「おっさん、今日の現場は対怪人局だからな」
「うーす」
「……おっさん、いつもみたいに適当はやめてくれよ、
あそこ目ざとい人がいるからさ、評価に響くからさ、いやほんとマジで」
現場主任がジローに念を押すように告げた。
対怪人局の廊下には、今日も張り詰めた空気が漂っている。
そんな中、ヨレヨレの作業着を着たジローは、いつものように、モップを動かしていた。
角の埃を見落とすその掃除っぷりは、お世辞にも丁寧とは言えない。
(……あそこ、埃残ってますね)
通りかかった職員の水瀬詩織は、背筋を伸ばしたまま、
鋭い視線を床の拭き残しへ向けた。
生真面目な性格の彼女は、やり直しを指示しようとしたところ。
「水瀬さーん。怪人の被災届の書類ってどこでしたっけ?」
「あの書類は、第二資料室の棚です」
問いに答え、再び視線を戻す。
しかし、先ほどまでモップを動かしていた、ヨレヨレの作業着の男は、
すでに別の場所を掃除していた。
「……もう移動されたんですね。」
後で現場主任に伝えておきましょう。
そう考え、詩織はきびすを返した。
対怪人局・特区支所の空気は、常に淀んでいる。
先日の高層ビル街での激戦。その甚大な被害によって住居を失った人々が身を寄せ合う、
特区の支援窓口で、水瀬詩織は、山積みにされた被災届の書類を淡々と処理していた。
「――ねえ、聞いた? 神代レンの実家、違約金の支払いで相当揉めてるらしいよ。
表舞台から完全に追放されたって噂だし、まあ、あれだけ世間を騙してたんだから当然か」
隣のデスクで、先輩局員がコーヒーをすすりながら下世話な芸能ニュースのようなトーンで、
話しかけてくる。
「上層部もメンツ丸潰れだしさ。だからこそ、今度は例の『黒の守護者』の正体を血眼になって追ってるわけ。もし局の管理下に置ければ、大逆転の英雄アピールができるからね。
水瀬さんはどう思う?」
「……興味ありません」
詩織はキーボードを叩く手を止めず、冷ややかな声で返した。
「えー、冷たいなあ。人類の救世主だよ?」
「興味がないのは、彼の『正体』です」
詩織の瞳には、組織の浅ましい思惑に対する、絶対的な拒絶の色があった。
彼女はヒーローオタクではない。ネットにあふれる陰謀論や考察に熱狂する暇人でもない。
普段は至って真面目で、責任感が強く、仕事もテキパキこなす有能な職員だ。
ただ――彼女は、かつて目の当たりにしてしまった。
あの高層ビル街での、世界の終わりかと思うような圧倒的な破壊の光景。
局の避難誘導が手一杯の中、突如として現れ、何一つ見返りを求めず、
ただ一撃で怪人をその核ごと完全消滅させ、
その場にいた人々を完璧に救いきった、あの漆黒の姿を。
あれは、メディアに祭り上げられた神代レンとは違う。
目の前の命を完全に救いきるという、圧倒的な現実をもたらした本物の神話。
詩織は、その事実に、脳の芯まで綺麗に焼き尽くされていた。
午後に行われた局の全体会議は、詩織にとって滑稽の極みだった。
上層部が提出した『黒の守護者の行動予測および捕獲・追跡計画』の資料を、
彼女は内心で「不遜で無駄」だと切り捨てる。
(彼は、人間が罠を張って捕まえられるような存在ではない。追うこと自体が不敬だわ)
詩織にとって、自分の使命は明確だった。
守護者様が人類を守ってくださるというのなら。自分たち人間側の、
それも対怪人局の職員である自分の本分は、ストーカーのように追い回すことではない。
怪人を消し去り、救ってくれたこの世界を、完璧に維持すること。
守護者様がいつ、どこに現れてもいいように、
目の前の復興業務とサポートを全うすることこそが、最大の敬意であり、正しい崇拝の形なのだ。
夕方、詩織は自ら志願して、特区の環境整備ボランティアへと向かった。
泥と埃にまみれながら、実直に作業を進める彼女の周りには、
怪人災害によって家も、財産も失い、怪人が出ない安全地帯である、
この特区へ逃げてくるしかなかった住民たちが集まっていた。
「おい、局のねえちゃん……」
瓦礫の山に腰掛けていた老人が、虚ろな目で詩織を見上げて呟いた。
「守護者様……あの黒いお方は、本当にいるんだよな?」
その問いに、詩織は作業の手を止め、老人の目をまっすぐに見つめ返した。
「………」
頭に過ぎったのは先日の高層ビル街で見た、人々の命を守る事を誓った背中。
そして、静かに一言だけ、しかし確信をもって告げた。
「……います」
「そうか…間近で見た、アンタがそういうならちょっとは信じてみるよ……」
「……守護者様は存在します。そして、私たちを守ってくださっています。安心してください」
「で、でもよ、そんな都合よく来るのか?」
「はい」
「そうか……。まだ見捨てられてねえんだな、俺たちは……」
老人の目に涙が浮かび、周りで聞き耳を立てていた他の住民たちからも、
安堵の嗚咽が漏れ始める。
「守護者様は存在する……」
「俺たちを見ていてくれるんだ……」
口々に「守護者様」の名を呟き、祈るように手を合わせ始める被災者たち。
その中心に立ち、凛とした佇まいで彼らに真っ直ぐな事実を伝える対怪人局の水瀬詩織。
もし、この光景をまともな人が見ていれば、あまりの異様さに背筋を凍らせたはずだ。
怪しい新興宗教の集会か、あるいは集団狂気に囚われたカルトのそれ。
しかし、詩織の放つ「崇拝の気配」に、絶望の底にいた人々を強引に立ち上がらせる、
確かな救いがあった。
「だからこそ、私たちは私たちの仕事をしましょう。
守護者様がいつここを通られても恥ずかしくないように、この場所を綺麗にするんです」
詩織が告げると、さっきまで死んだようにうずくまっていた住民たちが、嘘のように活気を取り戻して瓦礫を拾い始めた。
「おうよ! 守護者様のために、ここを綺麗にしねえとな!」
「へこたれてる場合じゃねえ!」
みるみるうちに、特区の環境が手際よく整備されていく。
様々なモノを失った人々が集まるスラムが、詩織という「崇拝者」の言葉によって。
失ったものは戻らない。
それでも人は、明日を生きる理由を必要とする。
この日、特区には「守護者様のために」という新しい言葉が生まれていた。
(第9話・了)