魔法の才能ゼロの令嬢に、最強転生魔法ジジイが科学知識を教えたら? → A.めっちゃ無双する:【才無し侯爵令嬢と魔法ジジイの科学革命】 作:Koh_novel
取っ手を、おそるおそる捻った。ほんの少しだけ。
——かちり、と小さな手応え。
円盤の穴から、お湯がちょろちょろと出てきた。細い糸のような流れ。手を差し出してみる。
——温かい。
もう少し捻ってみた。お湯の勢いが強くなった。細い筋が何本にも増えて、手のひらを打つ。
雨のように降ってきた。頭から、肩から、全身にお湯が流れ落ちていく。
「……っ」
侯爵家では、メイドが大きな盥にお湯を汲んで運んできて、それで身体を洗っていた。お湯を沸かすのに時間がかかるから、一度に使える量には限りがある。
——取っ手を捻るだけで、好きなだけお湯が降ってくる。
——何これ。
泥が流れていく。髪から、腕から、茶色い水が足元に落ちて、排水口に吸い込まれていく。泥の匂いが薄れて、代わりに湯気の匂いだけが残った。
温かい。身体の芯まで冷えていたのが、少しずつほぐれていく。
——気持ちいい。
それだけで、涙が出そうになった。
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シャンプーの瓶を手に取った。蓋を開ける。花の香り。さっきも嗅いだ、あの淡い香り。
——髪用の石鹸。
こんなものは見たことがなかった。侯爵家でも、髪は石鹸で洗っていた。あんまり洗うと痛むから、数日に1回だけ。ローザが盥にお湯を汲んで、ピリカの頭を傾けて、丁寧に泡立てて洗ってくれた。
お湯を沸かすのに時間がかかるから、髪を洗えるのは数日に一度。それでも、ローザの指が髪を梳くのは好きだった。
——ローザ。
手のひらにシャンプーを出した。とろりとした液体。泡立てて、髪につけた。
花の香りが広がった。石鹸とは全然違う。泥と汗で固まっていた髪が、綺麗になってゆく。
お湯で流してから髪に触れた。今まで感じたことのない手触りだった。するすると、指が抜けていく。艶がある。鏡がなくてもわかるほど、サラサラになっている。
——すごい。お母様に見せたら、きっと喜ぶ。
そう思って——胸が、きゅっと痛んだ。
——あ……でも、もう見せることもないのかな。
手が止まった。しばらく、濡れた髪を握ったまま動けなかった。
——……洗おう。身体、洗わないと。
石鹸で身体を洗った。泥が全部流れて、肌が白く戻っていく。腕も、脚も、泥水に浸かっていた頬も。
⸻
湯船に入った。
お湯が、身体を包んだ。
——あったかい。
肩まで沈んだ。湯気が顔にかかる。力が抜けていく。冷えきっていた手足の先まで、じんわりと熱が届いていく。
天井を見た。石の天井。知らない家の、知らない浴室。
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ふと、左手が目に入った。
小指に、銀色の細い指輪が嵌まっている。
お湯の中で、微かに光っていた。
——お兄様。
小さい頃のことを思い出した。お兄様と二人で王都に出かけた日。大通りの宝飾店のショーウィンドウに並んでいた、細い銀色の指輪。きらきらと光っていて、どうしても欲しくなった。
「お兄様、あれ買って!」
お兄様は少し困った顔をして、「今日はもう遅いから、また今度な」と言った。ぷりぷりと頬を膨らませて、帰りの馬車でも一言も口を利かなかった。
——数日後、お兄様が部屋に来た。
小さな箱を差し出して、「はい」とだけ言った。開けたら、あの指輪が入っていた。
飛び跳ねて喜んで、その日は一日中お兄様にくっついて歩いた。あとでローザから聞いた。お兄様には自由に使えるお金なんてなかったから、お父様に頭を下げて買ってもらったのだと。
——あの頃はぴったりだった指輪が、今はもう小指にしか入らない。
——でも、ずっと嵌めている。外したことは、一度もなかった。私の宝物。
左手を湯船から持ち上げた。お湯が滴って、指輪が濡れて光っている。
——お兄様——ごめんなさい。
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父の顔が浮かんだ。
「お前を、勘当する」。
あの声。低くて、硬くて、でも——紙を持つ手が、震えていた。
——お父様とは、あまり話したことがない。
いつも書斎にいた。朝早くから夜遅くまで、机に向かって書類を読んでいた。食事の席でも、難しい顔をしていることが多かった。
——でも、領地の人たちがお父様の話をするときは、みんな嬉しそうだった。市場に視察に来ると、商人たちが手を振った。兵士たちが背筋を伸ばした。メイドたちが誇らしそうに「うちの旦那様は」と言った。
——尊敬していた。遠くから、ずっと。
——その人に、今日、勘当された。
⸻
学園のことが浮かんだ。
友達。——いなかった。六年間。話しかけても、最初は物珍しそうにしていた子たちが、ピリカの魔法の才能を知ると、少しずつ離れていった。侯爵家の令嬢なのに、基礎魔法すら使えない。珍しいものを見る目。哀れむ目。——そのうち、誰も話しかけてこなくなった。
——才無し侯爵。
廊下で聞こえた囁き声。教室で聞こえた笑い声。誰が言い始めたのか、もう覚えていない。気がついたら、それがピリカの名前になっていた。
——六年間、友達が一人もいなかった。
⸻
——これから、どうなるの。
屋敷にはもう戻れない。学園にも、もう居場所はない。
手切れ金はある。でも、それだけ。行く宛てはない。
——魔法が使えない私に、何ができるの。
——何も、できない。
湯船の中で、膝を抱えた。
お湯は温かいのに、胸の中だけが冷たかった。
⸻
——あの老人は、何なの。
雨を止めた。泥を乾かした。荷物を浮かせた。私の身体も浮かせた。指を回しただけで、倒れかけた私を引き起こした。指を鳴らしただけで、湯が湧いた。
——全部、詠唱なしで、全部同時。
——学園の先生にもできないようなことを、欠伸しながらやっていた。
——なんなの、あの人。
——なんで、私なんかを家に入れたの。
⸻
涙が出た。
いつからか、わからなかった。気がついたら、頬を伝っていた。お湯の中に落ちて、音もなく消えていく。
声は出さなかった。ただ、膝を抱えたまま、肩を震わせていた。
——なんで。
——なんで、私は。
湯船の中で、ピリカは泣いた。ひとしきり、泣いた。
誰にも聞こえない。誰にも見えない。石の壁に囲まれた小さな浴室の中で、一人で、声を殺して。
お湯だけが、黙ってピリカを包んでいた。