赤い鳥は蛍を食べない   作:ゆゆゆい

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伝えたいものと、実際に出力される文がなんとなくずれてしまいます
表現って難しいですよね

このような稚拙な文ですが読んでいただけると幸いです


押さえつけた手

第八話

 

 それからしばらく、真華(しんか)は少しだけ距離を取るようになった。

 

 廊下で会えば、ちゃんと手を振る。

 購買の新作パンを見つければ、相変わらず目を輝かせる。

 俺の席まで来て「(れん)くん、今日の焼きそばパンは具が多いよ!」と報告してくる。

 

 そこまでは、いつも通り。

 

 ただ、近づきすぎる前に止まる。

 

 伸びかけた手が、途中で戻る。

 肩が触れそうになると、半歩ぶんの隙間ができる。

 俺の袖口へ落ちた視線は、気づいた瞬間に別の場所へ逃げる。

 

 気を遣われている。

 

 それが分かるから、こっちもどう反応すればいいのか分からない。

 

 湯気の向こうで、真華は俺を見ていなかった。

 

 俺の顔ではなく、手首を見ていた。

 喉を見ていた。

 動いている場所を見ていた。

 

 あれ以来、真華は俺に近づくたび、どこかで自分の手を止めるようになった。

 

 それは正しい。

 

 たぶん、正しい。

 

 でも、正しいことが毎回気持ちいいとは限らない。真華が一つ我慢するたび、胸の奥に小さな引っかかりが残る。

 

「蓮くん」

 

 放課後の廊下。

 

 呼び止められて振り向くと、真華がノートを一冊抱えて立っていた。

 

「勉強、教えて!」

 

「珍しいな」

 

「珍しくないよ! 私だって勉強するよ!?」

 

「いや、食べ物以外のことでそんなに真剣な顔してるのが珍しい」

 

「失礼だよ! ちょっとだけ当たってるけど!」

 

「当たってるのかよ」

 

 頬を膨らませる真華は、いつもの真華だった。

 

 少し安心する。

 

 その安心のすぐ後ろに、警戒している自分がいる。そういう面倒な癖が、最近増えた。

 

「で、何の勉強?」

 

「数学」

 

「俺に聞く相手を間違えてないか?」

 

「蓮くんは平均よりは上でしょ?」

 

「評価が現実的で嫌だな」

 

「大丈夫! 平均より上なら、私には十分すごい!」

 

「褒められてる感じがしない」

 

 真華はへらっと笑った。

 

 けれど、その足は俺から少し離れたところで止まっている。

 

 以前ならもっと近かった。ノートを広げる前から、肩が当たるくらい近づいてきていたと思う。

 

 今は廊下の幅半分くらいの距離。

 

 遠いわけではない。

 近いわけでもない。

 

 ちょうど、白鷺(しらさぎ)先生が言っていた「距離」という言葉を、真華なりに形にしたみたいだった。

 

「図書室行くか?」

 

「今日は閉まってた。先生たちが会議で使うんだって」

 

「じゃあ教室でいいだろ」

 

「人がいると、ちょっと」

 

 そこで真華の声が少しだけ落ちる。

 

 ノートを抱える指に力が入っていた。

 

「……蓮くんと、普通に話せないかも」

 

「普通に?」

 

「うん。なんか、見られてると緊張する」

 

「お前が?」

 

「私が!」

 

「珍しい」

 

「珍しくないよ! 私だって緊張するよ!?」

 

 怒ったように言う真華は、ちゃんといつもの真華だ。

 

 でも、その「緊張」の中身を考えると、少しだけ笑えなくなる。

 

 俺たちは、校舎の端にある空き教室へ向かった。

 

 普段は使われていない教室だ。文化祭の準備や、委員会の荷物置き場にされることが多い。

 

 保健室からは少し近い。

 

 それを選んだのは、たぶん俺だけではなかった。

 

 真華も何も言わなかったけれど、保健室へ続く廊下の位置を一度だけ見ていた。

 

 空き教室には、夕方の光が斜めに入っている。

 

 黒板の端には、誰かが消し損ねた白い線。

 後ろへ寄せられた机。

 重ねられた椅子。

 開けっぱなしの窓から入る風に、ゆっくり揺れるカーテン。

 

 外からは、運動部の声がする。

 

 笛の音。

 ボールが跳ねる音。

 誰かが笑う声。

 

 普通の放課後だった。

 

「ここなら大丈夫かな?」

 

 真華が教室の中を見回す。

 

「何が?」

 

「人があんまり来ないし」

 

「まあ、たぶん」

 

「あと、白鷺先生のところも近いし」

 

 自分で言って、真華は少しだけ気まずそうに笑った。

 

「……変かな」

 

「変じゃないだろ」

 

「ほんと?」

 

「俺も、少し安心した」

 

 言うと、真華の目が丸くなる。

 

 それから、ほんの少しだけ笑った。

 

「そっか」

 

「ああ」

 

「じゃあ、安心して数学できるね!」

 

「数学に安心要素はない」

 

「蓮くん、数学に恨みでもあるの?」

 

「平均より上程度の人間には、数学はだいたい敵だ」

 

 真華はまた笑った。

 

 俺たちは、窓際に近い机を一つ引っ張ってきて、向かい合うように座る。

 

 真華がノートを広げた。

 

 字は意外と丁寧だった。

 

 ただし、ところどころにラーメンの落書きがある。

 

「これ数学のノートだよな?」

 

「うん」

 

「ラーメンがいる」

 

「集中力が切れた時の名残だよ」

 

「頻繁に切れてるな」

 

「ラーメンは心の栄養だから!」

 

「数学中に摂取するな」

 

 えへへ、と真華が笑う。

 

 その手にはシャーペン。机一つ分の距離。普通の距離。たぶん、安全な距離。

 

 そう思っていた。

 

「ここが分からないんだけど」

 

 真華がノートをこちらへ向ける。

 

 俺は式を覗き込んだ。

 

「ここ、符号が逆」

 

「符号?」

 

「マイナスがプラスになってる」

 

「あっ、本当だ!」

 

 身を乗り出した拍子に、赤い髪が机の上へ流れた。

 

 近い。

 

 そう思った瞬間、真華が自分で止まる。

 

 肩が触れる少し手前。

 

 そこで、ぴたりと。

 

「あ」

 

 小さな声。

 

「ごめん。近かった?」

 

「……少し」

 

「そっか」

 

 真華は身体を戻した。

 

 戻しすぎなくらい戻したせいで、椅子の背が小さく鳴る。

 

 胸の奥が、また引っかかる。

 

 近いと怖い。

 でも、離れすぎると痛い。

 

 面倒くさい。

 

 俺も、真華も。

 

「別に、そこまで下がらなくても」

 

「えっ」

 

「いや、危なかったら言うから。普通にノート見るくらいなら……まあ、いい」

 

 言った直後、少しだけ後悔した。

 

 真華の顔がぱっと明るくなったからだ。

 

「ほんと!?」

 

「声がでかい」

 

「ごめん! でもほんと!?」

 

「ほんと。たぶん」

 

「たぶん?」

 

「いや、ほんと」

 

 椅子が少しだけ寄る。

 

 少しだけ。

 

 けれど、さっきより近い。

 

「じゃあ、ここは?」

 

「そこも符号」

 

「また?」

 

「また」

 

「符号って意地悪だね」

 

「お前が雑なだけだ」

 

「蓮くん、厳しい!」

 

 真華が笑いながらノートを覗き込む。

 

 その時、俺のシャーペンが机の端から転がった。

 

「あ」

 

 拾おうとして手を伸ばす。

 

 同じタイミングで、真華も手を伸ばした。

 

 指がぶつかる。

 

 真華の指先が、俺の手首に軽く触れた。

 

 一瞬だけ、二人とも止まる。

 

 湯気の匂いが、喉の奥に戻ってきた。

 

 白い丼の底。

 かつん、という音。

 俺の袖口を見ていた赤い目。

 

 俺が何か言うより先に、真華の手が引っ込む。

 

「ご、ごめん!」

 

「いや、今のは別に」

 

「触った」

 

「触ったけど、ぶつかっただけだろ」

 

「うん。ぶつかっただけ。ぶつかっただけだよね」

 

「俺に確認するな」

 

「確認しないと不安なの!」

 

 真華はそう言って、少しだけ笑った。

 

 その笑い方がぎこちなくて、俺も少しだけ無理に笑う。

 

 シャーペンは机の下に転がっていた。

 

 俺が拾う。

 

 その間に、真華の指がノートの端を押さえる。

 

「蓮くん」

 

「何」

 

「私、ちゃんとできてる?」

 

 何を、と聞きそうになってやめた。

 

 数学の話ではない。

 

 距離の話だ。

 

 近づきすぎないこと。

 見すぎないこと。

 触れすぎないこと。

 

 真華は真面目な顔をしていた。

 

 さっきまで符号に怒っていた顔ではない。

 

「……できてる」

 

「ほんと?」

 

「少なくとも、今は」

 

「今は」

 

「そこを拾うな」

 

「だって、大事だから」

 

 真華は小さく頷いた。

 

「今は、できてる」

 

 自分に言い聞かせるみたいだった。

 

 俺は何か言おうとして、うまく言葉が出ない。

 

 その間を埋めるように、廊下の向こうから誰かの笑い声が聞こえた。

 

 普通の学校の音。

 

 それがあるから、まだ大丈夫だと思えた。

 

 たぶん、油断した。

 

「蓮くん、ここも見て!」

 

 真華がノートを引き寄せようとした。

 

 俺も覗き込もうとして、椅子を少し寄せる。

 

 机の脚が床を鳴らした。

 

 その音に、真華の肩が小さく跳ねる。

 

 俺は反射で手を出した。

 

「悪い、驚かせた?」

 

「ううん、大丈夫!」

 

 明るい返事。

 

 けれど、勢いで俺の手を掴んでいた。

 

 手首。

 

 さっきぶつかった場所。

 

 白い丼の底を叩く音が、頭の奥で小さく鳴った。

 

「真華」

 

「あ、ごめ——」

 

 真華は離そうとした。

 

 たぶん、本当に。

 

 でも、その前に俺の身体が先に反応する。

 

 手を引いた。

 

 ほんの少し。

 

 逃げるみたいに。

 

 真華の指が止まる。

 

 笑顔も止まった。

 

「……蓮くん?」

 

 その声には、まだ真華がいた。

 

 心配そうで、少し焦っていて、俺を見ようとしている真華。

 

 俺はすぐに言えばよかった。

 

 大丈夫だ、と。

 

 今のは反射だ、と。

 

 けれど、手首を掴まれた瞬間に、喉の奥が詰まっていた。

 

 もう一度、腕を引く。

 

 今度は、はっきりと。

 

 動かない。

 

「……え」

 

 声が漏れたのは、俺だった。

 

 真華ではない。

 

 細い指が手首に乗っているだけに見える。強く握られているわけじゃない。痛くもない。

 

 なのに外れない。

 

「真華、手」

 

「え?」

 

「離して」

 

「あ、うん」

 

 真華が頷く。

 

 でも、指は離れなかった。

 

 自分でも気づいていないみたいに。

 

 もう一度、腕を引く。

 

 がたん、と机が大きく鳴った。

 

 重ねてあった椅子の一つが、少し揺れる。

 

「真華、離せって」

 

「え、あ、蓮くん?」

 

「離せ。今、普通に」

 

 怖い。

 

 そう言う前に、腕へ力が入っていた。

 

 肩を後ろへ引く。肘を曲げる。身体ごと逃がそうとする。

 

 手首の皮膚だけが、真華の指の下で少しずれた。

 

 外れない。

 

 真華の表情が変わる。

 

 最初は、痛がらせたかもしれないという顔。

 

 それが、俺の腕の動きにつられて落ちていく。

 

 顔から、手元へ。

 

 手首。

 

 袖口。

 

 真華の指の下で跳ねる、脈のあたり。

 

「……動いてる」

 

 小さな声だった。

 

 廊下を歩く足音が遠くで止まる。

 

 たぶん、隣の教室の前だ。

 

 真華は反応しない。

 

「真華?」

 

 嫌な感じがした。

 

 俺は足を引いた。

 

 逃げようとした。

 

 けれど、足も動かない。

 

 机の下。

 

 見えない場所で、真華の足が俺の足を止めていた。

 

 絡めているわけでも、踏みつけているわけでもない。逃げ道になる場所に、ただ置かれている。

 

 それだけなのに抜けない。

 

「おい、真華。離せ」

 

 声が硬くなる。

 

 真華の目が、机の下へ落ちた。

 

 見えていないはずの足元へ。

 

 俺が逃げようとした場所へ。

 

「逃げると」

 

 真華の唇が動く。

 

「分かる」

 

「何がだよ」

 

 聞いた瞬間、後悔した。

 

 真華が顔を上げる。

 

 でも目は合わない。

 

 俺の顔の少し下。喉元で止まる。

 

「どこが動くか」

 

 背中が冷えた。

 

 反射で肩を捻る。

 

 手首を抜くために、身体を横へ逃がそうとする。机の角が脇腹に当たって、少し痛い。

 

 その痛みより先に、真華のもう片方の手が肩に乗った。

 

 押さえつける動きではなかった。

 

 ただ、そこに置いただけ。

 

 それだけで、上半身が止まる。

 

 肩を引けない。

 腕を抜けない。

 足をずらせない。

 

 呼吸だけが浅くなる。

 

「真華」

 

 自分の声が、少し遠い。

 

「離せ。今、普通に怖い」

 

 真華の目が揺れた。

 

 一瞬だけ。

 

 戻るかと思った。

 

 けれど、俺が手首を引こうとした時、また目が落ちる。

 

 手首へ。

 

 逃げようとすればするほど、真華の視線がそこに吸い寄せられる。

 

 動くものを追う目。

 

 逃げるものを逃がさない目。

 

 俺の彼女の目ではなかった。

 

「真華、待て」

 

 椅子が傾く。

 

 立ち上がろうとした足が、机の脚に引っかかった。

 

「あっ」

 

 自分の声か、真華の声か分からない。

 

 次の瞬間、背中に衝撃。

 

 床。

 

 痛みより先に、息が詰まった。

 

 視界いっぱいに教室の天井が広がる。

 

 蛍光灯。

 古い染み。

 夕方の光で薄く赤い白い天井。

 

 そして、真華。

 

 倒れ込んできたわけじゃない。

 

 追ってきた。

 

 俺の手首は、まだ真華の指の下。もう片方の手は、肩の横。机の下にあった足は、今度は俺の膝の外側。

 

 起き上がろうとする。

 

 できない。

 

「っ、真華!」

 

 床を蹴る。

 

 足が動かない。

 

 肩を捻る。

 

 そこにあるだけの真華の手が、全部を止める。

 

 腕を引く。

 

 手首が抜けない。

 

 全部が軽い。

 

 真華は息を荒げてもいない。力を込めている顔でもない。

 

 ただ俺の上にいて、逃げようとする場所を一つずつ塞いでいる。

 

 その形が、嫌だった。

 

 人を助け起こす形じゃない。

 

 抱きしめる形でもない。

 

 押さえている。

 

 逃げないように。

 

「真華、待て。おい、待てって。これ、冗談じゃない」

 

 声が上ずる。

 

 自分でも分かった。

 

「離せ。離せよ。なあ、聞こえてるだろ!」

 

 真華の目は、俺の顔を見ない。

 

 手首。

 

 肩。

 

 喉。

 

 床に押さえつけられて動けない場所を、順番に見ている。

 

「熱い」

 

 真華が言った。

 

「そこ、ずっと動いてる」

 

「見るな!」

 

 反射で叫んだ。

 

 真華の目が少しだけ揺れる。

 

 でも、戻らない。

 

 戻ってこない。

 

 床の冷たさが背中に広がる。

 

 右手は押さえられたまま。左手を動かそうとしても、真華の膝が近すぎて上がらない。

 

 上から覗き込まれている。

 

 その事実だけで、息が浅くなる。

 

 肩を押さえていた重さが、首元へ滑った。

 

 喉の横。

 

 そこに、真華の指がある。

 

 絞められているわけじゃない。

 息の道を塞がれているわけでもない。

 

 それなのに、息を吸うのが怖かった。

 

 少し喉を動かすだけで、指先にその動きが伝わる。そこに血が流れていることを、知られてしまう。

 

「っ、真華……!」

 

 呼んだ声が、喉の奥で引っかかった。

 

 その瞬間、触れていたものの形が変わる。

 

 柔らかい指先ではない。

 

 硬い。

 

 曲がっている。

 

 人間の爪ではありえない鋭さが、首筋に沈む手前で止まっていた。

 

 猛禽の鉤爪。

 

 そんな言葉が浮かんで、すぐに消したくなった。

 

 真華は俺を殴っているわけでも、絞めているわけでもない。

 

 ただ、押さえている。

 

 逃げるものが逃げないように。

 

 動く場所を、先に潰すように。

 

 喉が鳴る。

 

 爪の先が、皮膚に引っかかった。

 

 ちり、と熱が走る。

 

 痛みは小さい。

 

 でも、その小ささが余計に怖い。

 

 まだ本気ではない。

 

 まだ食い込んでいない。

 

 そう分かってしまう深さだった。

 

「……赤い」

 

 真華の声が落ちた。

 

 俺の顔ではなく、首筋を見ている。

 

 爪の先。

 滲んだ赤。

 そこだけを、瞬きもせずに。

 

「真華、やめろ。痛い。痛いから、離せって……!」

 

 床を蹴る。

 

 動かない。

 

 手首を引く。

 

 抜けない。

 

 喉元の爪が、俺の動きに合わせてわずかに沈む。

 

 息が詰まった。

 

 怖い。

 

 もう、それ以外の言葉が残らなかった。

 

「蓮くん」

 

 名前が出た。

 

 一瞬、戻ったのかと思った。

 

 違った。

 

 呼び方だけが、形だけ残っていた。

 

「熱い」

 

「やめろ!」

 

 叫んだ声が裏返る。

 

 真華の顔が近づいた。

 

 赤い髪が垂れる。

 

 その先が、髪ではなくなっていく。

 

 一本、二本。

 

 夕方の光を吸った羽がほどけて、俺の顔に赤い影を落とす。

 

 真華の口元が動いた。

 

 笑ったのだと思った。

 

 でも違う。

 

 口角が上がったのではない。

 

 口の端が、横に引かれる。

 

 さらに開く。

 

 人間の顎なら、そこで止まるはずだった。

 

 止まらない。

 

 頬の線が、見慣れた真華の顔から外れていく。唇の奥に、暗いものが見えた。歯が見えた。さっきまでの白い歯とは違う、細く尖った影が、奥にも横にも並んでいる。

 

 口の中が、暗い。

 

 暗いのに、熱い息だけがかかる。

 

 俺の首筋に。

 

 血が滲んだ場所に。

 

「真華、待て。待ってくれ。頼む、真華、俺だ。俺だって!」

 

 俺の声はもう、ほとんど悲鳴だった。

 

 真華の目が少しだけ上がる。

 

 でも、俺の目までは届かない。

 

 また首筋へ落ちる。

 

 鉤爪が、喉元を押さえたまま動かない。

 

 噛まれる。

 

 そう思った。

 

 はっきりと。

 

 次の瞬間には、もう駄目だと思った。

 

「先生……!」

 

 声が裏返った。

 

 その時、教室の扉が開いた。

 

「赤羽根さん」

 

 静かな声だった。

 

 怒鳴り声ではない。

 

 なのに、真華の動きが止まった。

 

 白鷺先生が、扉のところに立っていた。

 

 白衣の裾が、廊下から入ってきた風で少しだけ揺れている。

 

「手を離して」

 

 真華は動かない。

 

 俺の手首を押さえたまま、首元に鉤爪を置いたまま、赤い目だけが揺れる。

 

「赤羽根さん」

 

 先生の声が、もう一段低くなった。

 

「今、あなたが押さえているのは食べ物じゃないよ」

 

 その言葉で、真華の指が震えた。

 

 爪の先が、首筋から離れる。

 

 その瞬間になって初めて、俺は息をしていなかったことに気づいた。

 

 喉がひゅっと鳴る。

 

 吸い込んだ息のせいで、首筋が痛んだ。

 

 手首を押さえていた指も、遅れて緩む。

 

 足元の重さが消える。

 

 身体が自由になる。

 

 自由になったのに、すぐには動けなかった。

 

 床に背中をつけたまま、荒い息だけが勝手に出ていく。

 

 真華の口元が、ゆっくり閉じる。

 

 さっきまで見えていた暗い奥が、何もなかったみたいに隠れる。

 

 伸びていた爪も、人間の指へ戻っていく。

 

 赤い羽も、髪の中へ戻るみたいにほどけていった。

 

 真華は、自分が俺の上にいることにようやく気づいたように、目を見開く。

 

「……蓮、くん?」

 

 戻ってきた声。

 

 でも、俺はすぐに返事ができなかった。

 

 首元が熱い。

 

 痛い。

 

 床の冷たさより、その熱だけがはっきり残っている。

 

 白鷺先生が来なかったら。

 

 その先を、考えてしまったから。

 

「赤羽根さん。離れて」

 

 先生の声は静かだった。

 

 真華はびくりと肩を揺らす。

 

 俺から離れようとして、床についた自分の手を見た。

 

 俺の手首を押さえていた指。

 

 首元に触れていた指。

 

 指先に、赤いものがついている。

 

 そのまま、真華は動けなくなった。

 

「ちが」

 

 声が引っかかる。

 

「違う、ちが、違うの。私、今の、違う。違う、違うよ。蓮くん、私、そんな、そんなこと」

 

 言葉が崩れていく。

 

 白鷺先生が一歩近づいた。

 

「赤羽根さん、まず離れて」

 

「でも、私」

 

「離れて」

 

 もう一度。

 

 真華は、はっとしたように俺から距離を取った。

 

 床の上で後ずさる。

 壁際にぶつかるまで下がって、そこで膝を抱えるように座り込む。

 

 俺はようやく上体を起こした。

 

 首元に手をやる。

 

 指先に、ぬるいもの。

 

 血。

 

 少しだけ。

 

 でも、確かに。

 

 真華がそれを見た。

 

 赤い目が、大きく揺れる。

 

「違うの」

 

 壁際で、自分の口元を押さえている。

 

「違う、違うって言いたいのに、でも……」

 

 赤い目が俺を見る。

 

 今度はちゃんと顔を見ようとしていた。

 

 けれど、目が合う前に揺れる。

 

「私、今、蓮くんのこと……」

 

 言葉が止まる。

 

 止めたというより、出せなかった。

 

 真華は自分の手を見る。

 

 赤がついた指先。

 

 それから、自分の口元に触れる。

 

 さっきまで、人間の形をしていなかった場所。

 

「食べようとした」

 

 声は、ほとんど息だった。

 

 教室の外では、運動部の掛け声が続いている。

 

 普通の放課後の音。

 

 その中で、真華の言葉だけが床に落ちた。

 

「ごめ、ん」

 

 真華の声が崩れる。

 

「ごめんね、蓮くん。ごめん。違うの。違うって言いたいのに、でも、違わない。私、今、蓮くんを……」

 

 最後までは言えなかった。

 

 言わなくても分かった。

 

 真華は両手をぎゅっと握る。

 

 指先が白くなる。

 

 その手が、もうどこにも伸びないように。

 

「痛く、した」

 

 真華が言った。

 

 俺に聞く声ではなかった。

 

 見れば分かることを、信じたくなくて、でも否定できなくて、口から落としているだけの声だった。

 

「血、出てる」

 

「少しだ」

 

 言ってから、少しだけ失敗したと思った。

 

 真華の表情は楽にならない。

 

 当然だった。

 

「少しでも」

 

 真華は首を横に振る。

 

「私が、やった」

 

 白鷺先生が、俺の首元を見る。

 

「蛍原くん、保健室に行こう。消毒する」

 

「……はい」

 

 立とうとして、膝に力が入らなかった。

 

 先生がそっと手を貸してくれる。

 

 その手は普通の力だった。

 

 普通の人間の手。

 

 それだけで、少し息がしやすくなる。

 

 真華はそれを見て、また自分の手を握った。

 

 床に落ちていたシャーペンが、夕方の光を受けて転がっている。

 

 最初は、ただの勉強だった。

 

 ただのじゃれ合いだった。

 

 ノートを覗き込んで、符号が違うと笑って、近い近くないで言い合うだけの放課後。

 

 それが、一瞬で変わった。

 

 俺は、真華の口が人間の形ではなくなるところを見た。

 

 俺は、真華に押さえつけられて動けなかった。

 

 首元には、真華の爪の跡が残っている。

 

 そして、白鷺先生が来なければ。

 

 その先は、考えたくなかった。

 

 考えたくないのに、考えてしまった。

 

 真華は壁際で、ずっと自分の手を見ていた。

 

 さっきまで、俺を押さえつけていた手を。

 

 血のついた指先を。

 

 何度も、何度も。

 

 まるでそれが、自分のものではないみたいに。

 




真華ちゃんは鳥さんです

鳥なので相手が自分から逃げられないって思ったら狩猟スイッチが入っちゃったみたいですね、特に猛禽類とかって獲物を食べる時って足で押さえつけて食べるでしょう?あれですね
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