「う、うおおお……! キ、キタ、キタキタキタァアアアーーー!!」
場外馬券発売所。その片隅で、ジローは競馬新聞とマークシートを両手で天に掲げ、
怪人を殴った時すら見せたことのないような、剥き出しの歓喜の雄叫びを上げていた。
万馬券。それも、とんでもない倍率の大穴だった。
これまでのギャンブルの負け、ガセの必勝法に騙されて無駄にした金、
底辺生活のすべての不条理が、この一枚の紙切れによって一瞬でひっくり返った。
「がははは! 見たかオイ! 時代は俺に追いついたんだよ! 今日からは発泡酒じゃねえ、
本物のたけぇビールだ!
焼き鳥も冷凍じゃなくて、ちゃんと炭火とうちわで焼いたやつを食ってやる……!」
ジローはニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべ、窓口で換金したばかりの、
人生で見たこともないような分厚い札束をポケットに深くねじ込んだ。
そのままウキウキとした足取りで、都心でもちょっといい居酒屋へと向かう。
その頃、ジローのいない特区の空は、急激に湧き上がったどす黒い曇天に覆われていた。
ゴロゴロと不気味な地鳴りが響いた直後、幾筋もの巨大な雷光が、特区全体へと突き刺さった。
――落雷。
それは怪人の悪意でも、人間の不始末でもない、ただの自然災害だった。
しかも、詩織の徹底的な整備によってゴミや可燃物が片付けられていた東側とは違い、
木造の古い建物がひしめく北側や西側は、先日までの乾燥した風も手伝って、
瞬く間に激しい火の手に包まれていった。
「火事だ! 逃げろ!」
特区中が、一瞬でパニックと怒号に包まれる。
黒の守護者はいない。だが、この絶望的な天災を前にして、
特区の人々はかつてのようにただ泣き寝入りするだけの存在ではなかった。
「みんな、落ち着いて! こっちのルートはまだ通れる! 子どもや怪我人を優先して!」
北側では、顔も名前も失った若者
――神代レンが、泥と煤にまみれながら必死に住民を誘導していた。
かつての着ていた強化スーツはない。だが、一人の人間として、
彼は自分の体を使って人々の「明日」を守るために、炎の恐怖に立ち向かっていた。
「あっちの路地に逃げ遅れた人がいます!誰か、私と一緒に来て!」
西側では、カメラを持った少女――あまねが、
燃え盛る火の粉のなかで、今目の前にある命を救うために必死に走り回っていた。
「対怪人局・特区支所より全職員へ通達! 東側の安全地帯へ住民を誘導しなさい! 」
東側では、対怪人局職員――水瀬詩織が、
守護者様が訪れるかもしれないこの聖域を焼かせまいと、
信仰を胸に、消火・救助の指揮を執っていた。
三者三様で、皆自分にできる精一杯をしていた。
神の奇跡に頼ることなく、自分の足で立ち、迫り来る現実と必死に戦っていた。
数時間後。
ようやく雨が降り始め、火災が鎮火へと向かった頃。
都心で「ちょっといいお高いビール」と「高級おつまみ」を
ホクホク顔で買い込んだジローが、ようやく自宅がある特区へと戻ってきた。
「いや~、今日は豪勢な晩酌に……って、は?」
ジローの目の前に広がっていたのは、黒く焼け焦げた、変わり果てた特区の姿だった。
そして、ジローが住んでいた、あの安アパートは、支柱が崩れ瓦礫の山と化していた。
「お、俺の家……おぉぉぉぉぉぉ……」
呆然と立ち尽くすジロー。
そこへ、泥まみれになりながらも生き延びた特区の住民たちが、次々と集まってくる。
誰もが家を失い、着の身着のままの状態で、これからの生活に途方に暮れていた。
ジローは、ポケットの中の分厚い札束に触れた。
これがあれば、特区を出て、もっといい街で、もっといい暮らしができる。
毎日美味い酒が飲める。夢にまで見た左うちわの生活だ。
しかし、周りを見渡せば、怪我をしながらも「生き延びてよかった」と笑い合う人々の姿、
誰かを励まし続ける姿、そして必死に物資を配る姿があった。
ジローは、ガシガシと頭を掻き、ふう、と深く、長いため息をついた。
「あー……まぁ、無関係じゃねぇし、しゃーないかー……」
ぽつりと呟き、ジローはポケットから、さっき換金したばかりの分厚い札束を引っ張り出し。
そして、避難所の設営で忙しそうになっている、知人の青年の元へとダラダラと歩いていく。
「よお。怪我ないかい?世話役のにーちゃん」
「え? あ、ジローさん! 無事だったんですか!?」
「俺はちょうどいなかったから無事だったが、家燃えたわ。……ンなことより、ほらよ、これ」
ジローは、世話役の青年の手に、
生活再建費としてはお釣りが来るレベルの、分厚い札束を雑に押し付けた。
「えっ……!? な、なんですかこれ!? ちょ、ええええええええ!?」
ひっくり返るような声を上げる青年を無視して、ジローは首元を掻きながら、そっぽを向いた。
「ギャンブルでたまたま大勝ちしたんだよ。俺、独り身だし、んな大金あっても使い道ねえし。
アパートの弁償やら、みんなのテントやら、適当にこれで手配しとけ」
「おっさん……あんた、マジかよ……」
青年が、まるで『聖者』でも見るかのような、畏怖と感動の目を向け始める。
(メンドーなことを言いだす前にずらかるか)
「おれぁ、ちょっと用があるからよ。あとよろしくな」
ジローはフイッと背を向けると、それ以上の言葉を拒むように、スタスタと歩き出した。
世界は、あの漆黒の姿を「黒の守護者」と呼び、名前も顔も知らないその存在を、
勝手に神話化していく。人々は絶望を乗り越えるために、
その背中にそれぞれの正義や理想を投影し、人生を変えていく。
人々が神話を必要とした理由であり、正体だった。
だが、そんな世界の大層な変化など、この男は知ったことではない。
せっかくの万馬券は左うちわの夢と共に消え去り、
手元に残ったのは高級ビールとおつまみ、そしていつも通りの小銭が数枚。
おまけに、ウキウキで奮発したお高いビールは、すっかりぬるくなってしまっている。
「……ま、発泡酒じゃなくても、アルコールが入ってりゃ何でもおんなじか」
夕暮れの街。
ジローはぬるくなった缶のプルタブをプシュリと開け、ぐびりと一口煽った。
高いだけあって、ぬるくても味は悪くない。
「上品すぎて一本じゃ足りねぇな。しゃーね~。いつもの酒、買って帰るか……
あ、帰る家なかったわ。がはは」
独りごちて笑いながら、おっさんは今日も、猫背のまま歩いていく。
英雄でも、神話でもない。今日という現実をただ泥臭く生きる、どこにでもいる中年として。
男は、夕暮れの賑やかな雑踏のなかに、完全に溶け込んで消えていった。
(名無しの怪人は酒を買って帰る・完結)
これにて『名無しの怪人は酒を買って帰る』は完結となります。
ここまでお読みくださりありがとうございました。