Moros/Eternal Source 作:時代に遅れている
厳かな空気が支配する、広大な謁見の間。
白木が精巧に組み合わされたその空間の最奥には、豪奢な御簾(みす)が何重にも下ろされ、玉座に座す絶対者の姿を御簾という名の神秘のヴェールで覆い隠していた。
「――報告は以上となります!」
膝をついた伝令の兵士が、張り詰めた声で締めくくる。
「ふむ……」
御簾の奥から響いたのは、深く、大地を震わせるような静かな声だった。姿は見えずとも、その一音だけで場を完全に支配する、圧倒的な王の威厳。
「いかが致しますか?」
御簾の傍らに控える、透き通るような美貌を持つ青年――側近のニギハヤヒが、恭(うやうや)しく問いかけた。
「その土地の指揮は、他の者に代わらせよう。ミチノオに任ずる」
帝(みかど)は淀みなく決断を下す。
「その者へと指揮権を渡せ。かの者は土地勘もあり、幾多の死線を潜り抜けた経験も豊富だ。必ずや頼りになるであろう。さすれば、交通の便も良くなり、爾(なんじ)らの行く末――すなわち成長も大いに望めるはずだ」
「はっ!」
兵士が深く頭を下げるのを待たず、帝は言葉を続ける。
「それと……どうやら、北の戦線にて兵の一人、アハトが深手を負ったそうだな。すぐに迎えの者を遣わし、身内と会わせてやれ」
冷徹な指揮官の顔から一転、その声には民を慈しむ温かな響きが満ちていた。
「親しき者と共に居れば気も休まろう。皆で祈りを捧げれば、傷の治りも早くなるはずだ」
謁見の間の末席で、その一連のやり取りを静かに見守っていた村正は、ひそひそ声で隣の武につぶやいた。
「やっぱり、御簾の向こうで顔は見せてくれないんだね~。もったいぶるなぁ」
「神の血を引き、この混沌の地を治め束ねる帝だ。日本神話において、彼は神と同等の扱いを受ける存在。顔を容易く拝めないのは当然だろう」
武は背筋を伸ばし、極度の緊張を隠すように冷静に答えた。
「むしろ、俺たちのような素性の知れないよそ者が、許可なく口を利いても良いものか怪しいレベルだ」
しかし、彼らの案内人である大英雄は、そんな武の常識など全く意に介さなかった。
「大丈夫だ、俺に任せておけ!」
ヘレウクレスはそう豪快に笑うと、静寂に包まれた謁見の間へズカズカと進み出て、腹の底から響く大音声を張り上げた。
「磐余彦(いわれひこ)の帝よ! 勇士ヘレウクルス、新たなる仲間を連れ、ただいま参上した!」
周囲の衛兵たちが一斉にざわめく。
「お勤めの最中とは重々承知だが、俺はそういう細かな礼儀は気にはしない性分でな!」
「……すごいな。まさか、全盛期の神武天皇に向かって、あんな清々しい啖呵(たんか)を切れる奴がいるなんて」
村正は感心したように目を丸くする。
「悪いが、これで俺たちの首が落ちたとしても、文句は言えない……」
武は止める気力すら湧かず、呆れ果てて深い溜息をついた。
ヘレウクレスの無礼な振る舞いに対し、御簾の奥の帝はピタリと動きを止めた。
「……………ほぉ」
姿は見えないが、鋭い視線が御簾越しに村正たちを射抜いたのが、肌が粟立つような絶対的なプレッシャーとして伝わってくる。
「……ご帰還なさったのですね」
緊張した空気を和らげるように、ニギハヤヒが静かに歩み出た。
「ヘレウクレス、して、テポーンの様子はいかがでしたか?」
「ありゃあ、完全に舐め腐ってるね~。あたしらのことなんて、歯牙にもかけてないみたいだったし」
ロッキルが腕を後ろに組みながら、軽い足取りで進み出る。
「まぁ、帝様ご自身が祈祷して、その親戚の太陽神様にでも直々に御力添えを頼んでくれれば、話はもっと簡単だったんだろうけどさ」
「ロッキル……」
ニギハヤヒの眼光が、冷たく鋭く光った。
「それはあまりに不敬です。ただちに謝罪なさい」
「はいはい、ごめんなさーい。言葉が過ぎましたー」
全く悪びれる様子のないロッキルは、ペロッと舌を出しておどけてみせる。
ニギハヤヒは小さく息を吐き、改めて村正と武の方へと優雅に向き直った。
「ところで、その方々が『勇士』とは……一体どういう意味――」
「………良い、話は八咫烏より聞いておる。」
ニギハヤヒの言葉を遮るように、御簾の奥から低く、しかし熱を帯びた声が漏れた。
衣擦れの音が響く。御簾の向こうで、帝が静かに玉座から立ち上がったのだ。
「彼らが、あの予言の勇士だとな」
隠しきれない好奇心と、停滞していた運命の歯車が激しく回り始めたことへの高揚感。
帝は、微かに笑いを含んだ声で、御簾越しにはっきりとそう言い放った。
「面白い」
シャラリ……。
張り詰めた静寂の中、重々しい衣擦れの音と共に、玉座をすっぽりと隠していた豪奢な御簾がゆっくりと押し上げられた。
「……え?」
村正の口から、間の抜けた声が漏れる。
誰もが息を呑む中、絶対的な神秘のヴェールに包まれていたはずの帝が、自らの足で堂々と段を下り、謁見の間の光の下へとその姿を現したのだ。
「神武天皇が、自ら……御簾から出るとは」
歴史の重みを知る武は、信じられない光景を前に思わず目を細めた。その声には、畏敬と、これから起こるであろう予測不能な事態への微かな緊張が入り混じっている。
「帝様! 一体どういうおつもりでーー」
常に優雅で冷静沈着なニギハヤヒが、ふいに見せた主君の常軌を逸した行動に、初めて焦りの色を浮かべて歩み寄る。しかし、帝はそれを片手で鷹揚(おうよう)に制した。
「なに、案ずるな。余もこの混沌の地に降り立ってからというもの、政(まつりごと)に追われ、外へはあまり出ておらなんだ。少々の気休め程度、よかろう。それにーー」
帝の口元に、好戦的で獰猛な笑みが浮かぶ。
彼は傍らに立てかけられていた、身の丈ほどもある豪壮な和弓を手に取った。神気すら帯びているようなその弓が握られた瞬間、謁見の間の空気がビリビリと震え、肌を刺すような圧倒的なプレッシャーが空間を満たした。
「真の勇士なれば、余の唐突な提案とて受けて立つはず。つまりはーー爾(なんじ)らの真偽を、予自らの手で問うのだ」
帝は手にした大弓を軽々と持ち上げ、真っ直ぐに村正と武を見据えた。千軍万馬を従え、幾多の戦場を駆け抜けてきた建国の王の覇気が、凄まじい熱量となって二人に叩きつけられる。
「さぁ、余に証明してみせよ異邦の勇士たち!」
王命という名の、絶対的な果し状。
もはや逃げ場も、断る権利も存在しない。
「……仕方ない」
武は短く息を吐き出すと、腹を括ったように鋭い視線を返し、背中の袋から愛用の竹刀を真っ直ぐに引き抜いた。相手が神話の頂点であろうと、刃向かってくる者には全力で応じるのみ。その構えに一切の迷いはなかった。
「はいはい。分かりましたよ」
一方の村正は、圧倒的な神威の前に立たされているというのに、後頭部をガシガシと掻きながら呆れたように肩をすくめた。
「衝撃の事実、『初代天皇・神武は戦闘狂だった』って……後で週刊誌にでも垂れ込んでおかなくちゃ……!」
軽口を叩きながらも、村正の瞳からは飄々とした色が消え去っていた。パンッ、と乾いた音を立てて竹刀を握りしめ、重心を低く落とす。
黄金に輝く聖都の中心で。
日本の歴史の原点たる王と、異界から落ちてきた二人の少年の、常識外れの死合いの幕が切って落とされた。