「おい、そこのおっさん! 手を動かせ手を! 汚れが全然落ちてねえぞ!」
うだるような夏の午後。都心にあるオフィスビルのエントランスで、鋭い怒号が響いた。
ポリッシャーのコードを片手に、ヨレよれの作業着を着たジローは、
若い現場主任にどやされていた。
「あー……サーセン。このワックス、年季入っててなかなか頑固でして……」
「言い訳すんなクソオヤジ! ったくよ! 日当ぶんくらいは体動かせ!」
「うっす」
ジローは気だるげにポリッシャーへ手を伸ばした。
現場主任はフンと鼻を鳴らし、エントランスから出て行く。
残されたジローは、汗が染み込んで重くなった作業着の襟元を引っ張り、
心底ダルそうに溜め息をついた。
「あーあ、やってらんねぇわ……。世の中結局、
生まれ持った金と身分だよ。汗水垂らして働くのがアホらしくなるぜ」
死んだ魚のような目で床を見つめながら、
ジローはヨレよれのズボンのポケットに手を突っ込んだ。
指先に触れるのは、カサカサと虚しい音を立てる千円札が数枚と、ジャラつく小銭。
今月のアパートの更新料が追い打ちとなり、普段から綱渡りの懐事情だったジローは、
今日も安定の瀕死状態だった。
(早く終わらせてパチンコ行くしかねぇな。
一発万発出して、あの若造の目の前でビール飲んでやるぜ!)
「……ビール?」
頭の中でシュワシュワのビールを思い浮かべながら、
ジローはふと、壁に設置された巨大モニターを見上げた。
『――依然として正体不明の【黒の守護者】ですが、対怪人局の専門家は、
その神業的な隠密行動から、元特殊部隊の超一流エージェントである可能性を示唆しており――』
画面の中では、綺麗な服を着たコメンテーターたちが、
大真面目な顔で【黒の守護者】の戦術を絶賛している。
「へー……すげぇのがいるな。」
ジローは首を傾げた。
「ん?……なんか見覚えが?」
だが次の瞬間には、「おい! おっさん終業時間だ」と声を掛けられる。
(思い出した!? 今日特売じゃねぇか! 早くいかねぇと無くなっちまう)
ジローは急いで帰る支度を済ませた。
ついさっきまで巨大モニターを賑わせていた【黒の守護者】のことなど、
もはや頭の片隅にも残っていない。
まさか防犯カメラの死角を選んでコソコソ変身する理由が、
「八つ当たり」や「面倒くさい」などという実に身も蓋もないものだとは、
世界の誰も知る由はなかった。
一方その頃
訓練場にいた男は、その場にいるだけで目を引いた。
汗まみれで走り続けているというのに、その姿はどこか絵になる。
整った顔立ちに加え、生まれ育ちの良さまで滲み出ているようだった。
隊員たちの視線が自然と集まるのも無理はない。
神代レン。大企業の創業者を父に持つ御曹司であり、
端正な容姿と最高峰の学歴を兼ね備えた男だ。
持たざる者から見れば、まさに「すべてを与えられた男」だった。
訓練を終え、都心の一等地を見下ろす超高級タワーマンションの自室へと戻ったレンは、
ソファに体を預け、手元のスマートフォンに目を落とした。
画面に表示されているのは、父の会社に関する経済ニュースだった。
『――神代グループ、次期社長候補・神代レン氏が語る経営戦略。
しかし、市場からは「偉大な創業者である父親のレールを歩んでいるに過ぎない」との冷ややかな声も……』
SNSのコメント欄を開けば、匿名の悪意が並んでいる。
『どうせ親の金』『七光りの限界』『顔が良いだけの操り人形』。
どれだけ血の滲むような努力を重ねても、世間が見るのは「神代」という看板だけで、
レンという人間そのものを見てくれる者は誰もいなかった。
「……フン」
レンは画面を消し、スマートフォンのライトを反射する、
部屋の中央に鎮座した漆黒の外骨格パワードスーツを見つめた。
金と技術を惜しみなく注ぎ込み、オーダーメイドで作られたそのスーツは、
光沢のあるカーボン素材とエッジの効いたスタイリッシュなフォルムで、
さながら特撮映画の主役のようだった。
彼は立ち上がり、スーツの前に立つ。鏡のように磨き上げられた装甲に、自分の顔が映る。
「フッ……美しいな」
陶酔を孕んだ呟き。しかし、その瞳にあるのは単なるナルシシズムではない。
狂気にも似た、強烈な執念だった。
莫大な私財を投じて開発したこのスーツを乗りこなすため、
元特殊部隊のインストラクターを雇って地獄のような格闘術を叩き込んだ。
ネット上の怪人まとめWikiや、対怪人局の過去の災害データを徹底的にプログラミングで解析し、数千回に及ぶ戦闘シミュレーションを重ねてきた。
七光りと呼びたければ呼べばいい。
だが――
「僕自身の力で、世界に僕の存在を認めさせてやる」
「データの解析は終わった。この地域、この時間帯の怪人発生確率が最も高い」
レンが呟くと、背後で数機の高精度撮影ドローンが静かに起動し、青いランプを点滅させた。
すべては、彼自身が世界の光となるための、完璧な舞台装置だった。
午後八時。
繁華街の喧騒から少し離れた、商業ビルの広場で事件は起きた。
「ギャァァァァーーーッ!」
地響きのような咆哮とともに、建物の壁を突き破って怪人が出現した。
身長2.5メートル。カニとトカゲを合わせたような醜悪な中型怪人だ。
現行の銃弾を弾くほどの硬度を持ち、周囲の建造物を容赦なく破壊していく。
レンの予測通りに怪人が現れていた。
「ひっ……怪人だ!」
「逃げろ!」
周辺の通行人が悲鳴を上げて逃げ惑う。
その一方で、スクープを狙うネット配信者たちは後退しながら、一斉にスマートフォンを構えた。
怪人が逃げ遅れた女性にハサミを振り下ろそうとした、その瞬間。
――シュゴォォォォォッ!!!
夜空を切り裂く鮮烈な青いジェット噴射の光とともに、
漆黒のスーツを纏った影が、広場の中心へと華麗に着地した。バシィィン、と膝をつく。
その姿は、まるで特撮映画のワンシーンだった。
レンの周囲を、追従するドローンカメラが完璧なアングルで捉え、
その映像をリアルタイムでネットへと配信し始める。
「怯えなくていい。もう大丈夫だ」
内蔵されたスピーカーから、ノイズ一つない、完璧に爽やかなヒーローボイスが響き渡った。
カメラのフレームワークを意識しながら、
レンはすっと立ち上がり、両腕のブレード発振器へ手を添える。
「『高周波ブレード、出力最大』――終わらせる!」
スーツのシステム音声がスタイリッシュに鳴り響き、両腕の発振器から眩い光の刃が伸びた。
レンはシミュレーション通りの華麗なステップで怪人の懐に飛び込み、ブレードを振るう。
ド派手な火花が散り、レーザーのような軌跡が夜闇を彩る。
それはテレビ映え、配信映えを極限まで意識した、洗練された格闘モーションだった。
怪人のハサミがスーツの装甲をかすめ、金属音が鳴る。
一瞬、(傷がつく!)と冷や汗が流れたが、
レンはそれを「あえて間合いを取る冷静なムーブ」として見せることに成功した。
訓練の成果は伊達ではない。
「はあああぁぁぁっ!」
レンの華麗な回転斬りが、怪人の脚部を切り裂く。
悲鳴を上げる怪人に対し、レンはさらにド派手な必殺技のモーションへと移行した。
「これで終わりだ。『フォトン・バースト』!!」
まばゆい閃光とともに、怪人の胸部に高エネルギーが叩き込まれる。
ドォォン!という派手な爆発音とともに、怪人は光の粒子を撒き散らしながら崩れ落ちた。
【黒の守護者】の、肉塊が飛び散る凄惨なワンパンとは違い、
スタイリッシュで美しい、誰もが望んだ「理想のヒーローの勝ち様」だった。
静まり返る広場。
レンは、恐怖で腰を抜かしていた女性の元へ歩み寄り、そっと手を差し伸べた。
「怪我は、ないかい?」
「あ……あ……ありがとう、ございます……!」
女性は涙を流しながら、その手を握った。
レンは彼女を立ち上がらせると、追従するドローンへと視線を向けた。
完璧なアングル。完璧な光の差し込み。
彼はカメラに向かって爽やかに一礼すると、
再びジェット噴射を作動させ、夜空の彼方へとスタイリッシュに消え去っていった。
広場には、割れんばかりの大歓声と拍手が巻き起こっていた。
「きっとあれが、黒の守護者だ!」
「スゲー!」
「うおおお! 本物だ!」
「めちゃくちゃカッコいい!」
「武器を使ってたぞ! 進化したんだ!」
スマートフォンの画面越しに世界中が瞬時に熱狂し、
ネット上には早くも
『#黒の守護者』
『#武器』
『#スタイリッシュ』
のワードがトレンドを埋め尽くしていく。
誰も、その正体が誰なのかなど気にもしなかった。
しかし、その数時間後。
日付が変わった深夜。対怪人局の地下深くにある、青白いLEDの光に満ちた中央解析室。
「……やはり、おかしい」
大型モニターの前に座る、徹夜明けのベテラン解析職員が、
キーボードを叩く手をピタリと止めた。
その呟きに、コーヒーカップを片手に持った上官が眉をひそめる。
「どうした。神代グループの御曹司サマの、おめでたい初陣のデータだぞ。
上層部はもう、彼を対怪人局の顔にする準備で大忙し。
同時に、相応の特別待遇を用意するのにも追われている。
これで株価も爆上がり、世論のガス抜きにも最高ときた」
「いえ、戦闘ログの熱量変化と、
現場に残された残留生体組織の分析結果の数値が噛み合わないんです。……映像を停止します」
職員が操作すると、画面がピシッと静止する。
煙の奥。光の粒子に紛れ、黒い塊が地面へと転がり落ちる。
それは排水溝の影へ滑り込み、次の瞬間には夜の闇へと消えていた。
超高解像度カメラの端に、ほんの一瞬だけ映り込んだ異物だった。
「怪人の残骸映像、及び熱源スキャンデータを拡大」
モニターに表示されたのは、赤く不気味に脈打つ、ソフトボール大の肉塊だった。
怪人の中枢器官――通称「核」。
「核が……残ってます。これ、死んでないんじゃ……」
「はっ?」
上官の顔から血の気が引いていく。職員は冷徹なトーンで画面を見つめたまま続ける。
「神代レンの攻撃で焼けたのは表層のみです。
エネルギー量は派手ですが、浸透率が足りない。核にはダメージが入っていません」
「待て待て、あれだけ派手に吹き飛ばしたんだぞ! 現に消滅したじゃないか!」
「見た目だけです」
職員は苦々しい顔で吐き捨てた。
「俺たち、怪人相手に何年付き合ってきました?」
「……三十年だ」
「その三十年、一度でも人間が正面から怪人を『討伐』できた例がありましたか?」
「……」
上官は黙り込む。
なかった。だからこそ対怪人局が設立されたのだ。
怪人を倒すのではない。
住民を逃がし、封鎖線を張り、被害を最小限に抑える。
そして、数日後に怪人が勝手に「自壊」するのを待つ。
それが三十年間、人類が積み上げてきた唯一の対処法だった。
「怪人は数日で勝手に崩壊する。だから局は時間を稼ぐ。
でも――あの【黒の守護者】だけは違った」
モニターが切り替わり、最初に【黒の守護者】と命名された個体が文字通り完全消滅させた
怪人たちのデータが並ぶ。
「確認されている全個体の核は消滅しています。」
「確認できる共通項は、おそらく拳による接触。それ以外は不明です。」
「少なくとも、我々の科学理論では説明できない。」
職員は再び、神代レンの戦闘映像を表示した。
「ですが、神代レンのこれは『ただの高度な科学兵器』です。
怪人は死んでいません。今もどこかの地中で再生し、より凶悪な個体へと変化しているかと」
「……」
「少なくとも、ここまでのデータを見る限り、神代レンと【黒の守護者】は完全に別人です」
静かな解析室に、ファンの駆動音だけが響く。
「……これ、どうします?」
職員の問いに、上官は苦々しい顔で、頭を抱えた。
「上層部には報告する。……だが、世間には出せんだろう。なにより誰も信じん。
今さら『あれは【黒の守護者】ではなく、怪人も生きています』なんて言ってみろ。
世界中の株価は大暴落、局への信頼は地に落ち、暴動が起きる。
世界は今、どうしても『目に見えるヒーロー』が必要なんだ。
神代グループという利権も絡んでる」
「……世界が彼を、本物にしたがってる、と」
「数日後に訪れるはずだった『自壊』のタイムリミット前に、
傷つけられた怪人が暴走したらどうなるか予測もつかん……。最悪のバグだぞ、これは」
世界が都合のいい救世主に熱狂し、都合のいい神話として消費し始める裏で、
最悪のカウントダウンが静かに始まりを告げていた。
翌朝。
築40年のボロアパートの一室。
テレビからは、昨日以上の熱量で、耳が痛くなるようなニュースが流れていた。
『緊急速報です! 昨夜、都内広場にまたしても【黒の守護者】が出現!
独自のテクノロジーを駆使し、怪人を華麗に撃破しました!』
画面には、ドローンが撮影したレンの完璧な戦闘シーンが何度もリピート再生されている。
『さらに、ネット上ではその正体が判明! 大企業・神代グループの御曹司、
神代レン氏であることが分かりました! 自らの富と命を懸けて人類を救う若き天才に、
世界中から賞賛の声が集まっています!』
ネットのトレンドは『#神代レン』『#本物の英雄』『#人類の盾』で完全に埋め尽くされ、
繁華街で助けられたあの有名配信者あまねも自身のSNSで
「やっぱり私が見た人は間違っていなかった」と涙ながらに大絶賛する動画をアップし、
数百万リプライを集めていた。
「……」
そんなお祭り騒ぎのテレビを完全にBGMにしながら、ジローはちゃぶ台に向かい、
心底不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「おいおいおい……マジかよ。あそこで大穴がくるって番狂わせにも程があるぞ……」
手元にあるのは、赤ペンで予想を書き込んだ競馬新聞と、残り数十円になった財布の中身。
昨日のパチンコの負けも相まって、懐事情は壊滅的だった。
ジローは、ぬるくなった一番安い缶発泡酒をプシューッと開け、喉に流し込んだ。
ふとテレビの画面を見ると、そこには「人類の救世主」としてカメラのフラッシュを浴び、
爽やかにインタビューに答える神代レンの姿が映っている。
「……は~、高そうなモン着てやがる。あれ一着でビール何本だろ~な~?」
缶をちゃぶ台に置くと、ジローは無駄に力強く頷いた。
「よし、決めた。明日はパチンコで大勝ちして、あのスーツより高ぇ酒飲んでやるからな」
自分の手柄を横取りされたことに対する憤りなど、これっぽっちもなかった。
ただただ、ギャンブルで勝ちたかった。今夜の酒がほしかった。
「はー……。仕事の時間か。切り替えて作業場行くか……」
テレビの電源をブツリと切り、ヨレよれのジャンパーを羽織る。
今日もどこにでもいる、
財布の軽さに頭を抱える冴えない中年男として、重い足取りでトボトボと階段を降りていった。
(第3話・了)