「おはようございます、ブライ様」
「うむ、今日も早いな、クリフトよ」
今日も役人や侍女、侍従や使用人たちが忙しく行き交う朝のサントハイム城の廊下で、一分の隙も無く服装を調えた少年が折り目正しく一礼する。整った顔立ちは貴公子と言うにはまだ少しばかり年季が足りておらぬが、弛緩とは無縁の生真面目そうな雰囲気は、あと数年もすれば王宮勤めの侍女から憧れの目を向けられることにもなるだろう。尤も、そうなったところで本人は今も昔も意中の相手ただ一人しか目に入っておらぬであろうが。
「今日の姫様の御予定ですが、午前中は政治、経済、社交の授業が入っております。陛下との昼食後、午後からは他国からの外交使節との謁見の場に同席。陛下との茶会の後、湯浴み。一時の休憩の後、晩餐となります」
「ふむ」
神官服の少年が開いた手帳を片手に滔々と並べ立てるのは、およそ王族に生まれついた者にとってはさほど物珍しくも無い日常ではある。しかしながら、我が国においてもそれが当たり前かと言えば全く別の問題ではあるが。
「して、クリフトよ。それを聞かされた姫様が素直に従ってくれる見込みはどの程度と判断しておる?」
「……」
無言。沈黙。もはや言うまでもないことを口にするだけ無駄というもの。
「「はぁ……」」
儂とクリフトの口から、どちらからともなく吐き出される小さな歎息。これは毎日、サントハイム城に朝が来るたびに繰り返される儀式のようなもの。決して忌避をしているわけでも、逃避したいわけでもないが、素直に受け入れるには少しばかり苦々しい現実を噛みしめるためには必要な手順である。
「では、行くか」
「はっ」
杖を突いて歩き出す儂の横にクリフトが並ぶ。姫様の寝室に行くまでに、いつしか聞き慣れてしまった凄まじい破壊音やら、甲高い掛け声やら、あるいは慌てふためく若い侍女の困惑の声が聞こえたりはしないかと戦々恐々としていたのだが、思いのほか今朝の王城は静かなものだった。
「ブライ様、今日の姫様は静かですね」
「油断するな、クリフトよ。あるいは姫様のことだ、もうとっくに部屋から抜け出しておられるやもしれん」
「そ、それは……いえ、姫様ならば、はい、そういうこともありえますか」
願わくば部屋で大人しくしていて欲しいものなのだが、残念ながら老人の儚い願いが叶えられた試しなどほとんどない。
「姫様、おはようございます。クリフトでございます。朝の御支度はお済みでしょうか」
「ブライでございます。よもや寝坊などなさってはおりませんでしょうな」
正直に言えば、そこで素直に扉が開けられた記憶など片手で数えられるほどしかない。壁を蹴破って部屋から逃げ出しているか、扉を蹴破って飛び出してくるか、あるいは不貞寝を決め込んで部屋に閉じこもっているか。
だから、信じられぬことに扉が内側から城の侍女の手で開かれ、あまつさえ姫様が大人しくドレスを着ている姿を見た時は我が目を疑った。ついで目の前の光景が夢ではないかと思った。
「……」
チラリと横目で見ると、クリフトは舞い上がったように頬を染めて見蕩れていた。気持ちは、まあ、わからんでもない。儂とて思わず感涙しそうになったのだから。とはいえ、目の前の想い人が不機嫌のどん底にいることぐらいは気付かんでどうする。
「ほれ、クリフトよ。しゃっきりせんか。何を呆けておる」
杖の先で軽く頭を小突いてやる。首を傾けた少年が頭に乗せていた神官帽の角度を直しながら再起動を果たし、背筋を伸ばした。
「し、失礼しました。ひ、姫様、おはようございます!」
「……おはよ」
ボソッと呟くように小さく答える姫様の目は険悪に据わっていた。決して自分から喜んでドレスを着たわけではないのが丸わかりである。
「姫様、ご機嫌麗しゅう。どうなさいました、そのような仏頂面ではせっかくの花の
「うるさいな。こんな格好、ボクが着たくて着たわけじゃないことぐらいわかってるくせに」
「ええ、無論それは承知しておりますとも。それでは、今日は一体どのような風の吹き回しで?」
まだまだ控えめな胸の前で腕を組んだ姫様が溜め息をついて、クリフトを見る。
「社交の勉強なんてしたくもないけど、ダンスの練習をするにはドレスを着なきゃダメって女官長に言われたから」
「ほう? いま、何と仰せられましたかな?」
「だーかーらー、ダンスの練習だってば!」
カツカツと踵を鳴らして近づいてきた姫様は、クリフトの顔に指を突き付ける。
「クリフト、確かダンスも出来たよね?」
「え? あ、は、はい。さほど上手とは言えませんが、い、一応は。で、ですが、その……」
「ボクの練習相手。午前中は付き合って」
せっかく気を取り直したばかりだというのに、哀れにもクリフトは再び心をどこかへ飛ばしてしまいおった。決して公的な場ではないにせよ、よもや初恋の相手とダンスを、しかも姫様の方から望まれてなど、夢にも思わぬほどの望外の幸運ではある。
「ダンスとは。あの姫様が。ハハッ、これはまた。困りましたな。明日は嵐でしょうか。いやいや、雨どころかマヒャドの如く大粒の雹が落ちてくるやもしれませぬな」
「もうっ、うるさいっ! 爺やは父上のところにでも行ってればいい。父上も覗きになんか来なくていいから」
軽くからかうと、姫様は拗ねたように顔を背けられた。
ダンス。踊り。ああ、なるほど。かの友人が踊り子志望と聞いてはいたが、よもやこのようなことが起こるとは。
「あと、午後からの謁見」
「……は?」
「爺やも一緒に来るんでしょ? えっと、確か……外交使節の見分け方、だっけ。昔、ちょっとだけ言ってたでしょ。国によって遣わしてくる使者にも格式があって、それ次第でこっちを軽く見てるのか、それとも重視してるのかがわかるとか、何とか」
思わず目を瞬かせる。そう言われれば、ずいぶんと前にそのようなことを教えた覚えはなくもない。
「父上と一緒にボクが謁見の間に入る前に、もう一度それをちゃんと教えて。ボクも
そこまで姫様に言われてしまえば、こちらも少しばかり表情を引き締める。いやはや、思っていた以上に本気でいらっしゃるようだ。これはもう、一時の気まぐれや退屈しのぎなどではない。
「
「……キングレオ」
姫様が小さく、しかし確かに力を込めて口にする。
「ボクにとっても、そしてサントハイムにとっても、もう他人事じゃない。他人事にしちゃいけない。もし本当に、あの国が危険な邪法に手を出そうとしているのなら。絶対にそれを放っておくわけにはいかない」
それは、あるいは個人的な動機から発した言葉かもしれぬ。親しくなさっておいでの女友達の影響も否定はできまい。だが、確かにそれは一国の王女としての立場からの発言であり、おそらくかつての姫様からは決して出てこないものであったはず。
「御意」
恭しく頭を下げる。姫様が、また一つ成長なさった。あの小さき幼子が、こうも大きくなられた。この老い耄れにとって、それ以上に嬉しいことなどありはしないのだから。