赤い鳥は蛍を食べない   作:ゆゆゆい

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映画館でポップコーンを買うといつも食べきれません、音が出てるんじゃないかと思って食べ進められないんですよね

超かぐや姫!を見に行った時は普通に面白くて食べるのを忘れてましたが


前の人たち

第六話

 神社に入れなかった日から、三日ほど経った。

 

 真華(しんか)は、いつも通りに見えた。

 

 朝は少し大きめの声で俺を呼ぶようになったし、昼休みには購買の新作パンについて嬉しそうに話した。放課後に「今日はラーメンじゃなくてうどんもいいと思う」と言い出して、結局ラーメンの話に戻るくらいには元気だった。

 

 ただ、鳥居の話だけはしなかった。

 

 俺も、しなかった。

 

 あの赤い鳥居の前で急に風が止まったこと。

 真華が一歩も進めなくなったこと。

 そこに入る資格が、最初から真華にはないみたいに感じたこと。

 

 忘れたわけではない。

 

 むしろ、ふとした時に思い出す。

 

 教室の窓から夕方の光が差し込んだ時。

 廊下の掲示板に貼られた神社の祭りのポスターを見た時。

 真華の赤い髪が、風もないのに少し揺れた時。

 

 あの瞬間だけ、普通の放課後に薄い切れ目が入る。

 

 そこから、真華が人間ではないことが見える。

 

 見たくなくても、見えてしまう。

 

(れん)くん」

 

 放課後の教室で、真華が俺の机の前に立った。

 

 珍しく、手には何も持っていなかった。

 

 パンもない。

 コンビニ袋もない。

 購買の新作を布教する時の、あの妙な圧もない。

 

 その代わり、鞄の肩紐を両手で握っている。

 

 いつもの真華なら、俺の机に身を乗り出して「駅前に新作ラーメンが」だの「コンビニの肉まんが」だの、こちらが返事をする前に話を始める。

 

 でも今日は、少しだけ違った。

 

 机一つ分の距離を残して、真華は俺を見る。

 赤い目は明るい。けれど、指先だけが落ち着かない。

 

「今日、時間ある?」

 

 声は控えめだった。

 

 俺は教科書を鞄にしまいながら、真華の手元を見る。肩紐が少しねじれていた。握る力が強いのだ。

 

「あるけど。ラーメンなら昨日行ったばかりだぞ」

 

「今日はラーメンじゃないよ。蓮くん、私が毎日ラーメンのことしか考えてないと思ってるでしょ」

 

「違うのか?」

 

「違うよ。ちゃんと、ラーメン以外のことも考えてるよ」

 

 真華は少しだけ胸を張った。

 

 その顔が、何かを褒められる前の子どもみたいで、嫌な予感と可愛さが同時に来る。

 

「じゃあ、うどんか」

 

「食べ物から離れてってば」

 

「お前がそれを言うのか」

 

「私だって、食べ物以外の恋人っぽいことを考える日くらいあるよ。……というか、今日はそっちの方が大事」

 

 最後だけ、少し声が小さくなった。

 

 真華は視線を落として、肩紐を握り直す。

 夕方の光が、教室の床を斜めに照らしている。机の影が長く伸びて、誰もいなくなり始めた教室に、椅子を引く音だけがぽつぽつ残っていた。

 

「映画を観に行こうと思って」

 

「映画?」

 

「うん。恋愛映画。駅前の映画館で今日までやってるやつ」

 

 恋愛映画。

 

 その単語を聞いた瞬間、薄暗い座席とポップコーンの匂いと、隣に座る真華の横顔が頭に浮かんだ。

 

 落ち着かない。

 

 映画館で隣同士。

 恋愛映画。

 スクリーンの中ではたぶん、手をつないだり、告白したり、夕焼けの中でいい感じのことを言ったりする。

 

 想像しただけで、少し背中がむず痒くなった。

 

 ただ、真華は浮かれているだけではなかった。照れているというより、どこか確かめるような顔をしている。

 

「神社、できなかったから」

 

 ぽつりと、真華が言った。

 

 それで、少しだけ分かった。

 

 鳥居の向こうへ行けなかったことを、真華はまだ引きずっている。

 あれを失敗として、胸の中で抱えたままにしている。

 

「映画なら、座ってるだけでいいでしょ。鳥居もないし、作法も間違えないし、たぶん変なことにもならない。だから……失敗しにくいかなって」

 

 真華は笑った。

 

 冗談みたいな声だった。

 

 でも、指はまだ肩紐を握っている。

 

 その言い方が、妙に嫌だった。

 

 デートを楽しみにしている顔なのに、どこかで失敗を数えている。

 

 普通の恋人みたいなことをしたいのに、普通にできないことを先に考えている。

 

「……行くか」

 

 俺が言うと、真華は一拍遅れて目を丸くした。

 

「いいの?」

 

「時間あるって言っただろ」

 

「でも、恋愛映画だよ。蓮くん、こういうの苦手かなって思ってた」

 

「苦手かどうかで言えば、かなり苦手だと思う」

 

「じゃあ……」

 

「でも、行かない理由にはならないだろ」

 

 言ったあとで、少しだけ恥ずかしくなった。

 

 真華は、じっと俺を見ている。

 

 何か言いたそうに口を開いて、でもすぐには言わなかった。代わりに、胸の前で握っていた肩紐が、ゆっくり緩む。

 

「……そういうこと、急に言う」

 

「お前に言われたくない」

 

「うん」

 

 真華は小さく笑った。

 

 嬉しそうだった。

 

 でも、いつものように大きく跳ねる感じではない。

 大事なものを落とさないように、両手でそっと持っているみたいな笑い方だった。

 

「映画の前に、ポップコーン食べてもいい?」

 

「映画館なんだから食えよ」

 

「大きいサイズでも?」

 

「食べきれるなら」

 

「蓮くんも食べる?」

 

「俺の分を残す気があるなら」

 

「あるよ」

 

 真華はそこで少し間を置いた。

 

「……ちょっとは」

 

「ちょっとかよ」

 

「だって、映画館のポップコーンって特別でしょ。普通のポップコーンとは違うよ。映画館の匂いがするし、暗いところで食べるし、蓮くんと分けるし」

 

「最後だけ急に恋人要素を混ぜるな」

 

「大事だから」

 

 真華が笑った。

 

 その笑い方が、ようやくいつもの真華に近かったので、俺も少しだけ肩の力を抜いた。

 

 映画館は駅前のショッピングモールの上にあった。

 

 平日の夕方だからか、館内はそこまで混んでいない。学校帰りの高校生や、買い物ついでの親子連れがちらほらいる程度だ。

 

 エスカレーターを上ると、甘い匂いがした。

 

 キャラメルポップコーンの匂いだ。

 バターの匂いも混ざっている。映画館に来た、という感じのする匂いだった。

 

 真華の足が、ぴたりと止まる。

 

 赤い目が、分かりやすく売店へ吸い寄せられた。

 

 さっきまで恋愛映画の話をしていた彼女は、もう完全に売店に心を奪われている。

 

「蓮くん」

 

「分かってる。買うから突撃するな」

 

「突撃しないよ。映画館では静かにするって決めてるから」

 

 そう言いながら、真華の身体は半歩だけ売店側に傾いていた。

 

「心だけ先に行ってるぞ」

 

「心は止められないよ。ポップコーンの匂いがするんだよ?」

 

「匂いにそんな説得力を持たせるな」

 

「あるよ。匂いには力があるよ」

 

 さらっと言われて、少しだけ返事に詰まった。

 

 真華にとっての匂いは、俺とはたぶん意味が違う。

 美味しそう、だけでは済まない時がある。

 

 けれど今の真華は、ただ売店を見て目を輝かせているだけだった。

 

 俺はその普通さに乗っかることにした。

 

「身体も止まってないんだよな」

 

「止めてるよ。ほら、ちゃんと並んでる」

 

「偉い偉い」

 

「子ども扱いされた」

 

「ポップコーン売り場で前のめりになってるやつは大体子ども扱いだ」

 

 真華は少し不満そうに頬を膨らませた。

 

 列に並ぶと、前にいた小学生くらいの男の子が、大きなポップコーンを抱えて嬉しそうにしていた。

 

 真華はそれを見て、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。

 

「蓮くん」

 

「何」

 

「あれ、大きいね」

 

「そうだな」

 

「二人で食べるサイズかな」

 

「たぶん家族で食べるサイズだな」

 

「私たちも二人だよ」

 

「家族じゃなくて恋人だろ」

 

 言ってから、少し遅れて自分の言葉に気づいた。

 

 真華も気づいたらしい。

 

 赤い目が、ぱちりと瞬く。

 

「……恋人」

 

「復唱するな」

 

「蓮くんが言った」

 

「言ったけど、そんな大事そうに持つな」

 

「大事だよ。蓮くんが普通に言ったから、余計に大事」

 

 真華は小さく笑った。

 

 その笑い方が、ポップコーンを前にしている時の顔なのか、恋人と言われた時の顔なのか、少し分からなかった。

 

 たぶん、両方だ。

 

 俺はメニュー表を見るふりをして、少しだけ視線を逸らした。

 

「塩とキャラメル、どっちがいいと思う?」

 

「俺は塩」

 

「私はキャラメル」

 

「じゃあ二つ買えばいいだろ」

 

「天才?」

 

「この程度で天才扱いされるの怖いな」

 

「でも、二つ買うと恋人っぽく分け合えるよね。蓮くんが塩で、私がキャラメル。でも途中で交換するの。こういうの、映画館デートっぽい」

 

「それはまあ、恋人っぽいかもしれない」

 

 真華はぱっと笑った。

 

「今、蓮くんも認めた」

 

「認めたけど、そんな勝訴みたいな顔するな」

 

「勝った」

 

「何にだよ」

 

 真華は嬉しそうに二種類のポップコーンを買った。

 

 大きいサイズだった。

 

 いや、大きいサイズ二つだった。

 

「……食べきれるのか?」

 

「映画一本あるよ?」

 

「時間の問題じゃないんだよ」

 

「大丈夫。映画に集中しながら食べるから」

 

「むしろ集中できるのかそれ」

 

「できるよ。恋愛映画もポップコーンも、どっちも大事だから」

 

 真華は両手でポップコーンを持って、少しだけ得意そうに歩いた。

 

 薄暗い通路。

 床に引かれた小さなライト。

 スクリーン前に流れる予告映像。

 

 座席に座ると、真華は嬉しそうに左右のポップコーンを膝の上に置いた。

 

 肘置き越しに、制服の袖が少しだけ触れそうになる。

 

 真華はそれに気づいて、ほんの少しだけ肩を引いた。

 俺も気づかないふりをした。

 

 でも、気づいていた。

 

 たぶん真華も、気づかないふりをしていることに気づいていた。

 

「……恋人っぽい」

 

 真華が小さく言った。

 

 いつものように元気よく言うのではなく、暗がりに落とすみたいな声だった。

 

「ポップコーン二つ抱えてる彼女はそこまで多くないと思う」

 

「じゃあ赤羽根真華っぽい?」

 

「そっちだな」

 

「それも好き」

 

 真華は満足そうに頷いた。

 

 それから、キャラメルの方を一つ摘まんで、俺の方へ差し出してくる。

 

「はい」

 

「自分で食べないのか?」

 

「一個目は蓮くんにあげる」

 

「何で」

 

「蓮くんが先に食べたら、私も同じ味を追いかけられるでしょ。そういうの、ちょっといいなって思ったの」

 

 言われて、なぜか少し恥ずかしくなった。

 

 ポップコーン一粒で何を言っているんだ。

 

 でも、真華は真面目だった。

 

 俺は観念して、その一粒を受け取った。

 

「甘い」

 

「キャラメルだからね」

 

「それはそう」

 

 真華は嬉しそうに笑って、自分も一粒食べた。

 

 頬が少しだけ緩む。

 

「……おいしい」

 

 その顔は、本当に幸せそうだった。

 

 こんなことでそんな顔をするのかと思う。

 でも、そんな顔を見ていると、こっちまで少しだけ気が抜ける。

 

 映画が始まった。

 

 内容は、普通の恋愛映画だった。

 

 幼なじみの二人がすれ違って、卒業前に気持ちを伝えようとする話。

 派手な事件はない。怪異も出ない。鳥居に弾かれることもない。食欲で恋人を見てしまうヒロインもいない。

 

 本当に普通の映画だった。

 

 だからこそ、途中から妙に落ち着かなかった。

 

 スクリーンの中の二人は、人間同士だ。

 

 手をつなぐ。

 一緒に帰る。

 同じものを食べる。

 夕焼けの河川敷で、好きだと言う。

 

 全部、普通にできる。

 

 当たり前みたいに。

 

 真華は隣で映画を見ていた。

 

 最初のうちは、ポップコーンを食べる手が忙しかった。塩を食べて、キャラメルを食べて、時々俺の方へ容器を少し傾ける。俺が食べると、真華は小さく満足そうに頷いた。

 

 映画館の暗がりの中で、そんなやり取りをしていると、少しだけ普通の高校生になれた気がした。

 

 いや、俺は普通の高校生だ。

 

 問題は隣にいる彼女の方で。

 

 その彼女も、今だけは普通に映画を観て、普通にポップコーンを食べて、普通に隣で笑っている。

 

 そう思いたかった。

 

 映画の終盤。

 

 主人公たちが夕方の橋の上で向き合う場面になった。

 

 風が吹いて、ヒロインの髪が揺れる。

 主人公が手を伸ばす。

 ヒロインは少し迷って、それから手を取る。

 

 普通の恋愛映画なら、ここで胸が温かくなるところなのだろう。

 

 でも、隣の真華の手が止まった。

 

 キャラメルポップコーンを摘まんだ指が、容器の上で浮いたままになる。

 

 俺は横目で見る。

 

 スクリーンの光が、真華の横顔を青白く照らしていた。

 

 赤い髪が暗がりに沈んでいる。

 

 真華は、笑っていなかった。

 

 泣いてもいない。

 

 ただ、スクリーンの中の夕焼けを見ていた。

 

 映画館の中は静かだ。

 周りの客はスクリーンを見ている。

 

 音楽が盛り上がる。

 

 スクリーンの中で、二人が手をつなぐ。

 

 真華の指から、ポップコーンが一粒落ちた。

 

 容器の中に戻っただけの、小さな音だった。

 

 けれど俺には、やけに大きく聞こえた。

 

 映画が終わって、館内の照明がゆっくり明るくなった。

 

 周りの客が立ち上がる。

 椅子の背が戻る音。紙コップの氷が鳴る音。誰かが小さく「よかったね」と言う声。

 

 普通の映画終わりのざわめきだった。

 

 真華も立ち上がった。

 

「面白かったね。最後の橋のところ、すごく綺麗だった。ああいうところで好きって言うの、きっと一生覚えてるんだろうなって思った」

 

 声は明るかった。

 

 明るすぎるくらいだった。

 

 膝の上には、キャラメルポップコーンが半分以上残っている。

 

 俺はそれを見た。

 

 真華が映画館でポップコーンを残す。

 

 それは、非常ベルほど分かりやすい異常ではない。

 でも俺にとっては、かなり大きな異常だった。

 

「……赤羽根」

 

「食べる?」

 

「いや」

 

 真華は容器を少し持ち上げた。

 

 いつもの調子なら、ここで「蓮くんの分もあるよ」と笑う。

 でも今の真華は、そう言う前に少しだけ手を止めた。

 

 ポップコーンの甘い匂いが、明るくなったシアターにまだ残っている。

 

 その匂いだけが浮いていた。

 

「……どうした」

 

「何でもないよ。ちょっと、映画をちゃんと観てただけ」

 

「お前がポップコーンを半分以上残して?」

 

 真華は困ったように笑った。

 

「蓮くん、そこ見るんだ」

 

「見るだろ。お前が映画館でポップコーン残すの、俺からするとかなりの異常事態なんだよ」

 

「異常事態」

 

「少なくとも、店員さんに報告するか迷うレベル」

 

「それは迷わないで」

 

 真華は少し笑った。

 

 でも、笑ったあとに、容器の中へ視線を落とす。

 キャラメルの粒が、照明を受けて少しだけ光っていた。

 

「……あとで食べるね。もったいないから」

 

 その声は、さっきより少し小さかった。

 

 モールの外へ出ると、空は夕焼けだった。

 

 ビルの隙間に赤い光が沈んでいる。

 ガラス張りの壁に、駅前を歩く人たちの影が長く伸びて映っていた。

 

 真華が立ち止まった。

 

 何かにぶつかったような止まり方ではない。

 ただ、歩くことを一瞬忘れたみたいに、足がそこで止まった。

 

 赤い髪が、夕焼けの中でいつもより濃く見える。

 

 その髪の先が、ふわりと揺れた。

 

 風はあった。

 けれど、その揺れだけが風と少し合っていないように見えた。

 

「……似てる」

 

 真華が言った。

 

 誰に向けた言葉でもなかった。

 

「何が」

 

 聞くと、真華は少し遅れて瞬きをした。

 

 自分が声を出したことに、今気づいたような顔だった。

 

「分かんない」

 

 笑う。

 

 でも、目は夕焼けから戻ってこない。

 

 その赤い目の中に、駅前の光ではないものが映っている気がした。

 

 俺はそれを見たくなくて、でも目を逸らせなかった。

 

 駅前は人が多い。

 

 このまま立ち止まって話すには騒がしすぎた。

 

「少し、座るか」

 

 そう言うと、真華はゆっくり頷いた。

 

「うん。……ポップコーン、落としたらもったいないし」

 

「そこなんだな」

 

「そこも大事」

 

 真華は容器を両手で抱えた。

 

 冗談みたいに言っているのに、指先は少し白くなっていた。

 

 俺たちは少し歩いて、駅裏の小さな広場に出た。

 

 駅裏の広場は、駅前の明るさから少しだけ外れていた。

 

 ベンチが二つ。

 植え込み。

 古くなった街灯。

 タイルの隙間に、乾いた葉が一枚挟まっている。

 

 真華はベンチに座って、ポップコーンの容器を膝に置いた。

 

 食べようとはしなかった。

 

 指だけが、紙の縁をなぞっている。

 かさ、かさ、と小さな音がする。

 

 夕焼けは、まだ残っていた。

 

 ビルとビルの間に、赤い線みたいに引っかかっている。

 その色が、真華の横顔に薄く乗っていた。

 

「前にも」

 

 真華が言った。

 

 俺は返事をしなかった。

 

 真華の声が、どこか遠かったからだ。

 

「前にも、こういう赤だった気がする」

 

 紙の容器が、少しだけ潰れた。

 

「誰かが、私の手を握ってた。たぶん、好きって言ってくれた人。手、あったかかったと思う。声も、たぶん優しかった」

 

 前の人たち。

 

 その言葉が、頭の中に浮かぶ。

 

 でも俺は、口に出さなかった。

 

 出したら、真華の中にある穴をこちらから覗き込むことになる気がした。

 

「嬉しかったのは、覚えてるの」

 

 真華は夕焼けを見たまま言った。

 

「好きって言われたことも、手をつないだことも、私がその人の隣にいてもいいんだって思ったことも。そこまでは、ちゃんとあるの」

 

 声は静かだった。

 

 なのに、一つ一つの言葉が少しずつ沈んでいく。

 

「でも、そこから先がないの」

 

 真華は笑った。

 

 笑ったまま、夕焼けを見ている。

 

「手の温度はあるのに、声も少し覚えてるのに、顔がぼやけて、最後だけ抜けてる。夕焼けだけ残ってる」

 

 ポップコーンの容器が、また音を立てる。

 

 中身はまだ残っている。

 キャラメルの匂いがする。

 

 甘い匂いなのに、喉の奥が冷えた。

 

「怖い顔だけ、少しある」

 

 真華は、そこだけ小さく言った。

 

「誰の?」

 

 聞いてしまった。

 

 真華は答えなかった。

 

 代わりに、容器の中のポップコーンを一つ摘まんだ。

 口元まで持っていって、食べずに止める。

 

 やがて、それを容器の中へ戻した。

 

「……食べないと、湿気るね」

 

 話がそこで切れた。

 

 俺は、続けて聞けなかった。

 

 誰の顔なのか。

 何があったのか。

 その人たちはどうなったのか。

 

 聞いた瞬間、何かが決まってしまう気がした。

 

 真華は容器の中を見下ろしている。

 

 ポップコーンはまだ残っていた。

 

 いつもの真華なら、こんな時でも食べる。食べながら話す。食べることで、自分をいつもの場所に戻そうとする。

 

 でも今は、指が動かない。

 

 夕焼けの赤が、少しずつ濃くなる。

 

 真華の赤い髪と、夕焼けの赤と、思い出せない記憶の赤が、どこかで混ざっているように見えた。

 

「蓮くんも」

 

 真華が、不意にこちらを見た。

 

 夕焼けの色を映した目が、少し暗い。

 

「いつか、そういう顔する?」

 

 何の顔か、聞かなくても分かった。

 

 怖い顔。

 

 もう話したくない顔。

 こっちを見ているのに、真華を見ていない顔。

 

 すぐに否定できたらよかった。

 

 映画の主人公なら、きっとすぐに言うのだろう。

 そんな顔はしない。ずっとそばにいる。君を怖がったりしない。

 

 スクリーンの中なら、それで音楽が流れる。

 

 でも、ここは駅裏の広場で、俺の膝の上には少し湿気たポップコーンの匂いが漂っていて、隣にいる真華は人間ではない。

 

 声が出なかった。

 

 真華は俺の沈黙を見て、少しだけ笑った。

 

「……そっか」

 

「待て」

 

 自分でも驚くくらい、早く声が出た。

 

 真華が瞬きをする。

 

「今の沈黙で、勝手に決めるな。違う。いや、違わないけど……違うんだよ」

 

「どっち?」

 

「俺にも分かんないんだよ」

 

 声が少し跳ねた。

 

 真華が、少しだけ目を丸くする。

 

 夕焼けの中で、赤い目が揺れた。

 

「怖い時は、ある」

 

 言うと、真華の指が紙の容器を握った。

 

 かさ、と音がする。

 

「でも、それだけじゃない。怖いから終わりとか、そういうふうには……したくない」

 

 うまい言葉ではなかった。

 

 白鷺先生みたいに正しくもない。

 映画の主人公みたいに格好よくもない。

 

 でも、嘘ではなかった。

 

「だから、怖い時は怖いって言う。分からない時は、分からないって言う。……たぶん、上手には言えないけど」

 

 真華は何も言わなかった。

 

 ただ、紙の容器を見下ろしたまま、少しだけ息を吸う。

 

「言われるの、嫌だと思う」

 

「だろうな」

 

「でも、言わないで離れられる方が、もっと嫌」

 

 声が小さかった。

 

 夕焼けの中に溶けそうなくらいの声。

 

「私、分からないから。怖がらせてるのに、蓮くんが笑ってたら、たぶん分からないまま近づく。近づいて、嬉しくなって、たぶん力の入れ方も、距離も、分からなくなる」

 

 その言葉が、胸に残った。

 

 真華は、自分の危うさを知っている。

 

 知っているのに、全部は止められない。

 だから、俺の怖さを目印にしようとしている。

 

 残酷な話だと思った。

 

 でも、必要な話でもあった。

 

「じゃあ、言う」

 

 俺は言った。

 

「できるだけ」

 

「できるだけ?」

 

「そこは許せ。俺も初心者なんだよ。彼女が人間じゃない恋愛は初めてなんだ」

 

 真華は目を丸くした。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「普通は、みんな初めてだと思う」

 

「だろうな」

 

「蓮くん、こういう時ちょっとかっこ悪い」

 

「自覚はある」

 

「でも、そこが少し安心する」

 

「褒めてるのか?」

 

「たぶん」

 

 俺も少し笑った。

 

 笑える話ではないのに、少しだけ空気が緩んだ。

 

 真華はようやく、ポップコーンを一つ食べた。

 

 少し湿気ていたのか、噛む音がさっきより弱い。

 

「……湿気てる」

 

「だから言っただろ」

 

「言ったの私だよ」

 

「そうだった」

 

 真華はもう一つ摘まんだ。

 

 今度は俺の方に差し出してくる。

 

「食べる?」

 

「残り物処理係か」

 

「恋人っぽく分け合う係」

 

「言い方で誤魔化すな」

 

 そう言いながら、俺は受け取った。

 

 少し湿気たキャラメルポップコーンは、甘かった。

 

 さっき映画館の暗がりで食べた時より、少しだけ重い味がした。

 

「赤羽根」

 

「うん?」

 

「前の人たちのこと、思い出したくないなら無理に聞かない」

 

 真華の表情が少しだけ固くなる。

 

「でも、思い出した時は、ひとりで抱えるな。俺が全部うまく聞けるかは分からないし、聞いたあとで変な顔をするかもしれない。でも、何も言うなってことにはしたくない」

 

「怖いことでも?」

 

 俺は少しだけ迷った。

 

 その迷いを、真華は見逃さなかったと思う。

 

 でも今度は、黙らなかった。

 

「怖いことでも」

 

 真華は目を伏せた。

 

「じゃあ、いつか言うかも」

 

「ああ」

 

「でも、今日はやめる。今日は、これ以上思い出したら、たぶんポップコーンの味が分からなくなる」

 

「そこなんだな」

 

「そこも大事」

 

 真華は少し笑った。

 

 いつものように明るくはない。

 でも、沈みきってもいない。

 

 その笑い方に、少しだけほっとした。

 

「あと、お腹空いた」

 

「急に?」

 

「怖い話したら、お腹空いた。あと、映画館のポップコーンは映画館の味だから、晩ごはんとは別だよね」

 

「その理屈、分かるようで分かりたくないな」

 

「ラーメン行こ?」

 

「映画の後にラーメンって、普通のデートなのか?」

 

「赤羽根真華っぽいデート」

 

「便利な言葉になってきたな、それ」

 

「蓮くんが言ったんだよ」

 

「責任を感じる」

 

 俺たちはベンチから立ち上がった。

 

 夕焼けは、さっきよりも暗くなっている。

 

 真華が隣に並ぶ。

 

 手はつながない。

 

 けれど、歩き出す前に、真華が少しだけこちらを見た。

 

「蓮くん」

 

 駅裏の広場を出ようとしたところで、真華が俺を呼び止めた。

 

 さっきまでより、少し声が小さい。

 食べ物の話をする時の声でも、からかう時の声でもない。

 

「何」

 

「名前で呼んでもいい?」

 

 足が止まった。

 

「呼んでるだろ」

 

「そうじゃなくて……」

 

 真華はポップコーンの紙袋の端を指で弄りながら、少しだけ視線を落とした。

 

 夕焼けの赤が、横顔に薄くかかっている。

 鳥居の前で俺が名前を呼んだ時と、どこか似た顔だった。

 

「蓮くん、じゃなくて。……蓮、って」

 

 その一言で、変に喉が詰まった。

 

 呼び方が一つ変わるだけだ。

 それだけなのに、急に距離が近くなる。

 

 真華にとって、名前で呼ぶことはただの言葉遊びじゃない。

 俺がこの前、真華と呼んだことを、彼女はまだ胸の中で大事に持っている。

 

 だから、自分も同じ場所に近づきたいのだろう。

 

「……今?」

 

「うん。今がいい。今じゃないと、たぶん……また言えなくなるから」

 

「急だな」

 

「急じゃないよ。さっきからずっと、言おうか迷ってた。映画の前も、映画の後も、ちょっとだけ。変かなって思って、やめてた」

 

 真華は少しだけ笑った。

 

 でも、目は真面目だった。

 

「だめ?」

 

 だめではない。

 

 だめではないが、ものすごく恥ずかしい。

 

 俺は視線を逸らして、夕焼けの沈むビルの隙間を見る。

 こんなことで逃げ場を探している自分が情けない。

 

「一回だけな」

 

「うん」

 

 真華は小さく息を吸った。

 

「……蓮」

 

 名前だけで呼ばれた。

 

 たったそれだけなのに、いつもの「蓮くん」よりずっと近く聞こえた。

 

 真華は自分で呼んでおいて、顔を赤くしている。

 

「……だめだね、これ」

 

「何が」

 

「嬉しいけど、恥ずかしい。恥ずかしいけど……もう一回呼びたくなる」

 

「一回だけって言っただろ」

 

「うん。だから我慢してる」

 

「我慢できて偉いな」

 

「また子ども扱いした」

 

「今のは完全にした」

 

 真華は少しだけ頬を膨らませた。

 

 でも、すぐに笑った。

 

「……恋人っぽい」

 

「自分で照れるならやるなよ」

 

「無理。今のは照れる。蓮くんって呼ぶのも好きだけど、蓮って呼ぶと、ちょっとだけ近すぎる感じがする」

 

「近すぎるならやめろよ」

 

「でも、嫌じゃない」

 

 真華は、紙袋を胸の前で握った。

 

「嫌じゃないから、困る」

 

 その言い方に、俺は何も返せなくなる。

 

 二人して、少し黙った。

 

 駅前の音が、遠くから戻ってくる。

 

 普通の夕方だった。

 

 さっきまで話していた内容だけが、普通ではなかった。

 

 前の人たち。

 

 最後の記憶の穴。

 

 怖い顔。

 

 真華が覚えていないもの。

 

 そこには、まだ触れてはいけない何かがある。

 

 でも、今日少しだけ、その影を見た。

 

「行くか」

 

「うん」

 

「ラーメンでいいのか?」

 

「うん。今日はちゃんとお腹が空いてる」

 

「それは良かった」

 

「替え玉もする」

 

「それも良かった……のか?」

 

「良かった」

 

 真華は頷いた。

 

 そして、ほんの少しだけ笑った。

 

 夕焼けの赤が、ビルの影に沈んでいく。

 

 真華の過去も、そこに沈んでいるのかもしれない。

 

 好きだったこと。

 怖がられたこと。

 最後に何があったのか、思い出せないこと。

 

 全部、夕焼けの向こうにある。

 

 まだ見えない。

 

 まだ、聞けない。

 

 それでも、真華は隣を歩いている。

 

 俺の名前を、少しだけ近い距離で呼んだあとで。

 

 俺はその隣を歩いた。

 

 怖いまま。

 

 分からないまま。

 

 それでも、今はまだ帰り道が同じだった。

 




真華ちゃんは実はポップコーンがあんまり好きじゃなかったみたいです

「前は好きだったんだけど、今日食べたときはあんまり手が動かなかったんだよね…でも蓮君と一緒に食べたときのポップコーンは美味しかったよ!」
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