特区の「北側」は、寒々しい鉄骨の影と、常に漂うヘドロの臭いに支配されていた。
政府の支援があまり届かないこの場所は、一見するとただの無法地帯だ。
しかし、この泥の底で生きる人々には、独自の、そして絶対的な生存ルールが存在していた。
「――おい、新入り。ここじゃ法律や警察なんてなんの意味もねえ。
だがな、だからこそ『ルール』を破った奴は生きていけねえんだよ」
薄暗いプレハブ小屋の軒先で、同年代の青年が咳き込みながら、レンにそう語りかけた。
先の災害で片足に大怪我を負い、今も引きずりながら必死にここで生きている、
レンにとっては初めての「知人」だった。
「ルール、ですか?」
包帯が取れ、すっかり元の面影を失った顔のレンは問い返す。
「そうだ。分け合えるものは分ける。困ってる奴がいれば、できる範囲で手を貸す。
公的な支援がほとんどねえ以上、俺たちは互いの助け合いをすることでしか、
明日を迎えられねえからな。
逆に、その信頼を裏切って他人を騙したり、奪ったりした奴は……
このコミュニティ全体から、徹底的な『制裁』を受け、居場所がなくなる。
文字通り、この場所からも消える。……お前も、ここで生きたいならそれだけは忘れるなよ」
「……助け合い、の精神」
レンは胸の奥を突かれたような感覚がした。
かつて彼が生きていた華やかな世界では足の引っ張り合いや嫉妬といったもので、
倫理や道徳は「メディアの前でアピールするための道具」
美辞麗句で飾られた偽物の正義。
だが、この泥臭い場所にあるのは、生き延びるために全員が命がけで守る絶対的なルールだった。
それから数日、指示に従い、配給の運搬や瓦礫の片付けといった泥臭い作業を黙々とこなした。
時折、特区の境界付近で、帰宅途中だった、レモンサワ―の男とすれ違うことがあった。
「聞いてくれよ~、今日もま~たパチンコでスッちまったぜ、アレ遠隔だぜ、きっと」
「お前さんも遠隔には気をつけろよ」
「あ、あはは、大変ですね……でも、僕はギャンブルはちょっと……」
(いつも負けてるんだからやめればいいのに……)
お互いに交わすのはそれだけの、軽い雑談だった。
男は今日もハズレのパチンコ玉をジャラジャラと鳴らしながら歩いている。
レンが「元・ヒーローの神代レン」だなんて1ミリも気づいていない。
それが、今のレンにとっては奇妙なほど居心地が良かった。
彼は、レンに「虚像」を求めていないのだから。
段々と居心地がよくなってきた。
そんなある日の午後、北側の崩落しかけた配管跡の近くで、レンは小さな鳴き声を聞いた。
覗き込むと、そこには泥にまみれた小さな女の子が、
崩れたコンクリートの隙間に足を挟まれて泣いていた。怪人の襲撃で親を亡くした、
この特区で暮らす孤児の一人だった。
「う、うああん……痛いよぉ……お母さん……」
かつてのレンであれば、真っ先に周囲を見回しただろう。
カメラはあるか、自分を称賛してくれる大衆の目はあるか、
ここでどう振る舞えば「完璧なヒーロー」として映るか。
だが、今のレンの周りには、カメラも、ファンも、冷笑する父親も、誰もいない。
ただ、明日を失いかけて泣いている、一人の子どもがいるだけだ。
「……待ってて。今、助けるから」
レンは泥の中に膝をついた。
前ならば「汚れるから」と絶対にやらなかったようなことだ。
レンは泥まみれの四つん這いになり、必死にコンクリートの破片を素手で退けようとするが、
ビクともせず、かわりに、爪が割れ、血が滲む。
かつてのようなお膳立てされた兵器もない、ただの無力な人間の身体だ。
「くそっ……動け……動けよ……!」
歯を食いしばり、全身の筋肉を軋ませながら、レンは必死にコンクリートの破片を押し上げた。
誰のためでもない、自分の名誉のためでもない。
ただ、目の前のこの子を助けたいという、生まれて初めて湧き上がった気持ちだった。
「――ふん、ぬううううっ!!」
渾身の力でコンクリートの破片を撥ね退けると、女の子の足が自由になった。
レンはすぐに少女の元へ駆け寄り、優しく抱き上げた。
「もう大丈夫だよ。痛いところはない?」
少女は涙を拭い、泥だらけの不細工な男の顔を、まっすぐに見つめた。
そこにはただ、純粋な感謝だけがあった。
「……うん。おじさん、ありがとう!」
「おじ……!? ま、まだ、お、おにいさんかな……」
そんな不意のおじさん呼びに、レンは思わず顔を引きつらせる。
「ありがとう、おにいちゃん!」
少女は小さく笑うと、駆け寄ってきた避難所の大人たちの元へと走っていった。
大人たちも、レンが誰なのかなど気に留めず、
ただ「手伝ってくれた親切な男」として、軽く会釈をして去っていった。
見返りも、称賛も、何一つない。
ただ、泥に汚れた自分の手と、心からの感謝という事実だけが、そこに残されていた。
レンは自分の手のひらを見つめた。
傷だらけで、血が滲んでいて、ちっとも美しくない。
(ああ、そうか……)
胸の奥から、じんわりとした温かいものが広がっていくのを感じた。
神代レンという名前がなくても、
美しい容姿がなくても、
神代財閥の御曹司という看板がなくても。
今は、名前も肩書もない自分であっても、誰かを救うことができる。
それは、虚飾の栄光のなかにいた頃には決して得られなかった、地に足のついた「本物」だった。
「僕、ここで生きていくよ。一人の人として、一からやり直す……」
「……おう。そうかい。よろしくな!」
夕暮れの北側特区。
戻ってきたレンがそう告げると、世話役の青年は一瞬驚いたように目を見張り、
それから嬉しそうに笑ってレンの肩を叩いた。
すべてを失い、訪れた場所で、レンは初めて、一人の人間としての「明日」へ向かって、
確かに前へと歩き出し始めた。
(第12話・了)