サントハイム城の姫様の私室に置かれた勉強机は楓の木から伐り出された一枚板を天板にしたものだ。熟練の職人が手間暇をかけて丁寧に削り、美しい木目に合わせて精緻な装飾を細部にまで彫り込み、王族が使うに相応しい逸品となっている。
もちろん、その上に置かれた純銀製のペン立て、青銅のインク壷、そして芸術品のように、今にも動き出しそうなほどに見事な彫刻が施された猫型の文鎮なども、いずれも高価で使い心地も良いものばかりが選び抜かれている。
とはいえ、それらを作った職人たちやそれを与えた陛下の願いとは裏腹に、当の姫様がそれを実際に使う機会はほとんどないと言って良いのだが。
「ブライ様、草稿が出来上がりましたのでご確認をお願いします」
「うむ」
そして、その勉強机をお借りして書き物をしている自分もまた、姫様がろくに使いもせずに埃を被せたままに放置しているのを残念に思っている者の一人である。決して自分ごときが使って良いものでもないのだが、誰も使わぬままでいるというわけにもいかず、姫様からのお許しを得て使わせていただいている。
「『サントハイム王国第一王女国内御遊覧次第』……いつものことながら、城の公文書というものはどうしようもなく硬い文章にならざるを得んな」
「はい、こればかりは何とも」
姫様が初めて国内を巡幸された、というのは、本来であれば大勢の侍女と侍従、護衛の兵をも引き連れた大規模なものになるはずである。そうやって大人数で移動し、街や村に泊まり、食事をする。必要な物資を買い求めもする。
そうやって領内の街や村に多くの金を落とし、経済を活性化させるのも王族の務めの一つとも言える。姫様が望まれなかったために実現はしなかったが。
ただし、姫様がたった二人の供だけを連れて城の外に飛び出していかれた、などという身も蓋もない事実を全て馬鹿正直に書き残すわけにはいかない。王族の動向は正式な公文書として記録に残さねばならないが、同時に王国としての体面も保たれねばならない。
「『テンペの村に滞在中、村を脅かす魔物の話を村長から陳情された第一王女殿下は、村の窮状を憐れまれて涙を流し、護衛の兵を遣わされてこれを討伐するよう命じられた』……か」
白い髭を撫でながら音読されたブライ様は苦笑する。
「ま、確かに『姫様が自分から生贄の身代わりに名乗りを上げられた』などとは書けぬ。こうならざるを得んか」
「ご自分の拳で魔物を殴り飛ばされた、とも書くわけにはいきませんので」
そして、そのことについて後に『あれは歯応えのある魔物ですごく楽しかった!』などという感想を口にされていた、と書けるわけもない。むしろ書き残してはいけない。絶対に。
「で、次は、『フレノールの街に滞在中、キングレオの外交使節団と御歓談の由』――ふむ?」
「王族滞在中の宿に盗賊が入った、などという記述はサントハイムの国内治安について深刻な疑義を抱かせる可能性が。かといって、外交上それがキングレオの虚偽だったと大っぴらに書くわけにも参りませんし」
「やはりそうなるか」
ゆっくりと紙をめくるブライ様は渋い顔で小さく溜め息をつく。キングレオの謀略は許し難いが、表沙汰には出来ないことが多すぎる。真相は隠蔽され、公式の記録には当たり障りのない記述だけが残される。
「最後に、『外国からの物珍しい品を求めて辺境の砂漠のバザーにまで足を延ばされたものの、現地にてはサントハイムの法にて定められた厳格な規律が乱れていることに憂慮をなされ、これを取り締まるよう命ぜられた』……クリフトよ。これは、さすがに」
「もしブライ様に良き修正文の案がございましたら、是非とも自分にご教授をお願いします」
「無い」
即答されてしまった。自分も悩んだのだが、他に書きようがなかったのだ。砂漠のバザーでキングレオの兵士『らしき』賊がブライ様を刺した、という件でサントハイムの兵士が正式に調査の手を入れることになった。
当然、そこで怪しげな不正品や盗品の疑いのある物品を売っていた商人たちは関わりを避けて四方に逃げ散った。おそらく、二度と戻っては来ないだろう。砂漠のバザーが二度と開かれることはない。
「『かくして実り多き国内巡幸にて、第一王女殿下はその令名をサントハイム王国全土に鳴り響かせられた』……か。うむ、まぁ……」
これが他の者であるならば、これでは贔屓の引き倒しじゃな、などとお得意の毒舌で扱き下ろすことも辞さないブライ様も、姫様のことになると普段の舌鋒も控えめになる。
なんとも曰く言い難い微妙な顔で白い髭を撫でながら、あらぬ方を見やって小さく息を吐く。
「あくまで草案じゃからな。こんなもんじゃろ。あとは陛下の決済を受けてから担当の役人が細かい部分を修正して清書し、公文書庫に仕舞い込む。それでこの件は終わりじゃ」
姫様の乳兄弟ということで重用していただいてはいるが、本来の自分の肩書は一介の神官見習いに過ぎない。経験、実績で言えば雲の上におられる宮廷魔術師ブライ様とこうして親しくしていただけるような身分ではないのだ。
だが、ブライ様は自分のような若輩者を引き立て、こうして経験を積ませるためにと姫様に代わって報告書の作成にも携わらせて下さる。いくら感謝してもし足りないほどだ。
「姫様は陛下と茶会中でいらっしゃいますか。終わったら、一応はこちらの草稿に目を通していただきたいのですが」
「一読もせずに『そういうのはクリフトとブライに任せた!』で終わらせそうじゃがなぁ」
苦笑なさるブライ様は、思わず溜め息をつく自分の肩を励ますように軽く叩いて下さる。
姫様が自分を信任して下さるのは嬉しい。だが、もし自分が何かを間違えてしまった時、その間違いが姫様の責任になってしまうことが恐ろしい。
失敗した自分が罰せられるのは当然のことだ。だが、それによって姫様にまで累が及ぶようなことになっては。まして、姫様はお優しい方だ。もしかしたら失敗した自分を庇い、姫様自身が泥を被ることを選んでしまわれるのではないか。
それではいけない。信賞必罰は王の義務だ。もし失敗したのであれば、それが誰であれ公正な裁きを下すべきなのだから。
「――…バルザックなら」
「うん? バルザックがどうしたんじゃ」
思わず内心の声が漏れてしまった。やはり自分はまだまだ未熟だ。
「いえ、バルザックでしたら、嫌がる姫様にも『面倒臭がらず読み飛ばさずに最初から最後まできちんと読め』と言えるのだろうな、と」
「……」
ブライ様は黙ってしまわれた。おそらく否定するだけの材料をお持ちでないからだろう。
自分もブライ様も姫様に対して苦言を呈することは出来ても、あそこまで厳しいことを言えるかといえば無理だ。自分は姫様を主君であると同時に、どこか妹のように見てしまっている部分があるし、ブライ様も姫様をご自分の孫娘のように可愛がっておられる。そんな自分たちに、あれほど突き放したことを言えるかどうか。
「確かに、いつかは姫様にも誰かが言わねばならぬことではあった。そして、それを儂やクリフトが言えたかと言えば、正直なところ儂も自信がない」
「ええ、はい。それは自分も同感です」
「だが、あれは……あれは」
ブライ様は禿頭を手で撫でながら、どこか遠くを見るような目つきで呟く。
「あれは、な」
何かを言いかけて、ブライ様はそれ以上口を開かなかった。自分もそれ以上は問わない。問えない。
姫様がサントハイムの王位を継がれるのか。――
出来ない、とは言わない。きっと良き女王にはなられるだろう。そうなられたのであれば自分も精一杯に補佐する。だが。それは。果たして本当に、
そんな、口にすることすら許されない疑問は。
「む?」
だが、そんな物思いは慌ただしく廊下を走ってきた足音と騒がしく扉を叩くノックの音によって破られる。
「クリフト様! ブライ様!」
「何事じゃ、騒々しい」
扉を開けると、姫様付きの侍女が血相を変えていた。その顔色を見て、自分は彼女が次に続けるであろう言葉をいつも通りに予想した。ああ、きっと、また姫様が、何かをしたのでは――。
「陛下が! 陛下が!!」
「!?」
「それで、姫様がお二人をお召しです! どうかお急ぎを!!」
自分はブライ様と顔を見合わせ、そして慌てて走り出した。
次で第三章は終わります