Moros/Eternal Source 作:時代に遅れている
「普段の彼女は別に何も問題がないんだけどね」
ヘレウクレスが、痛ましそうに目を伏せて補足する。
「戦闘に入ったり、冥界の仕事をするようになったりすると、彼女の意思に関わらず『死の力』が解放されてしまうんだ。そして厄介なことに、一度解放したその力は、彼女自身でも制御できないんだ」
「……なんか、辛いな」
武がポツリと呟いた。
盾を持ち、誰かを護ることを信条とする彼にとって、ただ戦うだけで周囲の命を意図せず刈り取ってしまうその力は、あまりにも孤独で悲しいものに思えたのだ。
「…………」
ミクトルは武の同情の言葉に何も答えず、ただ微かに、儚い微笑みを浮かべただけだった。彼女は静かに視線を外し、燃え盛る大通りの奥――ひときわ巨大な爆炎が上がる中心地へと顔を向ける。
「ヘレウクレスさん。あなたたちは、テポーンの元へ急いで向かってください。悲しいことですが、私たちの力では、あの偽神に傷一つ付けることすらできませんから……」
「言われずとも、そのつもりだ」
ヘレウクレスが大棍棒を握り直す。
「だったら早く行け。無駄口を叩くな」
リーが光の槍を肩に乗せ、顎でシッシッと追いはらうような仕草をした。
(……さっき、思いっきり自分も無駄口叩いてたよな、このサラブレッド?)
村正は内心で的確なツッコミを入れつつも、空気を読んで口には出さなかった。
「行ってくる。ミクトルさん、リー。あとの雑兵どもの足止めは頼んだぞ!」
ヘレウクレスが地鳴りのような足音を立てて駆け出す。
「俺たちも行くぞ、村正」
武が左腕の盾を構え直し、大英雄の背中を追う。
「わかったよ!」
村正もいびつな日本刀を握り締め、燃え盛る戦火の奥底へと飛び込んでいった。
――三人の背中が土煙の向こうに見えなくなった後。
周囲には再び、異形の蛇たちが無数に湧き出し、鎌首をもたげて二人を取り囲んでいた。
しかし、残されたミクトルの表情に焦りは微塵もない。彼女は冥界の女主人としての底知れぬ冷気を全身から立ち上らせ、迫り来る魔獣たちに向かって静かに宣告した。
「それでは……彼らに、安らかな死をお届けするとしましょう」
「後ろは任せろ」
リーが不敵に笑い、銀色の流星たる光の槍を空へと放つ。
絶対的な死の冷気と、闇夜を切り裂く極光。正反対の性質を持つ二人の勇士が並び立ち、魔獣の群れを蹂躙する静かで苛烈な宴が始まった。
燃え盛る瓦礫を飛び越え、肺を焼くような熱風を切り裂きながら、武は並走する巨漢へと鋭い視線を向けた。
「ヘレウクレス。さきほど、ミクトルたちが『テポーンには傷一つつけられない』と言っていたが……あれはどういうことだ?」
冷静な武の頭脳は、あの短いやり取りの中の違和感を決して見逃していなかった。神話の武器を操るリーの剣撃や、ミクトルが放つ絶対的な『死』の力。それらをもってしても傷一つ負わせられない相手に対し、なぜヘレウクレスだけが立ち向かおうとしているのか。
「ああ、まだ教えてなかったね。異界から来た君たちは知らないだろうが……」
ヘレウクレスは足を止めることなく、重苦しい声でこの世界の『残酷な理(ことわり)』を口にした。
「この世界において、破滅をもたらす偽神や邪神は、その神の予言に『対応する勇士』でなければ、決して倒すことができないように出来ているんだ」
「対応する、勇士……?」
「そうだ。絶対的なルールのようなものさ。だから、たとえ万物に等しく死をもたらすミクトルであろうと、あらゆる武芸に長けている万能のリーであろうと、第一の予言の邪神であるテポーンの鱗には何の意味もなさない。奴を殺せるのは、奴の宿敵として運命づけられた『第一の勇士』である、俺の打撃だけなんだ」
その事実を聞き、村正はひどく間抜けな声を上げた。
「えっ? ちょっと待ってよ。それってつまり……」
村正は走りながらも武と顔を見合わせる。
「外界から来た俺たちがここにいても、全く意味がないんじゃ……! 斬っても無敵バリアで弾かれるだけってことだろ!?」
当然の疑問だった。ギリシャ神話の怪物を倒せるのがギリシャ神話の英雄だけだというのなら、島国から来た自分たちの攻撃など、テポーンに通じるはずがない。
しかし、ヘレウクレスは焦る村正を見て、フッと嬉しそうに岩のような顔をほころばせた。
「いや、君たちは大丈夫だ。むしろ、ここに君たちが来てくれて本当に嬉しいよ」
「……え?」
(ん? それってどういう……)
村正の脳裏に疑問符が浮かぶ。
「君たちは大丈夫」とはどういう意味だ? 俺たちの持つ力が、ギリシャの魔獣の無敵の理をぶち抜けるというのか? それとも、俺たちの存在そのものが、この世界のルールから外れた『特異点』だということか?
だが、村正がその真意を問いただそうと口を開きかけた、まさにその瞬間だった。
「……ッ!!」
ヘレウクレスの顔から笑みが消え、その巨大な体がピクリと硬直した。
「奴の気配が、強まってきたな」
大英雄の声が一段と低く、野太く響く。
同時に、村正と武の全身の産毛が逆立った。周囲を包んでいた炎の熱気が、急激に別の何かに塗り替えられていく感覚。むせ返るような硫黄と血の臭い。重力が一気に倍増したかのように、呼吸をするのすら苦しくなるほどの、圧倒的で凶悪なプレッシャーが前方の暗闇から押し寄せてきた。
「来るぞ!」
武が叫び、左腕の重厚な盾を前方に突き出す。村正もいびつな日本刀を両手で握り締め、極限まで重心を落とした。
三人が大通りを抜け、かつて美しかったであろう聖都の中央広場へと飛び出したその先。
『グルォォォォォォォォォ…………ッ!!!』
地獄の底から響くような、大気を震わせる低く悍ましい咆哮。
燃え盛る黄金の炎を背景にして、それは文字通り『とぐろ』を巻いていた。
先ほど荒野で倒した大蛇など、まるで児戯に等しい。
見上げるほどの巨大な肉の山。幾重にも絡み合う無数の毒蛇の首が、一つの巨大な胴体から生え出し、のたうち回っている。赤黒く濁った無数の瞳孔が、広場に飛び出してきた三人のちっぽけな姿を同時に捉えた。
滅びの予言、第一の偽神。
魔獣テポーンが、圧倒的な絶望の姿をもって、ついに彼らの眼前にその全貌を現した。