「――というわけで神代レン様。いえ、今日からは『名無し』様のほうがよろしいですかね。
こちらが当主からの伝言です」
「名無し?なんのことですか?」
白く無機質な病室。全身を包帯で巻かれ、ベッドに横たわるレンは、突然の言葉に困惑していた。その前に立っていたのは、父親ではなく、見覚えのある実家の代理人弁護士だった。
「先日、高層ビル街であなたが怪人に無様に敗北したあの日、あなたが築き上げてきた名声も、
信頼も、ヒーローとしての『虚像』もすべて崩壊しました。
我が神代の家に、敗北者など必要ありません。
公式には、あなたは先ほど『搬送先の病院で怪我の悪化により死亡』と世間に発表されました」
代理人は一通の書面をベッドの上に放り出した。
「実家があなたの遺した莫大な違約金を全額立て替えて処理する条件として……
あなたには『死人』となっていただきました。神代家と局上層部の思惑おっと、調整により、
戸籍データも本日付で抹消、あなたは放逐となります。
人相も、まあそれだけ変わっていれば、外を歩いても神代レンだとは思わないでしょう。では」
代理人は用は済んだとばかりに、包帯まみれのレンを一瞥すらせず、荷物をまとめて背を向けた。
それから数日後。
病院を追い出され、傷は癒えたものの、行くあてもなく街を彷徨っていたレンの耳に、
すれ違う若者たちの軽い笑い声が飛び込んできた。
「いやー、ほんと神代ってだっせーよなー」
「マジでな。あれだけ偉そうなこと言っててさ、
最後は怪人にボコられて『うわああん』だぜ? 笑えるわ」
「まあ、死んでくれてよかったよ。これ以上恥晒されんのも目障りだしさ」
(――ああ、そうか)
レンの足元が、ガラガラと崩れ落ちていくような感覚がした。
自分が血の滲むような本気の努力を重ね、命を懸けて守ろうとしていた世間は、
自分の敗北をエンタメとして消費し、死を歓迎すらしている。
名声、信頼、地位、虚像、容姿。そして名前と戸籍すらも。
文字通り「この世のすべて」を剥ぎ取られ、死人として世界から追放されたレンが、
着の身着のまま流れ着いた先。
――それが今、頭の上からカサカサと乾いた音が降ってくる、
泥とカビの臭いに満ちた特区の路地裏だった。
行き着いたゴミ溜めで、レンは力なく視線を上げた。
ガラスに映った自分の顔は、元の面影など一切なく、
自分だと言われなければ分からなかったほどであった。
自分の人生は、ここで終わりだ。
暗い思考の泥沼に沈んでいくレンの横に、
ドサリ、と遠慮のない音を立てて腰を下ろす影があった。
ヨレヨレの作業着に、無精髭。ひどく猫背で、いかにも特区の底辺を絵に描いたような、
冴えない中年男だ。男はハズレのパチンコ玉をジャラジャラさせ、頭を掻きむしりながら
「絶対設定1の据え置きだろクソが……。
天井まで回してバケ単発とか人の心がないんかあの店……。二度と行くかボケ……」
男は、特に深い意味もなく、なんとなくといった様子で手元のビニール袋をごそごそと漁った。
「……あー。辛気くせーな、おい、これでも飲め。おごりだ」
男は袋から取り出した冷たいアルミ缶を、レンの膝の上に雑に押し付けた。
「……え?」
見ると、見たこともない地味なデザインの缶だった。促されるまま、震える手でプルタブを引く。プシュ、と頼りない音がして、レンはおそるおそるそれを口に含んだ。
直後、レンの脳内に衝撃が走る。
安っぽく、妙に薄いアルコール感。あるいは喉をピリピリと刺激する、独特の雑味と苦味。
「……っ、げほっ! な、 なんですこれ!? 缶ジュースじゃないですよね!?」
驚愕して咳き込むレンを見て、男は自分の缶をあおりながら、
視線を上にあげ思い出すように告げた。
「あん? えーとなんだっけ。第三の……第三の……あー、つまり酒だ」
「第三……? は? え!? 酒って……アルコールですか!? こんなのが!?」
レンは混乱した。彼の知る「お酒」とは、実家のパーティーで並ぶ最高級のシャンパンや、
一杯数万円のヴィンテージワインだ。芳醇で、気品があり、大人のステータスそのものだった。
だが、今口の中にある謎の液体は、それとはかけ離れた、
あまりにも露悪的でチープな「ただ酔うためだけの水分」だった。
「なんだよ、酒は初めてか? がはは……」
そんな絶句しているレンに気を良くしたのか、男は笑いながら、上機嫌に語り出した。
「実はさっき、常連の奴からスロットの『必勝法』を聞き出してよぉ。
レモンサワー一杯奢る代わりに仕入れた、絶対に勝てる裏ワザだ。
笑わせてくれた礼にお前にも教えてやるよ」
男は「ここだけの秘密だぞ」と言わんばかりに、
得意げにそのスロットの攻略手順を披露し始めた。
だが、それを聞いたレンの表情が、驚愕から徐々に笑いを堪える様へと変わっていく。
「……それ、一昔前に流行ったインプ稼ぎの詐欺ですよ」
「……は?」
男の動きがピタッと止まる。
レンはかつて、情報収集のためにネットのトレンドを常に監視していた。
だからこそ、その手の垢抜けないネット詐欺の仕組みを嫌というほど知っていた。
「それは――こういう仕組みで、最初に特定のコマンドを入力させて期待感を持たせるだけです。実際には内部の確率に一切影響しません。
一昔前のインフルエンサー崩れが、SNSのインプレッションを稼ぐためだけに流した、
ただのデマ、ガセネタです。……一杯食わされたんですよ、あなた」
レンがさっきの仕返しと言わんばかりに笑みをこぼしながらロジカルに指摘すると、
路地裏に凍りついたような沈黙が流れた。
男の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
目を見開き、口をアワアワと動かし、やがてガタガタと全身を震わせ始めた。
「い、いんぷ稼ぎってのは分からんが……さ、詐欺……!? ガセ……!?
じゃあ、俺の、俺のなけなしのレモンサワーは……!?
来週はウハウハじゃなかったのかよぉ!!」
男はガバッと頭を抱えると、そのままコンクリートの地面に突っ伏し、
「ぬあああああああ……」
と、激しくのたうち回りながら嘆き悲しみ始めた。
「……っ」
その、あまりにも情けなすぎるおっさんの姿を見て、レンの胸の奥で、何かが決定的に決壊した。
――思えば、ずっと気を張り詰めて生きてきた人生だった。
名門の家に生まれ、どれだけ血の滲むような本気の努力を重ねても、
厳格な父親には一度も認められなかった。
周囲からは「どうせ親の金のおかげだろ」「ボンボンめ」と冷笑され、陰口を叩かれた。
だからこそ、誰にも文句を言わせない「完璧なヒーロー」でいなければならなかった。
一瞬たりとも、息を抜くことなんて許されなかった。
そんなレンが、
「――っ、あは、はははは!」
声を漏らした。
「はははははは! ハハハハハハハ!!」
それは、神代レンという男が生まれて初めて心の底から放った、
剥き出しの感情、大爆笑だった。
涙がボロボロと溢れ、お腹が痛くなるほど、声を上げて笑い続けた。
「ああああ(絶叫)……」
地面に頭をこすりつけながら本気で絶望するおっさんと、涙を流しながら笑い転げる若者。
路地裏には、誰かの絶叫と、誰かの笑い声だけがしばらく響き続けていた。
(第11話・完)