ヒロインではないですが、魔法使いの嫁なんかは世界観含めてすごいな~って思います(小並感)
第二話
人生初の彼女ができた翌日、俺はいつも通り学校へ行った。
いつも通り、のはずだった。
朝起きて、顔を洗って、制服に着替えて、食卓につく。母親に「今日ちょっと顔色悪くない?」と言われて、俺は味噌汁の椀を持ったまま固まった。
「……寝不足」
「夜更かし?」
「まあ、そんな感じ」
嘘ではない。
寝不足だった。
夜更かしもした。
布団の中で、ずっと天井を見ていた。
理由は単純だ。
昨日、俺は赤羽根真華に告白した。
成功した。
付き合うことになった。
そこまではいい。
問題は、彼女が人間ではなく、赤い鳥の化け物で、俺のことを普通に「食べたい」と言ってきたことだ。
味噌汁を飲む。
味が分からない。
いや、味噌汁の味はする。
でも、脳がそれどころじゃない。
『蓮くんは食べないから!』
昨日の真華の声が、頭の中で明るく再生される。
いや、何だそれ。
彼女に言われる言葉として、そんなもの想定していない。
好きだよ、とか、また明日ね、とか、そういうのでいいんだ。人間は。少なくとも俺は。
「蓮、箸止まってるわよ」
「あ、うん」
慌てて焼き魚を口に運ぶ。
父親はテレビの天気予報を見ながら新聞を読んでいる。母親は弁当箱におかずを詰めている。食卓はいつも通りで、窓の外もいつも通りで、世界は昨日と何も変わっていない顔をしていた。
それが逆に怖い。
俺だけが、昨日から変な場所に足を突っ込んでいる。
赤い翼とか。
人間は食べちゃダメとか。
彼女ができた翌朝の悩みとしては、かなりランクが高い。悪い意味で。
朝食を終えて、玄関で靴を履く。
スマホが震えた。
画面を見る。
『蓮くん! 今日の放課後、昨日言ってたラーメン屋行こうね!』
差出人は赤羽根真華。
昨日まで、俺のスマホにこの名前はなかった。
付き合ってすぐ、真華が「恋人なら連絡先を交換するものだよね!」と言い出して、その場で登録させられた。
恋人。
その二文字に、一瞬だけ頬が熱くなる。
いや、照れるな。
今は照れてる場合じゃない。
続けてもう一件。
『あと、蓮くんは食べないから安心して!』
「……安心できるか」
玄関で声に出た。
母親が奥から「何か言った?」と聞いてくる。
「何でもない!」
慌てて返して、スマホに打ち込む。
『その文章は朝一で送るものじゃない』
すぐに返信が来た。
『えっ、じゃあいつ送ればいい?』
『そもそも送らないでいい』
『そっか!』
そっかじゃない。
俺は玄関のドアを開けながら、深く息を吐いた。
どうやら昨日のことは夢ではないらしい。
学校に着いても、世界は普通だった。
教室ではクラスメイトが昨日のドラマの話をしている。小テストの範囲がどうとか、購買のパンがどうとか、誰かが宿題を写させろとか言っている。
いつもの朝だ。
俺もいつもの席に座って、いつも通りの顔をしようとした。
無理だった。
廊下を赤い髪が通るたびに、首が勝手に動く。
真華は別のクラスだ。
それでも、彼女は目立つ。
赤い髪。赤い目。明るい声。
誰かと楽しそうに話している。たぶん、昨日言っていた新しいラーメン屋の話だろう。
遠目に見ると、ただの人気者の女子高生だった。
昨日、背中から赤い翼を出した化け物と同じ存在には見えない。
でも同じなのだ。
同じだから困っている。
「蛍原」
昼休み。弁当を食べていると、前の席から声をかけられた。
同じクラスの三井だった。
「お前さ、昨日赤羽根さんと帰ってなかった?」
飲み込もうとしていた卵焼きが、普通に喉に詰まりかけた。
「っ、げほっ……!」
「うわ、図星?」
「違っ……いや、違わないけど、急に言うな!」
「やっぱそうなんだ」
三井がにやっと笑う。
その顔が、ものすごく面倒くさい。
「で?」
「で、じゃない」
「付き合ってんの?」
「声がでかい!」
思わず声を抑えて怒鳴るという器用なことをした。
三井は楽しそうに肩を揺らしている。
「いや、昨日手つないでたじゃん」
「見てたのかよ……」
「見えるだろ。赤羽根さん目立つし」
「それは、まあ、そうだけど」
昨日の帰り道。
真華は完全に浮かれていた。
俺の手を取って、駅前のラーメン屋の看板を指さして、何度も「蓮くん、見て見て!」と言ってきた。
そのたびに腕が持っていかれそうになった。
手をつないでいたというより、牽引されていたに近い。
でも、手をつないでいたのは事実だ。
「……まあ」
「まあ?」
「付き合うことには、なった」
三井の目が見開かれた。
「マジで?」
「マジで」
「赤羽根さんと?」
「赤羽根さんと」
「あの赤羽根さんと?」
「あの赤羽根さんと」
「お前、何したの?」
「普通に告白した」
「勇者じゃん」
相手が人食いの化け物だと知っていたら、こいつはたぶん別の意味で勇者と言っただろう。
いや、俺も今ちょっとそう思っている。
「馴れ初めは?」
「馴れ初めって言うな。恥ずかしいだろ」
「照れてる照れてる」
「うるさい」
「で、何がきっかけ?」
「購買でメロンパン落としそうになってたのを助けた」
「思ったより庶民的」
「俺の人生にドラマチックな出会いを求めるな」
ドラマチックな出来事なら昨日あった。
赤い翼とか。
人間も食べられるとか。
馴れ初めに入れていい情報ではない。
三井はまだにやにやしていたが、俺が本気で弁当箱を閉じそうになると、ようやく話題を引っ込めた。
彼女ができたことを友達にからかわれる。
たぶん、それは普通の高校生っぽい出来事なんだと思う。
普通なら、もう少し浮かれてもいいはずだ。
でも俺の頭の中には、昨日の真華の赤い翼が残っている。
普通の彼女。
そう呼んでいいのか、まだ分からなかった。
放課後になった。
帰り支度をしていると、教室の外が少しざわついた。
嫌な予感がした。
すごく嫌な予感がした。
顔を上げる。
廊下に赤羽根真華がいた。
赤い髪を揺らして、両手を胸の前で握って、俺の教室をのぞき込んでいる。目が合った瞬間、ぱっと笑顔になった。
「蓮くん!」
「声でかい声でかい!」
反射で立ち上がった。
教室中の視線がこっちに向いた。
やめろ。
本当にやめろ。
昨日付き合い始めたばかりの彼女に名前を呼ばれて、嬉しくないわけじゃない。嬉しくないわけじゃないけど、教室の前でそれをやられると俺の精神がもたない。
「迎えに来たよ!」
「分かった! 分かったからもう少し小さい声で!」
「えっ、ごめんね。恋人っぽくなかった?」
「恋人っぽすぎて困ってるんだよ!」
「そっか!」
「そこで嬉しそうにするな!」
真華は嬉しそうだった。
めちゃくちゃ嬉しそうだった。
その顔が可愛いから困る。
後ろで三井が「おお……」みたいな変な声を出した。あとで絶対からかわれる。確定だ。逃げたい。
でも廊下の真華は、俺が鞄を持つのを待っている。
逃げられるわけがなかった。
教室を出ると、真華が隣に並んだ。
「今日、ちゃんと待ってたよ!」
「何を?」
「放課後!」
「いや、放課後は勝手に来るだろ」
「蓮くんとラーメン行く放課後は、普通の放課後と違うんだよ」
真正面からそう言われて、言葉に詰まった。
何だそれ。
可愛いことを言うな。
「……そういうの、急に言うな」
「えっ、変だった?」
「変じゃない。変じゃないけど、こっちにも準備がある」
「準備?」
「心の準備」
「蓮くん、替え玉みたいだね」
「何でだよ」
真華は不思議そうに首を傾げる。
俺は顔が熱くなってきたので、少し早足で歩いた。
真華はすぐ隣をついてくる。
近い。
昨日より近い気がする。
「近い近い」
「えっ、そう?」
「普通に近い」
「恋人って近いものじゃないの?」
「限度がある」
「難しいね、人間の恋愛」
「急にスケールを広げるな」
真華は真剣に頷いた。
こういう時、本気で勉強している顔をするからずるい。
駅前まで歩く間、真華はずっとラーメン屋の話をしていた。
「昨日調べたんだけどね、鶏白湯が有名なんだって」
「赤い鳥の化け物が鶏白湯を楽しみにしてるの、何か大丈夫なのか?」
「えっ、何が?」
「同族的な意味で」
「私は鶏じゃないよ?」
「そういう問題か?」
「それに、人間だって牛とか豚とか食べるでしょ?」
「急に正論出すな」
人間と人外の倫理観の違いが、ラーメンの話題で出てくるとは思わなかった。
途中、コンビニの新商品ポスターを見て真華が立ち止まる。
「蓮くん、これ見て。唐揚げ味のスナックだって」
「ラーメン前に買うなよ」
「見るだけ」
「本当に?」
「……一個だけなら」
「見るだけとは」
真華は名残惜しそうにポスターを見ていたが、最終的にはラーメン屋への期待が勝ったらしい。駅前の細い通りに入ると、看板を見つけて目を輝かせた。
「蓮くん、蓮くん!」
「走るなよ」
「走らないよ」
「昨日、手を引っ張られて腕が抜けるかと思った」
「そんなに強くしてないよ?」
「してた。わりと本気でしてた」
「ご、ごめんね」
真華がしゅんとする。
その顔をされると、強く言いづらい。
でも言わないと、俺の腕はいつか負ける。
人間の関節は、たぶん真華が思っているより弱い。
「力加減、気をつけてくれればいいから」
「うん。気をつける」
「頼む。本当に」
「蓮くん、壊れやすいもんね」
「人間はだいたい壊れやすいんだよ!」
「そっか」
「そっかで済ませるな!」
真華は真面目に頷いた。
不安しかない。
ラーメン屋は、新しくできたばかりの店らしく、入口に花が並んでいた。店内からは濃いスープの匂いが漂ってくる。昼時ではないのに、そこそこ客が入っていた。
真華は看板を見上げて、感動したみたいに息を吐いた。
「いいにおい……」
「それはラーメンの匂いな」
「うん。ラーメンの匂い」
真華はにこにこしている。
昨日の「いいにおい」とは違う。
今の真華は本当に、ただラーメンを楽しみにしている女の子だった。
そう思うと、少しだけ安心した。
店に入る。
カウンター席に通され、俺と真華は隣同士に座った。
券売機の前で真華は真剣に悩んだ。
五分くらい悩んだ。
「まだ?」
「待って。これは大事な選択なの」
「人生の岐路みたいに言うな」
「鶏白湯にするか、辛味噌にするかで未来が変わるかもしれないよ?」
「変わらないだろ」
「蓮くんは分かってない」
「ラーメンに対する熱量がすごい」
最終的に真華は、鶏白湯ラーメン、味玉、チャーシュー増し、餃子、ライス、替え玉券を二枚買った。
「待て待て待て」
「何?」
「初手から量がおかしい」
「蓮くんは?」
「普通のラーメン」
「足りる?」
「足りる」
「本当に?」
「俺を基準にしろ。お前を基準にするな」
真華は不思議そうな顔をした。
本当に不思議そうなのが怖い。
ラーメンが来るまでの間、真華はカウンターの調味料を見ていた。
「これは?」
「胡椒」
「これは?」
「辛味噌」
「これは全部入れていい?」
「全部入れるな」
「でも味変って書いてあるよ」
「味変は破壊活動じゃない」
「難しいね」
「難しくない」
ラーメンが運ばれてきた瞬間、真華の顔がぱっと明るくなった。
「わあ……!」
その声は本当に嬉しそうだった。
白い湯気。濃いスープの匂い。綺麗に並んだチャーシュー。半分に切られた味玉。
真華は両手を合わせた。
「いただきます!」
そして食べ始めた。
速い。
いや、速い。
本当に速い。
でも、汚くはない。
むしろ綺麗に食べる。箸の動きに無駄がなくて、麺をすすると赤い目がきらきらした。
「おいしい!」
真華が笑う。
その笑顔を見て、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
この食欲は怖くない。
目の前の真華は、ただラーメンを美味しそうに食べている。楽しそうで、よく喋って、何度も「蓮くんも食べてる?」「おいしい?」と聞いてくる。
「蓮くん、チャーシュー食べる?」
「自分で頼んだ分があるからいい」
「でもこれおいしいよ?」
「なら自分で食べろ」
「じゃあ一口だけ」
「分ける気がない!」
真華は楽しそうに笑って、チャーシューを口に運んだ。
可愛い。
普通に可愛い。
昨日あんなことがあったのに、こうやって隣でラーメンを食べている真華を見ると、普通に可愛いと思ってしまう。
いや、俺の危機感はどこに行った。
しっかりしろ蛍原蓮。
「蓮くん」
「何?」
「替え玉していい?」
「まだ半分残ってるだろ」
「予約」
「予約制じゃない」
「心の準備」
「替え玉に心の準備がいるのか」
「いるよ。食べるって大事なことだから」
真華は真面目に言った。
その言葉には、少し変な重みがあった。
食べるって大事なこと。
普通なら、ただの食いしん坊発言で済む。
でも真華が言うと、ちょっと違う意味が混ざる。
俺はスープを飲んで、熱さで舌を少しやけどした。
「あつっ」
「大丈夫?」
「大丈夫。お前は落ち着いて食べろ」
「うん」
「あと替え玉は一回までな」
「えっ」
「えっ、じゃない」
「二回」
「一回」
「じゃあ間を取って三回」
「増えてる! 間って何だ!」
真華は頬を膨らませた。
その顔も可愛い。
だから困る。
俺が笑うと、真華も笑った。
そのまましばらく、何でもない話をした。
昨日の告白のこと。
真華が恋愛漫画で「初デートは大事」と読んだこと。
ラーメン屋は初デートに入るのかという話。
「入るんじゃないか?」
俺がそう言うと、真華が箸を持ったまま固まった。
「ほんと?」
「いや、分からないけど。二人で出かけてるし」
「じゃあ、これ初デート?」
「たぶん」
「……そっか」
真華が、ものすごく嬉しそうに笑った。
やめろ。
その顔は本当にずるい。
こっちは昨日からずっと混乱しているのに、その笑顔一つで「まあいいか」と思いそうになる。よくない。全然よくない。彼女が人間ではない問題は何一つ解決していない。
でも、楽しかった。
隣で好きな相手が、心底幸せそうにラーメンを食べている。
それだけで、昨日の怖さが少し遠くなる。
だから油断していた。
俺が水を飲もうとして、グラスに手を伸ばした時だった。
「蓮くん」
真華の声が、少しだけ変わった。
大きな変化ではない。
でも分かった。
さっきまでの弾むような声じゃない。
少しだけ、平らだった。
「……何?」
「ラーメン食べてる時も、いいにおいするね」
箸が止まった。
真華はラーメンを食べている。
器の中身はもうほとんどない。替え玉も一回済ませた。餃子もライスも、当然のように消えている。
それなのに、真華の目は俺を見ていた。
ラーメンじゃない。
俺を見ていた。
「いや、それは店の匂いだろ」
「ううん」
真華は首を横に振った。
赤い髪が肩で揺れる。
「蓮くんの匂い」
「……おい」
思わず身体が引いた。
ほんの少しだけ。
でも、自分でも分かるくらいには引いた。
真華の目が俺の顔から、首元へ落ちる。
やめろ。
そこには血管がある。
俺でも分かる。
今その情報いらない。
「赤羽根」
声が少し上ずった。
情けない。
でも無理だ。
初デートのラーメン屋で、彼女に自分の首元を見られて平静でいられるほど、俺は訓練されていない。
「今の言い方、怖い」
「えっ」
「いや、ちょっとじゃない。だいぶ怖い。ラーメン屋で彼氏の匂いを確認するな」
「ご、ごめんね?」
「疑問形で謝るな。俺もどう返せばいいか分からないんだよ」
真華は瞬きをした。
一回。
二回。
それから、はっとしたように目を丸くした。
「あっ」
「あっ、じゃない」
「ごめんね。今の、変だったよね」
「変だった。だいぶ」
「うん……ごめん」
真華は慌てて笑おうとした。
でも、笑い方が少し遅れた。
「ラーメン食べてたら、なんか……」
「なんか?」
「お腹はいっぱいなんだけど」
真華はそこで言葉を止めた。
自分の言葉に、自分で少し驚いたような顔をした。
「……ううん。なんでもない」
「赤羽根」
「大丈夫!」
明るい声だった。
明るすぎる声だった。
「替え玉もう一回したら、たぶん大丈夫!」
「それ、根本的な解決になってるのか?」
「なってるよ! 食べればだいたい元気になるもん!」
真華は笑って、替え玉券を掲げた。
俺は止められなかった。
止めた方がよかったのかもしれない。
でも、何をどう止めればいいのか分からなかった。
真華は二回目の替え玉も食べた。
後半には、いつもの調子に少し戻っていた。
「ここのスープ、麺に合うね」とか「次は唐揚げも食べたい」とか、楽しそうに話していた。
それでも、一度だけ。
ほんの一度だけ。
真華の視線が、俺の手首に落ちた。
すぐに戻った。
本当に一瞬だった。
真華自身も気づいていないかもしれない。
でも俺は気づいた。
そこには脈がある。
そんなことを考えてしまった自分が嫌だった。
店を出る頃には、外はすっかり夕方だった。
駅前の通りには人が多い。学校帰りの生徒、買い物帰りの人、スーツ姿の会社員。信号機の音が鳴って、バスが停まり、コンビニの自動ドアが開閉している。
世界は普通だった。
真華は隣で満足そうにお腹を押さえている。
「おいしかったね」
「そうだな」
「蓮くんは足りた?」
「足りた」
「本当に?」
「本当に」
「私、もうちょっと食べられるかも」
「嘘だろ!?」
「嘘じゃないよ?」
「人間は替え玉二回とライスと餃子の後にコンビニ寄ろうとは思わない!」
「私は人間じゃないから」
さらっと言われて、俺は返事に詰まった。
真華も自分で言ったあと、少しだけ表情を変えた。
気まずそうに、でもごまかすみたいに笑う。
「……なんてね」
なんてね、で済む話ではない。
でも、通りの真ん中で掘り下げる話でもなかった。
俺は少し迷って、真華の隣を歩いた。
ただ、距離が半歩だけ空いた。
自分でも分かった。
ほんの半歩。
でも、たしかに空いた。
真華がそれに気づいたかどうかは分からない。
「蓮くん」
「何?」
「今日、初デートだった?」
「ラーメン屋でもいいなら、まあ」
「やった」
真華は小さく拳を握った。
「じゃあ、私、彼女っぽかった?」
「……」
「蓮くん?」
「いや、その」
すぐに答えられなかった。
彼女っぽかった。
そう言ってやりたかった。
実際、さっきまでの真華は楽しそうで、可愛くて、どうしようもなく彼女っぽかった。
でも、同時に怖かった。
俺の匂いの話をした時。
手首を見た時。
あれも真華だった。
「彼女っぽいかは、分からないけど」
「うん」
「楽しそうではあった」
真華は目を丸くした。
それから、少し照れたように笑った。
「うん。楽しかった」
その笑顔は本物に見えた。
少なくとも、俺にはそう見えた。
だから俺も、少しだけ笑えた。
「ならよかった」
「蓮くんは?」
「……楽しかったよ」
「ほんと?」
「ほんと」
真華の顔が明るくなる。
その反応が素直すぎて、胸の奥が変な感じになる。
可愛い。
怖い。
どっちも本当だった。
「じゃあ、また行こうね」
「替え玉は一回までな」
「二回」
「一回」
「じゃあ三回」
「だから増えてる!」
真華は楽しそうに笑った。
俺もつられて笑う。
たぶん、これでいい。
そう思いたかった。
怖いことはある。
分からないことも多い。
それでも、こうやって一緒にラーメンを食べて、くだらないことで言い合えるなら、まだ大丈夫なのかもしれない。
思おうとした。
駅前で別れる時、真華は手を振った。
「また明日ね、蓮くん!」
「ああ。また明日」
「ちゃんとご飯食べてね」
「お前に言われると変な感じだな」
「蓮くんが元気ないと、心配だから」
真華は少しだけ真面目な顔で言った。
その言葉に、俺はまた返事に詰まった。
心配。
普通の言葉だった。
普通の彼女が普通に言ってくれるような、優しい言葉だった。
でも、今日の真華はラーメンを食べながら俺の匂いを気にしていた。
食べても食べても、どこか満たされていないような目をしていた。
「……赤羽根も、ちゃんと食べろよ」
「うん!」
「いや、もう十分食べてるけど」
「明日も食べる!」
「元気だな!」
「元気だよ!」
真華は笑って手を振り、駅の方へ歩いていった。
俺はその背中をしばらく見送った。
赤い髪が人混みに紛れる。
それでも、彼女だけはすぐに分かった。
目立つから。
綺麗だから。
人間じゃないから。
理由はいくつもあった。
家に帰ると、母親に「遅かったわね」と言われた。
「友達とラーメン食べてた」
「友達?」
「……まあ、そんな感じ」
彼女、と言う勇気はなかった。
まして、その彼女が人間ではないとは言えない。
夕飯は普通だった。
テレビでは芸能人がクイズに答えていて、父親が答えを先に言い、母親が「またネタバレ」と文句を言っていた。俺は白米を食べながら、その普通さに少しだけ息が詰まった。
今日、俺は初デートをした。
ラーメンを食べた。
真華は楽しそうだった。
俺も楽しかった。
それは本当だ。
でも。
『蓮くんの匂い』
真華の声が、耳の奥に残っている。
食べ物を前にした時の明るい声ではなかった。
恋人に話しかける甘い声でもなかった。
もっと平らで、もっと近くて。
俺は箸を止めた。
「蓮?」
「……いや、何でもない」
夕飯を食べ終えて、自分の部屋に戻る。
ベッドに座り、スマホを見る。
真華からメッセージが来ていた。
『今日は楽しかった! 蓮くんとラーメン食べられて嬉しかった!』
続けて、もう一件。
『次は唐揚げも食べようね!』
さらに、もう一件。
『あと、蓮くんは食べないから安心して!』
俺はしばらく画面を見つめた。
それから、ゆっくり返信を打つ。
『だからそれを安心材料みたいに言うな』
すぐに返事が来た。
『えへへ』
笑っている絵文字がついていた。
俺はスマホを伏せて、天井を見上げた。
楽しかった。
それは本当だ。
赤羽根真華は明るくて、可愛くて、食いしん坊で、ラーメンを食べる時の顔は本当に幸せそうだった。
でも、たぶん。
あいつの食欲は、いつも同じ色をしているわけじゃない。
今日、俺はそれを少しだけ知った。