魔法の才能ゼロの令嬢に、最強転生魔法ジジイが科学知識を教えたら? → A.めっちゃ無双する:【才無し侯爵令嬢と魔法ジジイの科学革命】   作:Koh_novel

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第7話 雨を止める老人

 丘の上の一軒家。窓際の椅子に腰掛けたグリモワルドは、コーヒーを啜りながら外を見ていた。

 

 空き地に、あの少女がいた。

 

 ——今日もか。

 

 毎日見ている光景だった。学園の制服を着た小柄な少女が、誰もいない空き地でファイアボールの練習を繰り返している。一度も成功しない。それでも毎日来る。グリモワルドにとっては、コーヒーを飲みながら眺める暇つぶしのひとつだった。

 

 だが、今日は様子が違った。

 

 雨が降っている。少女は制服のまま、泥だらけで、いつもより激しく詠唱を繰り返していた。声が風に乗ってかすかに届く。叫ぶような詠唱。

 

 ——なんじゃ。今日は随分荒れとるのう。

 

 少女の膝が折れた。泥水の中に倒れた。雨に打たれたまま、動かなくなった。

 

 グリモワルドはコーヒーを啜った。

 

 少女は起き上がらなかった。

 

 もう一口、啜った。

 

 動かない。

 

 

 グリモワルドは空になったコップをテーブルに置いて、立ち上がった。

 

 玄関の戸を開けた。冷たい雨が吹き込む。丘の下の空き地に、小さな影が倒れているのが見える。

 

 一歩、外に出た。

 

 彼の周囲の雨が、止まった。

 

 グリモワルドの頭上だけではない。彼を中心に、半径十歩ほどの空間から、雨粒が消えていた。正確には、消えたのではない。空中で静止していた。

 

 落ちてくる雨粒が、見えない糸に吊られるように、宙で止まる。一粒、二粒ではない。何百、何千という水滴が全て空中に留まり、薄く光を反射しながら止まっている。まるで硝子の屋根の下にいるように、その領域の内側だけが乾いていた。

 

 グリモワルドが歩き出した。

 

 足元の泥が、一歩踏み出すごとに乾いていく。ぬかるんだ地面から水分が抜けて、靴の下に乾いた土が現れる。

 

 詠唱はない。構えもない。指一本動かしていない。

 

 ただ歩いている。それだけで、雨が避け、泥が退き、道ができていく。

 

 

 グリモワルドが丘を下りていく。

 

 雨は相変わらず激しく降り続けている。だが、老人の周囲だけが別の世界だった。静止した雨粒の天蓋が、老人と共にゆっくりと移動していく。通り過ぎた場所では、堰き止められていた雨粒がぱらぱらと落ち始める。

 

 空き地に足を踏み入れた。膝までの雑草が雨に濡れて重く垂れている。グリモワルドの通る場所だけは、草についた水滴が弾け飛んで、乾いた葉が揺れ、泥が乾いた土に変わっていく。

 

 倒れている少女の前まで来た。

 

 泥水に頬をつけて、目を半分閉じている。意識が朦朧としているのがわかる。制服は泥だらけで、髪が顔に張りついている。極度の魔力切れの症状。身体が小さく震えている。

 

 グリモワルドが少女の傍に立った。

 

 その瞬間、静止領域が広がった。少女の周囲の雨も止まる。落ちかけていた雨粒が空中で凍りつくように静止して、少女を打っていた冷たい粒が、ぴたりとやんだ。

 

 

「なんじゃ。今日は随分荒れとるのう」

 

 頭の上から、声が降ってきた。

 

 低く、穏やかで、どこか面倒くさそうな声。

 

「……」

 

 ピリカは泥水の中で目を開けた。ぼやけた視界に、黒い靴が見えた。乾いた靴。泥がついていない。

 

 ——雨が、止んでる?

 

 顔に当たっていた冷たい粒が、消えていた。雨音は聞こえる。すぐ近くで、雨は降り続けている。なのに、自分の身体には一滴も落ちてこない。

 

 視線を上げた。

 

 白髪の老人が立っていた。痩せた身体。深い皺。背筋だけがまっすぐだった。

 

 老人の周りに、雨粒が浮いていた。空中で止まっている。何百という水滴が、薄い光を反射してきらきらと揺れていた。

 

「……あなた、誰……?」

 

 声が掠れた。喉が痛い。

 

「ふん。この丘の近くの家に住んどる老人じゃよ」

 

「……」

 

「一ヶ月ほど、お主を観察しておった」

 

「……」

 

 ——一ヶ月、観察。

 

 ——怖い。

 

「怖がるな。ただの暇な老人じゃ」

 

「……」

 

 ピリカは泥水の中で、老人を見上げていた。起き上がる力が残っていなかった。

 

 

「家に来い」

 

「……え?」

 

「風呂じゃ。そのままじゃ風邪をひく」

 

 老人が視線を動かした。草の上に置いてある学校指定のカバンと、手切れ金の革袋。

 

「荷物はそれだけじゃな」

 

 老人が軽く手を振った。

 

 カバンと革袋がふわりと浮き上がった。何の詠唱もなく、何の構えもなく。まるで自分の手で拾い上げたかのように、二つの荷物が空中に浮いて、老人の横についた。

 

 同時に、ピリカの身体がふわりと持ち上がった。

 

「——え」

 

 足が地面を離れた。泥水から引き剥がされるように、身体が浮いて、そのまま両足が地面に降ろされた。立っていた。自分の足で立たされていた。

 

「……」

 

「……でも、私……」

 

「ええから来い」

 

 ピリカが一歩踏み出した。膝が笑って、前のめりに倒れかけた。

 

 老人が人差し指をくるっと回した。

 

 傾いたピリカの身体が、ふわりと引き起こされた。見えない大きな手に支えられるように姿勢がまっすぐに戻されて、両足が地面にぴたりと着く。

 

「一人で歩けるか?浮かして運ぶか?」

 

「……あ、あるけます」

 

 ピリカは背筋を伸ばした。足は震えていた。でも、立っていられた。

 

 

 二人で歩き出した。

 

 雨は降り続けている。だが、二人の周囲だけが乾いていた。静止した雨粒の天蓋が、二人を覆って一緒に動いていく。

 

 ピリカは歩きながら、足元を見た。

 

 ——泥が、乾いてる。

 

 一歩踏み出すごとに、ぬかるんだ地面が乾いた土に変わっていく。靴が泥に沈まない。さっきまで泥水に倒れていたのに、今歩いている地面はまるで晴れた日のようだった。

 

 今度は、頭上を見上げた。

 

 ——雨が、当たらない。

 

 何百という雨粒が、空中で静止している。落ちてこない。すぐ外側では雨が激しく降っているのに、この領域の中だけが穏やかだった。

 

 ——この人、何。

 

 隣を歩く老人を見た。何もしていない。手を上げているわけでも、詠唱しているわけでも、集中しているわけでもない。ただ歩いている。それだけで、これだけのことが起きている。

 

 ピリカは学園で六年間、魔法を学んだ。教科書を全部暗記した。詠唱の理論も、魔力の制御も、一通りは知っている。知っているからこそ、わかる。

 

 ——これは、おかしい。

 

 雨粒を空中で静止させる。これだけでも、相当な空間制御が必要だ。しかも範囲が広い。二人分。歩きながら。同時に、足元の泥から水分を抜いている。

 ——そういえば、カバンと革袋もふわふわと老人の横を浮いてついてきている。あれも、ずっと維持している。異なる魔法を三つ同時に、詠唱なしで、歩きながら。

 

 ——なんなの、この人。

 

 老人は欠伸をした。

 

 

 丘を登った。石造りの家が見えてきた。壁に蔦が絡んでいる。

 

「ここじゃ」

 

 老人が玄関の戸を開けた。温かい空気が流れ出てきた。

 

「入れ。とりあえず身体を温めるのが最初じゃ」

 

 ピリカは玄関をくぐった。老人が後ろから入ってきて、戸を閉めた。

 

 外の雨音が、遠くなった。

 

 浮いていたカバンと革袋が、静かに玄関の隅に降りた。

 

「あ、靴はそこで脱ぐんじゃよ」

 

「え、は、はい」

 




26/6/13(土)、本日は1時間ごとに20話まで投稿していきます〜〜!

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