目の前が真っ白になる。失調した三半規管が平衡感覚を喪わせ、上下左右の方向感覚すら曖昧になる。地面に叩きつけられるように着地した時、めまいに耐えきれずにそのまま両膝をつく。吐き気がこみ上げてきて口元を手で押さえる。
「み、ミネア……だ、大丈夫?」
「姉さんこそ……うっ、気持ち悪い」
まだ明滅していて視界が定まらない中で、辛うじてマーニャとミネアの声を耳が拾う。
「二人とも、大丈夫か? オーリン、先生は無事か?」
「お、俺は何とかな。先生、大丈夫ですか? エドガン先生?」
「……やれやれ、久しぶりのルーラ酔いは老骨には堪える。声は何とか聞こえるが……、目が、いかんな。何も見えん」
弱々しい声に慌てて立ち上がる。眩暈でよろめきそうになる膝を殴りつけて無理やり活を入れる。
「すぐにベホマをかけます」
「すまぬな。やはり相当に弱ってしまっているらしい」
オーリンに背負われたままの師の体に、その背に手を添える。触ってみると、改めてその惨状がわかる。長きにわたる牢獄暮らしで今や骨と皮ばかりの痩せ細った体は冷え切っており、肌は乾燥して荒れ果てている。過酷な環境による深刻な栄養不足と衰弱は明らかだった。
「ベホマ!」
掌に集めた癒しの光を師の背中に押し当てる。魔法が効果を発揮し、師の体を内側から温めていくのがわかる。荒れ果てていた肌に少しずつ血色が戻り始める。だが、魔法で治癒できるのはあくまで直接的な肉体の損傷までだ。長期間の投獄と監禁生活によって失われた体力や栄養状態は、食事と休息によって少しずつ補っていくしかない。
「ん、む……ふぅ、少しはマシになったか」
「無理はなさらないでください」
「ふふ、案ずるな。陛下からの勅命とあっては、儂もそう簡単に死ぬわけにはいかなくなった」
力なく微笑むエドガンを今すぐにでも温かい寝床に横たえ、休ませてやりたい。俺は周囲を見回した。
「ここは……どこだ?」
すぐ近くには、見上げるほどに大きな城があった。一瞬、まだキングレオ城から逃げ切れていなかったのかと思いそうになったが、すぐにそれが思い違いだとわかった。
キングレオの城は内陸部にあった。昼の太陽が照らしている南方には山岳地帯が広がっている。しかし、今や同じく青空で輝いている昼の太陽の下に見えるのは青々とした海原だ。海に面した、というほどの沿岸ではないが、城門から出た先が、そのまま海まで視界を遮るものが何もない草原となっている。
「ミネア、見て。あっちにすごく大きな建物があるわ。モンバーバラの大劇場と比べて、どっちが大きいかしら」
マーニャの声に俺も首を巡らせた。城の西側に建つ、ちょっとした砦のようにも見える、頑丈そうな石造りの――。
「あれは、教会? となると、サランの街か? なら、ここはまさか」
「とぁーっ!!」
俺が言いかけた言葉を最後まで口にするよりも早く、頭上から溌溂とした声が落ちてくる。いや、違う。その声の主が上から飛び降りてきた。
「ほいっ、と」
猫が軽やかに地面に降り立つように、スタッと綺麗に着地を決める。いや、ちょっと待て。思わず見上げた城のひさしの高さは、俺の背丈どころかオーリンが俺を肩車をしてもなお手が届かないであろうほどに高いところにある。普通の民家なら3階とか、それぐらいだ。この世界では3階以上の建物自体、そうそうあるものではないが。
そんなところから飛び降りれば普通に怪我をするか、悪くすれば死ぬ恐れすらある。
「ん?んん? あ、すっごい! キミたちとっても可愛いね! 肌の色もボクと違うし、この城の近くじゃ見たことない人だね。ねえねえ、どこから来たの? 名前は?」
いきなり城から飛び降りてきて、すぐさま人懐っこい笑顔でグイグイと物怖じせずにマーニャとミネアに話しかけている少女。赤みがかった亜麻色の巻き毛に、トレードマークの青いとんがり帽子に同色のマントが映えている。
――
「あ! いっけない! 人にものを尋ねる時は、まず自己紹介からって爺やが言ってたっけ」
唖然としている俺たちに構わず、軽く自分の頭をコツンと叩いて反省の素振りを見せた少女は、別人のように優雅な仕草でカーテシーを披露した。
「ボクはアリーナ。このサントハイム王国の第一王女。よろしくね!」
運命に導かれし勇者の仲間の一人にして、将来は間違いなく世界最強の武闘家に成長するサントハイムのお転婆姫は、太陽のように眩しい笑顔で俺たちに挨拶をした。
これにて第一部は終了です。
この後は第二部の導入となる間章を明日投稿する予定です。