Moros/Eternal Source 作:時代に遅れている
「……うぅ、ん……」
鈍い頭痛と、背中から伝わる硬く冷たい感触。村正は重い瞼をゆっくりと押し上げた。
ぼやけた視界にまず飛び込んできたのは、見慣れた夕暮れの空ではなく、目に突き刺さるほどに澄み切った、底抜けに青い空だった。
「起きたか」
すぐ頭上から、静かな声が降ってくる。声の主を探して視線を動かすと、そこには片膝を突き、油断なく周囲を見回す武の姿があった。
「武……!」
村正は跳ね起きようとして、全身の関節が軋むような痛みに顔をしかめた。だが、そんなことよりも目の前の光景が信じられず、声が上ずってしまう。
「ここはどこだ? ……俺たち、もしかしてあの光で死んだ?」
「くだらない冗談を言える余裕があるようだな。お前の脳には何も問題ないらしい」
武は微かに安堵の息を吐きつつも、表情は険しいままだった。彼はゆっくりと立ち上がり、村正に手を差し伸べる。
「とにかく、状況を整理しよう。俺たちはあの少女が持っていた『忘却の叙事詩』を読んだ後、謎の閃光に包まれて気を失った。そして、気づけばこの見知らぬ土地で倒れていた……ということだ」
村正は武の手を借りて立ち上がりながら、ポンッと手を打った。
「もしや、俺たち、この本の中に吸い込まれたってこと!? もしかしてジャンプ的な感じで強くなったりする?」
目をキラキラさせる村正に対し、武は呆れたように短くため息をつき、その視線を冷たく切り捨てた。
「……現実逃避をしている暇はない。とにかく先へ進もう。ここから出る方法を探さないといけないからな」
そう言って歩き出した武の背中を、村正は肩をすくめながら追いかけた。
二人が歩みを進めた先には、息を呑むような光景が広がっていた。
広大な荒野の中で、そこだけが別の時間が流れているかのようだった。青空を鋭く切り取るように、天を衝くほどの巨大なドーリア式の円柱が規則正しく並んでいる。人間という存在の小ささをあざ笑うかのような、圧倒的な幾何学の暴力。それでいて、計算し尽くされた柱の曲線は、荒涼とした大地に奇跡のような調和をもたらしていた。
だが、それは決して生きた建造物ではなかった。
寸分の狂いもない大理石の継ぎ目からは、無遠慮な野アザミが根を張り、千年の調和を内側から無惨に引き裂いている。精緻な神々の浮き彫りを覆い隠すように這い回る太い蔦は、まるでこの聖域をゆっくりと絞め殺そうとする大蛇のようだった。崩れ落ちた瓦礫の間を吹き抜ける風が、笛のようにひゅうひゅうと寂寥(せきりょう)の音を奏でている。
「なんだか……」
武は足を止め、荘厳で残酷な遺跡を見上げながら呟いた。
「本当に、神話の世界にでも迷い込んだような……そんな感覚に襲われるな」
常に冷静で現実主義な彼でさえ、その異様な空気に呑まれかけていた。
しかし、村正はどこか呑気に周囲をキョロキョロと見回している。
「それにしても……」
村正は遺跡の陰や、遠く続く荒野に目を凝らした。
「人が誰一人いない……どういうことだ? まるで世界から俺たち以外が誰もいないたみたいだ」
そして、ハッと気づいたように武を振り返った。
「あの光の原因になったはずのあの姫カットの女の子も、いなくない……どういうことだ?」
荒れ果てた遺跡の静寂が、二人の疑問を吸い込み、ただ冷ややかな風だけが彼らの頬を撫でていった。
ピタリと、前を歩いていた武の足が止まった。
同時に、彼の腕がスッと横に伸び、続く村正の胸を無言で押し留める。
「……どうした、武?」
怪訝に思って尋ねる村正に対し、武は口を開かず、ただ凍りついたような鋭い視線で前方の一点を示した。そのただならぬ緊張感に、村正も息を殺して視線の先を追う。
そして、絶句した。
崩れかけた大理石の柱の奥、陰る瓦礫の中から鎌首をもたげていたのは、この世の生物とは思えない悍(おぞ)ましい異形の怪物だった。
黒光りする鱗はどこか金属質で、不自然に歪んだ巨躯は通常の蛇の何倍も太い。吐き出される紫がかった息からは、むせ返るような死の臭いが漂ってきそうだった。
「な、なんだアレ!?」
「……分からない。だが、確かなのは刺激しない方がいいということだ。あまり見つからないように行動した方が良さそうだ」
武は冷や汗を滲ませながらも、極めて冷静に状況を分析し、後ずさりしようとした。
「ん……? アレは……?」
しかし、村正の視線は別のものを捉えていた。
怪物の視線の先、崩れた祭壇のそばにポツンと立つ小さな影。漆黒の姫カットに、どこか見覚えのある制服姿。先ほど、現実世界でぶつかったあの少女だった。
「おい、待て……!」
武が止めるより早く、村正の身体は弾かれたように駆け出していた。
自分でも理由はわからない。だが、あんな虚ろな目で立ち尽くしているだけの少女を、見殺しにすることなどできるはずがなかった。
「………………」
少女は、迫り来る圧倒的な死の気配を前にしても、ピクリとも動かなかった。光のない花紫色の瞳は、ただ漠然と虚空を見つめているだけで、怯える様子すら見せない。
『シャァァァァッ!!』
異形の蛇が、空気を引き裂くような咆哮を上げ、巨大なバネが弾けたような速度で少女へと襲いかかった。大木すら噛み砕けそうな凶悪な牙が、少女の華奢な身体に迫るーー。
その数ミリ手前。
「ッ!」
村正は横っ飛びに少女の腰を抱え込み、その勢いのままに硬い大理石の床をゴロゴロと転がった。蛇の巨大な顎(あぎと)は空を切り、二人が直前までいた地面を粉々に砕き散らす。
「逃げろォォォ!!」
村正は少女を米俵のように脇に抱え上げると、休む間もなく脱兎のごとく走り出した。
突然の浮遊感と強引な救出劇に、抱えられた少女は「え?」と、どこか間の抜けた声を漏らす。その瞳は相変わらず感情が欠落したように虚ろなままだ。
背後からは、獲物を奪われて激昂した大蛇が、地鳴りを響かせながら猛烈な勢いで追ってくる。
「全く……何の策も無しに飛び出すとは」
横を見ると、いつの間にか並走している武が、息一つ乱さずに冷ややかな声を投げかけてきた。
「万が一、お前まで喰われるなどして、何かあったらどうするつもりだったんだ」
「うるさいッ! 目の前で女の子に死なれると! 夢見が悪くて明日の朝の目覚めが最悪になるだろォ!!」
必死に足を回し、肺を焼くような呼吸を繰り返しながら、村正は涙目で叫び返す。
「そのまま永遠に起きられないかもしれないがな」
逃走劇という絶望的な状況下で、武の冷徹なツッコミが容赦無く突き刺さる。
「こう言う時に限って、冴えたブラックジョーク言うのやめてくれないか、武先生ッ!?」
真夜中のように静寂だった荒野の遺跡に、村正の情けない悲鳴と、大蛇の怒り狂う咆哮が響き渡る。
背後から迫る巨体の重みで、千年の時を耐え抜いた石畳が無惨に砕け散る。ズン、ズンという地鳴りが直接骨に響き、村正の背筋に冷たい汗がどっと吹き出した。
「で、これからどうすべきだと思う!?」
村正は腕の中の少女を落とさないよう必死に抱え直しながら、砂埃を蹴立てて並走する武に向かって怒鳴った。全速力で走っているせいで肺が悲鳴を上げ、喉の奥からは鉄の味がする。
「とにかく逃げるしかないだろ……!」
激しい逃走劇の最中であっても、武の横顔と声のトーンはあくまで冷静さを保っていた。彼は背後に迫る死の気配をチラリと一瞥し、忌々しそうに眉をひそめる。
「竹刀を持っていたところでどうにもならない。あの怪物とやり合えるほどの力を、俺たちが持ち合わせていないことぐらい分かるはずだ」
あの分厚い金属質のような鱗の前では、人間の腕力など赤子の戯れに等しい。それは疑いようのない絶望的な事実だった。
「そりゃあそうだけどさ! ならば頼れるのは他力本願のみッ!」
村正はヤケクソ気味に天を仰ぎ、喉が裂けんばかりの大音声を遺跡の空へと響かせた。
「誰かァァァ! 助けてくださァァァい!!」
『シャァァァァッ!!!』
まるでその渾身のSOSに応えるかのように、すぐ背後で大蛇が耳をつんざくような咆哮を轟かせた。大きく開かれた血生臭い顎(あぎと)から、死を孕んだ突風が二人の背中を激しく打ち据える。
「お前には言ってねぇよ!!」
村正は後ろを振り返ることなく、涙目で即座にツッコミを入れた。死の恐怖と持ち前の図太さが脳内で完全にショートし、もはや自分でも何に対して怒鳴っているのか分からない。ただひたすらに足を回し、崩れゆく大理石の迷宮を駆け抜けるしかなかった。
——しかし。
その泥臭く絶望的な鬼ごっこを、遥か高い場所から静かに見下ろす存在があった。
「……………」
風化を免れた、ひと際高いドーリア式円柱の頂(いただき)。
眩い太陽を背にした逆光の中に、人型の影が二つ、音もなく佇んでいる。
その影は、土煙を上げて逃げ惑う二人と、それを追う異形の大蛇の狂騒を、まるで盤上の駒でも見つめるかのように冷徹に俯瞰していた。荒野を吹き抜ける風がその外套の裾を激しくはためかせても、影の主はピクリとも動かない。
ただ深い沈黙だけが、その正体不明の存在を分厚く包み込んでいた。
息も絶え絶えに荒野の遺跡を駆け抜けていた二人の足が、突如として地面に縫い付けられたように止まった。
土煙を上げて逃げ込んだ先。彼らの行く手を阻んだのは、滑らかな大理石がスパッと垂直に切り落とされたような、目も眩むほどの断崖絶壁だった。
眼下には、乾いた風が吹き荒れる果てしない荒野が広がっているだけだ。橋もなければ、下へと続く階段もない。
「くそっ……行き止まりか」
常に沈着冷静な武の口から、珍しくギリッと歯を食いしばるような苛立ちの声が漏れた。踵(きびす)を返そうにも、背後からは岩を砕き、柱をなぎ倒す異形の這いずり音が、もう目と鼻の先まで迫ってきている。
「ということは………」
村正は絶望的な状況を悟り、ごくりと生唾を飲み込んだ。
彼は腕の中で相変わらず虚空を見つめ続けている少女を、崩れかけた大理石の柱の陰へとそっと下ろす。背後からは、獲物を追い詰めた大蛇の、勝利を確信したような悍(おぞ)ましい息遣いが聞こえていた。
「乗り掛かった船だ……」
武の低く、しかし芯のある声が、絶望に支配されかけた空間を凛と切り裂いた。
彼は肩に掛けていた細長い袋の紐を解き、中から使い込まれた竹刀を流れるような動作で引き抜く。
相手は神話の世界から抜け出してきたような、分厚い鋼の鱗を持つ怪物だ。対するこちらは、放課後の部活動で使うただの竹切れ。誰がどう見ても、滑稽なほどに無謀で絶望的な戦力差だった。
だが、武の構えには微塵の揺らぎもなかった。竹刀の剣先を大蛇の双眼へとピタリと合わせ、涼やかな瞳の奥に冷たい闘志の炎を静かに燃え上がらせる。
「覚悟を決めろ、村正」
親友の短くも力強いその言葉に、村正の奥歯がグッと噛み締められた。
「……やるしかないか!」
村正もまた、自身の袋から乱暴に竹刀を引き抜いた。パンッ、と乾いた音を立てて柄(つか)を握りしめると、先ほどまで「助けてくれ」と喚いていた情けない態度は嘘のように消え失せ、空気が一変する。
恐怖で膝が震えそうになるのを、気力だけで押さえつける。手の中にある竹刀は、目の前の絶望を打ち払うにはあまりにも頼りなく、軽い。
それでも、背後には謎だらけとはいえ守るべき少女がいて、隣には共に死線を潜り抜けようとしてくれる親友が立っているのだ。
逃げ場のない大理石の断崖。
赤く染まり始めた空の下、二人の少年は圧倒的な「死」の具現に向かって、一歩も引かずに刃なき剣を構えた。