自分はアルクェイドさんです
第三話
赤羽根真華と付き合い始めて三日目。
俺は一つ、重大なことに気づいた。
彼女ができると、日常が変わる。
いや、そんなことは当たり前だ。
当たり前なのだが、俺の場合、変わり方が少しおかしい。
朝、スマホを見る。
『蓮くん、おはよう!』
ここまではいい。
『今日は普通の彼女っぽくするね!』
ここからがよくない。
普通の彼女。
その言葉を見た瞬間、俺はベッドの上で固まった。
普通の彼女とは何だ。
少なくとも、「今日は普通の彼女っぽくするね」と宣言する時点で、普通から少し遠ざかっている気がする。
いや、でも相手は真華だ。
赤羽根真華。
明るくて、食いしん坊で、ラーメン屋で替え玉を二回して、俺の匂いに反応して、昨日「蓮くんは食べないから安心して」と送ってきた俺の彼女。
普通の彼女。
無理では?
そんなことを考えていると、追加でメッセージが届いた。
『恋愛漫画で勉強したから大丈夫!』
「何が大丈夫なんだよ……」
思わず声に出た。
母親が廊下の向こうから「蓮、起きてる?」と聞いてくる。
「起きてる!」
俺は慌てて返事をしながら、スマホに返信した。
『無理はするな』
すぐに既読がついた。
『無理じゃないよ! 普通の彼女っぽくするだけだから!』
だから、それがすでに不安なんだ。
朝から嫌な予感しかしなかった。
学校に着くと、その予感はすぐに現実になった。
下駄箱で靴を履き替えていると、背後から明るい声が飛んできた。
「蓮くん!」
「声でかい!」
振り向くより先にツッコんだ。
振り向くと、そこには赤羽根真華がいた。
赤い髪をいつもより少し丁寧に整えて、制服もきっちりしている。リボンも曲がっていない。手には小さな紙袋を持っていて、なぜか妙に緊張した顔をしていた。
見た目だけなら、ものすごく清楚な美少女だった。
見た目だけなら。
「お、おはようございます、蓮くん」
「急に敬語!?」
「普通の彼女って、朝は丁寧に挨拶するって漫画に書いてあったから」
「それ本当に彼女か? 委員長とかじゃないのか?」
「えっ、違うの?」
「知らないけど、少なくとも昨日までの赤羽根ではない」
「今日は普通の彼女っぽくする日だから」
「普通って宣言してやるものじゃないと思うんだけどな……」
真華は真剣だった。
ものすごく真剣だった。
こういう顔をされると、強く否定しづらい。真華が人間らしい恋に憧れているのは、もう知っている。普通の彼女になりたいという気持ちも、多分本物だ。
だから余計に困る。
変だと言うのは簡単だ。
でも、真華にとっては大事なことなのだ。
「……まあ、いいけど」
「いいの?」
「無理しない範囲なら」
真華の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、蓮くん!」
「だから声でかい!」
「あっ、ごめんね」
真華は慌てて口元を押さえた。
その仕草は可愛かった。
可愛かったのだが、近くにいた生徒が何人かこっちを見ている。昨日の放課後から、俺は急に周囲の視線に敏感になった。
彼女ができるというのは、こんなにも精神を削るものなのか。
いや、たぶん俺の場合は相手が特殊すぎる。
「で、その紙袋は?」
「これ?」
真華は両手で紙袋を持ち直した。
「お弁当」
「……弁当?」
「うん。恋人にはお弁当を作るものなんだって」
「それも漫画情報か」
「うん!」
「自信満々だな」
「頑張ったから!」
真華は胸を張った。
その表情があまりに嬉しそうだったので、俺は少しだけ言葉を飲み込んだ。
作ってきてくれた。
俺のために。
そう考えると、普通に嬉しい。
嬉しいのだが、昨日のラーメン屋の件がある。
真華の「食べ物が関わる行動」は、だいたい普通の範囲に収まらない。
「……ちなみに、量は?」
「大丈夫だよ」
「何が?」
「ちゃんと蓮くんの分もあるから」
「不安が増えた」
「なんで!?」
真華は本気で驚いた顔をした。
俺は朝から少し疲れた。
教室に入ると、三井が俺を見るなりにやにやした。
「おはよう、彼女持ち」
「その呼び方やめろ」
「今日も赤羽根さんと一緒に登校?」
「たまたま下駄箱で会っただけだ」
「たまたまねえ」
「本当にたまたまだ!」
たぶん。
いや、真華のことだから待っていた可能性は普通にある。
俺が席につくと、三井が机に肘を置いて身を乗り出してきた。
「で、どうなの?」
「何が」
「付き合ってみて」
「三日目で感想を求めるな」
「いやー、赤羽根さんってすごいじゃん。美人だし明るいし、ちょっと変だけど」
「ちょっとで済むかな……」
「ん?」
「何でもない」
ちょっと変。
周囲から見ると、真華はそういう扱いらしい。
美人だけど食いしん坊。
明るいけど少し変。
力が強い気がするけど、まあそういう子。
それで済んでいる。
昨日、ラーメン屋で俺の手首を見た真華の目を、たぶん誰も知らない。
知っているのは俺だけだ。
そう思うと、少しだけ喉が乾いた。
授業が始まった。
一時間目は現代文だった。
教師が黒板に板書をして、生徒がノートを取る。
いつも通りの時間だ。
のはずだった。
教室の前方、斜め前の席に真華がいる。
今日は合同授業で、真華のクラスと一緒だった。
席は出席番号順で、偶然近くになった。
偶然だ。
たぶん。
真華は背筋を伸ばして座っていた。
いつもより真面目な顔でノートを取っている。
普通の彼女っぽくする、と言っていたけど、授業態度まで真面目になる必要はあるのか。
そう思っていると、真華がちらっとこちらを見た。
目が合う。
真華は少しだけ頬を赤くして、すぐにノートへ視線を戻した。
何だ今の。
可愛いな。
いや、駄目だ。
授業中だ。
集中しろ。
そう思ってノートに視線を戻した瞬間、前方から小さな音がした。
ぱきっ。
嫌な音だった。
ものすごく嫌な音だった。
真華の肩がぴくっと跳ねる。
俺はそっと前を見る。
真華の右手に握られていたシャープペンが、変な角度に曲がっていた。
曲がっていた、というか。
折れていた。
真華は固まっている。
俺も固まった。
黒板の前では教師が淡々と説明を続けている。周囲の生徒はまだ気づいていない。
真華がゆっくりこちらを見た。
目が合う。
赤い瞳が、「どうしよう」と言っていた。
俺は口だけを動かした。
何してんだ。
真華も口だけを動かした。
わかんない。
わかんないじゃない。
授業中なので声には出せない。
出せないが、顔にはたぶん全部出ていた。
真華は慌てて折れたシャープペンを筆箱にしまおうとした。だが、力が入ったのか、今度は筆箱のファスナーの金具が小さく歪んだ。
待て待て待て。
被害を広げるな。
真華の表情がさらに焦る。
赤い髪の一部が、ほんの少しだけふわりと揺れた。
風は吹いていない。
俺は咳払いをするふりをして、小さく言った。
「赤羽根、手」
「え?」
真華が小声で返す。
「力、抜け」
「あっ」
真華ははっとして、両手を膝の上に置いた。
折れたシャープペンは、筆箱の上に横たわっている。
ペンが死んだ。
俺はノートの端にそう書きそうになって、やめた。
授業が終わると同時に、真華が俺の席まで来た。
「蓮くん……」
「ペンは?」
「だめだった」
「だろうな」
「ごめんね」
「俺に謝ることじゃないけど、まあ……気をつけろ」
「うん……」
真華はしょんぼりしていた。
俺はため息をつきながら、自分の予備のシャープペンを渡す。
「ほら」
「え?」
「予備。使え」
「いいの?」
「折るなよ」
「折らない! 大事にする!」
真華は両手でシャープペンを受け取った。
その顔が、またものすごく嬉しそうだった。
普通にペンを貸しただけなのに。
そんな顔をされると、こっちまで変な気分になる。
「ありがとう、蓮くん」
「お、おう」
「大事にするね」
「そこまで重く受け取らなくていい」
「でも蓮くんがくれたから」
「貸しただけだ!」
声が少し大きくなり、周囲の生徒がこちらを見た。
真華は嬉しそうに笑っている。
俺は顔を逸らした。
やめろ。
その顔はずるい。
昼休みになった。
俺は弁当を持って、真華に連れられて中庭の端に向かった。
真華は朝から持っていた紙袋を大事そうに抱えている。
その姿だけ見れば、手作り弁当を持ってきた可愛い彼女だ。
問題は、中身だ。
ベンチに座ると、真華は少し緊張した顔で紙袋を開けた。
「蓮くん」
「はい」
「私、頑張ったよ」
「うん」
「普通の彼女っぽく、お弁当作った」
「うん」
「だから、見ても驚かないでね」
「その前置きが一番怖いんだけど」
真華は弁当箱を取り出した。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
「待て」
「なに?」
「何人分?」
「蓮くんと私の分」
「嘘だろ」
「本当だよ?」
「いやいやいや、普通の彼女は彼氏に弁当箱四つ持ってこない」
「でも蓮くん、男の子だからたくさん食べるかなって」
「男子高校生への信頼が厚すぎる」
真華は真剣な顔で首を傾げた。
「足りない?」
「多い!」
「あ、多いんだ」
「今ので足りないと思えるの、たぶんお前だけだ」
弁当箱の中身は、見た目だけならちゃんとしていた。
唐揚げ。
卵焼き。
鮭。
ハンバーグ。
野菜炒め。
おにぎり。
そしてなぜか小さなラーメンの具材セットみたいなもの。
「最後の何?」
「味玉」
「弁当に味玉入れるやつ初めて見た」
「蓮くん、ラーメン好きかなって」
「ラーメン屋に連れて行かれ続けてるだけで、そこまでラーメン中心に生きてない」
「そっか……」
真華が少ししょんぼりする。
しまった。
言い方が悪かったかもしれない。
「いや、でも、うまそうではある」
「ほんと?」
真華の顔が一瞬で明るくなった。
「ほんと。量はおかしいけど」
「量はおかしいんだ」
「そこは曲げられない」
「じゃあ、味は?」
「食べてから言う」
「うん!」
真華は箸を渡してくる。
俺は唐揚げを一つ口に運んだ。
普通にうまかった。
というか、かなりうまい。
「……うまい」
「ほんと!?」
「声でかい!」
「あっ、ごめんね。でもほんと?」
「ほんと。普通にうまい」
真華は両手を胸の前で握った。
「よかったぁ……」
その声があまりに嬉しそうで、俺は少しだけ照れた。
「そんなに心配だったのか」
「うん。蓮くんに食べてもらうから」
「……そ、そうか」
「彼女っぽい?」
真華が少し不安そうに聞いてくる。
俺は唐揚げを飲み込んでから、視線を逸らした。
「量以外は、まあ」
「量以外!」
「そこは認めろ」
「でも、彼女っぽい?」
「……ぽい」
「ほんと?」
「ぽいって言ってるだろ!」
真華は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、昨日のラーメン屋で感じた怖さが少しだけ薄れる。
この真華は怖くない。
俺のために弁当を作って、量を間違えて、褒められて嬉しそうにする女の子だ。
そう思った。
思いたかった。
昼休みの中庭は、ほどよく人がいた。
同じように弁当を食べている生徒たち。購買のパンを持って歩く生徒。木陰でスマホを見ている生徒。
俺と真華も、その中の一組に見えるのだろう。
普通の高校生のカップル。
そう見えているなら、それは少し嬉しい。
「蓮くん、卵焼きも食べて」
「食べるけど、そんなに詰めるな」
「いっぱいあるから」
「だから多いって言ってるだろ」
「蓮くん、ちゃんと食べないと元気出ないよ」
「母親か」
「彼女だよ」
真華は真顔で言った。
俺は箸を落としかけた。
「急にそういうこと言うな!」
「えっ、だめ?」
「だめじゃないけど、心の準備がいる!」
「また心の準備?」
「俺は色々と準備が必要なタイプなんだよ!」
真華は楽しそうに笑った。
その笑い声が中庭の空気に混ざる。
少しだけ、平和だった。
午後の授業も、真華は普通の彼女っぽく頑張っていた。
頑張り方が少し変だった。
廊下ですれ違う時、妙に上品に手を振ってくる。
こちらが反応すると、頬を赤くして嬉しそうにする。
でも嬉しすぎて、持っていたプリントをくしゃっと握りつぶす。
「紙が!」
「あっ」
「普通の彼女は配布プリントを握力で殺さない!」
「ごめんね!?」
放課後、俺は真華と一緒に昇降口へ向かっていた。
真華は朝より少し疲れた顔をしている。
ずっと普通の彼女をやろうとしていたせいだろう。
「……なあ、赤羽根」
「うん?」
「今日、一日頑張ってたけどさ」
「うん」
「普通の彼女っぽくするの、疲れないか?」
真華は少しだけ足を止めた。
赤い髪が肩から流れる。
夕方の光が、窓から差し込んでいた。
「疲れたかも」
「だろうな」
「でも、やってみたかったの」
「普通の彼女を?」
「うん」
真華は小さく頷いた。
「恋人って、こういうことするんでしょ? 朝に挨拶して、お弁当作って、授業中に目が合って、ちょっと照れて、放課後一緒に帰るの」
「まあ、そういうのもあるかもしれないけど」
「私、そういうの、やってみたかった」
声は明るかった。
でも、いつもの勢いとは少し違った。
「普通の女の子みたいでしょ?」
その言葉に、俺はすぐ返事ができなかった。
普通の女の子。
真華は昨日、校舎裏で赤い翼を出した。
ラーメン屋で俺の匂いに反応した。
今日、シャープペンを握り折って、プリントを握りつぶした。
普通ではない。
普通ではないのに、普通の女の子みたいになりたがっている。
そのことが、少し胸に引っかかった。
「……赤羽根」
「うん」
「無理して普通をやる必要はないんじゃないか」
真華が俺を見る。
赤い瞳が、静かに揺れた。
「でも、蓮くんは普通の彼女の方がいいでしょ?」
「いや、そもそも普通の彼女が何なのか、俺もよく分かってない」
「そうなの?」
「初彼女だし」
言ってから、自分で照れた。
何を正直に言っているんだ、俺は。
真華は目を丸くしたあと、ふわっと笑った。
「そっか」
「笑うな」
「笑ってないよ」
「笑ってるだろ」
「嬉しいだけ」
その言い方がまたずるい。
俺は視線を逸らした。
「とにかく、無理に漫画の真似とかしなくてもいいだろ」
「でも、蓮くんと恋人っぽいことしたい」
「それは……」
言葉に詰まる。
真華は少しだけ身を乗り出してくる。
近い。
近い近い。
「蓮くんは、したくない?」
「したくないとは言ってない!」
思わず声が出た。
真華がぱっと顔を明るくする。
「じゃあ、したい?」
「言わせるな!」
「えへへ」
「笑うな!」
俺の顔はたぶん赤かった。
真華も少し赤かった。
昇降口の窓から差し込む夕方の光が、真華の髪を赤く染める。
その色を見て、昨日の翼を少しだけ思い出した。
でも今、目の前の真華は楽しそうだった。
人間らしく恋をしたがっている、ただの女の子にも見えた。
「じゃあ、蓮くん」
「何」
「手、つないでもいい?」
真華が右手を差し出した。
俺はその手を見た。
白くて、細い手。
さっきシャープペンを折った手。
俺の腕を引っ張ったら、多分簡単に持っていける手。
でも、真華は今、こちらに許可を求めていた。
勝手に掴むのではなく、ちゃんと聞いてきた。
「……力加減」
「うん。気をつける」
「本当に」
「本当に」
「痛かったら言うからな」
「うん」
俺は、真華の手を取った。
温かかった。
真華の手が、きゅっと握り返してくる。
少し強い。
「強い強い強い!」
「あっ、ごめんね!」
「折れる! 手は折れる!」
「そんなに!?」
「人間の手は普通に折れる!」
「ごめん!」
真華は慌てて力を緩めた。
俺は息を吐く。
危なかった。
本当に危なかった。
でも、力を緩めた真華の手は、さっきよりずっと優しかった。
「これくらい?」
「ああ。これくらい」
「痛くない?」
「痛くない」
「よかった」
真華は安心したように笑った。
その笑顔を見て、俺はもう一度、手を握り直した。
今度は俺の方から。
真華の目が少しだけ大きくなる。
「蓮くん?」
「……帰るぞ」
「うん!」
真華の声が弾んだ。
それから二人で校門まで歩く。
夕方の校舎。
部活の声。
下校する生徒たち。
その中を、俺たちは手をつないで歩いた。
普通のカップルみたいに。
たぶん、外から見ればそう見えたと思う。
途中、真華が小さく言った。
「今日、私、普通の彼女っぽかった?」
俺は少し考えた。
シャープペンを折った。
弁当の量がおかしかった。
プリントを握りつぶした。
手を握る力で俺の骨が危なかった。
普通かと言われると、全然普通ではない。
でも。
「……まあ、赤羽根っぽかった」
「えっ」
「普通の彼女っぽいかは分からないけど、赤羽根っぽかった」
「それ、いいこと?」
「俺は、そっちの方がいいと思う」
真華は黙った。
少しだけ間が空いた。
握った手が、ほんの少しだけ震えた気がした。
「……そっか」
真華は小さく笑った。
「じゃあ、明日も赤羽根真華っぽくする」
「それはそれで不安だな」
「なんで!?」
「お前、自分が今日どれだけ物を壊したか覚えてるか?」
「……シャープペンと、プリント」
「あと俺の手が未遂」
「未遂!」
「未遂で済んでよかった」
「ごめんね!?」
真華が慌てる。
俺は少し笑った。
その時、風が吹いた。
真華の長い赤い髪がふわりと揺れる。
その髪の先が、一瞬だけ羽の形に見えた。
見間違いかもしれない。
でも俺は、真華の手を離さなかった。
ただ、握る力を少しだけ確かめた。
真華も、俺の手を強く握りすぎないように、慎重に指を添えていた。
普通ではない。
普通ではないけれど。
今日の真華は、俺のために普通の彼女になろうとしていた。
そのことだけは、たぶん本当だった。