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静かに茶器を持ち上げて口元に運ぶ。口の中に花が咲いたような馥郁とした匂いが鼻に抜けていく。お父様のために煎じた薬湯の匂いも独特の風味があって嫌いではないが、アリーナがお城から持ってきてくれる茶葉の香りは、やはり他のものとは一味も二味も違う。
「姉さん、飲まないの?」
「……飲むわよ」
対面で分厚い本に顔を埋めている姉さんは手を伸ばし、手探りで茶器を掴むと本の影で大きく啜る音を立てた。
「行儀悪いわよ」
「……」
「そう言えば、今日は香りづけの酒は足さないのね?」
こちらからの声に姉さんは答えない。私と口も利きたくないほど不機嫌なのかとも思ったが、それほど刺々しい雰囲気は感じられない。むしろ落ち込んでいるような素振りさえある。
「その本、どうしたの?」
姉さんが顔を埋めている古びた本は、革表紙の装丁も立派で金具で補強までされている。それこそ殴れば鈍器になりそうなほど分厚い。
「ブライ」
「え?」
「ブライから借りたの。勉強のために」
「バルザックから課題でも出された?」
それは何気ない問いだった。姉さんが自分から本に手を出すほど勉強が好きだとは思わなかったし、そうであるなら魔法を教えてくれるバルザックに何か意地悪な宿題でも出されたのかと考えるのは当然のことだ。
「……」
「姉さん?」
しかし、予想に反して姉さんは無言だった。
「……ない」
「?」
「言われてない。何も言われてなんかない。私が勝手に勉強してるだけ」
思わず目を二度、三度と瞬かせる。
「ルーラ、覚えたくて」
ポツリと呟くように言った姉さんは本の上から目だけを覗かせる。上目遣いの紫の目は拗ねているようにも、あるいは、いじけているようにも見える。
「どうして急に?」
「急に、って言うほど昨日や今日に思いついた話じゃないわよ」
はぁ、と小さな溜め息をついて再び本で顔を隠す。
「お父様と一緒にキングレオから逃げた時、キメラの翼を使ったでしょう?」
「ええ」
「あれから一度もコーミズ村にもモンバーバラの街にも帰れてない。そして、気軽に買えるほどキメラの翼は安い買い物でもない。だけど、もし私たちのどちらかでもルーラが使えたら……そう思ったことはない?」
そう言われると否定は出来ない。
「それは……、まあ、そうね」
「でも、バルザックはルーラが使えないし、もちろん私はブライが使えるなんてことも知らなかったし。そもそもルーラより先に覚えなきゃいけないことが他に幾らでもあったし。ギラとか、イオとか。もちろん踊りの練習も毎日しなきゃだし」
まるで言い訳のように指折り数えて幾つも理由を並べ立てていた姉さんは、だけどその手をパタリと倒した。
「姉さん?」
「だから。……今さら。『ルーラを教えて』なんて、言えないじゃない」
そう言って、本で顔を隠している。だから、姉さんは自分でも似合わないと思いながらもブライから本を借りて、自分一人でコツコツと勉強しているのか。バルザックに教えて欲しいとは言いづらいから。
そこまで考えて、何の脈絡もなくポンと頭の中に一つの考えが浮かぶ。占いで未来が『見える』のとは、また少し違う直感めいた思考の泡沫が頭の中で弾けたような感じ。
「姉さん」
「何よ」
「もしかして、ここ最近バルザックをアリーナに盗られたような気がしてヤキモチを焼いてる?」
反応は無かった。声に出しては。ただ、本を持つ両手に力が入ったのがわかった。
手の指の爪が革の装丁に食い込むのではないかと思うほどにワナワナと本を握りしめて、だけど絶対に顔を上げようとはしない。
「――そうね。アリーナには絶対に言えないし、もちろんバルザックにも言えないわよね」
「……」
「じゃあ、もしわからないことがあったら私が代わりに訊いてあげるから」
うー、とか、むー、とか、何度も葛藤するように低い唸り声を上げていた姉さんは、やがて諦めたように深い溜め息をついた。
「うん、その時はお願いするわ」
噂をすれば何とやら。聞き慣れた足音が聞こえてくる。いや、私と姉さんが一緒にお茶をしているのを見かければ、向こうから声をかけてくるのは当たり前のことではあるのだけど。
「二人とも、ここにいたのか」
「バルザック、どうかしたの?」
さっきまでの話題を考えると顔を合わせづらいのだろう。姉さんは再び本に顔を埋めている。バルザックは自分で椅子を引いて腰を下ろす。私と姉さんを等分に見比べてから、私に訊いてきた。
「ああ、それが――…って、マーニャはどうしたんだ?」
「ブライからルーラを教わるための勉強中ですって」
「そうか。マーニャなら使えるようになるだろうな」
私も、そして姉さんも拍子抜けするほどあっさりとバルザックは受け入れる。もう慣れたといえば慣れたけど、昔からバルザックは私たちのことを少し買いかぶってるんじゃないかと思うほどに高く評価してる。
「無理だ、とは言わないのね?」
「何故だ?」
これが血の繋がりがあるのなら、まだわからなくもない。自分の娘なんだから、と、例えば親の欲目で、ひいき目で才能を信じるのなら、まだわかる。でも、そうじゃない。
お父様に引き取られて、私と姉さんが初めて魔法の手ほどきをされた時。バルザックは何も言わずに姉さんには攻撃魔法の、そして私には補助魔法と回復魔法の授業を中心に据えた。コーミズ村の他の子供には魔法の基礎は教えても、そこまで踏み込んだことは教えなかったのに。
今にして思えば、もうあの瞬間からバルザックは私たちの才能を見抜いてたことになる。
「ブライって、サントハイムの宮廷魔術師なのよね?」
「そうだな」
「大賢者とか言われてるんでしょ?」
「ああ」
「……姉さん、まだ13よ?」
「それがどうかしたのか。マーニャなら使えるようになるさ。今は無理かもしれんが、いずれ必ず」
姉さんが分厚い本の影でどんな顔をしているのかは見えないけど、こんなことを大真面目な顔と声で言うバルザックもバルザックだ、と思う。自分の半分も生きていない子供に向かって言うことじゃない。
逆に言えば、自分よりもずっと年上の大人から、こんなことを大真面目に言われて、まだ子供の私や姉さんがどう思うかとか、少しくらい考えないのだろうか。
私は、また本を掴む手に力が入ってしまってる姉さんを同情の目で見てから話題を変えた。
「それより、私たちに何か話しでもあったの?」
「キングレオの一行が旅の扉からサントハイムの外に出たことが確認された」
茶器を持つ私の手が止まった。姉さんも本の上から目を覗かせた。お互いに目を見交わしてからバルザックに視線を戻す。
「じゃあ、これでようやく終わり?」
「全部が全部じゃないがな。黄金の腕輪をどうするかは、まだ決まっていない」
「サントハイムの城で保管される、とかじゃないの?」
思わず、といった調子で姉さんが口を挟んだ。そう言ってから、また本の影に隠れてしまったけど。でも、バルザックは姉さんの態度に気付いた様子もなく腕を組んで考え込んでいる。
「サントハイム城の宝物庫か。この件では部外者の俺が文句を言える筋合いじゃないのはわかってるんだが、正直に言えば……不安だ」
「どうして?」
私が尋ねると、バルザックは周囲の目を確認するように周りを見回してから声を低くした。
「これは大声で言えることでも、言って良いことでもないが」
「?」
「おそらく、オーリンなら宝物庫の扉を開けようと思えば、鍵を抉じ開けられる」
「ちょっ……」
私も思わず周りの目を窺ってしまう。幸い、こっちを見ている人はいなかったけど。姉さんも慌てて本を閉じて前のめりになった。
「本当なの?」
「ああ。だが、もちろん、扉の前には見張りの兵士がついている。これが平時であれば、まず問題はないだろうが、な」
「じゃあ、何が不安なの?」
バルザックは私たちと顔を突き合わせるように体を前に乗り出した。
「
嘘だ、とは言えなかった。まさか、とさえ口には出来なかった。
「テンペの村のこと?」
「まあ、な。……気付いていたのか?」
「だって、おかしいじゃない。アリーナも私もミネアも、あの村長の娘さんとは年も顔も全部似てない。なのに、魔物は何一つそれについて言わなかった。騙されたことに怒るどころか、驚きもしなかったのよ?」
「そんな余裕が無かっただけかもしれないけど、私が理力の杖で攻撃した時でさえ、偽物だとか、身代わりだとか、そういうことを何も言わなかったのは変だとは思ってたわ」
つまり、あの村長の娘さんは確かに『若い女』ではあったけど、魔物にとっては『若い女』でさえあるのなら誰でも良かったことになる。
「……あの魔物は、『進化の秘法』の触媒を集めようとしてたってこと?」
躊躇いながらも核心に触れた姉さんに、バルザックは深々と嘆息した。
「あくまで、一つの可能性だ。むしろ今の段階で決めつけるのは危険だろう」
「でも、否定はしないんだ」
「……」
黙ってしまったバルザックに代わって、私は以前に教えてもらったことを思い出す。
「『進化の秘法』の三要素は、材料、触媒、増幅器。……キングレオは、本気でそれを集めようとしている」
お父様が城から逃げても、バルザックが誘いを断っても。あの気味の悪い王子は、まだ諦めていない。ずっと『進化の秘法』に執着し続けている。
「サントハイムの城の守りを信じていないわけじゃないが、絶対とは言えない。
まるで、
だからこそ、『私たちを裏切らない』って言ってくれるのがすごく心強いのも確かだけど。
「ねえ、バルザック」
姉さんが小さな声を上げた。
「なんだ」
「私、しばらく禁酒する」
「なんだって?」
バルザックは戸惑ったように私を見た。でも、私も同じ気持ちだったので何も言えずに首を横に振った。今まで私やバルザックが何度もお説教しても、なんだかんだと隠れてお酒を飲んでた姉さんが、いきなりこんなことを言い出すだなんて。
「お父様が、私と差し向かいでお酒を飲みたいんだって。そのためにも体を治さなきゃ、って」
「……」
「でも、だから、もし私がお父様の前でお酒の匂いをさせてて、そうしている時に、もしお父様が一口でもお酒を飲んだりしたら」
姉さんは再び開いた本の影に顔を隠して、呟くように言った。
「そうしたら、それで『私と酒を飲んだ』ことになって、満足しちゃって、それで……もしかして、そのまま……」
私は何も言えなかった。バルザックも溜め息をついた。
「先生が、そんな騙し討ちみたいなことで約束を守ったことにするわけがないだろう。お前と一緒に飲むと言ったのなら、ちゃんとそれなりの時間と場を用意するさ」
「でも、もし体調が悪くなって、そんな風に時間を作れる余裕が無くなっちゃったら?」
落ち込んでしまった姉さんの頭にバルザックが手を置いた。
「お前に嘘をついたまま先生が死んだりするものかよ」
「……」
「だが、お前が自分の口から『禁酒する』って先生に約束するのは良い考えだと思うぞ。願掛けだ。先生が体を治して元気になったら、その時は改めて祝杯を挙げればいい。その時はもちろん、先生と一緒に好きなだけ飲めばいいさ」
ポンポンと頭を優しく撫でるバルザックに、姉さんはコクンと小さく頷いた。本の影から上目遣いにバルザックの顔を見上げるその目が少し潤んでいるようにも見えたのは、妹としての情けで言わないであげることにした。