魔法の才能ゼロの令嬢に、最強転生魔法ジジイが科学知識を教えたら? → A.めっちゃ無双する:【才無し侯爵令嬢と魔法ジジイの科学革命】 作:Koh_novel
朝五時。
まだ夜が明けきっていない。窓の外は薄い灰色の空。
大きなベッドの中で、少女が眠っていた。布団から覗く顔は青白く、目の下に深いクマが刻まれている。
髪は乱れたまま、枕に広がっていた。眉間に皺が寄っている。寝ていても、力が抜けきっていない。
⸻
コンコン。
「お嬢様、お時間です」
柔らかい声。ドアの向こうから。
返事はない。
「お嬢様」
もう一度呼んで、侯爵家メイドのローザは静かにドアを開けた。
ベッドの上の少女⸻侯爵令嬢ピリカは、目を閉じたまま動かなかった。完全に眠っている。昨夜も遅くまで教科書を読んでいたのだろう。
ローザはベッドの傍まで歩み寄って、そっとピリカの肩に触れた。
「お嬢様、朝ですよ」
「……ん……」
「五時です。起こしてほしいと仰っていましたので」
「…………ローザ……?」
ピリカの目が、薄く開いた。ぼんやりとした瞳がローザを捉える。数秒、ここがどこかわからないような顔をして——それから、はっと目を見開いた。
——朝。起きないと。
身体が重い。寝た気がしない。
「……起きる」
ローザがカーテンに手をかけて、少しだけ開けた。早朝の薄い光がベッドに差し込む。
「……お嬢様」
ローザがピリカの顔を見た。深いクマ。乾いた唇。疲労が、隠しようもなく滲んでいる。
「……お嬢様、今日は……」
「……ローザ」
ピリカはゆっくり起き上がった。身体が重い。肩が痛い。昨日の訓練で、腕を上げすぎた。
「……起こしてくれて、ありがとう」
「……」
ローザは何も言わなかった。ただ、胸が痛んだ。
⸻
ピリカはベッドから降りた。
視線が、机の上に吸い寄せられる。
魔法の教科書。ページがぼろぼろになっている。角が丸くなり、何箇所もの折り目がついていた。何度も何度も開いた痕跡。
詠唱の抑揚も、魔力の込め方も、イメージの作り方も。全部暗記している。目を瞑っても諳んじられる。
——でも、発動しない。
魔力量が足りないことは、わかっている。わかっているけど——それでも、何か見落としていることがあるんじゃないか。詠唱の呼吸の間合いとか、魔力を込めるタイミングとか。少しでもヒントがあるなら、見つけたい。
教科書を開いた。朝の薄い光の中で、ページを目で追う。ローザが着替えを準備している間も、目は活字から離れなかった。
「お嬢様」
「……?」
「……朝食、召し上がってからの方が……」
「……ありがとう。でも、朝食の前に少しでもやれることをしたいの」
「……承知しました」
ローザはなにも言わなかった。お嬢様の邪魔はしたくない。
代わりに、サイドテーブルからカップを取り上げた。ミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒー。あらかじめ用意してあったものだ。
「……せめて、これだけでも」
ピリカは教科書から目を上げた。カップを受け取って、一口飲んだ。甘くて、温かい。
「……ローザ、いつもありがとうね」
「……いいえ」
⸻
ローザがピリカの着替えを手伝った。学園の制服。白いブラウスに、深い青のブレザーとスカート。
鏡の前に座って、ローザが髪を梳く。絡まった毛先を丁寧にほぐしていく。
「お嬢様」
「……?」
「今日も、学園の後、いつもの空き地で?」
「……うん」
「……ローザ、心配してくれてありがとう」
ピリカは鏡越しにローザに微笑んだ。疲れた顔。でも、温かい笑み。
「でも、一ヶ月後が試験なの。時間がないの」
「……はい」
ローザはそれ以上何も言わなかった。
⸻
ピリカが食堂に入ると、兄——アーサーがもう席についていた。
父と母は、それぞれ仕事で朝早くに出ている。大きなテーブルに、兄と妹の二人。屋敷のメイドが傍に控えている。
アーサーは新聞から目を上げて、ピリカを見た。
「……おはよう」
「おはよう、お兄様」
ピリカは向かいの椅子に座った。ローザがスープを運んでくる。温かい湯気が立ち上った。
しばらく、静かに食事をした。スプーンがスープ皿に当たる音だけが響く。
「ピリカ」
「……はい?」
アーサーが新聞を畳んだ。
「お前、一ヶ月後が期末の魔法実技試験だろ……?」
「……」
「……大丈夫か?」
ピリカはスプーンを止めた。一拍、間があった。
「……なんとか」
「……」
「なんとか、します」
声は、小さかった。
アーサーはしばらくピリカを見つめていた。それから、視線を落とした。
「……何か手伝えることがあったら、言えよ」
「……うん。ありがとう、お兄様」
ピリカは微笑んだ。いつもの、疲れた笑み。
⸻
期末の魔法実技試験。一ヶ月後。
基礎魔法——ファイアボールを発動できなければ、落第。
この試験は、魔法使いとしてやっていけない生徒に対して、早めに別の道を探した方がよいという学校側の温情だった。ほとんどの生徒にとっては、全く何の心配もない通過儀礼にすぎない。
だが、ピリカにとっては違う。
侯爵家の令嬢が、魔法の基礎試験で落第する。それは「才能がない」だけでは済まない。ベルフォード侯爵家の名に傷がつく。貴族としての体面が、根底から崩れる。
ピリカはそれをわかっていた。アーサーもわかっていた。
だから、二人とも——それ以上は、何も言わなかった。
⸻
食事を終えて、ピリカは玄関に向かった。
学園の鞄を肩にかけて、靴を履く。ローザが玄関で見送る。
「お嬢様、お気をつけて」
「……行ってきます」
ピリカは扉を開けた。朝の冷たい空気が頬に触れる。
振り返らずに、歩き出した。
小さな背中が、朝霧の中に消えていく。
⸻
ローザは玄関に立ったまま、ピリカの姿が見えなくなるまで見送っていた。
それから、静かに扉を閉めた。
「……お嬢様」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
「……どうか」