赤い鳥は蛍を食べない   作:ゆゆゆい

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くうくうお腹がなりました。


お腹はいっぱいなのに

第七話

 

 映画館の夕焼けは、まだ少しだけ俺の中に残っていた。

 

 暗い劇場。

 半分以上残ったキャラメルポップコーン。

 画面の中の夕焼けを見たまま、しばらく戻ってこなかった赤い目。

 

 でも、真華(しんか)は元気だった。

 

 元気すぎた。

 

 昼休みには購買の新作メロンパンを両手で掲げて、「(れん)くん、これ見て! 期間限定!」と廊下の端から駆け寄ってきた。袋の中にはメロンパンだけではなく、焼きそばパンとクリームパンと、なぜかコロッケパンまで入っている。

 

「新作メロンパンじゃなかったのか?」

 

「新作メロンパンだよ!」

 

「周りに護衛みたいなパンがいるんだが」

 

「蓮くん、パンに護衛って発想する?」

 

「お前の買い方がそう見えるんだよ」

 

「違うよ。これは保険!」

 

「パンに保険をかけるな」

 

 真華はけらけら笑って、袋を胸に抱えた。

 

 その笑顔はいつも通りで、明るくて、少しうるさくて、食べ物の前だと本当に分かりやすい。

 

 ただ、メロンパンの袋を開ける時だけ、指先が少し慎重だった。

 

 紙袋の端をつまむ。

 ぱり、と乾いた音。

 甘い匂いが、昼休みの廊下に小さく広がる。

 

「おいしい!」

 

 一口食べて、真華は目を細めた。

 

 ちゃんと嬉しそうだった。

 

 だから、見間違いだと思いたかった。

 

 そのあと一瞬だけ、真華の視線が俺の手元へ落ちたことを。

 

 袖口。

 手首。

 指。

 

 すぐに戻った。

 

 本当に、瞬き一つ分。

 

 俺が何か言う前に、真華はまたメロンパンにかぶりついている。

 

「蓮くんも食べる?」

 

「食べかけを差し出すな」

 

「恋人っぽくない?」

 

「それは場合による」

 

「じゃあ、こっちの焼きそばパン!」

 

「増やすな」

 

 いつも通り。

 

 たぶん。

 

 そう思おうとした。

 

 でも、映画館で半分以上残されたキャラメルポップコーンの匂いが、ふと喉の奥に戻ってくる。

 

 夕焼けを見て「似てる」と呟いた真華。

 前の人たちの記憶。

 抜け落ちた最後。

 怖い顔だけ少しある、という声。

 

 それらは消えたわけではない。

 

 今、真華が元気に笑っているからといって、なかったことにはならなかった。

 

 放課後。

 

 真華は、俺の机の前に立つなり、いつもより大きな声で言った。

 

「蓮くん! 今日の味玉無料は大事件だよ!」

 

 教室に残っていた数人がこちらを見る。

 

 俺は反射で顔を伏せた。

 

「声がでかい」

 

「だって味玉無料だよ!?」

 

「理由になってない」

 

「なるよ! ラーメン屋さんが、あの味玉を無料で出してくれるんだよ!? これはもう、感謝しないと罰が当たるよ!」

 

「味玉を神格化するな」

 

「してないよ! でも敬意は必要だよ!」

 

「味玉に?」

 

「味玉と、お店の人に!」

 

 真華は胸の前で拳を握った。

 

 真剣だった。

 

 真剣すぎて、こっちが間違っている気がしてくる。

 

「というわけで、行こう!」

 

「決定事項なのか」

 

「味玉無料だよ!?」

 

「それ一言で何でも通ると思うな」

 

「通らない?」

 

「……まあ、行くけど」

 

「やった!」

 

 真華がぱっと笑う。

 

 赤い髪が、夕方の光を受けて揺れた。

 

 その笑顔を見ると、昼に見た一瞬の視線も、映画館のポップコーンも、少しだけ遠くなる。

 

 遠くなるだけだ。

 

 消えるわけではない。

 

 そう思ったところで、廊下側から柔らかい声がした。

 

「赤羽根さん」

 

 振り返ると、保健室の扉の前に白鷺(しらさぎ)先生が立っていた。

 

 白衣の袖口から、書類の端が覗いている。先生はいつもの穏やかな顔でこちらを見ていた。

 

 真華の肩が、ほんの少し跳ねる。

 

 けれど次の瞬間には、もう笑顔。

 

「白鷺先生!」

 

 早い。

 

 早すぎるくらい、明るい。

 

「こんにちは。二人とも、今から帰り?」

 

「はい! 蓮くんとラーメンに行きます! 味玉無料なので!」

 

 味玉無料なので。

 

 自信満々に言い切った真華に、白鷺先生は一度だけ瞬きをした。

 

「それは、大事だね」

 

「はい!」

 

「でも、その前に少しだけ」

 

 先生の視線が、真華の手元へ落ちる。

 

 真華の指は、鞄の肩紐を握っていた。

 

 強くはない。

 けれど、ほどけもしない。

 

「最近、ちゃんと食べてる?」

 

「食べてます! 昨日も購買のパンを食べましたし、今日もメロンパンと焼きそばパンとクリームパンとコロッケパンを食べました!」

 

「昼休みだけで?」

 

「はい!」

 

「……そう」

 

 白鷺先生の目が、ほんの少しだけ細くなる。

 

 怒っているわけではない。

 感心しているわけでもない。

 

 何かを測っている目だった。

 

「量の話だけじゃないよ」

 

「えっ」

 

 真華の声が、一拍だけ止まる。

 

 廊下を、生徒たちが通り過ぎていく。

 

 笑い声。

 上履きの擦れる音。

 遠くの教室から聞こえる机の脚。

 

 その中で、真華だけが一瞬、音から外れた。

 

「落ち着いて食べられてる?」

 

「……食べられてます」

 

「今、少し間があったね」

 

「先生は細かいです!」

 

「保健室の先生だから」

 

 白鷺先生は少し笑った。

 

 その笑い方は柔らかい。

 でも、逃げ道はない。

 

「赤羽根さん。食べることは大事だよ。でも、食べているから大丈夫、とは限らない時もある」

 

 真華の口が閉じる。

 

 さっきまで味玉無料であれだけ騒がしかったのに、急に静かになる。

 

 俺の頭に浮かぶのは、映画館の暗がり。

 

 ポップコーンの容器。

 半分以上残ったキャラメル。

 夕焼けから戻ってこなかった赤い目。

 

「……はい」

 

 真華は小さく返事をした。

 

 その素直さが、かえって胸に引っかかる。

 

 白鷺先生は俺を見る。

 

蛍原(ほとはら)くん」

 

「はい」

 

「今日は一緒にいるなら、少しだけ見ていて」

 

「何を、ですか」

 

「距離」

 

 短い言葉だった。

 

 それだけで、廊下の空気が少し冷える。

 

「近づきすぎていないか。近づきたがりすぎていないか。どちらも」

 

 真華が視線を落とす。

 

 俺は返事をするまで、少し時間がかかった。

 

 距離。

 

 手をつなぐ距離。

 カウンター席の距離。

 匂いが届く距離。

 目が落ちる距離。

 

 考えたくないものほど、すぐ形になる。

 

「……分かりました」

 

「楽しむなとは言わないよ。二人で出かけるのは、悪いことじゃない。ただ、楽しい時ほど気づきにくいから」

 

「先生」

 

 真華が顔を上げる。

 

 少しだけ拗ねたような、困ったような顔。

 

「私、今日はちゃんとします!」

 

 明るい声。

 

 いつもの真華らしい、元気な言い方。

 

 けれど、その「ちゃんと」が胸に引っかかる。

 

 ちゃんと。

 人間みたいに。

 普通の女の子みたいに。

 

 白鷺先生も、たぶん同じ場所で引っかかった。

 

 先生は少しだけ目を伏せる。

 

「ちゃんとしようとするより、無理をしないでね」

 

 真華は何も言わなかった。

 

 小さく頷くだけ。

 

 保健室の前を離れてから、しばらく沈黙が続いた。

 

 階段を下りる音。

 昇降口の方から流れてくる夕方の空気。

 真華の鞄についた小さなキーホルダーが、歩くたびに揺れて鳴る。

 

 白鷺先生の言葉が、耳に残っている。

 

 食べているから大丈夫、とは限らない。

 近づきすぎていないか。

 近づきたがりすぎていないか。

 

 どちらも。

 

「……白鷺先生、心配性だよね」

 

 昇降口で靴を履き替えながら、真華が言った。

 

 声は明るい。

 

 けれど、ほんの少しだけ後ろからついてくるような明るさだった。

 

「まあ、保健室の先生だからな」

 

「それ、先生も言ってた」

 

「便利な言葉なんだろ」

 

「蓮くんも心配してる?」

 

 真華がこちらを見る。

 

 赤い目が、まっすぐ俺を射抜く。

 

 してない、と言えば楽だった。

 

 でも六話の約束が、喉の奥で引っかかる。

 

 怖い時は、怖いと言う。

 分からない時は、分からないと言う。

 

 最初からうまくできるわけがない。

 

 それでも、ここで嘘をつくのは違う。

 

「……してる」

 

 真華の指が、靴箱の縁に触れた。

 

「そっか」

 

「でも、ラーメンに行くのをやめるほどじゃない」

 

 真華が顔を上げる。

 

「そこはやめないんだ」

 

「やめたら、お前が逆に落ち込むだろ」

 

「……うん。落ち込む!」

 

 最後だけ、少し勢いを取り戻す。

 

 真華は靴を履き替えて、くるりとこちらを向いた。

 

「じゃあ、味玉無料事件に向かおう!」

 

「だから事件じゃない」

 

「蓮くんが何と言っても、私の中では事件だよ!」

 

 そう言って歩き出す真華の横顔は、明るい。

 

 明るいのに、さっき先生に見られていた指先だけが、まだ少し固く見えた。

 

 駅前のラーメン屋は、夕方の客でそこそこ埋まっていた。

 

 暖簾をくぐると、湯気と油の匂いが一気に来る。

 カウンターの奥で、麺を上げる音。

 

 湯切りの音。

 食券機の電子音。

 餃子を焼く油の跳ねる音。

 会社員らしい男が、スマホを見ながら麺を啜っている音。

 

 どこにでもある、駅前のラーメン屋。

 

 その中で、真華の目だけが少し明るすぎた。

 

「蓮くん、見て! 味玉無料って書いてある!」

 

「見えてる」

 

「ちゃんと見て! これは今日しかない奇跡だよ!?」

 

「味玉で奇跡を起こすな」

 

「起きてるよ! 今、券売機の前で!」

 

 真華は食券機の前でほとんど跳ねていた。

 

 後ろに人がいなければ、本当に跳ねていたと思う。

 

「普通のラーメンと、替え玉と、餃子と……唐揚げもあるんだ!」

 

「最初から広げるな」

 

「でも、今日は味玉無料だよ!?」

 

「味玉無料と唐揚げは関係ない」

 

「関係あるよ! 嬉しい日は唐揚げも合う!」

 

「何でも合うじゃん」

 

「合うものが多いのはいいことだよ!」

 

 真華は迷いなく食券を押していく。

 

 ラーメン。

 替え玉券。

 餃子。

 唐揚げ。

 半チャーハン。

 

 電子音が続く。

 

 ぴっ。

 ぴっ。

 ぴっ。

 

「待て待て待て」

 

「何?」

 

「今、何枚買った?」

 

「まだ少ないよ?」

 

「“まだ”って言ったな?」

 

「え? 言った?」

 

「言った」

 

 真華はきょとんとしている。

 

 本当に分かっていない顔だった。

 

 後ろに並んでいた学生が、真華の手元をちらっと見る。

 食券の束。

 それから真華の細い腕。

 

 視線が、少しだけ迷った。

 

 俺は見なかったふりをした。

 

 見なかったふりをしたかった。

 

 カウンター席に並んで座る。

 

 真華は嬉しそうに水を取って、俺の分まで置いてくれた。

 

「はい、蓮くん!」

 

「珍しく気が利くな」

 

「珍しく!?」

 

「いや、いつも気が利く。たぶん」

 

「たぶんって言った! 蓮くん、今たぶんって言ったよね!?」

 

「聞き間違いだ」

 

「聞き間違いじゃないよ!? 私は聞いたよ!?」

 

 真華が頬を膨らませる。

 

 いつも通りの顔。

 

 いつも通りの声。

 

 俺は少し笑った。

 

 注文したラーメンが来ると、真華の表情はさらに明るくなる。

 

 湯気の向こうで、赤い目がきらきらと光った。

 

「……おいしそう!」

 

「よかったな、味玉」

 

「うん! 今日の主役だね!」

 

「主役はラーメンだろ」

 

「味玉も主役になれるよ! 蓮くん、もっと可能性を信じて!」

 

「味玉の可能性って何だよ」

 

 真華は箸を割り、手を合わせる。

 

「いただきます!」

 

 その声が嬉しそうで、俺は少しだけ安心した。

 

 最初の一杯が空になるまで、五分もかからなかった。

 

 真華は急いでいるようには見えない。

 

 麺を啜る。

 スープを飲む。

 味玉を半分に割って、目を輝かせる。

 餃子を一つ。

 唐揚げを一つ。

 合間に半チャーハン。

 

 動きは落ち着いている。

 

 なのに、器だけが減っていく。

 

 ラーメンの丼が空になる。

 餃子の皿が空になる。

 唐揚げの皿に紙だけが残る。

 半チャーハンの器から米粒が消える。

 

 店員が替え玉を持ってきた時、真華はにこっと笑った。

 

「ありがとうございます!」

 

 ちゃんと可愛い笑顔だった。

 

 その笑顔の前に、空の皿が並んでいなければ。

 

「蓮くん、チャーシュー一枚だけ!」

 

「一枚だけって顔じゃない」

 

「じゃあ半分!」

 

「減ったようで増えてる」

 

「恋人なら分け合うものだよ!」

 

「都合のいい時だけ恋人を持ち出すな」

 

「だめ?」

 

 上目遣い。

 

 分かってやっているのか、素なのか。

 

 最近、その区別がつかなくなってきた。

 

「……半分だけな」

 

「やった!」

 

「味玉はやらん」

 

「まだ何も言ってないよ!?」

 

「目が言ってる」

 

「蓮くん、私のことよく見てるね!」

 

「そういう意味じゃない」

 

 真華は嬉しそうに笑って、俺から半分奪ったチャーシューを口に入れる。

 

 幸せそうだった。

 

 その顔を見ると、まあいいかと思ってしまう。

 

 よくない。

 

 たぶん、よくない。

 

 でも、今はまあいい。

 

 替え玉は一回では終わらなかった。

 

 二回目の替え玉券を買いに行く時、真華は少しだけ俺を見る。

 

「蓮くん!」

 

「何」

 

「行ってもいい?」

 

「……食えるなら」

 

「うん!」

 

 真華は元気よく頷いた。

 

 食券機の前で、また電子音。

 

 ぴっ。

 

 ぴっ。

 

 戻ってきた真華の手には、替え玉券が二枚あった。

 

「一枚って話じゃなかったか?」

 

「予備!」

 

「替え玉券に予備って概念あるんだ」

 

「あるよ! 安心感が違うよ!」

 

 店員が、カウンターの上の空皿を下げる手を、一瞬だけ止めた。

 

 真華の顔。

 皿。

 もう一度、真華の顔。

 

 最後に、なぜか俺。

 

 俺を見るな。

 

 三回目の替え玉が来た頃には、隣の席にいた会社員が箸を止めた。

 

 真華は気づいていない。

 

 いや、気づいていないふりをしているのかもしれない。

 

 麺を啜る。

 スープを飲む。

 水を一口。

 また麺を啜る。

 

 それだけなら、ただの大食いに見えたかもしれない。

 

 でも、真華の表情に苦しさはない。

 

 満腹を押し込める顔ではない。

 無理に詰め込む顔でもない。

 むしろ、まだ普通に会話できる余裕すらある。

 

「蓮くん、次は塩もいいかも!」

 

「次の話をするな。今食ってる途中だろ」

 

「今おいしいから、次も考えちゃうんだよ!」

 

「前向きすぎる」

 

「ラーメンに対しては前向きでいたい!」

 

 元気だった。

 

 元気すぎた。

 

 その元気さの横で、空の器だけが増えていく。

 

 俺のラーメンは、まだ半分も減っていない。

 

 真華の丼は、また空になりかけている。

 

 湯気の向こうで、赤い目が細くなった。

 

 おいしいものを食べている時の顔。

 

 そう思いたかった。

 

 けれど、ふとした瞬間、真華の箸が止まる。

 

 麺はもう残っていない。

 

 スープもほとんどない。

 

 それなのに、真華は箸を置かない。

 

 空の丼の底を、箸先で軽くなぞっている。

 

 かつん。

 

 小さな音。

 

 かつん。

 

 また。

 

 厨房では誰かが「替え玉一丁」と声を出している。

 隣の客が水を注ぐ。

 入口の引き戸が開いて、外の冷たい空気が一瞬だけ足元を撫でた。

 

 真華はそちらを見なかった。

 

 いつもの真華なら、たぶん少しだけ反応する。

 振り向かないまでも、目くらいは動く。

 

 けれど今は、空の丼を見ていた。

 

 いや。

 

 見ているようで、見ていない。

 

「真華?」

 

 名前を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 俺は少しだけ身を引いた。カウンター席の椅子が、床を小さく鳴らす。

 

 その音に、真華の目が動いた。

 

 ゆっくり。

 

 俺の顔ではなく、手元へ。

 

 袖口。

 手首。

 皮膚の下で、脈が動いている場所。

 

 ラーメン屋の中は暑い。

 

 湯気もある。

 油の匂いもある。

 隣の客は普通に麺を啜っている。

 

 なのに、背中だけが冷えた。

 

「……真華」

 

 もう一度呼ぶ。

 

 真華の唇が、少しだけ動いた。

 

 けれど、返ってきたのは俺の名前ではなかった。

 

「熱い」

 

 小さな声だった。

 

 聞き間違いかと思った。

 

 でも、真華の目は俺の手首に落ちたまま。

 

「そこ、動いてる」

 

 箸が、カウンターの上に置かれる。

 

 音はしなかった。

 

 いつもの真華なら、ここで慌てる。

 「ごめんね、変なこと言った!」と笑って、無理にでも明るく戻ろうとする。

 

 でも今は違った。

 

 真華は謝らない。

 

 笑わない。

 

 ただ、俺の袖口を見ている。

 

 俺は手を引こうとした。

 

 真華の顔は動かなかった。

 

 目だけが動く。

 

 ほんの少しも遅れず、俺の手首を追った。

 

 その滑らかさが嫌だった。

 

 人が人を見る時の目じゃない。

 相手の表情を探る目でも、言葉を待つ目でもない。

 

 動いた場所を、ただ追う目。

 

「真華、俺を見ろ」

 

 声が少し震えた。

 

 真華の目が、少しだけ上がる。

 

 けれど、俺の顔までは届かない。

 

 喉元で止まった。

 

「そこも」

 

 真華が言った。

 

「動いてる」

 

 反射的に喉を押さえそうになって、止めた。

 

 止めたのが正解だったのか、間違いだったのか分からない。

 

 ただ、手を動かすのが怖かった。

 

 真華の目が、それを追う気がした。

 

「近い」

 

 声が、さらに平らになる。

 

「いいにおい」

 

 その言葉だけで、胃の奥が冷えた。

 

 いつもの真華の「いいにおい」とは違う。

 

 ラーメン屋の前で楽しそうに言う声じゃない。

 ポップコーンを抱えて笑う声でもない。

 俺の名前を大事そうに呼ぶ声でもない。

 

 もっと静かで。

 

 もっと、近い。

 

 俺を安心させようとしていない声。

 

「真華」

 

 今度は強く呼んだ。

 

 真華の睫毛が揺れる。

 

 赤い目が、ようやく俺の顔を探そうとする。

 

 でも、途中でまた落ちる。

 

 手首へ。

 

「真華!」

 

 少しだけ大きな声になった。

 

 隣の客がこちらを見た。

 

 店員も一瞬、手を止める。

 

 店内の音が戻ってくる。

 

 湯切り。

 会計の音。

 誰かの笑い声。

 

 その中で、真華が瞬きをした。

 

 一度。

 

 二度。

 

「……蓮、くん?」

 

 やっと、俺の名前だった。

 

 真華の目が俺の顔に戻る。

 

 戻った瞬間、真華は自分の手を見た。

 

 俺の方へ伸びかけていた指。

 

「ちが」

 

 声が引っかかる。

 

「違う、ちが、違うの。今の、違う。私、見てない。そんな、そんなふうに見てないよ」

 

 真華は慌てて手を引っ込めた。

 

 胸元に押しつけるみたいにして、もう片方の手で包む。指先だけがまだ震えている。

 

「だって、蓮くんだよ? 蓮くんなのに。食べ物じゃ、ないのに。私、そんな目で……見てない、見てないよね?」

 

 最後だけ、俺に縋るみたいな声だった。

 

 でも真華の目は、俺の顔を見きれない。

 

 俺の目まで上がりかけて、途中で落ちる。

 

 自分の手へ。

 

 さっき伸びかけた指へ。

 

「私、何見てた? 今、何見てたの? 蓮くんの顔、見てた? 見てなかった? やだ、待って、違う、そんなの……」

 

 真華は息を吸った。

 

 吸ったのに、次の言葉はうまく出てこなかった。

 

「ごめ、ん」

 

 真華の声が、店のざわめきに紛れかける。

 

「ごめんね、蓮くん。違うの。違うって言っても、でも、私……私が、見てたんだよね」

 

 膝の上で、自分の手を握りしめる。

 

 動かないように。

 

 どこにも伸びないように。

 

「痛く、してない?」

 

 それから、恐る恐る俺を見る。

 

 今度はちゃんと顔を見ようとしていた。

 

「触った? 私、蓮くんのこと、掴んだ?」

 

「触ってはない」

 

「……怖かった?」

 

 俺はすぐに答えられなかった。

 

 その沈黙だけで、真華の顔が少し歪む。

 

「怖かった」

 

 声にすると、真華の肩が震えた。

 

 俺も震えていた。

 

 たぶん。

 

「今のは、怖かった」

 

「……うん」

 

 真華は頷いた。

 

 目を逸らさない。

 

 逸らしたいのを、必死にこらえているみたいだった。

 

「言ってくれて、よかった」

 

「よかったって顔じゃない」

 

「うん。よくない。全然、よくない」

 

 真華は両手を膝の上で握った。

 

 指先が白くなる。

 

「でも、言われなかったら……私、分からなかったかもしれない。蓮くんを見てるつもりで、蓮くんじゃないところを見てた」

 

「……ああ」

 

「ごめんね」

 

 謝る声は、いつもの真華に近かった。

 

 けれど、空の器の底には、さっきの音がまだ残っている気がした。

 

 かつん。

 

 かつん。

 

 もう何も入っていない器を、まだ探していた音。

 

 俺はその音を、しばらく忘れられそうになかった。

 

「……店、出るか」

 

「うん」

 

 真華は頷く。

 

「残したら、悪いよね」

 

「もう食べただろ」

 

「うん。食べた。ちゃんと食べた。お腹はいっぱい」

 

 自分に言い聞かせるみたいな声。

 

 会計の時、店員が食券の半券を見て、少しだけ目を動かした。

 

 カウンターの上に残った皿。

 真華の顔。

 それから俺。

 

 何も言わない。

 

 誰も何も言わない。

 

 だから余計に、皿の数だけが残る。

 

 店を出るまで、真華は何度も「お腹はいっぱい」と小さく呟いた。

 

 駅前の明かりは、ラーメン屋の中より少し冷たい。

 

 夜になりきる前の時間。

 空の端にはまだ夕方の赤が残っていて、街灯の白い光と混ざっていた。

 

 真華は俺の隣を歩いている。

 

 いつもより少しだけ距離がある。

 

 俺が離れたのではない。

 

 真華が、自分で少し離れていた。

 

「……ごめんね」

 

「何回目だよ」

 

「数えてない」

 

「なら、もういい」

 

「よくないよ」

 

 足元を見る真華の声は、小さい。

 

「蓮くん、怖かったでしょ」

 

「怖かった」

 

 今度は、少しだけ早く言えた。

 

 真華の肩が小さく揺れる。

 

「……そっか」

 

「でも、言っただろ。それで終わりにしたいわけじゃない」

 

「うん」

 

「ただ、近いのは少し怖い。今は」

 

 真華は小さく頷いた。

 

「今は、だね」

 

「ああ」

 

「じゃあ、今は離れる」

 

 半歩。

 

 本当に小さな半歩。

 

 でも、その半歩が今の真華には必要なのだと分かった。

 

 駅前の明かりが少し途切れる路地に差しかかる。

 

 店の裏手につながる細い道。

 人通りが減り、看板の光も弱くなる。

 足元の影が、少し濃い。

 

 そこで、真華の足が一瞬だけ止まった。

 

 俺はすぐに気づく。

 

 真華は俺の袖口を見ていた。

 

 さっき触れかけた場所。

 

 そこを、ほんの一瞬だけ。

 

 すぐに目を逸らす。

 

「……ごめん」

 

「何もしてないだろ」

 

「うん」

 

 真華は笑った。

 

 壊れそうな笑い方だった。

 

「まだ、してない」

 

 その言い方が、しばらく耳に残った。

 

 翌日の昼休み。

 

 俺は保健室の前にいた。

 

 怪我をしたわけではない。

 体調が悪いわけでもない。

 

 ただ、昨日のことを白鷺先生に話すべきかどうか、朝からずっと迷っていた。

 

 真華は今日は普通にしている。

 

 購買でパンを買い、俺を見て笑い、いつも通りに、少しだけ距離を空けて立っていた。

 

 それが逆に、胸に残った。

 

 保健室の扉をノックすると、中から「どうぞ」と声がする。

 

 白鷺先生は書類に目を通していた。

 

 俺を見ると、驚きもせずに書類を伏せる。

 

「蛍原くん」

 

「……少し、いいですか」

 

「うん」

 

 消毒液と洗剤の匂い。

 

 窓際で揺れる白いカーテン。

 

 四話の日のことを思い出す。

 

 真華がベッドで眠っていた日。

 先生が、赤羽根さんは人間じゃない、と静かに言った日。

 

「昨日、言いました」

 

 立ったまま、声を出す。

 

「怖いって」

 

 白鷺先生の目が、少しだけ細くなる。

 

「言えたんだね」

 

「……はい」

 

「赤羽根さんは?」

 

「傷ついたと思います。でも、聞いてくれました。距離も取ってくれました」

 

「そっか」

 

 先生は静かに息を吐いた。

 

「えらかったね」

 

「えらいんですか、これ」

 

「少なくとも、怖くないふりをするよりはずっといい」

 

 白鷺先生は立ち上がり、棚の上に置かれた紙コップを整える。

 

 いつも通りの動き。

 少しだけ低い声。

 

「でも、言えたから終わりじゃないよ」

 

「……分かってます」

 

「本当に?」

 

 すぐには答えられなかった。

 

 先生は責めない。

 

 ただ、俺を見る。

 

「赤羽根さんは、たぶんこれからもっと傷つく。君もね。怖いって言葉は必要だけど、言えば全部が解決する魔法じゃない。むしろ、ちゃんと傷が見えるようになるだけのこともある」

 

 胸の奥が重くなる。

 

 分かっていたはずなのに、言葉になると逃げ場がない。

 

「それでも、言わないよりはましなんですよね」

 

「うん」

 

 先生は頷いた。

 

「ただ、次に同じことがあったら、無理に恋人として支えようとしないで。まず、距離を取って」

 

「それ、傷つけませんか」

 

「傷つくよ」

 

 即答。

 

「でも、近づきすぎて壊れるよりは、ずっといい」

 

 白いカーテンが揺れる。

 

 窓の外で、誰かが笑っていた。

 

 普通の昼休みの音。

 

 それなのに、先生の言葉だけが保健室の中に重く残る。

 

「赤羽根さんは、食べれば全部落ち着くわけじゃない。昨日、君も見たんでしょう」

 

「……はい」

 

「お腹がいっぱいでも、足りないものがある。そこを間違えないで」

 

 頷く。

 

 昨日の真華の声が蘇る。

 

 お腹は、いっぱいなの。

 

 ここが、まだ落ち着かない。

 

 蓮くんの匂いの方が、先にくる。

 

 喉の奥がざらついた。

 

「蛍原くん」

 

「はい」

 

「怖かった?」

 

 少し黙る。

 

 昨日よりは、答えるのに時間はかからなかった。

 

「怖かったです」

 

「うん」

 

「でも……それだけじゃないです」

 

 先生は小さく頷いた。

 

「それを、忘れないで」

 

 保健室を出ると、廊下の向こうに真華がいた。

 

 偶然なのか、待っていたのかは分からない。

 

 真華は俺を見て、少しだけ笑う。

 

 いつもの大きな笑顔ではない。

 

 でも、逃げる顔でもなかった。

 

「蓮くん」

 

「真華」

 

「先生と話してた?」

 

「ああ」

 

「そっか」

 

 真華は少しだけ視線を落とす。

 

 それから、俺の方へ半歩近づきかけて、止まった。

 

 自分で止まった。

 

 そのことが、少しだけ痛い。

 

「……ラーメン、しばらくやめる?」

 

 小さな声。

 

 俺は少し迷った。

 

 やめた方がいいのかもしれない。

 

 でも、真華から食べる楽しみを全部取り上げるのは違う気がした。

 

「やめなくていい」

 

 真華が顔を上げる。

 

「ただ、次からは俺の袖に触る前に言え」

 

「……うん」

 

「あと、チャーシューは半分まで」

 

「そこは変わらないんだ」

 

「変わらない」

 

 真華は少しだけ笑った。

 

 その笑顔に、少し救われる。

 

 けれど、完全には安心できない。

 

 たぶん真華も、同じだった。

 

「蓮くん」

 

「何」

 

「私、昨日からずっと、お腹はいっぱいだったんだよ」

 

「……ああ」

 

「でも、いっぱいなのに、まだ空いてるみたいで。自分でも、どこが空いてるのか分からなかった」

 

 真華は自分の胸元に手を当てる。

 

 喉でも、腹でもなく、ちょうどその間。

 

「そこが、怖かった」

 

 赤い目が、少しだけ揺れた。

 

「私、蓮くんを怖がらせたのに、自分も怖かったって言うの、ずるいかな」

 

「ずるいかどうかは分からん」

 

 正直、それしか言えなかった。

 

「でも、怖かったなら怖かったって言えよ」

 

 真華は一瞬だけ目を丸くする。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「……うん」

 

 廊下の窓から、昼の光が入っている。

 

 昨日の夕焼けとは違う、白い光。

 

 それでも、真華の赤い髪は少しだけ羽みたいに見えた。

 

 お腹はいっぱいだった。

 

 真華はちゃんと食べた。

 

 ラーメンも。

 替え玉も。

 餃子も。

 唐揚げも。

 半チャーハンも。

 味玉も。

 俺のチャーシューも半分。

 

 それでも、まだ落ち着かなかった。

 

 食べても満たされないものがある。

 

 そのことを、俺も真華も知ってしまった。

 

 そして、知ってしまったものは、もう知らなかったことにはできない。

 

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