魔法の才能ゼロの令嬢に、最強転生魔法ジジイが科学知識を教えたら? → A.めっちゃ無双する:【才無し侯爵令嬢と魔法ジジイの科学革命】   作:Koh_novel

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第9話 湯船

 取っ手を、おそるおそる捻った。ほんの少しだけ。

 

 ——かちり、と小さな手応え。

 

 円盤の穴から、お湯がちょろちょろと出てきた。細い糸のような流れ。手を差し出してみる。

 

 ——温かい。

 

 もう少し捻ってみた。お湯の勢いが強くなった。細い筋が何本にも増えて、手のひらを打つ。

 

 雨のように降ってきた。頭から、肩から、全身にお湯が流れ落ちていく。

 

「……っ」

 

 侯爵家では、メイドが大きな盥にお湯を汲んで運んできて、それで身体を洗っていた。お湯を沸かすのに時間がかかるから、一度に使える量には限りがある。

 

 ——取っ手を捻るだけで、好きなだけお湯が降ってくる。

 

 ——何これ。

 

 泥が流れていく。髪から、腕から、茶色い水が足元に落ちて、排水口に吸い込まれていく。泥の匂いが薄れて、代わりに湯気の匂いだけが残った。

 

 温かい。身体の芯まで冷えていたのが、少しずつほぐれていく。

 

 ——気持ちいい。

 

 それだけで、涙が出そうになった。

 

 

 シャンプーの瓶を手に取った。蓋を開ける。花の香り。さっきも嗅いだ、あの淡い香り。

 

 ——髪用の石鹸。

 

 こんなものは見たことがなかった。侯爵家でも、髪は石鹸で洗っていた。あんまり洗うと痛むから、数日に1回だけ。ローザが盥にお湯を汲んで、ピリカの頭を傾けて、丁寧に泡立てて洗ってくれた。

 お湯を沸かすのに時間がかかるから、髪を洗えるのは数日に一度。それでも、ローザの指が髪を梳くのは好きだった。

 

 ——ローザ。

 

 手のひらにシャンプーを出した。とろりとした液体。泡立てて、髪につけた。

 

 花の香りが広がった。石鹸とは全然違う。泥と汗で固まっていた髪が、綺麗になってゆく。

 

 お湯で流してから髪に触れた。今まで感じたことのない手触りだった。するすると、指が抜けていく。艶がある。鏡がなくてもわかるほど、サラサラになっている。

 

 ——すごい。お母様に見せたら、きっと喜ぶ。

 

 そう思って——胸が、きゅっと痛んだ。

 

 ——あ……でも、もう見せることもないのかな。

 

 手が止まった。しばらく、濡れた髪を握ったまま動けなかった。

 

 ——……洗おう。身体、洗わないと。

 

 石鹸で身体を洗った。泥が全部流れて、肌が白く戻っていく。腕も、脚も、泥水に浸かっていた頬も。

 

 

 

 湯船に入った。

 

 お湯が、身体を包んだ。

 

 ——あったかい。

 

 肩まで沈んだ。湯気が顔にかかる。力が抜けていく。冷えきっていた手足の先まで、じんわりと熱が届いていく。

 

 天井を見た。石の天井。知らない家の、知らない浴室。

 

 

 ふと、左手が目に入った。

 

 小指に、銀色の細い指輪が嵌まっている。

 

 お湯の中で、微かに光っていた。

 

 ——お兄様。

 

 小さい頃のことを思い出した。お兄様と二人で王都に出かけた日。大通りの宝飾店のショーウィンドウに並んでいた、細い銀色の指輪。きらきらと光っていて、どうしても欲しくなった。

 

 「お兄様、あれ買って!」

 

 お兄様は少し困った顔をして、「今日はもう遅いから、また今度な」と言った。ぷりぷりと頬を膨らませて、帰りの馬車でも一言も口を利かなかった。

 

 ——数日後、お兄様が部屋に来た。

 

 小さな箱を差し出して、「はい」とだけ言った。開けたら、あの指輪が入っていた。

 

 飛び跳ねて喜んで、その日は一日中お兄様にくっついて歩いた。あとでローザから聞いた。お兄様には自由に使えるお金なんてなかったから、お父様に頭を下げて買ってもらったのだと。

 

 ——あの頃はぴったりだった指輪が、今はもう小指にしか入らない。

 

 ——でも、ずっと嵌めている。外したことは、一度もなかった。私の宝物。

 

 左手を湯船から持ち上げた。お湯が滴って、指輪が濡れて光っている。

 

 ——お兄様——ごめんなさい。

 

 

 父の顔が浮かんだ。

 

 「お前を、勘当する」。

 

 あの声。低くて、硬くて、でも——紙を持つ手が、震えていた。

 

 ——お父様とは、あまり話したことがない。

 

 いつも書斎にいた。朝早くから夜遅くまで、机に向かって書類を読んでいた。食事の席でも、難しい顔をしていることが多かった。

 

 ——でも、領地の人たちがお父様の話をするときは、みんな嬉しそうだった。市場に視察に来ると、商人たちが手を振った。兵士たちが背筋を伸ばした。メイドたちが誇らしそうに「うちの旦那様は」と言った。

 

 ——尊敬していた。遠くから、ずっと。

 

 ——その人に、今日、勘当された。

 

 

 学園のことが浮かんだ。

 

 友達。——いなかった。六年間。話しかけても、最初は物珍しそうにしていた子たちが、ピリカの魔法の才能を知ると、少しずつ離れていった。侯爵家の令嬢なのに、基礎魔法すら使えない。珍しいものを見る目。哀れむ目。——そのうち、誰も話しかけてこなくなった。

 

 ——才無し侯爵。

 

 廊下で聞こえた囁き声。教室で聞こえた笑い声。誰が言い始めたのか、もう覚えていない。気がついたら、それがピリカの名前になっていた。

 

 ——六年間、友達が一人もいなかった。

 

 

 ——これから、どうなるの。

 

 屋敷にはもう戻れない。学園にも、もう居場所はない。

 

 手切れ金はある。でも、それだけ。行く宛てはない。

 

 ——魔法が使えない私に、何ができるの。

 

 ——何も、できない。

 

 湯船の中で、膝を抱えた。

 

 お湯は温かいのに、胸の中だけが冷たかった。

 

 

 ——あの老人は、何なの。

 

 雨を止めた。泥を乾かした。荷物を浮かせた。私の身体も浮かせた。指を回しただけで、倒れかけた私を引き起こした。指を鳴らしただけで、湯が湧いた。

 

 ——全部、詠唱なしで、全部同時。

 

 ——学園の先生にもできないようなことを、欠伸しながらやっていた。

 

 ——なんなの、あの人。

 

 ——なんで、私なんかを家に入れたの。

 

 

 涙が出た。

 

 いつからか、わからなかった。気がついたら、頬を伝っていた。お湯の中に落ちて、音もなく消えていく。

 

 声は出さなかった。ただ、膝を抱えたまま、肩を震わせていた。

 

 ——なんで。

 

 ——なんで、私は。

 

 湯船の中で、ピリカは泣いた。ひとしきり、泣いた。

 

 誰にも聞こえない。誰にも見えない。石の壁に囲まれた小さな浴室の中で、一人で、声を殺して。

 

 お湯だけが、黙ってピリカを包んでいた。

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