Moros/Eternal Source 作:時代に遅れている
異形の怪物が吐き出す、生臭い死の風。その圧倒的なプレッシャーの只中で、武の声は驚くほど静かに、そして鋭く響いた。
「囮(おとり)は、俺が引き受ける……」
「了解!」
村正は一瞬の逡巡も見せずに応じた。言葉は少なくとも、道場で何千回、何万回と竹刀を交えてきた二人の間には、理屈を超えた阿吽の呼吸がある。武が囮となり、自分が隙を突く。その作戦の意図を、村正は直感で完璧に理解していた。
「一撃も受けるな……あの巨体からの一撃を受けようものなら、体は無事では済まない」
背を向けたまま短く忠告を投げかけると、武は大きく地を蹴った。
「わかってるよ……!」
村正の低い呟きを置き去りにして、武の身体は矢のように前線へと飛び出していく。
「来い、化物ッ!」
武が気合と共に竹刀で大理石の床を激しく叩くと、甲高い破裂音が遺跡に響き渡った。その音に反応し、大蛇の縦に裂けた不気味な瞳孔が、憎悪を込めて武を射抜く。
『シャァァァァァッ!!』
空気を切り裂くような咆哮と共に、丸太のように太い尾が、鋼鉄の鞭となって武を薙ぎ払いにきた。
致死の暴風が巻き起こる。武は目を見開き、間一髪のところで身を沈めてそれを躱した。頭上を通り過ぎた尾は、後ろにあったドーリア式の円柱をまるで飴細工のように容易く粉砕し、鼓膜を破るような轟音と白い粉塵を巻き起こす。
(……かすっただけで骨が砕けるな)
武は冷や汗を流しながらも、思考を極限まで加速させていた。彼は休むことなく足さばきを変え、大蛇の周囲を円を描くように走り続ける。大蛇は鬱陶しい羽虫を潰すかのように、巨大な顎(あぎと)を連続して打ち付けてくる。武はそれを、紙一重のステップと竹刀での受け流しで凌ぎ続けた。ただひたすらに、大蛇のヘイト(敵意)を自身に向けさせるために。
(武の言う通り、あの鱗じゃまともに打っても弾かれるだけだ……。なら、狙うべき場所は一つ!)
粉塵に紛れ、気配を完全に殺していた村正は、極限まで低く身を屈めたまま、大蛇の死角を這うように移動していた。
彼の視線は、大蛇の頭部……その異様に膨れ上がった右眼だけに定まっている。
「シィッ!」
武が鋭い呼気と共に踏み込み、大蛇の鼻先へフェイントの面を放つ。大蛇が鬱陶しそうに頭を振りかぶり、武を丸呑みにしようと大きく口を開けた、まさにその瞬間だった。
大蛇の意識が完全に武へと向いた一瞬の隙。
死角から弾かれたバネのように跳躍した村正が、大蛇の右側面へと躍り出た。
空中で竹刀を両手で固く握り直す。振り下ろすのではない。狙うはただ一点の刺突。全身の体重と、下半身から生み出した捻りのエネルギーのすべてを、竹刀の切っ先に集約させる。
突然真横に現れた村正に気づき、大蛇の瞳孔が驚愕に収縮する。しかし、もう遅い。
「貫けェェッ!!」
村正の裂帛(れっぱく)の気合いと共に放たれた神速の突きが、空気を裂いて一直線に吸い込まれていく。
そしてーー鈍い水音を立てて、竹刀の切っ先が大蛇の右眼球に深々と突き刺さった。
『ギャァァァァァァァァァァァァッ!!!!!』
眼球を潰された大蛇が、これまでにない鼓膜を突き破るような悲鳴を上げる。狂乱する大蛇の断末魔のような絶叫が、遺跡全体をびりびりと震わせていた。
激痛に正気を失った巨体がのたうち回るたびに、大理石の柱が飴細工のようにへし折れ、無数の破片が弾丸となって飛び交う。もうもうと舞い上がる土煙の中、武が鋭い声で駆け寄ってきた。
「どうした!」
「奴の目を潰した! これでなんとか逃げられると思うけどッ!」
村正は肩で息をしながら叫び返し、背後にいる少女を隠すように両手を広げて立ち塞がった。暴れ狂う大蛇の視界から彼女を逸らし、身を挺して盾となる。
(…このままデタラメに暴れられ続けるとーー)
村正の背筋を、氷のような悪寒が駆け下りた。
彼らが立っているのは、逃げ場のない断崖絶壁のすぐ縁だ。巨大な質量を持つ怪物が無軌道に暴れる衝撃は、地鳴りとなって容赦なく足元の地盤を揺さぶっていた。
『ミシ……ミシシシシッ……!』
突如、足元の奥深くから、骨が軋むような不吉な音が鳴り響いた。
千年の時を耐えてきたはずの大理石の床に、巨大な蜘蛛の巣のような亀裂が、まるで意志を持っているかのように凄まじい速度で走っていく。
「ちょっとヤバイかもォォォ!!」
村正の顔から完全に血の気が引いた。
崩壊は一瞬だった。大蛇の尾が地面を叩きつけた衝撃が決定打となり、村正と少女が立っていた断崖の縁が、巨大な岩塊ごとボキリとへし折れたのだ。
「村正!!」
武の悲痛な叫び声が響く。彼が咄嗟に伸ばした手は数センチ届かず、空を切った。
「うわァァァァァ!!」
足元から重力が消え失せ、村正と少女の体は、果てしない荒野の底へと真っ逆さまに投げ出された。
逆巻く風が耳元で轟き、視界が上へと高速で流れていく。落下していく絶望の中、村正は少女を抱きしめたまま、ただ強く目を瞑ることしかできなかった。
ーーその時だった。
「ロッキル、」
死の淵にいるはずの村正の耳に、場違いなほど落ち着いた、威厳のある若い男の声が響いた。
「はいはい、分かりましたよ~大英雄サマ」
それに答えたのは、どこか気怠げで、それでいて風のように軽やかな女性の声だった。
『瞬ーー!!』
次の瞬間、竜巻のような凄まじい突風が吹き荒れた。
いや、それは風の形をした「何か」だった。落下していたはずの村正の身体が、ふわりと見えない腕にすくい上げられ、強烈な重力加速度が嘘のように消え去る。
「…………え?」
恐る恐る目を開けた村正は、自分の目を疑った。
そこは、つい数秒前まで落下していたはずの断崖絶壁の上だったのだ。崩れ落ちた縁から遠く離れた、安全な石畳の上。
「はーい、間に合った」
すぐ頭上から聞こえた声に振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
亜麻色の髪の間からピンと立つ、狼のような獣の耳。そして、腰の後ろでふさふさと揺れる見事な尻尾。獣の耳をピンと立てたその女性は、村正と少女の襟首をそれぞれ片手で軽々と掴み上げたまま、悪戯っぽく口角を上げた。
「こっちは無事に助け出したんだからさ、そっちもキッチリ自分の仕事してよね~」
そう言いながら、彼女は視線を崩れゆく断崖の方へと向ける。しかし、次の瞬間には呆れたように小さく肩をすくめた。
「……って、もう終わってるし」
ズドォォォォォォンッ……!!
彼女の言葉をかき消すように、遅れて凄まじい地響きと轟音が遺跡全体を揺るがした。
村正が恐る恐る視線を向けると、濛々(もうもう)と舞い上がる土煙の向こうに、信じられない光景が広がっていた。
先ほどまであれほど暴れ狂い、武と村正を死の淵まで追いつめた異形の大蛇。その巨大な頭部が、まるで熟れた果実のように無惨に叩き潰され、ピクリとも動かなくなっていたのだ。
その亡骸の傍らに悠然と立っていたのは、岩山を思わせるほどの大柄な男だった。彼の右手には、大蛇の分厚い鋼の鱗をただの一撃で粉砕したであろう、血濡れた無骨な大棍棒が握られている。
大男は棍棒を軽々と肩に担ぎ直すと、その鋭くも思慮深い眼差しを村正と武に向けた。
「助け船を出すのに遅れたことを、まずはお詫びするよ」
深く、大地そのものが鳴動するような威厳のある声だった。彼はゆっくりとこちらへ歩み寄ると、張り詰めていた表情をわずかに和らげる。
「か弱き者を背に庇い、己の危険を顧みないその確かな『勇気』……無礼を承知で、少しばかり確かめさせてもらったんだ」
その言葉で、村正は腑に落ちた。先ほど、はるか頭上の円柱から自分たちの逃走劇を静かに見下ろしていた影の正体は、彼らだったのだ。
しかし、武は一切の警戒を解いていなかった。竹刀を握る手にギリッと力を込め、目の前の規格外の存在たちを冷たく鋭い視線で射抜く。
「……お前たちは、誰だ」
静かだが、張り詰めた糸のような武の問いかけ。
それに対し、大男は堂々と胸を張り、荒野に響き渡る声で名乗りを上げた。
「俺の名前はヘレウクレス。『新生の予言』に記されし、第一の勇士だ」