「……お嬢ちゃん、そんなところで突っ立ってると、泥風でその綺麗な服が汚れちまうよ」
声をかけられ、あまねはビクッと肩を揺らした。
見ると、さっき薬ケースを落とした老女が、
車椅子の上から怪訝そうな、けれどどこか気のいい眼差しで自分を見上げていた。
「あ……ご、ごめんなさい! 邪魔、でしたよね……っ」
「邪魔だなんて言ってないさ。ただ、そんな高いカメラを首から下げて、
幽霊みたいに青い顔をしてるからさ。……あんた、どっかのテレビ局の人かい?
それとも、ネットの動画ってやつをやってる子かい?」
ギクリ、とあまねの心臓が跳ねる。
その時、近くのパイプ椅子に座っていた片腕を吊った男が、
ふっと鼻で笑いながら会話に入ってきた。
「あ、やっぱり。俺もさっきから見たことある顔だと思ってたんだ。あんた、あまねチャンネルのあまねだろ。神代レンを『私たちのヒーロー』って大騒ぎしてた……」
「っ……!」
過去の自分の言葉を突きつけられ、あまねの顔から完全に血の気が引いた。
言い訳の言葉なんて出ない。
ただ、自分の浅はかさが恥ずかしくて、その場から逃げ出したかった。
特区の奥深く。灰色の風が吹き抜けるその場所で、あまねは完全に立ち尽くしていた。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……。
私、あんな無責任な配信をして、皆さんがこんな目に遭っているのに、何も知らなくて……」
深々と頭を下げ、消え入るような声で謝罪を口にする。
照明を受け、配信画面の中で多くの人々を魅了していたあの華やかな面影は、
今のあまねにはひとかけらもなかった。
……ただ、自分の無知さと浅はかさが恥ずかしくて、胸を掻きむしられるような思いだった。
けれど、男は怒鳴るでもなく、ふっと自嘲気味に鼻で笑っただけだった。
「謝ることねぇよ。俺さ、病院で寝たきりだった頃、あんたの動画見て笑ってたんだ。
あの頃は本当に救われた。」
「……だから、全部が全部、無責任だったともいわねぇ。
……あんたさ、配信画面の中だとめちゃくちゃ華があるし。
でもプロなんだろ? 俺たちのこういう冴えない日常は『映えない』から映さないだろ?
バズらないもんな」
――ドクン、とあまねの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
(映えないから、映さない……?)
その言葉は、あまねが一番触れられたくない、配信者としての「核心」を容赦なく抉ってきた。
頭の中で、インフルエンサーとしての自分が瞬時に自己防衛の反論を始める。
『違う。バズらなきゃ、そもそも誰にも届かないの。
綺麗で、劇的で、みんなが求めているエンターテインメントを届けるのが、
インフルエンサーの仕事、それの何が悪いの?
誰も見ない暗いニュースなんて、誰も求めてない――』
必死に言い訳を並べ立てようとする、プロとしての理屈。けれど、その思考の防衛線は、
次の瞬間に内側から無惨に崩壊した。
『――でも! それで、あんなことが起きたんじゃないの!?』
脳裏にフラッシュバックしたのは、あの日の光景。
自分が「みんなが求めているから」と無邪気に持ち上げ、
バズの渦の中心に据えていた神代レンの、あの痛々しい崩壊の瞬間。
自分が綺麗に切り取って配信した「神話」の裏側で、
現実にどれほどの血が流れ、どれほどの人が傷つき、
そしてレン自身がどんな地獄を背負うことになったのか。
(バズらなきゃ意味がない? 届かなきゃ価値がない?
違う、違う、私がやっていたのはただの……!
でも、そうしなきゃ誰も私を見ない!
私はただ、みんなを元気に、
ううん、自分が傷つきたくなくて、神話を作って、でもレンは、あの街は――)
脳内で、過去の自分を肯定したい本能と、
それを「お前のせいで悲劇が起きた」と激しく責め立てる自己否定が、凄まじい勢いで殴り合う。
思考の糸が完全に千切れ、支離滅裂な混乱の嵐があまねの精神を襲った。
「っ、あ……、つ、私は、う、あ……」
喉の奥が引き攣り、まともな言葉にならない。足元もおぼつかなくなり、
呼吸は急速に浅く、過呼吸気味に胸を上下させ始めた。
視界が急速に狭くなり、色のない世界がさらに暗く歪んでいく。
首から下げた高級なカメラが、まるで鉄球のように重く彼女の首を絞めつけているようだった。
ガタ、とパイプ椅子が鳴る音が聞こえた。
あまねは恐怖に身を強張らせた。軽蔑される、あるいは「何を被害者ぶって取り乱しているんだ」と怒鳴られる――そう思って、ぎゅっと目を瞑った。
しかし、届いたのは冷たい怒号ではなかった。
「……おい。ゆっくり、息しろ」
男の声だった。先ほどまで皮肉を交えていたトーンとは打って変わり、
それはひどく落ち着いていて、どこか聞き覚えのあるトーンだった。
あまねが恐る恐る目を開けると、片腕を三角巾で吊った男が、
車椅子に座る老女の前にそっと立ち、
あまねとの間に緩やかな距離を保ったまま、静かに佇んでいた。
その目は、憐れんでいるわけでも、見下しているわけでもなかった。
ただ、痛みを「知っている」者の目だった。
特区は、怪人の襲撃によって心身に深い傷を負った者たちが集まる場所だ。
身体の部位を失った者、愛する人を失った者、
そして、突然の災厄によって精神をズタズタに引き裂かれ、夜も眠れずにパニックを起こす者――そんな人間を、彼らはこの特区の中で嫌というほど見てきたのだ。
「誰もあんたを責めてねぇよ。ここにはな、そうやって急に息ができなくなる奴なんて、
掃いて捨てるほどいるんだ。……ばあさん、飴、持ってただろ」
「あ、ああ、あったかねぇ……。待っておくれよ」
老女は慌てることなく、シワだらけの手でさっき拾ってもらった薬ケースの隣から、
小さなイチゴの飴玉を一つ取り出した。
そして、車椅子を少しだけ進め、あまねの足元へそっと置いた。
「お嬢ちゃん、ゆっくりでいい。ここは誰もあんたを追い出しやしないから。
綺麗なワンピースは汚れるかもしれんが、そこに座りな」
その言葉と、二人の静かな佇まいに、あまねの脳内の嵐が嘘のように引いていくのを感じた。
彼らは、あまねを「配信者のあまね」としても、「加害者側の人間」としても見ていなかった。
ただ目の前で、自分たちと同じように『深く心を損なって震えている、一人の人間』として、
当然のように受け入れ、静かに見守ってくれていた。
(この人たちの前では……配信者としての仮面も、
プロとしての言い訳も、何もいらないんだ……)
張り詰めていた虚飾が剥がれ落ち、あまねの目からポロポロと涙が溢れ出した。
それは罪悪感の涙ではなく、自分の弱さをそのまま受け入れてもらえたことへの、
救いの涙だった。
あまねは泥のついた地面に膝をつき、しばらくの間、ただ静かに涙を流した。
男も老女も、それ以上は何も言わず、ただ特区の灰色の風の中で、彼女の涙が止まるのを待っていた。
やがて、あまねは震える手で涙を拭い、地面に落ちていた飴玉を拾い上げてポケットに仕舞った。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
首から下げた、高価で重いカメラ。
そのレンズは、特区の灰色の景色と、そこに生きる人々の姿を真っ直ぐに捉えていた。
(……やっぱり、怖い)
また間違えるかもしれない。
こんな「映えない」現実を、傷ついた人間の姿を映したって、
これまでのリスナーは誰も喜ばないかもしれない。
「あまねチャンネルは変わってしまった」と見放され、バズることもなく、
本当にすべてを失うかもしれない。
それでも――ないことにしちゃいけない現実が、確かにここにある。
あまねはカメラのストラップを、指が白くなるほど強く、強く握りしめた。
「……バズらないかもしれません」
かすれた、けれど先ほどとは違う、芯のある声が出た。
あまねは顔を上げ、涙の跡が残る顔で、二人を真っ直ぐに見つめた。
「綺麗でも、映えもしないから、誰にも見てもらえないかもしれない。
……でも、ないことにしちゃいけない現実が、ここにあります。
正直、まだ怖いです、また間違えるかもしれない」
「でも、見なかったことにはしたくないんです、だから……
今度はちゃんと、自分の目で見たものを届けたい」
声を震わせながら、それでも一歩も引かずに、自分に誓うように言葉を紡ぐ。
「……正直、まだ答えなんて分かりません。」
「何が正しいのかも、自信なんてありません。」
「でも、見なかったことにはしたくないんです。」
「だから……今度はちゃんと、自分の目で見たものを届けたい。」
「それこそが、私の目指していく配信です。」
あまねのその言葉に、男は少し目を見張り、それから
「……ハハ、やっぱり頑固だな、あんた」と、今度は皮肉ではなく、小さく苦笑した。
「いいよ。俺のこの、映えない泥臭い話でよければな。
……まずは、そこのパイプ椅子に座りなよ。配信者さん」
あまねは小さく頷き、差し出された椅子に腰掛けた。
彼女の手はまだ少し震えていたけれど、
その目はしっかりと、特区の曇り空の向こうにある「現実」を見つめていた。
特区の人々と初めて言葉を交わしてから、数日が経っていた。
今日も取材を終えたあまねは、家路に就くべく夜の駅へと向かって歩いていた。
ふと、既視感のある姿が視界に飛び込んでくる。
以前、ベンチで泥酔していた、あのヨレヨレの服を着たおじさんだ。
今度は路上に力なく横たわっている。
「だ、大丈夫ですか……!?」
何かの事故か急病ではないかと、あまねは慌てて駆け寄り、声を掛けた。
「んあ~……? ああ、へーきへーき。ちょっと、連日飲みすぎちまっただけだから……」
おじさんは虚ろな目で、明らかに平気ではない様子で身をよじる。
その自堕落な姿に、心配のあまりあまねの語気が自然と強くなった。
「だめですよ! こんな体になるまで、どうしてそこまで飲むんですか!」
「どうしてか、ねぇ……」
おじさんは顔を伏せ、ぽつりと呟いた。
「そりゃあ、忘れられないことがあってな。それを忘れるために、こうして飲むのさ」
その沈んだ態度と、重みのある言葉。あまねの胸に、ハッとする衝動が走った。
(この人も?……)
胸の奥がキリキリと痛む。あまねは絞り出すように、辛そうな声を漏らした。
「ひょっとして、あなたも……大切な、なにかを亡くしたんですか?」
おじさんは答えない。代わりに、懐から一枚の紙切れを取り出した。
それは一度バラバラに破かれ、セロハンテープで不器用に繋ぎ合わされたものだった。
あまねの角度からは中身は見えなかったが、直感した。
きっと、このおじさんにとって失うわけにはいかない、大切な誰かの写真か何かなのだと。
「人生ってやつは……ままならねぇなぁ……」
「こいつはよぉ、どうしても忘れられないやつなんだ」
おじさんは、込み上げる感情を必死に堪えるように告白する。
「一度は破り捨てたんだ……でもよ、やっぱりどうしてもダメなんだよ。
ふとした時に思い出してさぁ、捨てらんねぇんだよ……女々しいだろ?」
その言葉は、あまねの心に深く突き刺さり共感した彼女の視界が、涙でじんわりと滲んでいく。
あまねは必死に首を横に振った。
「そんなことないです! 誰だって、辛いことを忘れるなんて簡単にはできません!
私だって……」
自分の過去の痛みが、おじさんの姿に重なる。
(この人は、あの時の私だ――)
あの辛かった時、自分は特区の人々に救われ、元気づけてもらった。
だから今度は、私がこのおじさんを励ます番なのだ。
「ありがとうな、お嬢ちゃん……。簡単には、忘れられない、か……」
「はい……」
おじさんの力ない呟きに、あまねは一瞬不安になる。
私の言葉は届かなかったのだろうか、と目の前が暗くなりかけた、その時だった。
「うし! くよくよするのはここまでだ!」
おじさんが突然、パンッと膝を叩いて勢いよく立ち上がった。
あまりの急変ぶりに、あまねは涙を浮かべたまま目を白黒させる。
「話を聞いてもらって、すっきりしたよ。ありがとな、お嬢ちゃん!」
どこか自己完結したような晴れやかな顔で、
おじさんはあまねに背を向け、大股で歩き出してしまった。
呆然とその後ろ姿を見送りながらも、あまねは胸をなでおろし、ほっと息を吐いた。
「少しは、あの時の恩返しができたのかな」
特区での経験を経て、誰かの心に寄り添うことができた。
その実感に満たされながら、あまねは終電が迫っていることに気づき、慌てて駅へと走り出す。
その足取りには、もう一歩の迷いも消えていた。
一方、あまねと別れたおじさんは、夜道で一人ごちていた。
「もうこいつはイラネェな! くよくよしてる場合じゃねぇ。これからは運に頼るのはやめだ。
俺に相応しいのは、銀色の玉と、お馬さんだな!」
おじさんは「あばよ!」と豪快に笑うと、懐の紙切れを路傍のゴミ箱へ投げ捨て、
夜の街へと消えていった。
カサリ、とゴミ箱の底に落ちたのは、
一度はビリビリに破かれ、後にテープで繋ぎ合わされた、
『あの日、一桁違いで逃した宝くじ』であった。
(第8話・了)