名無しの怪人は酒を買って帰る   作:変身ヒーローはロマン

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第8話:信じることを疑う あまね後編

 

「……お嬢ちゃん、そんなところで突っ立ってると、泥風でその綺麗な服が汚れちまうよ」

 

声をかけられ、あまねはビクッと肩を揺らした。

見ると、さっき薬ケースを落とした老女が、

車椅子の上から怪訝そうな、けれどどこか気のいい眼差しで自分を見上げていた。

 

「あ……ご、ごめんなさい! 邪魔、でしたよね……っ」

「邪魔だなんて言ってないさ。ただ、そんな高いカメラを首から下げて、

幽霊みたいに青い顔をしてるからさ。……あんた、どっかのテレビ局の人かい?

それとも、ネットの動画ってやつをやってる子かい?」

 

ギクリ、とあまねの心臓が跳ねる。

その時、近くのパイプ椅子に座っていた片腕を吊った男が、

ふっと鼻で笑いながら会話に入ってきた。

 

「あ、やっぱり。俺もさっきから見たことある顔だと思ってたんだ。あんた、あまねチャンネルのあまねだろ。神代レンを『私たちのヒーロー』って大騒ぎしてた……」

「っ……!」

 

過去の自分の言葉を突きつけられ、あまねの顔から完全に血の気が引いた。

言い訳の言葉なんて出ない。

ただ、自分の浅はかさが恥ずかしくて、その場から逃げ出したかった。

 

特区の奥深く。灰色の風が吹き抜けるその場所で、あまねは完全に立ち尽くしていた。

 

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……。

私、あんな無責任な配信をして、皆さんがこんな目に遭っているのに、何も知らなくて……」

 

深々と頭を下げ、消え入るような声で謝罪を口にする。

照明を受け、配信画面の中で多くの人々を魅了していたあの華やかな面影は、

今のあまねにはひとかけらもなかった。

……ただ、自分の無知さと浅はかさが恥ずかしくて、胸を掻きむしられるような思いだった。

 

 

けれど、男は怒鳴るでもなく、ふっと自嘲気味に鼻で笑っただけだった。

 

「謝ることねぇよ。俺さ、病院で寝たきりだった頃、あんたの動画見て笑ってたんだ。

あの頃は本当に救われた。」

「……だから、全部が全部、無責任だったともいわねぇ。

……あんたさ、配信画面の中だとめちゃくちゃ華があるし。

でもプロなんだろ? 俺たちのこういう冴えない日常は『映えない』から映さないだろ?

バズらないもんな」

 

――ドクン、とあまねの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 

(映えないから、映さない……?)

 

その言葉は、あまねが一番触れられたくない、配信者としての「核心」を容赦なく抉ってきた。

頭の中で、インフルエンサーとしての自分が瞬時に自己防衛の反論を始める。

 

『違う。バズらなきゃ、そもそも誰にも届かないの。

綺麗で、劇的で、みんなが求めているエンターテインメントを届けるのが、

インフルエンサーの仕事、それの何が悪いの?

誰も見ない暗いニュースなんて、誰も求めてない――』

 

必死に言い訳を並べ立てようとする、プロとしての理屈。けれど、その思考の防衛線は、

次の瞬間に内側から無惨に崩壊した。

 

『――でも! それで、あんなことが起きたんじゃないの!?』

 

脳裏にフラッシュバックしたのは、あの日の光景。

自分が「みんなが求めているから」と無邪気に持ち上げ、

バズの渦の中心に据えていた神代レンの、あの痛々しい崩壊の瞬間。

自分が綺麗に切り取って配信した「神話」の裏側で、

現実にどれほどの血が流れ、どれほどの人が傷つき、

そしてレン自身がどんな地獄を背負うことになったのか。

 

(バズらなきゃ意味がない? 届かなきゃ価値がない?

違う、違う、私がやっていたのはただの……!

でも、そうしなきゃ誰も私を見ない!

私はただ、みんなを元気に、

ううん、自分が傷つきたくなくて、神話を作って、でもレンは、あの街は――)

 

脳内で、過去の自分を肯定したい本能と、

それを「お前のせいで悲劇が起きた」と激しく責め立てる自己否定が、凄まじい勢いで殴り合う。

思考の糸が完全に千切れ、支離滅裂な混乱の嵐があまねの精神を襲った。

 

「っ、あ……、つ、私は、う、あ……」

 

喉の奥が引き攣り、まともな言葉にならない。足元もおぼつかなくなり、

呼吸は急速に浅く、過呼吸気味に胸を上下させ始めた。

視界が急速に狭くなり、色のない世界がさらに暗く歪んでいく。

首から下げた高級なカメラが、まるで鉄球のように重く彼女の首を絞めつけているようだった。

 

ガタ、とパイプ椅子が鳴る音が聞こえた。

あまねは恐怖に身を強張らせた。軽蔑される、あるいは「何を被害者ぶって取り乱しているんだ」と怒鳴られる――そう思って、ぎゅっと目を瞑った。

 

しかし、届いたのは冷たい怒号ではなかった。

 

「……おい。ゆっくり、息しろ」

 

男の声だった。先ほどまで皮肉を交えていたトーンとは打って変わり、

それはひどく落ち着いていて、どこか聞き覚えのあるトーンだった。

あまねが恐る恐る目を開けると、片腕を三角巾で吊った男が、

車椅子に座る老女の前にそっと立ち、

あまねとの間に緩やかな距離を保ったまま、静かに佇んでいた。

 

その目は、憐れんでいるわけでも、見下しているわけでもなかった。

ただ、痛みを「知っている」者の目だった。

 

特区は、怪人の襲撃によって心身に深い傷を負った者たちが集まる場所だ。

身体の部位を失った者、愛する人を失った者、

そして、突然の災厄によって精神をズタズタに引き裂かれ、夜も眠れずにパニックを起こす者――そんな人間を、彼らはこの特区の中で嫌というほど見てきたのだ。

 

「誰もあんたを責めてねぇよ。ここにはな、そうやって急に息ができなくなる奴なんて、

掃いて捨てるほどいるんだ。……ばあさん、飴、持ってただろ」

「あ、ああ、あったかねぇ……。待っておくれよ」

 

老女は慌てることなく、シワだらけの手でさっき拾ってもらった薬ケースの隣から、

小さなイチゴの飴玉を一つ取り出した。

そして、車椅子を少しだけ進め、あまねの足元へそっと置いた。

 

「お嬢ちゃん、ゆっくりでいい。ここは誰もあんたを追い出しやしないから。

綺麗なワンピースは汚れるかもしれんが、そこに座りな」

 

その言葉と、二人の静かな佇まいに、あまねの脳内の嵐が嘘のように引いていくのを感じた。

 

彼らは、あまねを「配信者のあまね」としても、「加害者側の人間」としても見ていなかった。

ただ目の前で、自分たちと同じように『深く心を損なって震えている、一人の人間』として、

当然のように受け入れ、静かに見守ってくれていた。

 

(この人たちの前では……配信者としての仮面も、

プロとしての言い訳も、何もいらないんだ……)

 

張り詰めていた虚飾が剥がれ落ち、あまねの目からポロポロと涙が溢れ出した。

それは罪悪感の涙ではなく、自分の弱さをそのまま受け入れてもらえたことへの、

救いの涙だった。

 

あまねは泥のついた地面に膝をつき、しばらくの間、ただ静かに涙を流した。

男も老女も、それ以上は何も言わず、ただ特区の灰色の風の中で、彼女の涙が止まるのを待っていた。

 

やがて、あまねは震える手で涙を拭い、地面に落ちていた飴玉を拾い上げてポケットに仕舞った。

そして、ゆっくりと立ち上がる。

 

首から下げた、高価で重いカメラ。

そのレンズは、特区の灰色の景色と、そこに生きる人々の姿を真っ直ぐに捉えていた。

 

(……やっぱり、怖い)

 

また間違えるかもしれない。

こんな「映えない」現実を、傷ついた人間の姿を映したって、

これまでのリスナーは誰も喜ばないかもしれない。

「あまねチャンネルは変わってしまった」と見放され、バズることもなく、

本当にすべてを失うかもしれない。

 

それでも――ないことにしちゃいけない現実が、確かにここにある。

 

あまねはカメラのストラップを、指が白くなるほど強く、強く握りしめた。

 

「……バズらないかもしれません」

 

かすれた、けれど先ほどとは違う、芯のある声が出た。

あまねは顔を上げ、涙の跡が残る顔で、二人を真っ直ぐに見つめた。

 

「綺麗でも、映えもしないから、誰にも見てもらえないかもしれない。

……でも、ないことにしちゃいけない現実が、ここにあります。

正直、まだ怖いです、また間違えるかもしれない」

「でも、見なかったことにはしたくないんです、だから……

今度はちゃんと、自分の目で見たものを届けたい」

 

声を震わせながら、それでも一歩も引かずに、自分に誓うように言葉を紡ぐ。

 

「……正直、まだ答えなんて分かりません。」

「何が正しいのかも、自信なんてありません。」

「でも、見なかったことにはしたくないんです。」

「だから……今度はちゃんと、自分の目で見たものを届けたい。」

「それこそが、私の目指していく配信です。」

あまねのその言葉に、男は少し目を見張り、それから

「……ハハ、やっぱり頑固だな、あんた」と、今度は皮肉ではなく、小さく苦笑した。

「いいよ。俺のこの、映えない泥臭い話でよければな。

……まずは、そこのパイプ椅子に座りなよ。配信者さん」

 

あまねは小さく頷き、差し出された椅子に腰掛けた。

彼女の手はまだ少し震えていたけれど、

その目はしっかりと、特区の曇り空の向こうにある「現実」を見つめていた。

 

 

特区の人々と初めて言葉を交わしてから、数日が経っていた。

今日も取材を終えたあまねは、家路に就くべく夜の駅へと向かって歩いていた。

 

ふと、既視感のある姿が視界に飛び込んでくる。

以前、ベンチで泥酔していた、あのヨレヨレの服を着たおじさんだ。

今度は路上に力なく横たわっている。

 

「だ、大丈夫ですか……!?」

 

何かの事故か急病ではないかと、あまねは慌てて駆け寄り、声を掛けた。

 

「んあ~……? ああ、へーきへーき。ちょっと、連日飲みすぎちまっただけだから……」

 

おじさんは虚ろな目で、明らかに平気ではない様子で身をよじる。

その自堕落な姿に、心配のあまりあまねの語気が自然と強くなった。

 

「だめですよ! こんな体になるまで、どうしてそこまで飲むんですか!」

 

「どうしてか、ねぇ……」

おじさんは顔を伏せ、ぽつりと呟いた。

「そりゃあ、忘れられないことがあってな。それを忘れるために、こうして飲むのさ」

 

その沈んだ態度と、重みのある言葉。あまねの胸に、ハッとする衝動が走った。

(この人も?……)

胸の奥がキリキリと痛む。あまねは絞り出すように、辛そうな声を漏らした。

 

「ひょっとして、あなたも……大切な、なにかを亡くしたんですか?」

 

おじさんは答えない。代わりに、懐から一枚の紙切れを取り出した。

それは一度バラバラに破かれ、セロハンテープで不器用に繋ぎ合わされたものだった。

あまねの角度からは中身は見えなかったが、直感した。

きっと、このおじさんにとって失うわけにはいかない、大切な誰かの写真か何かなのだと。

 

「人生ってやつは……ままならねぇなぁ……」

「こいつはよぉ、どうしても忘れられないやつなんだ」

おじさんは、込み上げる感情を必死に堪えるように告白する。

「一度は破り捨てたんだ……でもよ、やっぱりどうしてもダメなんだよ。

ふとした時に思い出してさぁ、捨てらんねぇんだよ……女々しいだろ?」

 

その言葉は、あまねの心に深く突き刺さり共感した彼女の視界が、涙でじんわりと滲んでいく。

あまねは必死に首を横に振った。

 

「そんなことないです! 誰だって、辛いことを忘れるなんて簡単にはできません!

私だって……」

 

自分の過去の痛みが、おじさんの姿に重なる。

(この人は、あの時の私だ――)

あの辛かった時、自分は特区の人々に救われ、元気づけてもらった。

だから今度は、私がこのおじさんを励ます番なのだ。

 

「ありがとうな、お嬢ちゃん……。簡単には、忘れられない、か……」

「はい……」

 

おじさんの力ない呟きに、あまねは一瞬不安になる。

私の言葉は届かなかったのだろうか、と目の前が暗くなりかけた、その時だった。

 

「うし! くよくよするのはここまでだ!」

 

おじさんが突然、パンッと膝を叩いて勢いよく立ち上がった。

あまりの急変ぶりに、あまねは涙を浮かべたまま目を白黒させる。

 

「話を聞いてもらって、すっきりしたよ。ありがとな、お嬢ちゃん!」

 

どこか自己完結したような晴れやかな顔で、

おじさんはあまねに背を向け、大股で歩き出してしまった。

呆然とその後ろ姿を見送りながらも、あまねは胸をなでおろし、ほっと息を吐いた。

 

「少しは、あの時の恩返しができたのかな」

 

特区での経験を経て、誰かの心に寄り添うことができた。

その実感に満たされながら、あまねは終電が迫っていることに気づき、慌てて駅へと走り出す。

その足取りには、もう一歩の迷いも消えていた。

 

一方、あまねと別れたおじさんは、夜道で一人ごちていた。

 

「もうこいつはイラネェな! くよくよしてる場合じゃねぇ。これからは運に頼るのはやめだ。

俺に相応しいのは、銀色の玉と、お馬さんだな!」

 

おじさんは「あばよ!」と豪快に笑うと、懐の紙切れを路傍のゴミ箱へ投げ捨て、

夜の街へと消えていった。

 

カサリ、とゴミ箱の底に落ちたのは、

一度はビリビリに破かれ、後にテープで繋ぎ合わされた、

『あの日、一桁違いで逃した宝くじ』であった。

 

(第8話・了)

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