名無しの怪人は酒を買って帰る   作:変身ヒーローはロマン

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第7話:信じることを疑う あまね前編

 

シルクのカーテン越しに差し込む朝日は、いつもと同じように穏やかだった。

厚手の絨毯が足音さえ吸い込んでしまいそうな、静かすぎる自室。

あまねはベッドの上で、膝を抱えたまま動けずにいた。

目の前のデスクには、かつて毎日のように触れていた最高級の配信機材が、

冷たい金属の光を放って並んでいる。

 

「……あ」

 

思い出したように右手を伸ばし、録画ボタンに指をかける。

けれど、指先が触れた瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。

パッと冷や汗が吹き出し、喉の奥がぎゅっと縮む。

 

(押せない――)

 

結局、指を離して、あまねは深く頭を垂れた。

スマホの画面には、今日も「黒の守護者」の動画と、

それに熱狂するタイムラインが目まぐるしく流れている。

世界はあんなに騒がしくて、あんなに楽しそうなのに。

 

ネットの誹謗中傷が怖いわけじゃなかった。叩かれることなら、

有名になったあの日から覚悟していた。

怖いのは、自分の軽率さだ。

自分の「人を見る目」を信じ切り、感情のままに発信した。

その結果、被害を広げてしまった。

 

『あまねチャンネルのあまねです! 皆さん、これが私たちの新しいヒーローです!』

 

過去の自分の、無邪気で、何も疑っていなかった輝かしい声が、

頭の中で呪いのようにリフレインする。

自分の言葉が、誰かの人生を狂わせた。その事実に一点集中で殴られ続け、

あまねの心は完全に活動を停止していた。

 

 

もう何度目になるか分からない。あまねは逃避するように、

タブレットの画面をスクロールしていた。

 

再生されているのは、かつて自分が盲目的に持ち上げた神代レンの公式PV。

そして、あの破滅の日の記録映像だった。

 

何十回、何百回と一時停止を繰り返す。

かつてはレンの雄姿しか見えていなかったその画面を、

今は縋るように、あるいは自傷行為のように凝視していた。

 

「……そういえば?」

 

ふと、あまねの指が止まる。

 

画面の端。倒壊したビルの瓦礫のさらに奥――規制線の向こう側。

対怪人局の職員に誘導されながら、泥をかぶり、呆然とした様子で歩いていく無数の群衆が、

豆粒ほどの大きさで映り込んでいた。

 

世間は今、新しく現れた「黒の守護者」に狂喜乱舞している。怪人が出ても彼が倒してくれる、

世界は元通りだ、と誰もが笑っている。

でも――

 

(あの時、レンの周りで泣いていた人たちは? 救われなかったあの人たちは、

今、どこでどうしているの……?)

 

気付けば、夢中で検索バーを叩いていた。

けれど、ネットの海にあるのは軽薄な考察と商品化されたヒーローの噂ばかり。

被害者たちの「その後」なんて、誰も発信していないし、誰も興味を持っていない。

 

ただ一つ分かったのは、世間の華やかな流行から完全に隔離された場所に、

彼らが集められた『特区』と呼ばれるエリアがあるということだけ。

 

(誰も映さないなら……自分の目で、確かめるしかない)

 

このまま部屋で録画ボタンすら押せずに朽ちていくくらいなら、

傷口に塩を塗る方がまだマシだった。

特区へ行くなら汚れてもいい服を着るべきだと頭では分かっていた。

それでも彼女は、配信で何度も着たお気に入りの白いワンピースを選んだ。

まるで、あの日までの自分を捨てきれないみたいに。

 

 

特区の最寄り駅を降りた瞬間、あまねの耳に飛び込んできたのは、

聞き慣れた能天気な電子音だった。

 

駅前の売店には、早くも『黒の守護者』のデフォルメイラストが、

描かれたアクリルキーホルダーや、必殺技を模したスナック菓子が並んでいる。

下校途中らしい学生たちが「マジワンパンだし」「あの怪人ダサかったよね」と、

スマホの画面を見せ合いながら笑い声を上げて通り過ぎていった。

 

つい数日前までは、自分もその「消費する側」の、賑やかで無邪気な世界にいたはずだった。

なのに、お気に入りの白いワンピースの裾をそっと握りしめるあまねの胸には、

冷たい違和感だけが沈んでいく。

 

 

駅から十分ほど歩いたときだった。

街頭のベンチで、がっくりと項垂れている男の姿が、あまねの目に飛び込んできた。

ヨレヨレの服を着た、くたびれた中年男性。

その顔は青ざめており、一目で体調が悪いのだと分かった。

 

(どうしよう……。でも、放っておけないよね……?)

 

見ず知らずの男性に声をかけるのは、正直に言って多少の躊躇いがあった。

けれど、目の前で苦しんでいる人を見捨てることなんて、彼女の性分が許さない。

あまねは意を決して、一歩を踏み出した。

 

「あの……大丈夫ですか?」

「ん~……」

 

男は濁った声を漏らすだけで、まともに顔も上げられないようだ。

あまねはなおも心配になって顔を覗き込む。

 

「んあ……? へーきへーき。ちょいと、飲み過ぎちまっただけだから……」

「でも、まだ日も暮れてないのに、こんなに酔っぱらってるなんて……」

 

配信者として様々な人と関わってきたあまねだったが、

真っ昼間から泥酔するほど酒を飲む人間は、彼女の人生にはいなかった。

 

「待っててください、今お水を買ってきますから! ここにいてくださいね」

「うぃ~す……」

 

力ない返事を確認すると、あまねは周囲を見渡し、

近くに見つけたコンビニへと向かって一目散に走り出した。

 

あまねが足早に走り去った、その数十秒後。

ベンチの男は、ふぅと大きな息を吐き、頭を振った。

 

「あ~……。大分、アルコールが抜けてきたな」

 

驚異的な代謝能力のせいか、さっきまでの青白い顔が嘘のように血色が戻っていく。

首をパキパキと鳴らし、のそりと立ち上がった。

 

「ん? 誰かに声を掛けられた気もするが……。飲み過ぎて記憶が曖昧だな。さて帰るか」

 

そのまま、のらりくらりと自分の家の方角へと歩き去っていった。

先ほどまでの、「体調不良者」の気配など微塵もなかった。

 

「おじさん、お待たせし、まし……た……?」

 

冷たいミネラルウォーターのペットボトルを握りしめ、息を切らせて戻ってきたあまねは、

その場で呆然と立ち尽くした。

 

「あれ? さっきのおじさんは……?」

 

ベンチの上は、ぽつんと空っぽだった。

一体どこへ消えてしまったというのか。

 

「あんな状態で、どこに行っちゃったの……?」

 

誰もいないベンチを見つめた。

忽然と消えてしまったおじさんの身は心配だったが、いなくなってしまった以上、

これ以上探しようもない。

あまねは小さくため息をつくと、ぎゅっと気持ちを切り替え、本来の目的地へと再び足を向けた。

 

 

賑やかな商店街が途切れ、灰色の高いフェンスと、無機質な簡易検問所が見えてきた。

 

『怪人災害避難民 一時収容特別区画――通称、特区』

 

ゲートの向こう側に広がる景色には、色彩がなかった。

舗装がひび割れた道路。急ごしらえで立ち並ぶ、プレハブや錆びついたコンテナハウス。

何より、駅前を彩っていたBGMや楽しげな話し声が、ここでは完全に消え失せていた。

 

「……あ」

 

一歩、足を踏み入れる。

仕立ての良い真っ白なワンピースと、綺麗に磨かれた靴。

泥臭い風が吹くその場所に、自分の存在そのものが、

酷く、悍ましいほどに浮いているのを、あまねは肌で感じていた。

 

 

特区の奥へ進むほどに、現実は生々しさを増して彼女の視界に飛び込んできた。

 

すれ違う人々の姿に、あまねは息を呑む。

怪人の攻撃による後遺症なのか、松葉杖をついて痛々しく足をひきずる若者。

車椅子の上で、虚空を見つめたまま動かない老人。

これまで画面越しに、記号としての「被害者数:何名」

という数字でしか見ていなかった痛みの実像が、そこにはあった。

 

けれど――あまねの心を最も激しく揺さぶったのは、その凄惨さではなかった。

 

ガシャリ、と乾いた音が響く。

車椅子を押していた老女が、手元を狂わせて、

小さなアルミの薬ケースを地面に落としてしまったのだ。

 

あまねがハッとして駆け寄ろうとした、その時。

 

「――おっと」

 

すぐ近くのパイプ椅子に座っていた、片腕を三角巾で吊った男が、

残った左手で器用にそれを拾い上げた。

「ほい、ばあさん。気をつけなよ」

「すまないねぇ、いつも助かるよ」

 

大げさな同情も、過剰な憐れみもない。

お互いが深く傷ついていることを知っているからこそ、

当たり前のように手を貸し、当たり前のように感謝を返す。

そこにあったのは、ただ互いを一人の人間として尊重し合う、助け合いの精神だった。

 

(……あ)

 

あまねは、その場に釘付けになったように立ち尽くした。

 

世間は今、新しい神話の誕生に沸き、綺麗で刺激的なエンターテインメントとして、

それを消費している。自分もその最前線で、無邪気にカメラを回し、

分かったような言葉を並べていた。

 

でも、この人たちは違う。

神話にすがる暇もなく、答えの出ない過酷な現実の中で、ただ泥臭く、「今日」を生きている。

 

それに比べて、自分はどうだ。

綺麗な部屋に閉じこもり、自分の保身と罪悪感だけに囚われて、録画ボタン一つ押せずにいた。

 

「私は……何を見ていたつもりだったんだろう……」

 

自分の無知さと今まで見ていた世界の薄っぺらさに、

胸を掻きむしられるような静かな絶望が押し寄せる。

 

あまねは、首から下げた高価なカメラを握り締めたまま、どうしてもレンズを向けることができなかった。

ただ真っ白なワンピースを泥風に揺らしながら、現実の只中で、

涙を流すことすら忘れて立ち尽くしていた。

 

 

(第7話・了)

 

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