第七話
映画館の夕焼けは、まだ少しだけ俺の中に残っていた。
暗い劇場。
半分以上残ったキャラメルポップコーン。
画面の中の夕焼けを見たまま、しばらく戻ってこなかった赤い目。
でも、
元気すぎた。
昼休みには購買の新作メロンパンを両手で掲げて、「
「新作メロンパンじゃなかったのか?」
「新作メロンパンだよ!」
「周りに護衛みたいなパンがいるんだが」
「蓮くん、パンに護衛って発想する?」
「お前の買い方がそう見えるんだよ」
「違うよ。これは保険!」
「パンに保険をかけるな」
真華はけらけら笑って、袋を胸に抱えた。
その笑顔はいつも通りで、明るくて、少しうるさくて、食べ物の前だと本当に分かりやすい。
ただ、メロンパンの袋を開ける時だけ、指先が少し慎重だった。
紙袋の端をつまむ。
ぱり、と乾いた音。
甘い匂いが、昼休みの廊下に小さく広がる。
「おいしい!」
一口食べて、真華は目を細めた。
ちゃんと嬉しそうだった。
だから、見間違いだと思いたかった。
そのあと一瞬だけ、真華の視線が俺の手元へ落ちたことを。
袖口。
手首。
指。
すぐに戻った。
本当に、瞬き一つ分。
俺が何か言う前に、真華はまたメロンパンにかぶりついている。
「蓮くんも食べる?」
「食べかけを差し出すな」
「恋人っぽくない?」
「それは場合による」
「じゃあ、こっちの焼きそばパン!」
「増やすな」
いつも通り。
たぶん。
そう思おうとした。
でも、映画館で半分以上残されたキャラメルポップコーンの匂いが、ふと喉の奥に戻ってくる。
夕焼けを見て「似てる」と呟いた真華。
前の人たちの記憶。
抜け落ちた最後。
怖い顔だけ少しある、という声。
それらは消えたわけではない。
今、真華が元気に笑っているからといって、なかったことにはならなかった。
放課後。
真華は、俺の机の前に立つなり、いつもより大きな声で言った。
「蓮くん! 今日の味玉無料は大事件だよ!」
教室に残っていた数人がこちらを見る。
俺は反射で顔を伏せた。
「声がでかい」
「だって味玉無料だよ!?」
「理由になってない」
「なるよ! ラーメン屋さんが、あの味玉を無料で出してくれるんだよ!? これはもう、感謝しないと罰が当たるよ!」
「味玉を神格化するな」
「してないよ! でも敬意は必要だよ!」
「味玉に?」
「味玉と、お店の人に!」
真華は胸の前で拳を握った。
真剣だった。
真剣すぎて、こっちが間違っている気がしてくる。
「というわけで、行こう!」
「決定事項なのか」
「味玉無料だよ!?」
「それ一言で何でも通ると思うな」
「通らない?」
「……まあ、行くけど」
「やった!」
真華がぱっと笑う。
赤い髪が、夕方の光を受けて揺れた。
その笑顔を見ると、昼に見た一瞬の視線も、映画館のポップコーンも、少しだけ遠くなる。
遠くなるだけだ。
消えるわけではない。
そう思ったところで、廊下側から柔らかい声がした。
「赤羽根さん」
振り返ると、保健室の扉の前に
白衣の袖口から、書類の端が覗いている。先生はいつもの穏やかな顔でこちらを見ていた。
真華の肩が、ほんの少し跳ねる。
けれど次の瞬間には、もう笑顔。
「白鷺先生!」
早い。
早すぎるくらい、明るい。
「こんにちは。二人とも、今から帰り?」
「はい! 蓮くんとラーメンに行きます! 味玉無料なので!」
味玉無料なので。
自信満々に言い切った真華に、白鷺先生は一度だけ瞬きをした。
「それは、大事だね」
「はい!」
「でも、その前に少しだけ」
先生の視線が、真華の手元へ落ちる。
真華の指は、鞄の肩紐を握っていた。
強くはない。
けれど、ほどけもしない。
「最近、ちゃんと食べてる?」
「食べてます! 昨日も購買のパンを食べましたし、今日もメロンパンと焼きそばパンとクリームパンとコロッケパンを食べました!」
「昼休みだけで?」
「はい!」
「……そう」
白鷺先生の目が、ほんの少しだけ細くなる。
怒っているわけではない。
感心しているわけでもない。
何かを測っている目だった。
「量の話だけじゃないよ」
「えっ」
真華の声が、一拍だけ止まる。
廊下を、生徒たちが通り過ぎていく。
笑い声。
上履きの擦れる音。
遠くの教室から聞こえる机の脚。
その中で、真華だけが一瞬、音から外れた。
「落ち着いて食べられてる?」
「……食べられてます」
「今、少し間があったね」
「先生は細かいです!」
「保健室の先生だから」
白鷺先生は少し笑った。
その笑い方は柔らかい。
でも、逃げ道はない。
「赤羽根さん。食べることは大事だよ。でも、食べているから大丈夫、とは限らない時もある」
真華の口が閉じる。
さっきまで味玉無料であれだけ騒がしかったのに、急に静かになる。
俺の頭に浮かぶのは、映画館の暗がり。
ポップコーンの容器。
半分以上残ったキャラメル。
夕焼けから戻ってこなかった赤い目。
「……はい」
真華は小さく返事をした。
その素直さが、かえって胸に引っかかる。
白鷺先生は俺を見る。
「
「はい」
「今日は一緒にいるなら、少しだけ見ていて」
「何を、ですか」
「距離」
短い言葉だった。
それだけで、廊下の空気が少し冷える。
「近づきすぎていないか。近づきたがりすぎていないか。どちらも」
真華が視線を落とす。
俺は返事をするまで、少し時間がかかった。
距離。
手をつなぐ距離。
カウンター席の距離。
匂いが届く距離。
目が落ちる距離。
考えたくないものほど、すぐ形になる。
「……分かりました」
「楽しむなとは言わないよ。二人で出かけるのは、悪いことじゃない。ただ、楽しい時ほど気づきにくいから」
「先生」
真華が顔を上げる。
少しだけ拗ねたような、困ったような顔。
「私、今日はちゃんとします!」
明るい声。
いつもの真華らしい、元気な言い方。
けれど、その「ちゃんと」が胸に引っかかる。
ちゃんと。
人間みたいに。
普通の女の子みたいに。
白鷺先生も、たぶん同じ場所で引っかかった。
先生は少しだけ目を伏せる。
「ちゃんとしようとするより、無理をしないでね」
真華は何も言わなかった。
小さく頷くだけ。
保健室の前を離れてから、しばらく沈黙が続いた。
階段を下りる音。
昇降口の方から流れてくる夕方の空気。
真華の鞄についた小さなキーホルダーが、歩くたびに揺れて鳴る。
白鷺先生の言葉が、耳に残っている。
食べているから大丈夫、とは限らない。
近づきすぎていないか。
近づきたがりすぎていないか。
どちらも。
「……白鷺先生、心配性だよね」
昇降口で靴を履き替えながら、真華が言った。
声は明るい。
けれど、ほんの少しだけ後ろからついてくるような明るさだった。
「まあ、保健室の先生だからな」
「それ、先生も言ってた」
「便利な言葉なんだろ」
「蓮くんも心配してる?」
真華がこちらを見る。
赤い目が、まっすぐ俺を射抜く。
してない、と言えば楽だった。
でも六話の約束が、喉の奥で引っかかる。
怖い時は、怖いと言う。
分からない時は、分からないと言う。
最初からうまくできるわけがない。
それでも、ここで嘘をつくのは違う。
「……してる」
真華の指が、靴箱の縁に触れた。
「そっか」
「でも、ラーメンに行くのをやめるほどじゃない」
真華が顔を上げる。
「そこはやめないんだ」
「やめたら、お前が逆に落ち込むだろ」
「……うん。落ち込む!」
最後だけ、少し勢いを取り戻す。
真華は靴を履き替えて、くるりとこちらを向いた。
「じゃあ、味玉無料事件に向かおう!」
「だから事件じゃない」
「蓮くんが何と言っても、私の中では事件だよ!」
そう言って歩き出す真華の横顔は、明るい。
明るいのに、さっき先生に見られていた指先だけが、まだ少し固く見えた。
駅前のラーメン屋は、夕方の客でそこそこ埋まっていた。
暖簾をくぐると、湯気と油の匂いが一気に来る。
カウンターの奥で、麺を上げる音。
湯切りの音。
食券機の電子音。
餃子を焼く油の跳ねる音。
会社員らしい男が、スマホを見ながら麺を啜っている音。
どこにでもある、駅前のラーメン屋。
その中で、真華の目だけが少し明るすぎた。
「蓮くん、見て! 味玉無料って書いてある!」
「見えてる」
「ちゃんと見て! これは今日しかない奇跡だよ!?」
「味玉で奇跡を起こすな」
「起きてるよ! 今、券売機の前で!」
真華は食券機の前でほとんど跳ねていた。
後ろに人がいなければ、本当に跳ねていたと思う。
「普通のラーメンと、替え玉と、餃子と……唐揚げもあるんだ!」
「最初から広げるな」
「でも、今日は味玉無料だよ!?」
「味玉無料と唐揚げは関係ない」
「関係あるよ! 嬉しい日は唐揚げも合う!」
「何でも合うじゃん」
「合うものが多いのはいいことだよ!」
真華は迷いなく食券を押していく。
ラーメン。
替え玉券。
餃子。
唐揚げ。
半チャーハン。
電子音が続く。
ぴっ。
ぴっ。
ぴっ。
「待て待て待て」
「何?」
「今、何枚買った?」
「まだ少ないよ?」
「“まだ”って言ったな?」
「え? 言った?」
「言った」
真華はきょとんとしている。
本当に分かっていない顔だった。
後ろに並んでいた学生が、真華の手元をちらっと見る。
食券の束。
それから真華の細い腕。
視線が、少しだけ迷った。
俺は見なかったふりをした。
見なかったふりをしたかった。
カウンター席に並んで座る。
真華は嬉しそうに水を取って、俺の分まで置いてくれた。
「はい、蓮くん!」
「珍しく気が利くな」
「珍しく!?」
「いや、いつも気が利く。たぶん」
「たぶんって言った! 蓮くん、今たぶんって言ったよね!?」
「聞き間違いだ」
「聞き間違いじゃないよ!? 私は聞いたよ!?」
真華が頬を膨らませる。
いつも通りの顔。
いつも通りの声。
俺は少し笑った。
注文したラーメンが来ると、真華の表情はさらに明るくなる。
湯気の向こうで、赤い目がきらきらと光った。
「……おいしそう!」
「よかったな、味玉」
「うん! 今日の主役だね!」
「主役はラーメンだろ」
「味玉も主役になれるよ! 蓮くん、もっと可能性を信じて!」
「味玉の可能性って何だよ」
真華は箸を割り、手を合わせる。
「いただきます!」
その声が嬉しそうで、俺は少しだけ安心した。
最初の一杯が空になるまで、五分もかからなかった。
真華は急いでいるようには見えない。
麺を啜る。
スープを飲む。
味玉を半分に割って、目を輝かせる。
餃子を一つ。
唐揚げを一つ。
合間に半チャーハン。
動きは落ち着いている。
なのに、器だけが減っていく。
ラーメンの丼が空になる。
餃子の皿が空になる。
唐揚げの皿に紙だけが残る。
半チャーハンの器から米粒が消える。
店員が替え玉を持ってきた時、真華はにこっと笑った。
「ありがとうございます!」
ちゃんと可愛い笑顔だった。
その笑顔の前に、空の皿が並んでいなければ。
「蓮くん、チャーシュー一枚だけ!」
「一枚だけって顔じゃない」
「じゃあ半分!」
「減ったようで増えてる」
「恋人なら分け合うものだよ!」
「都合のいい時だけ恋人を持ち出すな」
「だめ?」
上目遣い。
分かってやっているのか、素なのか。
最近、その区別がつかなくなってきた。
「……半分だけな」
「やった!」
「味玉はやらん」
「まだ何も言ってないよ!?」
「目が言ってる」
「蓮くん、私のことよく見てるね!」
「そういう意味じゃない」
真華は嬉しそうに笑って、俺から半分奪ったチャーシューを口に入れる。
幸せそうだった。
その顔を見ると、まあいいかと思ってしまう。
よくない。
たぶん、よくない。
でも、今はまあいい。
替え玉は一回では終わらなかった。
二回目の替え玉券を買いに行く時、真華は少しだけ俺を見る。
「蓮くん!」
「何」
「行ってもいい?」
「……食えるなら」
「うん!」
真華は元気よく頷いた。
食券機の前で、また電子音。
ぴっ。
ぴっ。
戻ってきた真華の手には、替え玉券が二枚あった。
「一枚って話じゃなかったか?」
「予備!」
「替え玉券に予備って概念あるんだ」
「あるよ! 安心感が違うよ!」
店員が、カウンターの上の空皿を下げる手を、一瞬だけ止めた。
真華の顔。
皿。
もう一度、真華の顔。
最後に、なぜか俺。
俺を見るな。
三回目の替え玉が来た頃には、隣の席にいた会社員が箸を止めた。
真華は気づいていない。
いや、気づいていないふりをしているのかもしれない。
麺を啜る。
スープを飲む。
水を一口。
また麺を啜る。
それだけなら、ただの大食いに見えたかもしれない。
でも、真華の表情に苦しさはない。
満腹を押し込める顔ではない。
無理に詰め込む顔でもない。
むしろ、まだ普通に会話できる余裕すらある。
「蓮くん、次は塩もいいかも!」
「次の話をするな。今食ってる途中だろ」
「今おいしいから、次も考えちゃうんだよ!」
「前向きすぎる」
「ラーメンに対しては前向きでいたい!」
元気だった。
元気すぎた。
その元気さの横で、空の器だけが増えていく。
俺のラーメンは、まだ半分も減っていない。
真華の丼は、また空になりかけている。
湯気の向こうで、赤い目が細くなった。
おいしいものを食べている時の顔。
そう思いたかった。
けれど、ふとした瞬間、真華の箸が止まる。
麺はもう残っていない。
スープもほとんどない。
それなのに、真華は箸を置かない。
空の丼の底を、箸先で軽くなぞっている。
かつん。
小さな音。
かつん。
また。
厨房では誰かが「替え玉一丁」と声を出している。
隣の客が水を注ぐ。
入口の引き戸が開いて、外の冷たい空気が一瞬だけ足元を撫でた。
真華はそちらを見なかった。
いつもの真華なら、たぶん少しだけ反応する。
振り向かないまでも、目くらいは動く。
けれど今は、空の丼を見ていた。
いや。
見ているようで、見ていない。
「真華?」
名前を呼ぶ。
返事はない。
俺は少しだけ身を引いた。カウンター席の椅子が、床を小さく鳴らす。
その音に、真華の目が動いた。
ゆっくり。
俺の顔ではなく、手元へ。
袖口。
手首。
皮膚の下で、脈が動いている場所。
ラーメン屋の中は暑い。
湯気もある。
油の匂いもある。
隣の客は普通に麺を啜っている。
なのに、背中だけが冷えた。
「……真華」
もう一度呼ぶ。
真華の唇が、少しだけ動いた。
けれど、返ってきたのは俺の名前ではなかった。
「熱い」
小さな声だった。
聞き間違いかと思った。
でも、真華の目は俺の手首に落ちたまま。
「そこ、動いてる」
箸が、カウンターの上に置かれる。
音はしなかった。
いつもの真華なら、ここで慌てる。
「ごめんね、変なこと言った!」と笑って、無理にでも明るく戻ろうとする。
でも今は違った。
真華は謝らない。
笑わない。
ただ、俺の袖口を見ている。
俺は手を引こうとした。
真華の顔は動かなかった。
目だけが動く。
ほんの少しも遅れず、俺の手首を追った。
その滑らかさが嫌だった。
人が人を見る時の目じゃない。
相手の表情を探る目でも、言葉を待つ目でもない。
動いた場所を、ただ追う目。
「真華、俺を見ろ」
声が少し震えた。
真華の目が、少しだけ上がる。
けれど、俺の顔までは届かない。
喉元で止まった。
「そこも」
真華が言った。
「動いてる」
反射的に喉を押さえそうになって、止めた。
止めたのが正解だったのか、間違いだったのか分からない。
ただ、手を動かすのが怖かった。
真華の目が、それを追う気がした。
「近い」
声が、さらに平らになる。
「いいにおい」
その言葉だけで、胃の奥が冷えた。
いつもの真華の「いいにおい」とは違う。
ラーメン屋の前で楽しそうに言う声じゃない。
ポップコーンを抱えて笑う声でもない。
俺の名前を大事そうに呼ぶ声でもない。
もっと静かで。
もっと、近い。
俺を安心させようとしていない声。
「真華」
今度は強く呼んだ。
真華の睫毛が揺れる。
赤い目が、ようやく俺の顔を探そうとする。
でも、途中でまた落ちる。
手首へ。
「真華!」
少しだけ大きな声になった。
隣の客がこちらを見た。
店員も一瞬、手を止める。
店内の音が戻ってくる。
湯切り。
会計の音。
誰かの笑い声。
その中で、真華が瞬きをした。
一度。
二度。
「……蓮、くん?」
やっと、俺の名前だった。
真華の目が俺の顔に戻る。
戻った瞬間、真華は自分の手を見た。
俺の方へ伸びかけていた指。
「ちが」
声が引っかかる。
「違う、ちが、違うの。今の、違う。私、見てない。そんな、そんなふうに見てないよ」
真華は慌てて手を引っ込めた。
胸元に押しつけるみたいにして、もう片方の手で包む。指先だけがまだ震えている。
「だって、蓮くんだよ? 蓮くんなのに。食べ物じゃ、ないのに。私、そんな目で……見てない、見てないよね?」
最後だけ、俺に縋るみたいな声だった。
でも真華の目は、俺の顔を見きれない。
俺の目まで上がりかけて、途中で落ちる。
自分の手へ。
さっき伸びかけた指へ。
「私、何見てた? 今、何見てたの? 蓮くんの顔、見てた? 見てなかった? やだ、待って、違う、そんなの……」
真華は息を吸った。
吸ったのに、次の言葉はうまく出てこなかった。
「ごめ、ん」
真華の声が、店のざわめきに紛れかける。
「ごめんね、蓮くん。違うの。違うって言っても、でも、私……私が、見てたんだよね」
膝の上で、自分の手を握りしめる。
動かないように。
どこにも伸びないように。
「痛く、してない?」
それから、恐る恐る俺を見る。
今度はちゃんと顔を見ようとしていた。
「触った? 私、蓮くんのこと、掴んだ?」
「触ってはない」
「……怖かった?」
俺はすぐに答えられなかった。
その沈黙だけで、真華の顔が少し歪む。
「怖かった」
声にすると、真華の肩が震えた。
俺も震えていた。
たぶん。
「今のは、怖かった」
「……うん」
真華は頷いた。
目を逸らさない。
逸らしたいのを、必死にこらえているみたいだった。
「言ってくれて、よかった」
「よかったって顔じゃない」
「うん。よくない。全然、よくない」
真華は両手を膝の上で握った。
指先が白くなる。
「でも、言われなかったら……私、分からなかったかもしれない。蓮くんを見てるつもりで、蓮くんじゃないところを見てた」
「……ああ」
「ごめんね」
謝る声は、いつもの真華に近かった。
けれど、空の器の底には、さっきの音がまだ残っている気がした。
かつん。
かつん。
もう何も入っていない器を、まだ探していた音。
俺はその音を、しばらく忘れられそうになかった。
「……店、出るか」
「うん」
真華は頷く。
「残したら、悪いよね」
「もう食べただろ」
「うん。食べた。ちゃんと食べた。お腹はいっぱい」
自分に言い聞かせるみたいな声。
会計の時、店員が食券の半券を見て、少しだけ目を動かした。
カウンターの上に残った皿。
真華の顔。
それから俺。
何も言わない。
誰も何も言わない。
だから余計に、皿の数だけが残る。
店を出るまで、真華は何度も「お腹はいっぱい」と小さく呟いた。
駅前の明かりは、ラーメン屋の中より少し冷たい。
夜になりきる前の時間。
空の端にはまだ夕方の赤が残っていて、街灯の白い光と混ざっていた。
真華は俺の隣を歩いている。
いつもより少しだけ距離がある。
俺が離れたのではない。
真華が、自分で少し離れていた。
「……ごめんね」
「何回目だよ」
「数えてない」
「なら、もういい」
「よくないよ」
足元を見る真華の声は、小さい。
「蓮くん、怖かったでしょ」
「怖かった」
今度は、少しだけ早く言えた。
真華の肩が小さく揺れる。
「……そっか」
「でも、言っただろ。それで終わりにしたいわけじゃない」
「うん」
「ただ、近いのは少し怖い。今は」
真華は小さく頷いた。
「今は、だね」
「ああ」
「じゃあ、今は離れる」
半歩。
本当に小さな半歩。
でも、その半歩が今の真華には必要なのだと分かった。
駅前の明かりが少し途切れる路地に差しかかる。
店の裏手につながる細い道。
人通りが減り、看板の光も弱くなる。
足元の影が、少し濃い。
そこで、真華の足が一瞬だけ止まった。
俺はすぐに気づく。
真華は俺の袖口を見ていた。
さっき触れかけた場所。
そこを、ほんの一瞬だけ。
すぐに目を逸らす。
「……ごめん」
「何もしてないだろ」
「うん」
真華は笑った。
壊れそうな笑い方だった。
「まだ、してない」
その言い方が、しばらく耳に残った。
翌日の昼休み。
俺は保健室の前にいた。
怪我をしたわけではない。
体調が悪いわけでもない。
ただ、昨日のことを白鷺先生に話すべきかどうか、朝からずっと迷っていた。
真華は今日は普通にしている。
購買でパンを買い、俺を見て笑い、いつも通りに、少しだけ距離を空けて立っていた。
それが逆に、胸に残った。
保健室の扉をノックすると、中から「どうぞ」と声がする。
白鷺先生は書類に目を通していた。
俺を見ると、驚きもせずに書類を伏せる。
「蛍原くん」
「……少し、いいですか」
「うん」
消毒液と洗剤の匂い。
窓際で揺れる白いカーテン。
四話の日のことを思い出す。
真華がベッドで眠っていた日。
先生が、赤羽根さんは人間じゃない、と静かに言った日。
「昨日、言いました」
立ったまま、声を出す。
「怖いって」
白鷺先生の目が、少しだけ細くなる。
「言えたんだね」
「……はい」
「赤羽根さんは?」
「傷ついたと思います。でも、聞いてくれました。距離も取ってくれました」
「そっか」
先生は静かに息を吐いた。
「えらかったね」
「えらいんですか、これ」
「少なくとも、怖くないふりをするよりはずっといい」
白鷺先生は立ち上がり、棚の上に置かれた紙コップを整える。
いつも通りの動き。
少しだけ低い声。
「でも、言えたから終わりじゃないよ」
「……分かってます」
「本当に?」
すぐには答えられなかった。
先生は責めない。
ただ、俺を見る。
「赤羽根さんは、たぶんこれからもっと傷つく。君もね。怖いって言葉は必要だけど、言えば全部が解決する魔法じゃない。むしろ、ちゃんと傷が見えるようになるだけのこともある」
胸の奥が重くなる。
分かっていたはずなのに、言葉になると逃げ場がない。
「それでも、言わないよりはましなんですよね」
「うん」
先生は頷いた。
「ただ、次に同じことがあったら、無理に恋人として支えようとしないで。まず、距離を取って」
「それ、傷つけませんか」
「傷つくよ」
即答。
「でも、近づきすぎて壊れるよりは、ずっといい」
白いカーテンが揺れる。
窓の外で、誰かが笑っていた。
普通の昼休みの音。
それなのに、先生の言葉だけが保健室の中に重く残る。
「赤羽根さんは、食べれば全部落ち着くわけじゃない。昨日、君も見たんでしょう」
「……はい」
「お腹がいっぱいでも、足りないものがある。そこを間違えないで」
頷く。
昨日の真華の声が蘇る。
お腹は、いっぱいなの。
ここが、まだ落ち着かない。
蓮くんの匂いの方が、先にくる。
喉の奥がざらついた。
「蛍原くん」
「はい」
「怖かった?」
少し黙る。
昨日よりは、答えるのに時間はかからなかった。
「怖かったです」
「うん」
「でも……それだけじゃないです」
先生は小さく頷いた。
「それを、忘れないで」
保健室を出ると、廊下の向こうに真華がいた。
偶然なのか、待っていたのかは分からない。
真華は俺を見て、少しだけ笑う。
いつもの大きな笑顔ではない。
でも、逃げる顔でもなかった。
「蓮くん」
「真華」
「先生と話してた?」
「ああ」
「そっか」
真華は少しだけ視線を落とす。
それから、俺の方へ半歩近づきかけて、止まった。
自分で止まった。
そのことが、少しだけ痛い。
「……ラーメン、しばらくやめる?」
小さな声。
俺は少し迷った。
やめた方がいいのかもしれない。
でも、真華から食べる楽しみを全部取り上げるのは違う気がした。
「やめなくていい」
真華が顔を上げる。
「ただ、次からは俺の袖に触る前に言え」
「……うん」
「あと、チャーシューは半分まで」
「そこは変わらないんだ」
「変わらない」
真華は少しだけ笑った。
その笑顔に、少し救われる。
けれど、完全には安心できない。
たぶん真華も、同じだった。
「蓮くん」
「何」
「私、昨日からずっと、お腹はいっぱいだったんだよ」
「……ああ」
「でも、いっぱいなのに、まだ空いてるみたいで。自分でも、どこが空いてるのか分からなかった」
真華は自分の胸元に手を当てる。
喉でも、腹でもなく、ちょうどその間。
「そこが、怖かった」
赤い目が、少しだけ揺れた。
「私、蓮くんを怖がらせたのに、自分も怖かったって言うの、ずるいかな」
「ずるいかどうかは分からん」
正直、それしか言えなかった。
「でも、怖かったなら怖かったって言えよ」
真華は一瞬だけ目を丸くする。
それから、小さく頷いた。
「……うん」
廊下の窓から、昼の光が入っている。
昨日の夕焼けとは違う、白い光。
それでも、真華の赤い髪は少しだけ羽みたいに見えた。
お腹はいっぱいだった。
真華はちゃんと食べた。
ラーメンも。
替え玉も。
餃子も。
唐揚げも。
半チャーハンも。
味玉も。
俺のチャーシューも半分。
それでも、まだ落ち着かなかった。
食べても満たされないものがある。
そのことを、俺も真華も知ってしまった。
そして、知ってしまったものは、もう知らなかったことにはできない。