名無しの怪人は酒を買って帰る   作:変身ヒーローはロマン

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第10話:神話を信じる 詩織後編

 

早朝、現場に向かう社用の車内で現場主任が口を開いた。

「おっさん……今日で怪人局の現場は最終日だ」

「お!そうなんっすね、いや~、あそこ広くて大変でしたね~」

「……もういいよ」

「?」

なにかあったのか、疲れた表情の現場主任の様子にジローは首を傾げた。

 

「フンフンフーン」

何度目かの対怪人局の廊下にて、ジローは今日もモップ片手に清掃を行っていた。

なぜか、鼻歌を歌いながら。

案の定今回も、角の埃を見落とすその掃除っぷりである。

 

そんなジローに声をかけたのは、詩織だった。

「やっと、見つけましたよ」

「?」

見覚えのない人物の登場に困惑しているジローに詩織は、今までの不満を、静かに口にした。

「あなたの仕事は大雑把すぎます。ここも、先日のオフィスの隅も、埃が残ったままでした。」

「あー、サーセン」

「!!」

誰が見ても、まったく悪びれずに謝罪の言葉を告げるジローを前に、

詩織はゆっくりと深呼吸をして、感情を落ち着かせた。

「この場は、私が監督します、嫌とは言わせません」

「え!!?…… マジっすか……」

「さあ、ちゃっちゃと始めてください!」

「……うっす」

若干涙目のジローが解放されたのは、それから数時間後のことである。

 

 

 

ある日の午後。

対怪人局・特区支所が管轄するその場所は、

わずか数週間で、局の上層部すらもが目を見張るほどの変貌を遂げていた。

 

あれほど混沌を極め、絶望の泥に沈んでいた瓦礫の街。それが今や、配給の列は美しく整い、

不法投棄されていたゴミは分別されて消え去り、かつて夜な夜な響いていた怒号の代わりに、

規則正しい復興作業の音が響いている。

 

「……信じられないな。本部から予算を削られ、

治安維持部隊の巡回も最低限にされている場所が、なんでこんなに安定してるんだ?」

 

特区支所のオフィスで、先輩局員がモニターに映る治安維持グラフを見ながら、

心底不可解そうに首を傾げていた。

 

「驚くのはまだ早いですよ、先輩」

別の同僚が、一冊の極厚のファイルをデスクに置く。

「これ、すべて水瀬さんが単独で組み上げた、被災者への物資分配最適化計画と、

住民自治による防犯ルートの企画書です。彼女が現場の住民たちを完全に説得して、

このシステムを自発的に回させてるんですよ」

 

「おいおい……マジかよ。あの上層部の天下り連中が何ヶ月かけても暴動寸前にしかならなかったここを、新人が一人でコントロールしてんのか?」

 

局員たちの視線が、部屋の隅のデスクへと向く。

そこには、山のような書類に囲まれながら、

恐ろしいほどの速度でタイピングを続ける水瀬詩織の姿があった。

その表情は至って冷徹で、真面目そのものだ。

 

「水瀬さん、本当に凄いね! 本部の査察官も、君のカリスマ性と統率力には脱帽してたよ。

次期チーフ候補、いや、本部の幹部候補生として推薦するって話まで出てるんだから」

 

先輩からの最大の賛辞。しかし、詩織は視線すら上げずに淡々と返した。

 

「私は、自分の職務を全うしているだけです」

 

「いやいや、それだけでここまで特区が安心な空間になるわけないって。

住民たちの君への信頼なんて、まるで宗教の聖女に対するそれだよ?」

 

聖女、という言葉に、詩織の指が一瞬だけ止まった。

だが、すぐにまた規則正しい打鍵音が再開される。

 

(勘違いしないでほしいわ)

 

詩織は内心で、目の前の先輩を、そして対怪人局という組織を、冷ややかに見下していた。

彼らは何も分かっていない。

自分がカリスマなどという安っぽい人間力で住民を動かしているとでも思っているのだろうか。

 

住民たちが死んだ目を輝かせ、進んで街を清め、秩序を守っている理由。

それは、詩織が彼らに「確信」を与えたからだ。

 

『守護者様は存在します。そして、私たちを守ってくださっています。間違いありません』

 

あの日、絶望の底にいた老人に告げた、一点の曇りもない事実。

あの言葉は、特区の住民たちの間に静かに、しかし爆発的な速度で伝播していった。

「あのお方は俺たちを見捨てていない」

「いつあのお方がここを通られても恥ずかしくないように、ここを綺麗にしなければならない」。

 

彼らを突き動かしているのは、詩織への忠誠などではない。詩織を経由して共有された、

黒の守護者への純粋な「崇拝」の力だ。

 

そして詩織自身もまた、その崇拝のシステムを最も完璧に遂行する、ただの歯車に過ぎない。

 

夕方、詩織は本部に提出するための巡回報告書を抱え、

薄暗くなり始めた特区のメインストリートを歩いていた。

すれ違う住民たちが、詩織の姿を見るなり、一様に深く頭を下げ、

敬意に満ちた目で道を譲っていく。彼らの顔には、かつての被災者特有の悲壮感はなく、

どこか厳かな安心感すら漂っていた。

 

「水瀬さん、今日もご苦労様です」

「おかげさまで、東側の瓦礫撤去、予定より早く終わりましたよ。

守護者様のための道ですからね、手は抜いていません」

 

「ありがとうございます。今後とも、よろしくお願いします」

 

詩織は事務的な微笑みだけを返し、歩みを進める。

この特区は、今や外側からは見えない、黒の守護者を本尊とした巨大な聖域として機能している。誰に命令されたわけでもない。

あの日、あの場所で彼に命を救われたという現実だけを全員が抱いて、今日を生きているのだ。

 

支所に戻ると、先輩局員が何やら上機嫌で電話を切るところだった。

 

「あ、水瀬さん、お帰り! いいニュースだよ。

君の立てた実績のおかげで、本部がようやく重い腰を上げた。

安定したこの特区をベースにして、

例の『黒の守護者』の本格的な捕獲・追跡網をここに展開する予算が降りそうだ。

彼の正体さえ掴んで、局の管理下に置ければ、この怪人災害の歴史に終止符が打てる。

局の未来は明るいぞ!」

 

未来、正体、管理。

その言葉を聞いた瞬間、詩織の胸の奥に、どす黒いほどの不快感が湧き上がった。

 

「……そうですか」

 

詩織は短く答え、自分のデスクへ向かった。

 

(正体など、どうでもいい。未来の不確実な対話など、誰も求めていない)

 

書類を整理する詩織の瞳に、ぞっとするほど純粋で、狂気的なまでの確信の光が宿る。

局の浅ましい人間どもは、あのお方を人間のルールで縛り、利用しようと企んでいる。

あまねのような世間の暇人どもは、彼が「今日」何をしてくれるのか、

明日はどんな奇跡を見せてくれるのかと、

現在進行形のヒロイズムを消費している。

 

だが、詩織は違う。

 

あの日、あの高層ビル街で、世界が文字通り終わろうとしていた瞬間。

何一つ見返りを求めず、ただ一撃で絶望を消し去り、自分たちを完璧に救いきった、

あの漆黒の姿。

その「過去」の神話的な事実。それだけが、詩織の世界のすべてだ。

 

(あの日、彼は私たちを救ってくださった。

その過去の事実だけで、私が一生をかけてこの世界を支え、

あのお方の邪魔になるものを排除する理由には、十分すぎる)

 

守護者がどこにいるのか、誰なのか、次にいつ現れるのか。そんなことは、些末な問題だ。

ただ、彼が救ったこの世界を、あのお方がいつどこに現れてもいいように、

完璧な状態として維持し続けること。対怪人局の職員という立場を利用して、

彼の障壁となる追跡計画を内側から無力化し、自らの職務を全うすること。

 

それこそが、水瀬詩織が導き出した新しい形だった。

 

誰にも理解されず、誰にも揺るがされない。

過去の神話に脳を焼かれた少女のスタンスは、対怪人局の深い闇の中で、

恐ろしいほどの完成度をもって、完全に確立されたのだった。

 

(第10話・了)

 

 

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