「ライアン! 今日も稽古よろしく!」
「……は」
陛下との朝食を終えた途端、それまでは亡き妃殿下の如く淑やかに振る舞っておられた姫様は別人のようになられる。いや、違うか。むしろ以前の姫様に戻られる。
「クリフト、今日もいっぱい怪我するからね!」
「……はい」
クリフトもクリフトで、最近は慣れたように無言で治療の準備を整えておる。あるいは、さすがに諦めたのか。
「行くよ!」
完全装備のライアン殿に、今日も姫様は飛び掛かって行かれる。――それも
蹴りを繰り出せば靴が破れる。姫様の白いおみ足が血で染まる。何とも痛々しい。見ているだけでもこの老い耄れの寿命が縮むので止めていただきたいと何度も申し上げたが、止められぬ。
止めても聞いていただけぬのはこれまでにも何度かあったが、これまでになく姫様の決意が固い。そういうところは父王陛下に似て頑固だと内心で深々と歎息する。
「どうしたの、ライアン!? ボクはまだまだ行けるよ!」
「ぬぅっ」
本来であれば、ライアン殿が盾で全て受け止めておれば、逆説的に姫様の手足は傷つかずに済んでおる。
ありえぬことじゃが、ライアン殿が盾を動かすよりも、姫様は速く動かれておる。そうでなければ、こうはなっておらぬ。あるいは、ライアン殿の防御する動きを先読みなさるようになったのか。どちらにしても信じがたい。
この老い耄れの記憶が確かならば、こうなり始めたのは先月か、先々月ぐらいからであろうか。それまでもオーリン殿との手合わせで生傷が絶えぬことも少なからずあったが、ここ最近は生傷どころの話ではない。
先だってはとうとうクリフトの魔力が枯渇して、その日のうちには傷を治しきれず、あまりの荒行を見かねた陛下が完全に傷が治るまでは手合わせを禁じると厳しく言いつけるほど。いっそクリフトに手当てを加減して治癒を引き延ばせと言うべきかとも迷う。
「クリフトや」
「は、はいっ! 姫様、ホイミを!」
「ん!」
刃の鎧を殴りつけた姫様の拳から肉どころか白い骨まで覗きかけているところで、とうとう堪え切れなくなった儂の方が先にクリフトに声をかける。
駆け寄ったクリフトが姫様に繰り返しホイミをかける。城の侍医たちを待機させておくことも進言したのじゃが、姫様はクリフトだけで良いと頑として聞き入れて下さらぬ。
これについては、むしろバルザック殿やミネア嬢まで遠ざけておられるような節さえ見受けられるのが不思議でならぬ。どうせならばバルザック殿のベホマで傷を完全に癒してもらった方が、陛下や儂の精神衛生上も良いというのに。
「す、すみません。姫様。自分では、これが限界です」
「いいよ。あとは薬草と包帯で」
「は、はい」
魔力が尽きて顔色を悪くしておるクリフトが、ややおぼつかぬ手つきでそれでも姫様の手や足に薬草を押し当て、包帯を巻いていく。
「じゃあ、ライアン! お疲れ様! ボクは勉強の時間だから!」
そう言うが早いか、姫様は駆け足で部屋へと戻って行かれる。ズタボロになった服を着替えに行かれたのであろうが、またそれを見た若い侍女が悲鳴を上げて卒倒せねば良いが。
「キャァァァッッ! 姫様が、姫様がぁっ!?」
言わぬことではない。廊下の方から絹を引き裂くが如き甲高い悲鳴を上げる侍女の声が聞こえる。手足に血の滲んだ包帯を巻いて服の袖も裾も破れた姫様が走ってくるのを見れば、すわ城に入り込んだ賊にでも襲われたかと大騒ぎになるに決まっておる。
「大丈夫だから! ボクは何ともないから!」
すぐに宥める姫様の声も聞こえてはくるが、そのようなことは今のご自分を鏡でご覧になってから仰っていただきたい。あの痛々しい御姿の一体どこをどう見れば無事に見えるというのか。
陛下も頭を抱えておられるが、なまじ姫様が淑やかな振る舞いを身につけておしまいになったので、なかなか叱ることも出来ずにいる。一体どうしたものか。
「ブライ殿、自分の未熟で大切な姫様の御身を傷つけてしまい、申し訳ない」
「ライアン殿の責ではあるまいよ」
オーリン殿との手合わせを止めなんだ時点で、儂にはライアン殿との手合わせを止める理由が無い。オーリン殿との手合わせで生傷を作っていた姫様が、それよりも重い傷を作っているというだけでライアン殿を責めるのも筋が違う。その程度のことは、この老い耄れも理解しておる。
「やはり、あの村での一件以来か……」
もっと言えば、クリフトが重傷を負って以来と言うべきか。
あれからの姫様は――いや、人が変わったように、というのも少し違う。かといって、何かに取り憑かれたように、というのもしっくりこない。どこか変わられたようで、しかし変わってはおられぬ。
「クリフトや、少し休んでおれ。儂は姫様の着替えが終わるのを部屋の前でお待ちする」
「いえ、自分も」
そんな青白い顔で何を言うか。と、説教するのも諦めた。クリフトもクリフトで、そんな姫様に必死に食いついていこうとしておる。実際、以前より目に見えて魔力量も向上している。体力も。そうでなければ、今頃とっくに倒れているのは間違いない。
「ああ、全く。……好きにせい」
午後には勇者殿にダスン殿、ガロン殿らもマーニャ嬢とミネア嬢と一緒に来られるであろうから、その時に備えて姫様の血に染まった鎧を脱いで無言で磨き始めるライアン殿に黙礼してから儂らも部屋を出る。
「ほら、しっかりなさい。このところの姫様が殊のほか無茶をなさっているのはあなたも聞いていたでしょうに」
「で、でも」
「あれほどの傷を負った姫様がお辛くないとでも思っているのですか。それでも涙一つ見せず、辛そうな素振り一つ見せずに堪えておられるのに、それにお仕えする立場の私たちが動転して姫様をお支えできるとでも?」
顔色を悪くした若い侍女を侍女長が宥め、叱っておる。儂らに会釈してくるのを頷きで返し、通路を進む。
「お待たせ、クリフト。ブライも行くよ」
姫様の部屋に着くと、さほど待つまでもなく扉が開いて服装を整えた姫様が姿を現す。手足に巻かれた包帯を隠すように肘までの長手袋と裾の長いドレス。踵の高い靴は歩きにくいからと姫様が、そして包帯が巻かれた足を締め付けるのも良くないと城の侍医も注文をつけた為に、ややゆったりとした歩きやすい靴。
何も言わずともクリフトに手を差し出す。まだ治り切っていない傷の痛みさえおくびにも出さず。クリフトも、ふらつきそうになる手足を律して姫様をしっかりとリードする。こうも二人が日々成長しているというのに、どうして儂だけが情けなく取り乱せようか。
「父上、今日もよろしく」
「……傷は、大丈夫なのか」
「大丈夫、クリフトに手当てしてもらったから」
「そうか。……無茶はするな」
「うん」
陛下の執務室に入り、姫様のために用意された席に着く。と言っても、まだ陛下と共に書類を片付けられるほどの権限も知識も経験も姫様はお持ちではない。その代わりに、陛下が決裁なさった書類を真剣な顔で読み、そこに教師が付き添って注釈をつける。
陛下も陛下で、ご自分の仕事を姫様が学ぼうとなさっているのが嬉しくないはずもなく、つい緩みそうになる口元を懸命に引き締めておられるのが丸わかりなのが微笑ましい。
「父上、テンペの村の調査は終わったの?」
「うむ。一通りはな」
「バルザックが、いずれ村の人口が減っていくのが将来的に問題だって。あの村長の娘さんが子供を産んでも、村に移住してくる人がいなければその子供の結婚相手が見つからないから、結局は村の外に出なきゃいけなくなるって言ってた」
「それは確かに、その通りではある。再び村に魔物が住み着く危険も考えると、城に仕えていた兵士を家族と共に住まわせることも考えている。その分の税を少し下げることになるが。長い目で見れば、村の人口が増えることで税収は増える見込みもつけられる」
執務をしながら、こうして政治向きの話も姫様と交わせるとあって、陛下もより一層政務に励んでおいでだ。それは良い。が。
「アリーナよ。あまり根を詰め過ぎぬようにな」
「さっき来たばかりだけど?」
「ならば、飴でも舐めながらでも良い。クリフトから聞いたが、旅の間はハッカ飴を好んで口にしていたのだろう? 侍女に用意させる」
「んー……じゃあ、もらうね」
「うむ」
以前は叱るばかりだった愛娘が表面上は心を入れ替えたように勉学に励んでもいるので、ついつい甘やかしたくなる気持ちはわからぬでもない。男親であれば尚更であろう。しかし、あまり構い過ぎるというのもどうか。この辺りの匙加減については、あるいは儂もトルネコ殿と相談しながら陛下をお諫めせねばなるまい。
「クリフト、手帳貸して」
「は、はい」
「こっちの件。フレノールの宿の貸し切り費用の予算。メイたちの劇の売り上げで、あとどれくらい引き延ばせる?」
「あと半年ほどは」
「そこを過ぎたら?」
「先ほどの陛下とのお話にもございましたが、テンペの村に移住していただけるならサントハイムとしては歓迎できるかと」
確かに、あの人数がそのままテンペの村に移り住んでくれれば単純に見ても人口は倍近くにもなる。旧住民との軋轢が生じる可能性もあるが、その辺りは城の人間を派遣して注意深く事態を見守るしかあるまい。
姫様は頭を掻こうとして持ち上げた手を途中で止め、一瞬だけ顔を顰められた。
「姫様、傷が痛まれるのでしたら」
「違う。そっちじゃない」
誤魔化すように首を横に振られる。姫様の髪が左右に広がるほどに強く。
「シンシアのこと。それだと多分、ソロは嫌がると思う」
今はまだ、貸し切りの宿に滞在していることで人目に触れる機会は最低限に抑えられている。が、他の村に移ればそうも言ってはいられなくなるであろう。
「かといって、ブランカに戻ってもらうというのも無理だよね。もし村を再建したとしても、また襲われるかもしれないし」
勇者を仕留められず、何の成果も得られなかった鬱憤を八つ当たりするかのように、儂らが逃げた後の山奥の村は一面が完全なる廃墟となっておった。家は叩き壊されて瓦礫と化し、畑は荒れ地となり、そこで飼われていた家畜もことごとくが喰い殺されていた。
ブランカ王家としては、自国の山奥にそんな隠れ里があることすら認知していなかったようで、一つ間違えば村の住人を丸ごとサントハイムが拉致したと言いがかりをつけてくる可能性も無くはなかっただけに、これは不幸中の幸いと言って良い。
「父上、どうしようか?」
「うむ。まずは勇者とその家族と相談してみるが良い。これについては、余が尋ねるよりもお前の方が適任だ」
「うんっ」
ここは儂からもカダル殿に話してみるべきであろうか。かの御仁も儂と同じく某国の宮廷魔術師か何かではないのかと思っておるが、今のところそれを裏付ける確証はない。否定する材料もないが。
「ねえ、ブライからもカダルとガロンに訊いてみてくれる? どうしたらいいと思うかって」
一瞬だけ、目を見開く。姫様が、知らず知らずのうちに儂の思考を先読みなさったように指示を下さったことに。
「? どうしたの?」
「いえ、何でもありませぬ。かしこまりました」
いやはや。なんということか。これはもう別人どころの話ではない。姫様は姫様のまま、とてつもないほど急速に成長していらっしゃる。この老い耄れも負けてはいられぬではないか。