第一話:太陽の跳躍
今日は、ものすごく早くに目が覚めた。というか、昨夜は興奮してなかなか寝付けなかった。でも、全然これっぽっちも眠くない。むしろ早く動き出したくて、少しでも早く城の外に出たくて仕方ない。
「おはようございます、姫様」
「おはよっ!」
朝一番に来た侍女が、もう僕が身支度を整えてるのを見て目を丸くする。でも、これくらいは自分一人でも出来るようにならなきゃ。だって、今日からしばらくは身の回りの世話をしてくれる侍女なんかいないんだから。
「洗顔の支度ができております」
「うんっ」
持ってきてもらった水で顔を洗う。髪を梳かしてもらうのは自分でやろうか少し迷ったけど、それぐらいはやってもらうべきかと思い直す。
別にボクみたいに城育ちというわけでもないのに、マーニャの髪もボクに負けないくらい綺麗だ。特別なことは何もしてないって言ってたけど、朝に髪を梳かしてもらうのは妹のミネアによくやってもらうらしい。その代わりにマーニャも妹の髪を梳かすのが好きらしいけど。
あんなに仲の良い姉妹がいるっていうのが、一人っ子のボクには少し羨ましい。乳兄弟のクリフトはボクの兄みたいな感じだけど、姉とか妹とか、そんな相手はボクの近くには今までいた試しがない。だから、ボクにとってマーニャはお姉さんっぽいし、ミネアは妹っぽい。
「そういえば、姫様」
「んー?」
ボクの髪を櫛で丁寧に梳かしながら侍女が話しかけてくる。
「今日のお召し物はいつものとは違うのですね」
「へへー! 昨日クリフトが買ってきてくれたんだ! 体が軽くなって動きやすくなる素敵な服!」
「とてもお似合いです」
「ありがと!」
鏡に映る自分の姿は、いつもと違って見えた。淡い若草色の長袖の服は、動きやすさを重視して作られているとクリフトが言ってた。
素材は特殊な糸で編まれているらしく、普通の服よりもずっと丈夫で、それでいて肌触りも悪くない。腰やお腹をぎゅうぎゅう締め付けてきて死にそうになる窮屈なドレスなんかより千倍も万倍もボクの好みだ。持ってきてくれたクリフトに笑顔でお礼を言ったら、ものすごく真っ赤になっていた。
「姫様、朝食の準備が出来ております。陛下もお待ちです」
「わかった! すぐ行くよ!」
梳かしてもらった髪の出来を鏡の前で確かめて、仕上げに母上の形見の帽子を頭に乗せて、角度を慎重に確かめる。マントを肩に羽織って、鏡の前で軽く一回転。マントが翻って、出来栄えに満足する。これなら大丈夫。
「よしっ、行くぞっ!」
拳を握って気合いを入れる。
「姫様、クリフトでございます」
「ブライでございます」
ちょうど良く、扉をノックする音と共に二人の声も聞こえてきた。扉が侍女の手で開かれる。
「おはよっ、クリフト! 爺やも!」
「ホッホッホ、今日の姫様は特にお元気ですな」
「ひ、姫様、そのお召し物……と、とても、お似合いです」
白い髭を撫でながら爺やのブライが笑い、クリフトは昨日に見たままの真っ赤な顔でボクの服を褒めてくれる。
「ありがと! クリフト、この服すっごく着やすくていいね! ボク、気に入っちゃった!」
「ほほう、この唐変木めも少しは女性への気配りというものをようやく覚えましたか。それはそれは」
ブライがチラッと横目でクリフトを見ながら笑い、杖の先で軽くクリフトの背中を叩いた。
「ほれ、しっかりせんか。今日の姫様はご機嫌も良い。食堂までエスコートするチャンスじゃぞ」
「な!? ぶ、ブライ様!?」
「ん? クリフトが手を引いてくれるの?」
別にして欲しいわけじゃないけど、この前は一緒にダンスの練習もしたし、クリフトにリードしてもらうと踊りやすかったことは覚えてる。
「まあ、それぐらいならいいよ」
「!?」
「この服のお礼。いつもそうして欲しいわけじゃないし、城の外ではやらなくていいけど。まあ、ボクも今日は父上にちゃんと挨拶してから出発したいし。ちょっとくらいは父上にお姫様っぽいところを見せてあげてもいいかな、って」
この前のダンスの練習は父上に見せたいとも思わなかったから、結局クリフトと二人きりで終わったし。
「し、ししし……」
「クリフト? 大丈夫?」
「し! 失礼、いたします!!」
両手で思いっきり自分のほっぺたを左右から挟み込んで、バチンッ!!て引っぱたいたクリフトが、ボクに片手を差し出す。まあ、元々真っ赤だった顔はそれくらいじゃ何か変わったようには見えないけど。
「ん。よろしくね」
差し出されたクリフトの黒手袋の上にチョコンと手を乗せる。そのまま城の廊下を進んでいく。すれ違った侍女や侍従や城の人たちが皆揃ってボクたちの方を振り向くけど、いつもの事と言えばいつもの事なので気にしない。
クリフトの横顔はやっぱり真っ赤なままだったけど、ダンスの時と同じくボクの呼吸とちゃんと合わせてくれるので、並んで歩いていても歩幅が合わなかったりはしない。
「ホッホッホッ」
「? どうかした?」
「いえいえ、なんでもありませぬ。さて、そろそろ食堂ですぞ」
「あ、うん」
後ろから愉快そうな笑い声が聞こえてきたので肩越しに振り向いても、爺やは何も答えてはくれなかった。これもいつもの事なので気にしない。
「来たか、アリーナよ」
「父上、おはよっ」
「おはようございます、陛下」
「陛下、ご機嫌麗しゅう」
食堂に入ると同時にボクから一歩離れたクリフトが頭を下げ、爺やと並んで壁際に並ぶ。ボクは父上の向かいに歩いていく。侍女が椅子を引いてくれたので腰を下ろす。
「それがクリフトの買い与えた身躱しの服か」
「うんっ!」
父上はボクの服を一瞥してからクリフトの方を見て、仕方なさそうに小さく溜め息をついた。
「まあ、良かろう。お前の身の安全のためなら、むしろ最善の選択とも言える」
「これ、すっごく動きやすいんだ! こういうドレスだったら着るのも動くのも楽なのに!」
視界の隅では何故かクリフトが胸をなで下ろしていた。父上は苦笑していた。
「それは専門の魔法使いが一着一着に魔法をかけておる。それをドレスにかけるというのは……さて、どんなものであろうな」
「ボクには魔法のことはよくわからないけど、それって難しいの?」
「ふむ。どうなのだ、ブライ?」
運ばれてきた朝食の皿を前に、父上が問いに爺やが頭を下げる。
「陛下のご下問に臣が奉答いたします。技術的には不可能ではございません。ドレスを仕立てる腕の良い職人と特別な素材、それと腕の良い魔法使いが必要となりますが」
「不可能ではない、か。だが、その口ぶりではそれなりの手間がかかりそうだな?」
「姫様の為とあらば、その程度は些末なことかと」
グラスに注がれた水を口に含んでから、父上はボクの服をもう一度見た。
「検討するだけは検討してみよう」
あ、これは最後にはダメって言う時の父上だ。予算とか色々と難しいことを考えた結果なので、ボクもあまり強くは言えない。
籠に盛られたパンを侍女に取ってもらい、手で小さく千切って、ゆっくりと食べる。マーニャやミネアと一緒の時はこういう面倒なことをせずに手で鷲掴みにして大きく開けた口で頬張るけど、父上の前でそれをやると叱られるし。ボクがというよりは主にクリフトと爺やが、だけど。
「お前も城の外に出れば柔らかい白パンなど滅多に食べられぬ。硬い黒パンばかりになろう」
「父上もそうだった?」
「――ああ。あの頃は、まあ、色々と不便ではあったな。髭も剃らずに伸ばしっぱなしで、そこにパン屑をつけたままでな。鎧を着たまま何日も体を洗わずにいたものだから、あちこち痒くて仕方なかった」
食事時にして良い話ではないが、と父上は言うけれど、ボクは父上のそういう昔の話をほとんど聞かせてもらったことがないので、逆に気になる。
「母上も? 母上もそんな感じだった?」
まさかとは思うけど、もしかしたら城の肖像画とは違って髪もボサボサで臭かったりしたのだろうか?
「そんなわけがあるまい。むしろ、余の方が叱られてばかりだった。体はちゃんと洗え。髭は剃れ。服も洗濯しろ、と。どう考えても悪いのは余の方だったから、何も言い返せなかった」
「へーえ、父上の方が叱られてたんだ」
いつもはボクが父上から叱られてばかりだから、そのボクと似ていたという母上に父上が叱られていたというのが想像できない。
「だが」
父上の声が変わる。懐かしむように、ボクを見る。違う。ボクを通して、母上を思い出してる。
「今ならば、わかる。あの厳しさは、優しさの裏返しだったのだと。余を思いやっての言葉だったのだと。だというのに、余は最後までそれに気付いてやれなかった」
そんな風に言われると、ボクは胸が苦しくなる。ボクは母上じゃないし、母上みたいにはなれないから。
でも、父上はすぐにボクを気遣うように頭を振った。
「すまんな。旅立ちの前に言うべきことではなかった。どうも昔から、余は気が利かぬ。考えなしに物を言うな、と、よく叱られた」
「ううん」
ボクは小さく首を振る。
「母上の昔の話、知っている人は城にもあまりいないから。父上がそういう話をしてくれるのはボクも嬉しいよ」
「そうか。……ならば、お前が旅から戻ってきたら、また話そう。その時は、お前の旅の話も聞かせてくれ」
「うん、……うん、うんっ!」
ボクは頷いた。一度だけじゃ足りなくて、何度も頷いた。いつも忙しい父上とゆっくり話せる機会はなかなかない。だから、ボクの為に父上が時間を作ってくれるのはすごく嬉しい。そう言ってもらえるのは、もっと嬉しい。父上の為に、父上と話す時の為に、城の外で色んなことを見たり聞いたりしたい。
――…あ。そうだ。
「父上。一つ我が儘を言ってもいい?」
「なんだ?」
「あのね。ボクの部屋の壁」
「壁?」
「蹴り壊して、外に出てもいい?」
カチャンと大きな音を立てて皿の上にナイフとフォークを置いた父上は肩を大きく上下させて、無言のまま深々と溜め息をついた。壁際に立っていたクリフトが食堂の天井を見上げた。爺やは顔を手で覆っていた。
「……よりにもよって。今日、それをするのか」
「ゴメン。でも、やりたいことがあって」
「どうしてもか。普通に城門から外に出ることはできんのか」
「ごめんなさい」
父上は大きく首を振った。もう一度、溜め息。
「ああ、全く、このお転婆め。――…好きにするがいい」
「ありがと。……ごめんなさい」
皿に残ってたパンを行儀悪く口の中に押し込んで、コップのミルクで一気に流し込む。立ち上がる。
「クリフト、爺や。城門の外で待ってて! ボクもすぐ行くから!」
「ですが、姫様。陛下とは、もう少しお話になられても」
「野暮なことを言うでない、クリフトよ。……かしこまりました。儂らは先にお待ちしております」
二人が食堂から出て行くのを見送るよりも先に、目を父上に戻す。父上は三度目の溜め息をついて、苦笑した。
「お前というヤツは、全く。せめて出発する時ぐらい、もうちょっとお淑やかには出来んのか」
「ゴメン、父上。ボクには母上のマネは無理」
「……」
目元を手で覆ってしまった父上は、少しだけ黙ったけど。でも、その手を戻した時にはいつもの父上に戻っていた。
「わかった、わかった。さっさと行くが良い。部屋の壁の修理は手配しておく」
「行ってきます!」
ボクは食堂を飛び出した。駆け足で自分の部屋に戻る。途中で侍女たちが何かを言ってたような気もするけど、気にしない。
「せーのっ」
反対側の壁際から勢いをつけて部屋の壁に向かって走って、その勢いのまま足の裏を思いっきり壁に叩きつける。
「えいやっ!!」
ドカンッ!!という音が響いて、もう何度も修理されている石壁の一部にボッコリと大きな穴が開く。その穴から下を見下ろす。城の一階の屋根にもなっているひさし部分を目掛けて飛び降りる。新しい服のおかげか、いつもよりも体が軽い。飛び降りた先で周りを見回す。
「にゃーん」
「ミーちゃん!」
顔見知りの猫を見つけて駆け寄る。ボクの顔を見上げて、甘えるように小さく鳴く。
「にゃーん」
膝を折り曲げて、ミーちゃんの頭を撫でる。
「ゴメンね、ミーちゃん。ボクはこれからちょっと城の外に出かけてくるんだ。しばらく留守にするけど、元気にしててね」
「にゃーん」
ボクの言っていることがわかっているみたいに、ミーちゃんは小さく鳴いてからボクの手を舐めた。
「行ってきます!」
最後に軽く手を振ってから、ミーちゃんに挨拶する。これで心置きなくボクは出発できる。さあ、行こう。サランの街でマーニャとミネアも待ってるはず。
「行くぞぉっ!!」
ボクは跳んだ。サントハイムの城から、空の太陽にまで届けとばかりに、高く。