また、本作はコメディ寄りの作品となっております。
全22話予定
第1話:神話のはじまり
深夜の繁華街。きらびやかなネオンの大通りは、一転して阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「キャァァァーーーッ!?」
悲鳴の主は、SNSで見ない日はない超有名配信者だった。
彼女の視線の先で、壁を突き破った異形が咆哮を上げている。
鋭い爪は赤黒く濡れ、人間とは似ても似つかない顔面が、むき出しの牙を震わせていた。
――怪人。
この街では、誰もがその名を知っている。
「怪人だァ!!」
「逃げろ、早く!!」
「嘘だろ、なんでこんな中心街に……ッ!?」
逃げ惑う群衆の靴がアスファルトを叩く音が、けたたましく響き渡る。
突き飛ばされた誰かのスマホが画面を割って転がり、
ベビーカーを引いた母親が必死に悲鳴を上げながらビルへと逃げ込む。
誰もがパニックに陥り、押し寄せる人の波で将棋倒しの一歩手前だった。
「対怪人局は何やってんだ!! 早く職員を寄こせ!!」
怒号と泣き声が混ざり合い、街は一瞬で混沌(カオス)に飲み込まれていく。
逃げ惑う群衆の喧騒から、少し離れた路地裏。街灯も届かない暗がりに、
くたびれた格好のおっさんが一人、立っていた。
ジローだった。
「クソ……ありえねーだろ……。あのクソ馬、第四コーナーで失速しやがって……」
ヨレヨレのジャンパーに身を包んだ彼の機嫌は、昨日の日当を競馬でほとんど溶かし、
文字通り「最悪」の極みにあった。手元に残ったのは、コンビニで買った
一番安い発泡酒の缶が一本だけ。
ジローは、遠くで暴れる怪人と、パニックになる人々を一瞥し口元を歪めた。
(……あれ、サンドバックじゃん)
(あれなら殴っても文句言われねぇな)
(ちょうどいいな。このクソみたいなイライラ、アレで発散させてもらうわ)
誰かを助けたいわけじゃない。
ただ、この最悪な気分を晴らすことしか頭に無かった。
ジローは人目を避けるように、暗がりのさらに奥へと下がる。
壁の影が、その姿を完全に飲み込んだ。
「……日頃の行いが良いと、こういう『気晴らしにもなるご褒美』があるわけよ。」
誰に言うでもなく、一人呟く。
闇の中で、ジローの全身を黒い外骨格が覆っていく。
骨が軋み、皮膚の下から異形が這い出す。
人間とは似ても似つかない、
漆黒の怪物。
だがジローは、
その姿を今さら気にする様子もない。
配信者が死を予感し目を瞑る。
そんな配信者に怪人が鋭い爪を振り下ろそうとした、その瞬間。
黒い怪人は、一歩を踏み出した。その瞬間、足元のコンクリートがクモの巣状に爆ぜる。
競馬で負けた苛立ちそのすべてを右拳へと一点集中させるように、
ぎちぎちと黒い外骨格が鳴動した。
――ただの、八つ当たりだった。
だが、その拳に込められた質量は、大気を歪めるほどに重く、圧倒的だった。
ズガァァァァン!!!
衝撃の風圧に、配信者が恐怖で目を見張る。
漆黒の怪物は一言も発しない。
繁華街のビルを揺るがすほどのパンチ。
怪人の巨体が、紙くずみたいに吹き飛ぶ。
シィィィン……。
直前までの喧騒が嘘のように、繁華街全体が、凍りついたような静寂に包まれた。
逃げ惑っていた群衆も、ビルの窓から怯えて見ていた人々も、
全員が完全にフリーズしている。
誰もが「……は? 今、何が起きた?」と、目の前の光景を脳が拒絶していた。
何十人もの対怪人局員が束になっても敵わないはずの怪人が、
たった一撃で、文字通り粉砕されたのだ。誰もが声の出し方すら忘れ、
ただ息を呑んでその光景を見つめることしかできなかった。
腰を抜かした配信者は、呆然と黒い怪人を見上げていた。
恐怖で震えていた瞳が、少しずつ熱を帯びていく。
その背中は、現実のものとは思えなかった。
そして、黒い怪人は彼女に視線すら向けない。
気づけば、その姿はもうなかった。
後に残されたのは、命を救われた配信者と、粉砕された怪人の跡だけだった。
翌朝。
世間は文字通り「ひっくり返って」いた。
スマートフォンの画面を開けば、どのタイムラインもその話題でもちきりだった。
『【悲報】昨晩の繁華街の怪人、謎の黒い化け物により一撃で消し飛ぶ』
『動画見たけど、これマジ? CGじゃないよね?』
『てか何これ? 黒いの何? 対怪人局? 敵の仲間割れ?』
『誰かあの黒い怪人の正体知らないの!?』
最初のうちは、深夜のネット民たちが
「#謎の黒い怪人」
「#イミフ」
「#一撃」
といったワードで面白半分に拡散していた。
動画の切り抜きは瞬く間にミリオン再生を突破し、関連動画が次々とアップロードされ、
各SNSのトレンド上位を独占したほどの凄まじい大騒ぎになっていく。
そこに拍車をかけたのが、昨夜命を救われた配信者の緊急生配信だった。
まだ恐怖と興奮が冷めやらない様子で、完全にカメラの前でテンパっている。
同接数はまたたく間に大台を超えていく。
「みんな、ホント、ホントに聞いて!! 私、マジで、マジで死ぬかと思ったの!
爪が、こう、ガッてきて、あ、終わった、人生詰んだって思ったら、
横から真っ黒なのがズドォォォンって!! 一言も喋んないの!
喋んないで、なんか、もう、すごい怒ってんの! 怒気?気迫? がヤバくて、
あの、怪人の顔面を……ボコォォォン!! って、一撃!! ゴミみたいに飛んでったの!!
意味わかんない、意味わかんないけど、私を、私を助けてくれたの、
名乗りもしないで、ただ強くて、私、あの背中が、もう、もう……ッ!!」
涙目で、身振り手振りを交えながら必死に訴える彼女の、支離滅裂で感情の乗った配信。
しかし、この「一言も語らず去った」「圧倒的な力で怪人を滅ぼした」という断片的な事実が、翌日になってメディアやインフルエンサーたちの格好の餌食となった。
昼のワイドショーやニュースサイト、まとめブログ、自称専門家や元対怪人局職員まで
現れ一斉にこの話題を独自の解釈でデコレーションし始める。
『一言も語らず去った、謎の存在。彼が本当に伝えたかったメッセージとは?』
『既存の組織に属さない、現代のダークヒーローか』
ネット民の「#イミフ」という騒ぎは、たった数時間で、
メディアの手によって「#正体不明の守護者」「#孤独な守護者」という、
美しく神格化されたトレンドワードへと昇華されていった。
誰がその正体なのか、日本中が勝手に熱狂し、凄まじい大騒ぎになっていた。
一方、その頃。
安アパートの一室では、
テレビから流れるそんなお祭り騒ぎを完全にBGM代わりにしながら、
ジローがちゃぶ台に突っ伏していた。
画面の中の「正体不明の守護者」は、
今まさに赤ペンでバツ印をつけられた競馬新聞を傍らに置き、
ぬるくなった発泡酒を煽っている。
『孤独な守護者――!』
「……クソ。今日も外した……。あのアホ馬、本番に弱すぎんだろ……」
頭をボリボリと掻きながら、ジローは深くため息をつく。
「あー、仕事の時間かー、切り替えて作業場行くか……」
テレビを消し、重い腰を上げる。
ヨレヨレのジャンパーを羽織り、ジローはそのまま部屋を出た。
今日もどこにでもいる、ただの疲れたおっさんとして。
(第1話・了)
※作者は豆腐メンタルです。優しくしていただけると助かります。