城から戻ってきたバルザックは、先生にサントハイム王との会話を淡々と説明していた。
「——以上です。三泊四日の予定で、明後日の朝に出立となります」
蝋燭の灯りに照らされた先生の顔は、今だ衰弱から回復し切ってはいない。それでも、弟子の報告を聞く目には叡智の光が宿っていた。
「そうか。サントハイム王がわざわざ娘の護衛役として、お前を名指ししたか」
「はい。直接、依頼されました」
俺は黙って壁にもたれながら二人の話を聞いていた。先生が手招きすると、俺は近づいて木製の椅子を引き寄せた。机の上には湯気の立つ熱い茶が置かれていた。
「すまない、オーリン。サントハイム王から直々に姫のお守りを依頼されては断りきれなかった。お前には留守番を押し付けることになるが」
「気にするな」
肩を竦めて答える。バルザックが眉をしかめる前に言葉を続けた。
「むしろ俺は先生の世話に専念できる方が気楽だ。暫くの間は、あのお姫様の手合わせ相手をしなくてもいいというだけで十分だ」
まさか自分が一国の王女と素手での殴り合いに付き合わされることになるだなんて、コーミズ村にいた頃は想像もしていなかった。しかも手加減抜きでと言われた時は本気で仰天したものだ。
今もなるべく顔に痣や傷が残らないよう気をつけているつもりだが、日に日に成長してくるあのお姫様は最近じゃ俺の方に手加減する余裕すらなくなってきている有様だ。そのうち本当に姫様の顔に青痣の一つもつけてしまうことになりそうで、このところは手合わせのたびにヒヤヒヤしていたくらいだ。たった数日の間でも、その心配をせずに済むというだけでも気が楽だ。
「そうか。お前でも、か。やはり、あの才能は規格外だな」
「おそらく、あと数年ほどで確実に抜かれるな。槍を使えばもう少しは渡り合えるかもしれないが、素手では無理だろう」
マーニャやミネアと同年代の少女に追い抜かされることに全く何も思わないというわけではないが、それよりも賞賛と讃嘆の念が遥かに勝る。
実のところ、あの才能の塊が行き着く先を見てみたい。あれだけの才能がどこまでの高みに至るのか。魔物に比べて遥かに劣るはずの人の身で、一体どこまで手を伸ばせるのか。その果てを見ることが出来るのなら、俺はそれだけでも十分に報われる気がする。
「オーリン。そしてバルザックよ」
「はい、先生」
俺たちの会話を黙って聞いていたベッドの上の先生は茶器を傾け、ゆっくりと一口だけ啜った。あのお姫様とブライ様が持ってきて下さった最高級の茶の芳醇な香りが部屋いっぱいに広がっている。
「まだマーニャとミネアには聞かせられぬことだが、お前たちには先に言っておかねばなるまい。――…儂の死期は近い」
「……」
静かな声だった。紙に書かれた数字を読み上げるように淡々と、先生は自分の余命が長くないことを告げた。俺は、俺たちはそれに対して何も言えなかった。慰めも、反駁も、何一つ。
そんなことはない、という口だけの否定をした時の虚しさを噛みしめる。きっと先生は笑うだろう。考えなしに馬鹿なことをした子供だった頃の俺たちに向けたものと同じ、呆れたような笑いを。
「まだ、今日明日にでも、というほどに差し迫っているわけではない。
もう一口だけ茶を啜って、先生は目を瞑った。
「もはや儂の目はほとんど見えぬ。字を書くにも事欠く有様だ。バルザックたちが不在の間に、オーリンには口述筆記の手伝いを頼む」
「わかり、ました」
噛みしめるように答える。先生の体の不調は、薄々とではあっても気付いてはいた。だが、こうしてはっきりと言葉にされてしまうと、たまらない気分になる。
「オーリン、儂に死んで欲しくないか」
「当然です!」
思わず大声を上げてしまいそうになって、慌てて口を手で塞ぐ。
「では、オーリンよ。儂が『進化の秘法』で、そこな鳥と体を一つにすることで暫しの延命を叶えられるとしたら、それでもお前はそれを実行に移せるか?」
その問いに、俺は答えられなかった。
キングレオの城に向かう際にミネアが懐に入れていた金糸雀はキメラの翼でサントハイムにもついてきて、そして今もまだ生きてはいた。ただ、俺がアッテムトから引き取ってきた時点で既に相当の年寄りだった小鳥は、最近は鳴くことも減り、籠の中で餌を食べる量も減り、心なしか少しずつ痩せてもきているようだった。それでも、マーニャとミネアも、俺たちも世話を欠かさなかった。
「良いか、オーリン。『進化の秘法』とは、そういうものだ。材料となる二つの命は、そのどちらもが
バルザックは何も言わなかった。あの顔は、既に知っていることを聞かされている時の顔だった。
「それでも、と、そう思ってしまうのは人の愚かしさだろう。悲しむな、とは言わぬ。儂の死を惜しんでくれるのは嬉しくもある。だが、何事にもいずれ終わりは来る。国は滅び、城は朽ち果て、時代は移り変わる。お前にもまた、次代に後を託す時が来る。だから――」
「大丈夫です。先生、もう十分です」
これ以上は聞いていられなかった。この場で今にも号泣してしまいそうだった。もしそうなったら、もう寝ているはずのマーニャとミネアを起こしてしまう。
「すまん、バルザック。俺は外で顔を洗ってくる。先に寝ていてくれ」
「…わかった」
先生の部屋を出る前に、俺は鳥かごを見た。鳴かない鳥は、それでも俺を見上げた。微かに小首を傾げた。チチチ、という聞こえないはずの声が聞こえたような気がした。