赤い鳥は蛍を食べない   作:ゆゆゆい

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女教師、保健室の先生ってだけでなんかいいよねって話

呪術廻戦の家入硝子さんとか大好きです


保健室の白鷺先生

第四話

 

 赤羽根真華(あかばねしんか)と付き合い始めて、一週間ほど経った。

 

 その間に分かったことがいくつかある。

 

 真華は、駅前のラーメン屋の新メニューに異様に詳しい。

 コンビニの新商品にもやたら詳しい。

 俺の名前を呼ぶ時、まだ少し嬉しそうにする。

 手をつなぐ時は、毎回ものすごく慎重になる。

 

 そして、ここ数日、少しだけ無理をしている。

 

 最初は気のせいだと思った。

 

 廊下で俺を見つけても、前みたいに大きな声で「(れん)くん!」と呼ばなくなった。

 昼休みに購買へ行く回数が減った。

 放課後、ラーメン屋の話をしかけて、途中で口を閉じることが増えた。

 

 俺の隣を歩く時も、少し距離がある。

 

 近づきたいのを我慢している、というより、近づきすぎないように気を張っている感じだった。

 

 最初は、俺に気を遣っているだけだと思った。

 

 先週までの真華は、普通の彼女っぽくしようとして、シャープペンを握り折ったり、量のおかしい弁当を持ってきたり、俺の手を危うく未遂にしたりしていた。

 

 未遂。

 

 いや、何の未遂だよ。

 俺の骨だよ。

 

 そのことを気にしているのだろう、と。

 

 でも三日目あたりから、少し違う気がしてきた。

 

 真華は、ただ俺に気を遣っているだけじゃない。

 

 自分そのものを、少しずつ小さく畳もうとしている。

 

 そんなふうに見えた。

 

「蓮くん、おはよう」

 

 その朝、昇降口で真華は小さく手を振った。

 

 赤い髪はいつもより丁寧に整えられていて、制服のリボンもきちんと結ばれている。鞄も肩に大人しく収まっていて、両手には何も持っていない。

 

 見た目だけなら、清楚な美少女だった。

 

 いや、見た目だけなら、という言い方は失礼かもしれない。

 真華は元から美少女だ。そこは否定しない。

 

 ただ、あまりにも大人しい。

 

「……おはよう」

 

 俺が返すと、真華はほっとしたように笑った。

 

 その笑顔も、いつもより少し小さい。

 

「声、小さくない?」

 

「えっ」

 

 真華は口元を押さえた。

 

「前に、蓮くんに声が大きいって言われたから」

 

「言ったけど、毎朝お通夜みたいな声で挨拶しろとは言ってない」

 

「お通夜」

 

「いや、例えが悪かった! 悪かったけど、そういう意味じゃないんだよ」

 

 思わず声が出て、近くの生徒がちらっとこちらを見た。

 

 真華は肩を小さく跳ねさせる。

 

 しまった。

 

 怒ったつもりはなかった。

 いつもの調子でツッコんだだけだ。

 

 けれど最近の真華は、俺の声を妙にまっすぐ受け取る。紙の端に水が染みるみたいに、こちらの言葉がそのまま表情に出てしまう。

 

「悪い。怒ってるわけじゃない」

 

「うん、大丈夫」

 

 真華は笑った。

 

 大丈夫。

 

 その言葉を、この一週間で何度も聞いた。

 

 でも真華の大丈夫は、たいてい大丈夫ではない。

 

赤羽根(あかばね)、ここ数日ずっと変だぞ」

 

「変?」

 

「大人しい。いや、大人しいのは悪いことじゃないけど、なんか無理してるだろ」

 

 言葉を探しながら言うと、真華は赤い目を少し丸くした。

 

 それから、困ったように笑った。

 

「無理じゃないよ。私はちゃんと赤羽根真華っぽくしてるつもりだよ?」

 

「自分でそう言ってる時点で、だいぶ怪しい」

 

「そうかな」

 

「そうだよ。分かりやすいんだよ、お前」

 

 真華の指が、鞄の肩紐をきゅっと握った。

 

 いつもならここで、嬉しそうに「蓮くん、私のことよく見てるね」とか言いそうなものだ。

 俺が慌てて否定して、真華が笑って、朝からよく分からない疲れ方をする。

 

 でも、今日はそれがなかった。

 

「この前、楽しかったから」

 

 ぽつりと、真華が言った。

 

 昇降口のざわめきの中で、その声だけが妙に小さく聞こえた。

 

「お弁当とか、手をつなぐのとか、すごく楽しかった。でも、私、いろいろ壊したでしょ。シャープペンも、プリントも、蓮くんの手も……あ、手は壊してないけど」

 

「未遂だったな」

 

「未遂」

 

 真華は小さく笑った。

 

 けれど、すぐに視線を落とす。

 

「だから最近、ちゃんとしようと思って。大きい声も出さないし、近づきすぎないし、食べ物の話もしすぎないようにしてる」

 

「食べ物の話はしてもいいだろ」

 

「でも、普通の女の子はそんなに朝からラーメンのこと考えないでしょ?」

 

 その言葉に、返事が少し遅れた。

 

 普通の女の子。

 

 真華は最近、その言葉をよく使う。

 

 普通の彼女。

 普通の女の子。

 人間みたいに。

 

 最初は、少し空回りした可愛い努力に見えていた。

 

 でも今の真華は、可愛いだけでは済まなかった。自分の赤い髪も、強すぎる力も、食欲も、全部を少しずつ折り畳もうとしているみたいだった。

 

「……赤羽根」

 

「うん?」

 

「普通っぽくするために、赤羽根が赤羽根じゃなくなるのは違うだろ」

 

 言ったあとで、自分でも少し恥ずかしくなった。

 

 何を朝の昇降口で真面目なことを言っているんだ。

 しかも、言い方がうまくない。

 

 真華は一瞬だけ目を見開いた。

 

 そのあと、ほんの少しだけ頬を赤くした。

 

「蓮くん、そういうこと急に言う」

 

「お前に言われたくない」

 

「えへへ」

 

 笑った。

 

 ようやく、少しいつもの真華に近い笑い方だった。

 

 俺は少し安心して、靴を履き替える。

 

 けれど、その安心は昼休みまでもたなかった。

 

 真華は午前中、ずっと大人しかった。

 

 廊下ですれ違っても大きく手を振らない。

 授業中、目が合っても慌ててペンを握り折ったりしない。

 休み時間に購買の新作パンの話をしに来ることもない。

 

 普通だ。

 

 周りから見れば、たぶん最近の真華の方が普通なのだろう。

 

 でも俺には、それがどうにも落ち着かなかった。

 

 昼休み。

 

 真華が購買へ行かなかった時点で、俺はさすがに我慢できなくなった。

 

 教室にもいない。

 購買にもいない。

 食堂へ向かう人の流れの中にも、あの赤い髪は見当たらない。

 

 探している自分に気づいて、少しだけ顔が熱くなった。

 

 いや、違う。

 これは彼氏として心配しているだけだ。たぶん。たぶんでいいのか。

 

 校舎の端、中庭へ出る扉の近くまで来たところで、ようやく赤い髪を見つけた。

 

 真華は、自販機の横に立っていた。

 

 中庭の奥まった場所で、昼休みでも人は少ない。購買や食堂に向かう生徒たちの声は遠く、ここには紙パックの飲み物を買うやつがたまに来るくらいだった。

 

 真華は何も買っていなかった。

 

 ただ、自販機の前に立って、ぼんやりと商品ボタンを見ていた。

 

「赤羽根」

 

 声をかけると、真華はゆっくり振り返った。

 

 中庭の木漏れ日が赤い髪に落ちている。いつもならその色が派手に見えるのに、今日はどこか熱のない赤に見えた。

 

「購買、行かないのか?」

 

「今日は行かない」

 

「なんで」

 

「朝、ちゃんと食べてきたから」

 

「何を?」

 

「食パン二枚」

 

「少ない!」

 

 思わず声が出た。

 

 けれど、ここには廊下ほど人がいない。少し離れたベンチで弁当を食べている生徒が一人こちらを見ただけで、すぐに視線を戻した。

 

「いや、人間ならそれで足りるやつもいるかもしれないけど、お前は違うだろ。先週までの食事量を思い出せ」

 

「でも、普通の女の子は朝からいっぱい食べないかなって」

 

「普通の女の子を基準にする前に、自分の燃費を考えろ!」

 

「燃費」

 

「燃費だよ。お前、たぶん燃費悪いんだよ」

 

 真華は少し考えるように、自分のお腹に手を当てた。

 

 その仕草は可愛かった。

 

 でも、指先が微かに震えていた。

 

「大丈夫だよ」

 

「それ、ここ最近ずっと言ってる」

 

「そうかな」

 

「そうだよ。大丈夫って言いながら大丈夫じゃない顔するな」

 

 真華は困ったように笑った。

 

 中庭の向こうで、誰かの笑い声がした。

 昼休みの学校は普通に騒がしい。けれど自販機横のこの場所だけは、少し影になっているせいか、音が遠く感じた。

 

 そこまではまだ、いつものやり取りに近かった。

 

 けれど次の瞬間、真華の表情から笑みがふっと抜けた。

 

 赤い目が、俺を見る。

 

 いや、違う。

 

 俺の顔ではなく、俺の手元を見ていた。

 制服の袖口。少しだけ覗いた手首。そこに流れているもの。

 

 ラーメン屋で感じた寒気が、背中を撫でた。

 

「……赤羽根?」

 

 声が硬くなった。

 

 自分でも分かった。

 

 真華も、たぶん分かった。

 

 彼女ははっとしたように瞬きをして、慌てて顔を上げる。

 

「ごめんね」

 

「今の」

 

「ごめん。違うの。違う、違うから」

 

 真華は早口になった。

 

 でも、何が違うのかは言えないようだった。

 

 それが余計に怖かった。

 

「私、今日はちゃんとしてるから」

 

「ちゃんとしてるって、何を」

 

「人間みたいに」

 

 その言葉のあと、中庭の音が一瞬遠くなった。

 

 真華は自分で言った言葉に気づいていないのかもしれない。

 少なくとも、自分がどれだけ寂しいことを言ったかには気づいていない顔だった。

 

 それから、彼女の膝が少し揺れた。

 

「赤羽根!」

 

 反射で手を伸ばす。

 

 肩に触れた瞬間、真華の身体がこちらに傾いた。

 

 軽い。

 

 そう思った。

 

 でも違う。真華が軽いはずがない。

 彼女が力を抜いているだけだ。

 

「おい、大丈夫か!?」

 

「うん。ちょっと、お腹空いただけ」

 

「空いただけで倒れかけるな!」

 

「朝、食べたよ」

 

「食パン二枚はお前の中で食事に入れるな!」

 

「人間は食べるでしょ?」

 

「人間はな! お前は赤羽根真華だろ!」

 

 自販機の電子音が、間の悪いタイミングで鳴った。

 

 少し離れた場所にいた生徒がこちらを見た。

 けれど、真華は完全に倒れたわけではない。俺が支えたことで、ただ少しふらついたようにしか見えなかったのだろう。

 

 その視線も、すぐに外れた。

 

 俺は真華の肩を支えたまま、息を吐く。

 

 人間じゃないから、とは言えなかった。

 でも、人間と同じではないことは、もう分かっている。

 

 分かっているからこそ、そんな無茶をしてほしくなかった。

 

「保健室行くぞ」

 

「え、でも」

 

「でもじゃない。行くぞ。今のお前、明らかに大丈夫じゃないから」

 

 俺は真華の鞄を持ち、彼女の隣に立つ。

 

 支えようとして、少しだけ迷った。

 触れていいのか。どこまで近づいていいのか。さっきの視線を見たあとだから、余計に分からない。

 

 その迷いに、真華が気づいたかどうかは分からない。

 

 彼女は小さく笑った。

 

「ごめんね、蓮くん。重くない?」

 

「重くない。というか、こういう時だけ妙に弱るな。普段は標識くらい曲げそうなのに」

 

「標識はまだ曲げてないよ?」

 

「まだって何だよ!」

 

 ツッコみながら歩く。

 

 中庭から校舎へ戻る扉を開けると、ひんやりした廊下の空気が流れてきた。保健室はここからなら近い。人通りの少ない端の通路を選びながら、俺は真華の歩幅に合わせてゆっくり進んだ。

 

 そうでもしないと、不安が声に出そうだった。

 

 保健室は一階の端にある。

 

 扉の前に着くころには、真華の呼吸は少し落ち着いていた。けれど顔色はまだ悪い。赤い瞳も、いつもよりぼんやりしている。

 

 俺がノックしようとした時、中から声がした。

 

「どうぞ」

 

 柔らかい声だった。

 

 扉を開けると、消毒液と洗剤の匂いがした。

 

 白いカーテンが窓際で揺れている。棚には包帯や薬品の箱が並び、奥の机には書類がきれいに積まれていた。校舎のざわめきは扉一枚隔てただけで少し遠くなって、ここだけ昼休みから切り離されているみたいだった。

 

 机に座っていた白衣の女性が顔を上げる。

 

 白鷺乃々花(しらさぎののか)先生。

 

 保健室の先生だ。

 穏やかで話しやすい先生として知られている。俺はこれまであまり関わったことがなかったけれど、名前くらいは知っていた。

 

 白鷺先生は、最初に俺を見た。

 

 次に、真華を見た。

 

 その瞬間、先生の目がほんの少しだけ変わった。

 

 驚きではない。

 焦りでもない。

 

 もっと静かで、よく知っているものを確認するみたいな目だった。

 

「赤羽根さん」

 

 先生は立ち上がった。

 

「また無理をしたの?」

 

「……またじゃないです」

 

 真華は小さく返す。

 

 その声は、さっき中庭で俺に話していた時よりもさらに小さかった。

 

「今日はちょっとだけです」

 

「ちょっとだけ普通の人間みたいにしようとした?」

 

 真華が黙った。

 

 俺は先生を見る。

 

「先生、知ってるんですか」

 

 何を、と聞き返されるかと思った。

 

 でも先生は聞き返さなかった。

 

 棚から菓子パンと紙パックの牛乳を取り出し、ベッド脇の丸椅子に置く。動きに迷いがない。まるで、こういう時のために用意してあったみたいだった。

 

「赤羽根さん、まず食べて。話はそのあと」

 

「でも」

 

「でもじゃないよ。倒れかけた人がする返事じゃない」

 

 声は穏やかなのに、逆らいにくかった。

 

 真華は少しだけ唇を結んで、ベッドに腰かける。紙袋を開ける音が、保健室の中でやけにはっきり聞こえた。

 

 普段の真華なら、菓子パン一つくらいすぐ食べ終わる。

 

 でも今日は違った。

 

 袋を開ける指が少し遅い。

 口に運ぶ動きも、どこか遠慮がちだった。

 

 食べることが大好きな真華が、食べることにためらっている。

 

 それが、妙に嫌だった。

 

蛍原(ほとはら)くん」

 

「あ、はい」

 

「そこに座って。赤羽根さんが食べ終わったら、少し寝かせるから」

 

「俺、いていいんですか」

 

「赤羽根さんが嫌がらないなら」

 

 真華が菓子パンを口にしたまま、こくこく頷く。

 

 その仕草は少し可愛かった。

 

 可愛いと思った直後、こんな状況で何を思っているんだと自分で自分にツッコむ。俺の危機感は、どうも真華の前ではよく迷子になる。

 

 真華は菓子パンを食べ、牛乳を飲み、白鷺先生に言われるままベッドに横になった。

 

「寝なくても大丈夫です」

 

「寝て」

 

「でも」

 

「寝て」

 

 真華は小さく息を吐いた。

 

「……はい」

 

 先生の言葉は短かった。

 

 でも、そこに雑さはない。

 何度も同じことを繰り返してきた人の言い方に聞こえた。

 

 真華は布団をかぶり、少しだけこちらを見る。

 

「蓮くん」

 

「何?」

 

「ごめんね」

 

「謝るな。あと、次から朝飯はちゃんと食え。食パン二枚で足りるわけないだろ」

 

「普通の女の子っぽいかなって」

 

「普通の女の子を何だと思ってるんだ」

 

 真華は少しだけ笑った。

 

 それはようやく、今日見た中では自然な笑顔だった。

 

「おやすみ」

 

「ああ。寝ろ」

 

「うん」

 

 真華は目を閉じた。

 

 しばらくすると、呼吸がゆっくりになる。

 本当に眠ったらしい。

 

 眠った真華は、ただの女子高生に見えた。

 

 白い枕の上に赤い髪が広がっている。

 細い指が布団の端を軽く握っている。

 先ほどまで無理をしていた表情は、眠りの中で少しだけほどけていた。

 

 その姿を見ていると、校舎裏で見た赤い翼が嘘みたいに思える。

 

 でも、嘘ではない。

 

 俺は知っている。

 

 先生はカーテンを少しだけ引いた。

 

 完全には閉めない。

 真華の様子が見えるくらいの隙間を残して。

 

「蛍原くん」

 

 先生の声は柔らかかった。

 

 けれど、俺は少しだけ背筋を伸ばした。

 怒られる前のそれに近い。

 

「君は、赤羽根さんが人間ではないことを知っているんだね」

 

 やっぱり、と思った。

 

 驚きより先に、妙な納得があった。

 真華がこの先生の前で大人しくなる理由も、先生が菓子パンを渡す手際の良さも、全部そこにつながっていたのだと思う。

 

「……知ってます」

 

 声にすると、急に現実味が増した。

 

 赤羽根真華は人間ではない。

 俺の彼女は、人間ではない。

 

 たったそれだけのことなのに、口に出すと喉の奥がざらついた。

 

「いつ知ったの?」

 

「告白した時です」

 

 先生が一度だけ瞬きをした。

 

 その反応があまりに普通で、逆に俺は耐えられなくなった。

 

「いや、俺もおかしいとは思ってますよ。告白して、好きって言ってもらえて、そこまでは普通だったんです。でもそこから急に翼が出るし、人間も食べられるとか言われるし、蓮くんは食べないから安心してとか言われるし……普通、どうすればいいんですか、そんなの。俺、恋愛初心者なんですけど」

 

 途中から早口になっていた。

 

 格好悪い。

 でも止まらなかった。

 

 白鷺先生は笑わなかった。

 呆れもしなかった。

 

「困ったでしょう」

 

「困りましたよ!」

 

 声が大きくなって、慌ててベッドを見る。

 

 真華は眠ったままだった。

 カーテンの隙間から、静かな呼吸だけが聞こえる。

 

 先生は椅子を引いた。

 座りなさい、と言われたわけではないのに、俺は近くの丸椅子に腰を下ろしていた。

 

「私は、怪異の専門家じゃないよ。退治もできないし、全部を知っているわけでもない。ただ、昔少しだけそういうものに関わったことがあって、それから普通の人より少しだけ気づきやすくなった」

 

 先生は自分の指先を見た。

 

 白衣の袖口から覗く手は、普通の人間のものだった。

 真華みたいに何かを壊せそうな力は感じない。

 

「だから私にできるのは、学校の中で様子を見ることくらい。赤羽根さんが危ない時に声をかけることくらい。君に、逃げる選択肢もあると伝えることくらい」

 

「逃げるって」

 

 言葉が喉で引っかかった。

 

 逃げる。

 

 それは、たぶん一番正しい選択肢だ。

 

 真華の翼を見た時。

 ラーメン屋で手首を見られた時。

 今日、中庭で真華の視線が落ちた時。

 

 そのたびに、逃げた方がいいという考えはどこかにあった。

 

 でも、そのたびに真華の笑顔も思い出してしまう。

 

 ラーメンを食べて嬉しそうにする顔。

 弁当を褒められて、ぱっと明るくなった顔。

 さっき、俺の前で無理に大丈夫と言った顔。

 

「赤羽根さんはね」

 

 先生は、真華の眠るベッドへ目を向けた。

 

「恋人らしいことにこだわるでしょう」

 

 この一週間の真華が浮かんだ。

 

 普通の彼女っぽくするね、と言って、やたら丁寧に挨拶してきた朝。

 折れたシャープペン。

 量のおかしい弁当。

 彼女っぽい? と不安そうに聞いてきた赤い目。

 

「……はい」

 

「あの子にとって、それは遊びじゃないんだと思う。手をつなぐことも、名前で呼ばれることも、一緒に帰ることも。そういう一つ一つが、自分は化け物じゃなくて、普通の女の子みたいにここにいてもいいんだと確かめるためのものなんじゃないかな」

 

 先生の言葉は、ゆっくりだった。

 

 優しいのに、逃げ場がない。

 俺の中で、この一週間の真華の言動が一つずつ別の形に組み替わっていく。

 

 普通の彼女っぽくするね。

 

 そう言って笑った真華の顔。

 うまくできなくて、物を壊して、それでも俺に褒められた時だけ本当に嬉しそうに笑った顔。

 

 あれは、ただ恋愛漫画の真似をして浮かれていただけじゃなかったのかもしれない。

 

「でもね、蛍原くん」

 

 白鷺先生の声が、少しだけ低くなった。

 

 その声だけで、保健室の温度が下がった気がした。

 

「赤羽根さんは、人間じゃない」

 

 分かっている。

 

 そう言いたかった。

 

 けれど、口は動かなかった。

 

「人間のふりをしている化け物だよ。どれだけ人間らしく笑っても、制服を着て学校に通っても、恋人みたいに手をつないでも、その事実は変わらない」

 

 責める言い方ではなかった。

 

 だから余計にきつかった。

 怒鳴られた方がまだ反発できたかもしれない。けれど先生は、ただそこにあるものを指差すみたいに言っただけだった。

 

「……それ、真華にも言うんですか」

 

 気づけば、そんなことを聞いていた。

 

 先生はベッドの方へ目を向ける。

 真華の赤い髪が、白い枕の上で少しだけ揺れていた。窓の隙間から入った風のせいかもしれない。けれど一瞬、羽がほどけたようにも見えた。

 

「赤羽根さんは、たぶん誰よりも知っているよ。自分が人間じゃないことを」

 

 先生は、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

「だからこそ、人間みたいに振る舞うんだと思う」

 

 胸の奥が嫌な感じに詰まった。

 

 真華は明るい。

 食いしん坊で、よく笑って、俺を振り回して、普通の彼女になろうとして、失敗して、また笑う。

 

 その全部が、急に痛々しく見えた。

 

「君が赤羽根さんを好きなのは、否定しないよ」

 

 先生はこちらを見る。

 

 目は穏やかだった。

 でも、俺が視線を逸らすことを許さない強さがあった。

 

「でも、好きだから大丈夫、なんてことはない。赤羽根さんが君を好きなのは、たぶん本当。けれど同じくらい、君を食べたいのかもしれない」

 

 ラーメン屋での真華の目を思い出した。

 

 俺の手首を見た、一瞬の視線。

 食べ物を見ている時とは違う、平らな目。

 

 喉が鳴った。

 

「……先生は、真華のことを危ないって思ってるんですか」

 

 聞いてから、少し後悔した。

 

 答えは分かっていた。

 

 先生はすぐには答えなかった。

 真華の布団の端を直し、少し乱れた赤い髪を指で避ける。その手つきは優しかった。だから、次の言葉が余計に重く聞こえた。

 

「思ってるよ」

 

 短い返事だった。

 

「でも、かわいそうな子だとも思ってる。危ないから悪い子、とも言い切れない。かわいそうだから安全、とも言えない。赤羽根さんは、そういう子だよ」

 

 何も言い返せなかった。

 

 真華をかばいたい気持ちはあった。

 でも、この一週間ずっと俺の中にある怖さが、先生の言葉を否定させてくれなかった。

 

「人間と怪異は、同じ場所に立っているようで同じではないの。人間が愛情だと思う距離が、赤羽根さんには食欲の距離になることがある。君が恋人として差し出した手を、あの子は恋人の手として握ろうとするかもしれないし、逃がしたくないものとして掴んでしまうかもしれない」

 

 先生の言葉は静かだった。

 

 だから、想像してしまった。

 

 この前の手つなぎ。

 少し強すぎた真華の手。

 俺が痛いと言って、慌てて緩めた指。

 

 あれが、もし緩まなかったら。

 

 考えたくなくて、俺は膝の上で手を握った。

 

「怖いなら、怖いと言いなさい」

 

 先生は言った。

 

「……それを言ったら、傷つけるかもしれないじゃないですか」

 

「言わなければ、もっと傷つけるかもしれないよ」

 

 その言葉は、静かに落ちた。

 

 大きな音はしなかった。

 でも、胸の奥で何かが沈む感覚があった。

 

「怖くないふりをして近くにいるのは、君にも赤羽根さんにもよくない。逃げるなら、早い方がいい。残るなら、怖いまま残りなさい」

 

 怖いまま。

 

 その言葉だけが、妙に残った。

 

 俺はベッドの上の真華を見る。

 

 真華は眠っている。

 普通の女の子みたいに。

 

 でも、普通の女の子ではない。

 

 そしてたぶん、それを一番嫌がっているのは、真華自身だった。

 

「……難しすぎるだろ」

 

 思わず呟いた。

 

 先生がこちらを見る。

 

「俺、告白してからまだ一週間くらいなんですけど。初彼女なんですけど。なんでいきなり、彼女が人間じゃないとか、怖いなら怖いと言えとか、食べたいかもしれないとか、そんな話になってるんですか」

 

「大変だね」

 

「他人事!」

 

「他人事ではないけど、君の恋愛だから」

 

 穏やかに言われて、俺は頭を抱えたくなった。

 

 正論だった。

 正論なのだが、もう少し手心がほしい。

 

 先生は、少しだけ声を柔らかくした。

 

「でも、君が混乱しているのは間違ってないよ。怖いのも、間違ってない。それでも残るなら、怖いまま残りなさい。怖くないふりをするより、その方がずっとましだと思う」

 

 保健室のカーテンが揺れた。

 

 その向こうで、真華が小さく寝返りを打つ。

 

 会話はそこで途切れた。

 

 しばらくして、真華が目を覚ました。

 

 カーテンの隙間から、赤い目がぼんやりとこちらを見た。

 

「……蓮くん?」

 

「起きたか」

 

「うん。寝てた?」

 

「寝てた。わりとしっかり」

 

「ごめんね」

 

「だから謝るな。倒れかけたんだから寝て当然だろ」

 

 真華は布団の中で少しだけ身を縮める。

 

 白鷺先生が体温計を持って近づいた。

 

「赤羽根さん、今日みたいなことはもうやめようね」

 

「……はい」

 

「人間みたいな食事量にしたら、人間になれるわけじゃないよ」

 

 真華の表情が固まった。

 

 俺も息を止めた。

 

 先生の声は穏やかだった。

 でも、逃げ道はなかった。

 

「あなたはあなたの身体で生きているんだから」

 

 真華は布団の端を握る。

 

 指先に力が入って、白い布に小さなしわが寄った。

 

「……でも」

 

「うん」

 

「普通の女の子みたいにしたかっただけです」

 

 声が小さかった。

 

 駄々をこねているわけではない。

 言い訳でもない。

 

 真華は本当に、それだけを願っているように見えた。

 

 白鷺先生はすぐには答えなかった。

 

 少し間を置いて、真華の布団を整える。

 

「それは悪いことじゃないよ」

 

 真華が少しだけ顔を上げる。

 

「でも、あなたが壊れたら意味がない。赤羽根さんが赤羽根さんのまま、何を選べるかを考えようね」

 

 真華は何も言わなかった。

 

 その横顔は、少し子供みたいだった。

 

 俺も何を言えばいいのか分からないまま、ただそこに立っていた。

 

 放課後。

 

 真華は保健室を出られるくらいには回復した。

 

 白鷺先生から「今日は寄り道しないで帰ること」と言われ、真華は少しだけ残念そうにした。

 

 俺たちは校門まで並んで歩いた。

 

 いつもより少し静かだった。

 

 真華は俺の隣にいる。

 けれど、朝と同じように少し距離を取っている。近づきすぎないように、食べ物の話をしすぎないように、声を大きくしすぎないように、自分を一つずつ抑えているのが分かった。

 

 それが、どうにも落ち着かなかった。

 

「赤羽根」

 

「うん?」

 

「明日は、ちゃんと朝飯食えよ。食パン二枚とかじゃなくて、ちゃんとお前が足りる量」

 

「うん」

 

「あと、普通の女の子っぽくとか言って無理するな」

 

「……うん」

 

 真華は小さく頷いた。

 

 夕方の光が、彼女の赤い髪を照らしている。

 その髪の先が、また羽みたいに見えた。

 

 俺は一瞬、言葉を探した。

 

 先生に言われたことが頭をよぎる。

 

 怖いなら、怖いって言いなさい。

 

 今はまだ、言えなかった。

 

 代わりに、別の言葉が口から出た。

 

「別に、赤羽根が赤羽根っぽくしてる方が、俺は見てて楽だし」

 

 真華が目を丸くした。

 

「……そうなの?」

 

「そうなの」

 

「大きい声出しても?」

 

「限度はある」

 

「いっぱい食べても?」

 

「それはむしろ食え。食べないで倒れる方が困る」

 

 真華は少しだけ瞬きをした。

 

「いいの?」

 

「いいのって何だよ。お前が食べるの好きなの、俺は知ってるだろ。明らかに無理して食べてる時とか、食べても目が落ち着いてない時は止めるかもしれないけど、普通に腹が減ってるなら食え」

 

「……蓮くん」

 

「ただし、俺の分まで食べるな。前みたいに俺のチャーシューまで狙うのはなしだ」

 

 真華の口元が、少しだけ緩んだ。

 

 今日一日で、一番いつもの笑顔に近かった。

 

「じゃあ明日は、ちゃんと食べる」

 

「それがいい」

 

「ラーメンでもいい?」

 

「先生に今日はなしって言われただろ」

 

「明日」

 

「明日なら、まあ」

 

「替え玉してもいい?」

 

 真華は、少しだけ様子をうかがうように聞いてきた。

 

 いつもの勢いで「三回!」と言わないあたり、まだどこか遠慮しているのが分かった。

 

「食べたいなら食べればいいだろ」

 

「ほんと?」

 

「赤羽根が腹減ってるの我慢して倒れる方が嫌だ。ただ、さっきも言ったけど、無理して食べてる時は止めるからな」

 

「無理して食べることなんてないよ?」

 

「この一週間、普通の女の子っぽくするために食べるの我慢してたやつが何か言ってる」

 

「あう」

 

「だから普通に食え。普通に。赤羽根の普通で」

 

 真華は、少しだけ目を丸くした。

 

 それから、ゆっくり笑った。

 

「……うん。じゃあ、ちゃんと食べる」

 

「ああ」

 

「蓮くんの分も食べる?」

 

「それは俺に食わせろ」

 

 真華は笑った。

 

 夕焼けの中で、赤い髪が揺れる。

 

 普通の女の子みたいだった。

 

 でも、普通の女の子ではなかった。

 

 そして、それを一番嫌がっているのは、たぶん真華自身だった。

 




ちなみに真華ちゃんはあんまり野菜とか食べません

大好物はお肉で、ラーメンは人間らしくある為のご飯らしいです

「ラーメンって好きな人が多いし、普通の人間は毎日お肉は食べないよね?え?ラーメンも毎日は食べないの!?」
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