Moros/Eternal Source   作:時代に遅れている

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第一部第一章第四幕 赤紫の荒野と、偽神の爪痕

ヘレウクレス。

その名を聞いた瞬間、村正の脳裏に先ほど読んだばかりの『忘却の叙事詩』の一節が鮮烈にフラッシュバックした。

 

――『幾重の試練を超克し、滅亡の波頭を一身に砕く盾、無敵のヘレウクレス』。

 

「そして、そこにいるのがーー」

 

ヘレウクレスが傍らの女性に視線を向けると、彼女はパッと村正たちの襟首から手を離し、軽やかなステップで前に躍り出てきた。

 

「ハイハイ! 私の名前はロッキル! イタズラ好きのおてんば娘でーす、よろしくぅ!」

 

緊迫した空気を完全にぶち壊すような明るい声。ロッキルと名乗ったその女性は、腰のふさふさとした尻尾を機嫌よくパタパタと揺らしながら、村正たちに向かって愛嬌たっぷりにウインクをして見せた。

 

「そちらが名乗ったのなら、こちらも筋を通すべきだろう」

 

武は手にした竹刀をゆっくりと下げたが、その瞳に宿る鋭い警戒の光は消さないまま、まっすぐにヘレウクレスを見据えた。

 

「俺は武。秦 武(はた たける)だ。そして、こっちがーー」

 

「村正。妖刀も持っていない、ただの桑名 村正(くわな むらまさ)だ」

 

武の言葉を引き継ぐように、村正が飄々としたいつもの笑みを浮かべて前に出た。つい先ほどまで死の淵を覗き込んでいたとは思えないほどの切り替えの早さだ。そして、彼は背後に庇っていた少女へと振り返った。

 

「で、彼女は……えっと、誰だっけ?」

 

助けておきながら名前も知らないという村正の言葉に、場に奇妙な沈黙が落ちた。

全員の視線が、ポツンと立つ漆黒の姫カットの少女に集まる。彼女は相変わらず光のない瞳で足元を見つめていたが、やがて消え入るような、それでも確かな声で紡いだ。

 

「………宮本………宮本椿です」

 

冬の夜に舞う雪のような、静かで儚い響きだった。

その言葉を聞いた瞬間、獣人のロッキルの耳がピンと跳ね上がり、尻尾の動きがピタリと止まった。彼女は信じられないものを見るような目で、村正と武を交互に指差す。

 

「えっ? ちょっと待って? ってことはアンタたち、どこの誰かも分からない赤の他人を助けるために、あの怪物に命を投げ出そうとしたわけ!?」

 

呆れと驚愕が入り混じったロッキルの声が、荒野の風に乗って響く。

そのストレートな指摘に、武はわずかに眉間を寄せ、冷静さを取り繕うように咳払いをした。

 

「……投げ出そうとしたわけではない。俺たちは毛頭死ぬつもりなどなかったし、あの囮作戦も、あくまで隙を見計らって確実に逃げるための布石だったんだ」

 

論理武装でプライドを保とうとする武だったが、その手にある頼りない竹刀を見れば、それがどれほどの綱渡りだったかは誰の目にも明らかだった。

 

「逃げるって……ハァ」

 

ロッキルはわざとらしく大きなため息をつき、腰に手を当てた。

 

「アンタたちさ、アレが何だったのか本当に分かってないの? アレはただのデカい蛇じゃない。この筋肉バカの最大の宿敵であり、『滅びの予言』第一の偽神ーー魔獣テポーンの作り出した魔物だよ」

 

『魔獣テポーン』。

 

その不吉な響きに、武の脳内で急速に知識のピースが組み合わさっていく。

 

「テポーン……ギリシャ神話における最強の怪物、テュポーンの別の言い方か……?」

 

武が顎に手を当てて呟くと、村正は「神話の怪物ねぇ」と呑気に肩をすくめた。

 

「まあ、名前や出どころなんて今はどうでもいいさ。少なくとも、この異常な世界における俺たちの明確な『敵』であるってことさえ分かれば、それで十分じゃないか?」

 

持ち前の図太さで現状をあっさりと飲み込む村正。その柔軟すぎる思考に、ヘレウクレスは感心したように太く低く笑い声を漏らした。

 

「うおっ……肝の据わってる少年だな」

 

大男は地面に突き立てた棍棒に手をかけ、大理石の遺跡の奥へと厳しい視線を向けた。

 

「俺たちは本来、この『第一の予言』を成熟させないために、テポーンの息の根を止めに来たんだけど……奴は狡猾でね。今のところ上手くはいっていない」

 

ヘレウクルスの見上げる先には、ひび割れ、蔦に絡め取られたかつての栄華の象徴である円柱が、悲しげに立ち並んでいた。

 

「だから今は、この廃墟と化したアテネ神殿にいまだ取り残されている、罪なき民の救難活動を優先している次第だ。……お前たちも、巻き込んでしまってすまなかったね」

 

神話の英雄のような大男が頭を下げる姿は、その屈強な肉体に反して、どこまでも誠実で哀愁を帯びていた。

風化しつつある大理石の柱に寄りかかりながら、ロッキルは亜麻色の獣耳をピクピクと動かして、値踏みするように二人を見つめた。

 

「ねぇ、世界の常識である『予言』も知らない。この大陸を脅かす『テポーン』の名前も知らない。おまけに、あんな得体の知れない棒っ切れで戦おうとするなんて……アンタたち、一体どこから来たの?」

 

怪訝そうに首を傾げる彼女の問いに対し、武は一切の誤魔化しを挟まず、まっすぐな視線で答えた。

 

「俺たちは『日本』と呼ばれる場所から来た。そして今、この場から出る方法を探しているところだ」

 

「ニホン……?」

 

ロッキルは聞き慣れない単語に眉をひそめたが、すぐに武の言葉の『ある違和感』に気づき、ハッと息を呑んだ。ふさふさとした尻尾の動きが完全に止まる。

 

「ちょっと待って。今、『この場から出る』って言った? 『この場所(アテネ神殿)』からじゃなくて、『この場(世界)』から出たいって意味?」

 

彼女の鋭い指摘に、武は無言で頷いた。

その肯定は、ロッキルの頭の中に一つの雷を落としたようだった。彼女は信じられないものを見るような目で武と村正、そして背後に立つ椿を交互に見やり、やがて隣に立つ大男を見上げた。

 

「ねぇ、筋肉バカ。これってさ……もしかして、あの『予言』の……」

 

『星無き暗黒の世に、異界より来たりし勇士の兆しありーー』。

 

ロッキルが言いかけた言葉を遮るように、ヘレウクレスは分厚い手で静かに制した。

 

「………………」

 

重く、深い沈黙だった。

荒れ果てた神殿を吹き抜ける風が、彼の大柄な体を包むマントを大きくはためかせる。ヘレウクレスの思慮深い眼差しは、目の前の少年たちが放つ「異質さ」と、彼らが内に秘めているかもしれない「可能性」を静かに測っているようだった。

やがて、大男は岩のようだった表情をわずかに緩め、深く響く声で口を開いた。

 

「丁度いい。君たちも、我々の拠点に来るのはどうかな?」

 

それは単なる提案ではなく、運命の歯車が噛み合ったことを確信した英雄からの、有無を言わせぬ導きだった。

警戒を隠そうとしない武の強張った視線を受け止めたまま、ヘレウクレスは両手を軽く胸の高さまで上げ、敵意がないことを示すように穏やかに微笑んだ。

 

「いや何、捕虜として無理やり連行しようというわけじゃないさ。ただ、魔獣がうごめくこの危険な廃墟から、安全な『聖都ヒエロファニー』まで君たちを送ってあげようと提案しているにすぎない。……もちろん、どうするかは君たちの自由だ」

 

『聖都ヒエロファニー』。

またしても飛び出した未知の単語に、武は内心で舌打ちをした。情報が圧倒的に不足している。ここで彼らについて行くのが最善の策なのか、それとも別の生存ルートを探るべきなのか。武の明晰な頭脳が高速で状況を計算していく。

しかし、導き出される答えは一つしかなかった。

 

「……どうする?」

 

武は竹刀を握ったまま、忌々しげに横目で親友を見た。最終的な判断を、直感で動くこの男に委ねる。

 

「どうするって……」

 

村正は後頭部で手を組み、あっけらかんとした顔で武、そしてヘレウクレスたちを交互に見比べた。

 

「こんな化け物がウロウロしてる荒野に放り出されて、右も左も分からない? 着いて行くしかないだろ?」

一切の気負いも悲壮感もない、ただの事実確認のような軽い口調だった。あまりにも図太いその順応性に、武は深い溜め息をついて肩の力を抜く。確かにその通りだ。自分たちの力だけでは、あの蛇の化け物一匹すら倒せなかったのだから。

村正はニシシと人懐っこい笑みを浮かべ、ヘレウクレスに向かってまっすぐに手を差し出した。

 

「そういうわけだからさ。よろしく頼むよ、」

 

その迷いのない言葉を聞いて、ヘレウクレスは岩のように屈強な顔をほころばせ、豪快に笑った。

 

「ははっ、良かった! 君たちならそう言ってくれると信じていたよ」

 

ヘレウクレスは村正の差し出した手を、自身の分厚く無骨な手でしっかりと握り返した。骨が軋むほどの力強い握手には、嘘偽りのない歓迎の意が込められていた。

 

「さぁ、着いてきてくれ。道中は少し長いが、退屈はさせないつもりだ」

 

ヘレウクレスが踵を返し、マントを翻して歩き出す。ロッキルも「しっかり着いてきなよー!」と尻尾を振りながら後に続いた。

赤く染まり始めた空の下、崩れゆく神話の遺跡を背に。

村正たちは、依然として虚ろな目をした文不帰の手を引きながら、未知なる『聖都』への第一歩を踏み出した。

崩れかけた神話の遺跡を背に、一行は終わりの見えない荒野へと足を踏み入れた。

ヘレウクレスが用意してくれていたのは、荒野の過酷な環境に耐えうる、太い脚と分厚い胸板を持つ二頭の軍馬だった。

「俺はこっちに乗る」

武は手綱を受け取ると、淀みのない洗練された動作で一頭の馬にひらりと跨った。背に竹刀袋を背負い、馬上でも背筋をピンと伸ばして風を切り裂くその姿は、竹刀という得物の頼りなさを忘れさせるほど、歴戦の武者そのものだった。

 

「よし、椿、落ちないように俺と一緒に乗ろうな」

 

村正はもう一頭の馬に、椿を前抱きにする形で乗せた。彼女は村正の腕の中で馬の歩みに揺られるがままだが、その瞳は相変わらずガラス玉のように光を失い、焦点の合わない虚空をただ見つめ続けている。村正は彼女の華奢な体が傾かないよう、上着越しにしっかりと抱え込みながら手綱を握った。

 

「じゃあ、私は先に行って安全を確認してくるからねー!」

 

ロッキルはそう元気よく言い放つと、自慢の脚力を爆発させ、弾丸のような速度で砂煙を上げて荒野へと駆け出していった。馬の全力疾走すら凌駕するその走りは、しなやかな野生の獣そのものだ。彼女は時折、地平線の彼方から風のように戻ってきては楽しげに馬と並走し、有能な斥候(せっこう)としての役割を軽快に果たしていた。

そして、ヘレウクレス。

彼は自身の乗ってきた、山のように巨大で屈強な牛――ブルスに、丈夫な木製の牛車を繋いでいた。荷台には救難物資や、先ほどの大蛇から剥ぎ取ったと思われる分厚く不気味な鱗などが山と積まれている。彼はその横を、大木のような棍棒を杖代わりにしながら、一歩一歩、大地に轍(わだち)を刻み込むように歩いていた。その歩幅は馬の歩みと全く変わらず、彼の歩く背中は、どんな絶望的な脅威からも一行を守り抜いてくれそうな、圧倒的な安堵感を与えていた。

アテネの遺跡が遠ざかるにつれ、周囲はさらに広大で、生命の息吹を感じさせない荒涼とした大地へと変貌していった。

やがて夕日が沈み、空は血を流したような赤から、すべてを飲み込むような不気味な赤紫へと染まっていく。頬を撫でる風は急激に温度を下げ、肌を刺すような冷気と共に、絶対的な静寂が漂い始める。時折、遥か遠くの暗闇から名も知らぬ怪物の咆哮が風に乗って響き、そのたびに軍馬が怯えたように嘶(いなな)いて、一行の間に冷たい緊張を走らせた。

 

「……酷い有様だな」

 

武が周囲の暗闇に目を凝らし、苦渋に満ちた声を漏らした。

道中、彼らの目に飛び込んでくるのは、かつては栄華を極めたであろう美しい都市の残骸ばかりだった。巨大な爪痕によって無惨に引き裂かれた大地、焼け焦げ、崩れ落ちた神殿の柱。そして、荒野のあちこちに転がる、城ほどの大きさがある怪物の白骨化した骸(むくろ)。

この世界が、あの『テポーン』のような偽神たちによって、いかに徹底的に蹂躙され、尊い命が踏みにじられてきたのか。言葉による説明などなくとも、その凄惨極まりない風景が、痛いほど雄弁に物語っていた。

 

「……あぁ。だからこそ、俺たちは戦うんだ」

 

前を歩いていたヘレウクレスが、振り返ることなく静かに答えた。その声には、千の悲しみを飲み込み、万の絶望を乗り越えてきたような、重く深い響きが宿っていた。

 

「星なき暗黒の世。希望が尽きかけたこの大地で、それでも明日を生きようとする者たちがいる限り」

 

ーーその後、暗闇の荒野を何時間も歩き続けて。

 

「あー……腰が痛ぇ~。大英雄サマ、まだ着かないのか?」

 

村正の緊張感のかけらもない、情けない泣き言が静寂を破った。慣れない長時間の乗馬と、椿を支え続けている疲労で、彼の顔は完全に限界を迎えている。

 

「……少しは我慢しろ。歩くよりはマシだ。」

 

武が冷ややかにたしなめる。

 

「おっ、見えてきたぞ」

 

不意に、前を歩いていたヘレウクレスが足を止め、太い指で前方を示した。

二人が顔を上げると、果てしない荒野の暗闇の先に、突如として巨大な壁がそびえ立っていた。幾度も魔獣の凄惨な襲撃を退け、その爪痕を無数に刻みながらも、決して崩れることのなかった壮大な泥レンガの大城壁。その内側からは、この死に絶えた世界には似つかわしくない、暖かく柔らかな無数の光が天に向かって漏れ出している。

 

「ようこそ、はぐれ者たち!」

 

風に乗って一足先に戻ってきたロッキルが、誇らしげに胸を張り、その光り輝く巨大な都市を両手で示すように大きく広げてみせた。

 

「ここが、滅びの運命に抗う人類最後の砦。ーー聖都ヒエロファニーだよ!」

 

巨大な泥レンガの城壁に穿(うが)たれた重厚な門の前。煌々(こうこう)と燃える松明の炎が、武装した門兵たちと、彼らと言葉を交わすヘレウクレスの岩のような背中を赤く照らし出していた。

 

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