これが彼女の武器。その名もどんな時でもドスケベハート   作:すばみずる

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グッとガッツポーズしただけで5匹くらい吹き飛ぶ

 静寂に包まれていた礼拝堂の空気が、乱暴に開け放たれた扉の音によって引き裂かれた。

 

「誰か、誰か来てくれ! 早く、死んじまう!」

 

 悲痛な叫び声とともに、土埃と生温かい血の匂いが神聖な祈りの場へと雪崩れ込んでくる。石造りの厳かな空間に響き渡る絶叫は、平穏な祈りを捧げていた街の人々や若い見習い神官たちを恐慌状態に陥れた。

 

 色鮮やかなステンドグラスの光が、運び込まれてきた二人の男たちの凄惨な姿を容赦なく照らし出していた。

 

 二人はいずれも厚い革鎧と金属の小手で身を固めた冒険者のようであったが、その装備は原型を留めないほどに無残に引き裂かれ、赤黒い染みで覆い尽くされている。

 

 とりわけ凄惨だったのは、仲間に肩を貸されて辛うじて立っている男の傍らで、担架代わりにされた泥だらけの外套の上に横たわる大柄な男の姿だった。

 

 彼の右肩から先は不自然なほどに何もなく、封印の魔術の込められた布で覆われていた。治療の為に布が取られると無惨に引きちぎられたような断面が露わになり、おびただしい量の鮮血が石畳へと滴り落ちて生々しい血溜まりを広げている。霊薬によって辛うじて延命しているようだが、明らかに漏れ出る命の方が多い。

 

 男の顔はすでに失血によって蝋のように青白く、呼吸はひどく浅く、今にもその命の灯火が消え去ろうとしていることは誰の目にも明らかであった。

 

「すぐに手当てをいたします。皆、下がって」

 

 喧騒と混乱の渦巻く中を、静かに、しかしよく通る凛とした声が響き渡った。

 

 透き通るような銀糸の長髪を揺らしながら、司祭のメイチェルは二人の元へと駆け寄る。

 

 彼女の身を包む純白の法衣は、神への奉仕を示す厳格な意匠でありながら、持ち主の規格外の肉体を隠し切ることは全くできていなかった。

 

 歩みを一つ進めるたびに、法衣の胸元がはち切れんばかりに持ち上がり、豊満すぎる双丘が重力に抗うように大きく波打つ。引き締まった細い腰から連なる肉感的な尻のラインは、タイトな仕立ての布地を通して滑らかに浮き彫りになり、彼女の動作の一つ一つにひどく扇情的な魅力を付加していた。

 

 しかし、周囲の者たちがその魅惑的な肢体に不躾な視線を向けることはない。彼女の慈愛と強い意思を宿す紅色の瞳が、ただ真っ直ぐに傷ついた者たちの命の循環だけを見つめ、何者にも犯しがたい神聖な気配を放っていたからだ。

 

 メイチェルは高位聖職者にのみ纏う事が許された純白の法衣が汚れることも厭わず、迷うことなく広がる血だまりの中に膝をついた。赤黒く滲む血すら慈しむように、両手を胸の前で静かに合わせる。

 

 指を交差させず、掌を密着させたまま天へと真っ直ぐに伸ばすその姿勢は、世界を支える大樹の力強い幹と枝を自らの身体で模した、広く信奉される脊界樹教の最も神聖な祈りの儀礼であった。

 

「大いなる幹よ、星の脈絡よ。今ここに途切れゆく葉脈を繋ぎ止め、再びの循環を与え給え」

 

 紡がれる透き通った祈りの言葉とともに、メイチェルの手から淡く温かな翠緑の光が溢れ出した。

 

 それは彼女自身を脊界樹の末端の枝葉と見立て、星の脊髄から直接的に生命力を引き出して行使する奇跡の御業である。

 

 輝く光の粒子は宙を舞い、腕を失い死の淵を彷徨う男の傷口へと一斉に吸い込まれていく。無惨な断面からの出血がたちどころに止まり、千切れた血管や筋肉の繊維が、まるで時間を巻き戻すかのように淡い光の中で蠢き、強引に塞がれていく。

 

 失われた腕そのものを再生することは叶わないものの、男の顔にわずかながら血の気が戻り、笛の音のようにか細い呼吸が次第に穏やかなものへと変わっていった。

 

 もう一人の、全身に深い裂傷を負った男への治癒も同様に行われていく。致命的な状態からの脱却が確認されると、周囲を囲んでいた他の神官たちから安堵の深い吐息が漏れた。

 

「助かっ、たのか」

 

 床に座り込んだままの男が、信じられないというように自身の完全に塞がった傷跡に触れる。

 

「はい。お二人の命の危機は脱しました。ですが、お連れの方の失われた腕は……私では……」

 

 メイチェルは悲しげに目を伏せ、静かに首を振った。

 

「いや、いいんだ。あんな化け物に遭遇して、生きて帰れただけでも奇跡みたいなもんだ。司祭様、あんたの奇跡がなけりゃ、俺たちは二人とも確実にあの世行きだった。本当に、感謝する」

 

 男は涙声でそう言うと、深く頭を下げた。

 

「化け物、とは。いったい何があったのですか。貴方ほどの実力を持つ熟練の冒険者が、これほどの重傷を負って逃げ帰るなど」

 

 その穏やかな問いかけに対し、男の顔に再び色濃い絶望の影が落ちた。

 

 男は震える両手で顔を覆い、過去の恐怖を反芻するように絞り出すように語り始めた。

 

「俺たちは四人のパーティで、街の近郊にあるゴブリンの巣穴の調査に向かったんだ。最近、やけに統率の取れた異常な個体が現れたってギルドで噂があったからな」

 

 ゴブリン自体は単体であればそれほど脅威となる魔物ではない。しかし、何らかの理由で変異を遂げた異常種となれば話は別であり、近隣の村々に被害が出る前に間引いておく必要があった。

 

 彼らは慎重に薄暗い巣穴の奥へと進んでいったという。

 

「だが、そこに異常なゴブリンを見つけ出すよりも早く、俺達は逃げ出すしかなかった。巣穴の奥に巨大なトロールがいて、あいつらの傭兵みたいに振る舞ってやがった」

 

 男の言葉に、周囲で話を聞いていた者たちが一斉に息を呑んだ。トロールは強靭な肉体と恐るべき再生能力を持つ凶悪な魔物であり、並の冒険者では何十人束になっても敵わない。

 

「暗がりに逃げるゴブリンを追い掛けたら、いきなり襲われた。こいつの腕は、そのトロールの丸太みたいな腕に一撃で千切られたんだ。まともに戦える状況じゃなかった。俺たちはすぐに撤退を決めたんだが」

 

 そこで男の言葉が途切れた。覆った指の隙間から、大粒の涙が石畳へと零れ落ちる。

 

「暗闇に潜んでいたゴブリンどもが、俺たちの退路を塞ぎやがったんだ。トロールから逃げることに必死で、足元をすくわれた。後衛にいた二人の仲間が、女の魔法使いと斥候が、ゴブリンの群れに足を掴まれて引きずり込まれた」

 

「そのお二人は、置き去りになったのですね」

 

 メイチェルが静かに問いかける。責めるような響きは一切なく、ただ事実を正確に把握するための声だった。しかし、その言葉は男の心を深く抉る。

 

「ああ、そうだ。くそっ。どうしろってんだ。トロールがすぐ後ろまで迫ってて、俺はこいつを背負って無我夢中で逃げるだけで精一杯だった。……あいつらの悲鳴が聞こえてたのに、俺は……見捨てて逃げたんだ……」

 

 男は床を強く叩き、己の無力さを呪うように泣き崩れた。

 

 残された二人の女性の仲間は、今もあの薄暗い巣穴の底で絶望の中にいる。あるいは、すでに無惨に命を落としているかもしれない。その残酷な事実が、礼拝堂の空気をひどく重く沈み込ませていた。

 

 メイチェルの紅色の瞳の奥に、静かな、しかし確かな怒りの炎が宿った。

 

 快楽のために命を弄び、無益な殺生でその循環を阻害する邪悪な存在。そして、暗闇の中で助けを待つ哀れな命たち。

 

 彼女の深く信仰する脊界樹の教義は、そのような理不尽を看過することを決して許さない。

 

「わかりました。私が、その巣穴へ向かいます」

 

 凛とした声が、重苦しい空気を切り裂いた。

 

 男が弾かれたように顔を上げ、周囲の神官たちも一様に驚愕の表情を浮かべる。

 

「残されたお二方を直ちに救出し、巣穴に巣食う邪悪を徹底的に浄化いたします。星の脈絡を乱す外道どもを、このまま放置しておくわけにはいきません」

 

 メイチェルはゆっくりと立ち上がり、毅然とした態度でそう宣言した。

 

「ま、待ってくださいメイチェル司祭様。相手は醜悪なゴブリンやトロールですよ」

 

「貴女様がそのような危険な場所へ護自ら赴くなど。護衛を選定しますので、しばしお待ちを」

 

 他の神官たちが慌てて口々に制止の声を上げる。

 

 しかし、メイチェルの意思は決して揺るがなかった。

 

「待つ時間などありません。今すぐ私が行かねば、誰が救うというのですか。今この瞬間にも、彼女たちの命の灯火は消え去ろうとしているかもしれないのですよ」

 

 反論を許さない強い口調で周囲を沈黙させると、メイチェルはすぐにでも旅の支度を整えるために自らの私室へと向かおうとした。

 

「待ってくれ、司祭様」

 

 その背中を、床に座り込んでいた男が呼び止めた。

 

 メイチェルが足を止め、静かに振り返る。男は悔しそうに血が滲むほど唇を噛み締め、振り絞るような声で告げた。

 

「もう、手遅れだ。行くだけ無駄なんだよ」

 

「手遅れとは、どういう意味ですか。私が赴けば、たとえ危険な状態であっても必ず治療してみせましょう」

 

「そういう問題じゃねえんだよ」

 

 男の悲鳴のような絶叫が礼拝堂に響き渡った。

 

「ゴブリンどもは、捕まえた女をすぐには殺さねえ。あいつらはな、生け捕りにした女を巣穴の奥に監禁して、自分たちの種を産ませるための孕み袋として扱うんだ。今頃あいつらは、気が狂うまで犯され続けてる。心も体も壊されて、もうまともな状態じゃ助けられねえんだよ」

 

 男の口から吐き出された絶望の言葉で、礼拝堂が静まり返る。その言葉を聞いて他の神官が沈鬱な面持ちになる中、メイチェルの時だけが止まったかのようだった。

 

 元はエルフの隠れ里という清浄な環境で長い時を過ごし、純粋な信仰と共に生きてきた彼女にとって、人間の世界の俗悪さ、ましてや魔物の生態がもたらすおぞましい凌辱の現実はあまりにも遠い世界の話であった。

 

「は、らみ、ぶくろ」

 

 メイチェルはその耳慣れない、しかし意味するところの残酷さと卑猥さと直感させる響きを、呆然と口の中で反芻した。下世話な話にまるで耐性のない純朴な彼女の脳髄に、その言葉の持つ極意味合いがじわじわと浸透していく。

 

 透き通るような色白の肌が、瞬く間に耳の先から首筋まで真っ赤に染め上げられていく。

 

 あまりの破廉恥な響きに、メイチェルは極度の羞恥で視線を激しく泳がせ、豊満な胸を両手で覆い隠すように身をすくませた。

 

「そ、そのような、破廉恥な。け、汚らわしい」

 

 呼吸が荒く乱れ、言葉が上手く紡げない。長命なエルフであり、知恵深い聖職者のつもりであったものの、体よく避けていた知識を突き付けられた彼女は年端もいかない少女のように激しい動揺を露わにしていた。

 

 しかし、その羞恥と動揺の底から、次第に猛烈な怒りが湧き上がってくるのを感じていた。

 

 命の循環を司る脊界樹の教えにおいて、新しい命を育む行為は無条件に神聖なものでなければならない。それを暴力で蹂躙し、快楽と繁殖の道具として他の種族を尊厳ごと踏みにじる行為など、到底許されるものではなかった。

 

「それでも」

 

 震える声を必死に押し殺し、メイチェルは顔を上げた。

 

 紅色の瞳には、もはや羞恥の涙は浮かんでいない。

 

「それでも、私なら助けられます。いえ、必ず救い出してみせます」

 

「司祭様、あんた、あの化け物どもの恐ろしさが本当に分かってない。そんな格好で巣穴に入り込めば、あんただって同じ目に遭うんだぞ」

 

「私は、脊界樹の教えを授かりし神徒。星の脈絡は常に私と共にあります」

 

 男の悲痛な警告を、メイチェルは静かに、だが力強く遮った。

 

「命を冒涜する邪悪な存在に、これ以上の悪逆は許しません。私の身を案じてくださるのは感謝いたします。ですが、どうか無事を祈りながらお待ちください」

 

 メイチェルは男に向けて深く一礼をすると、今度こそ振り返ることなく早足で歩み去っていった。

 

 彼女の足取りに一切の迷いはない。

 

 純白のタイトな法衣が翻り、豊満な肉体が歩みに合わせて大きく弾むが、彼女の心はすでに薄暗い巣穴の奥底へと向かっていた。

 

 まだ見ぬ暴力への恐怖と、卑猥な事実への羞恥心は、胸の奥底で確かに渦巻いている。

 

 それでも信仰と規律に殉じるエルフの聖職者は、哀れな魂を救い出すために、忌まわしきゴブリンの巣穴へと一人旅立っていった。

 

 

 *

 

 

 街を出立してから数日後。鬱蒼と生い茂る木々が陽光を遮る深い森の奥で、メイチェルは目的の場所に辿り着いていた。

 

 むせ返るような獣臭と、微かに鼻を突く血の匂いが漂う岩肌の裂け目。そこが、異常な統率を見せるというゴブリンの群れと、凶悪なトロールが巣食う魔物の巣穴であった。

 

 周囲の淀んだ空気とはおよそ不釣り合いな、神聖な純白の法衣に身を包んだメイチェルは、本来であれば緊張感に包まれるべき敵地のど真ん中で不自然なほどに立ち尽くしていた。

 

 透き通るような色白の肌は、耳の先から首筋に至るまで茹でダコのように真っ赤に染まり上がり、浅い呼吸を繰り返すたびに、布地を弾き飛ばさんばかりの巨大な双丘が激しく上下に揺さぶられている。

 

 彼女の脳裏を支配していたのは、数日前に礼拝堂で冒険者の男が口にした言葉だった。

 

 ——あいつらはな、生け捕りにした女を巣穴の奥に監禁して、自分たちの種を産ませるための孕み袋として扱うんだ。

 

 エルフの隠れ里という清浄な世界で育ち、神聖な祈りとともに生きてきた彼女にとって、それはあまりにも縁遠く、そして劇薬すぎる概念だった。

 

 もしも、自分が捕まってしまったら。

 

 醜悪で小柄な魔物たちの群れに、この無駄に育ちすぎた肉体を押し倒され、乱暴に衣服を引き裂かれたら。

 

 無数の汚らわしい手で、この柔らかい胸や、引き締まった腰、無防備な尻を好き勝手にまさぐられ、そして……。

 

 想像の解像度が上がるにつれ、メイチェルの下腹部の奥底に、これまでの長い生涯で感じたことのない未知の熱がじわりと広がり始めた。

 

 恐怖と羞恥心でいっぱいなはずなのに、タイトな法衣の下で太腿を無意識にすり合わせてしまう。エルフとしての純朴さの裏側に隠されていた好奇心、年少の神官から没収したえっちな画集を見てしまった時と同じく抗いようのない好奇心がひどく刺激されてしまっていたのだ。

 

「い、いけません……っ! 聖職者たる者が、なんてはしたない想像を……!」

 

 メイチェルは弾かれたように両手で自身の頬をパシンと叩き、透き通るような銀糸の長髪を勢いよく振って、脳内にこびりついた淫靡な妄想を必死に振り払った。

 

 助けを待つ哀れな被害者がいるというのに、自分自身が陵辱される想像をして顔を赤らめ、あまつさえ微かな興奮を覚えてしまうなど、脊界樹の教えに生きる者としてあってはならない大罪だ。

 

 己の不純な心を厳しく窘めながらも、ドクドクと早鐘を打つ心臓の鼓動を完全に鎮めることはできないまま、メイチェルは両手を胸の前で合わせた。

 

「星の脈絡よ、我が肉の器を強固なる樹皮と成し給え……」

 

 静かな祈りの言葉とともに、淡い翠緑の光が彼女の豊満な肉体を包み込む。

 

 それは脊界樹教の神聖魔法における、初歩的な身体強化の奇跡であった。時に戦地であっても神官たちは赴かねばならず、そのような時に重宝する。

 

 膨大な魔力を以てすれば、岩石すら素手で砕くほどの強靭さを肉体に付与できると聞いたことがあった。もっともメイチェルは争いごとなどしたことがなく、全力の魔力などは込めない。ほどほどに留め、その奇跡を完結させる。

 

 万全の準備を整え、メイチェルは意を決して薄暗い巣穴の入り口へと足を踏み入れた。

 

 その直後だった。

 

「ギギャァッ!」

 

 岩陰の死角から、耳障りな奇声とともに小柄な影が勢いよく飛び出してきた。入り口に潜んでいたゴブリンの奇襲である。遠くからメイチェルを視認していたゴブリンは、その低能さに見合わぬ忍耐力で待ち構えていた。

 

 完全に意識外からの不意打ち。ゴブリンが振り下ろした薄汚いこん棒は、容赦なくメイチェルの銀髪に覆われた頭部へと直撃した。

 

 鈍い音が洞窟の入り口に響き、ゴブリンは女を仕留めたとばかりに下品な笑い声を上げ、勝ち誇ったように牙を剥き出しにした。

 

 しかし。

 

「……あら?」

 

 殴られた当のメイチェルは、痛がる素振りはおろか、瞬き一つせずにきょとんとしていた。

 

 純白の肌には赤み一つ、かすり傷一つついていない。彼女が行使した身体強化の奇跡は彼女自身はほどほどのつもりであっても、低級な魔物であるゴブリンの貧弱な腕力ではそよ風程度にしか感じさせないほどの絶対的な防御力を誇っていたのだ。

 

「ギ、ギギ……!?」

 

 想定外の反応にゴブリンは目玉をひん剥いて驚愕し、パニックに陥りながら再びこん棒を振りかぶる。

 

「あ、えっと……たぁっ」

 

 反射的に、メイチェルは手の中で握り締めていた金属製の重厚な聖杖を、気の抜けた掛け声とともに振り抜いた。

 

 武術の心得など一切ない、ただ横に薙いだだけの素人の一撃。しかし桁外れの強化を得た彼女のその一振りは、大気を引き裂くほどの圧倒的な破壊力を伴っていた。

 

 メチャッ、というおよそ生命体が発してはならない水風船が弾けるような破裂音とともに、ゴブリンの肉体は容易く砕け散り、原形を留めない血の飛沫となって壁の染みと化した。

 

「…………」

 

 メイチェルは、手元の聖杖と、一瞬にして消し飛んだゴブリンの残骸を交互に見比べ、困惑の極みに達していた。奇跡の一部である聖杖は意図しなければ奇跡によって壊れることが無いため、メイチェルの常識外の膂力をもってしてもその輝きは保たれている。

 

(ゴブリンって……こんなに脆い魔物でしたの……?)

 

 これほどまでに弱い存在に、自分が力でねじ伏せられ、抵抗も虚しく押し倒されて、孕み袋として好き勝手に弄ばれるなどという事態が起こり得るのだろうか。いや、絶対に不可能である。寝転がっていても傷一つ負わないだろう。

 

 その明白な事実に気づいた瞬間、メイチェルの胸の奥底で密かに膨らんでいた倒錯した期待感が、急速にしぼんでいくのを感じた。

 

 それは紛れもない、明らかな落胆の感情だった。

 

「——わ、私ったら、何を残念がって……っ! 不謹慎です!」

 

 自身の内側に芽生えた粘つく本音に気づき、メイチェルは再び顔を真っ赤にして、ブンブンと激しく頭を振った。

 

 私は純潔なるエルフの聖職者。魔物に陵辱されることに期待してガッカリするような、変態的なムッツリ女ではないはずだ、と必死に己に言い聞かせる。

 

 豊満な胸を恥ずかしさで大きく揺らしながら、メイチェルは逃げるように足早に、薄暗い巣穴の奥へと歩みを進めていく。

 

 

 *

 

 

 薄暗くじめじめとしたゴブリンの巣穴の奥深くへと歩みを進めるにつれて、メイチェルの胸の内に渦巻いていた感情は、恐るべき魔物の領域に足を踏み入れたという緊張感でも、囚われた人々を救い出さねばならないという悲壮な使命感でもなくなっていた。

 

 それはひどく理不尽で、己の不純さを棚に上げた身勝手な不満の蓄積であった。

 

 岩肌が剥き出しになった入り組んだ洞窟の通路を、純白の法衣が静かに、そして無慈悲に蹂躙していく。

 

 道中、幾度となくゴブリンの群れが闇の中から湧き出し、奇声を上げながらメイチェルに襲い掛かってきた。あるいは、天井から巨大な丸太が振り子のように落下してきたり、足元が突然崩れ落ちて無数の毒棘が敷き詰められた落とし穴が現れたりと、彼女を捕獲し凌辱するためであろう悪辣な罠が次々と牙を剥いた。

 

 だが、そのすべてが徒労であった。

 

 奇跡によって絶大な物理的防御力と身体能力を付与されたメイチェルの肉体の前では、ゴブリンたちの粗末な錆びた剣など爪楊枝以下の刺激しか与えられず、彼女の柔肌を傷つけるどころか布切れ一枚破ることができなかった。直撃した丸太は乾いた音を立てて木っ端微塵に砕け散り、落とし穴に落ちても靴の裏で毒棘を踏み潰しながら、ただの段差を上るように軽々と穴から飛び出してしまう。

 

 さらに、彼女が鬱陶しそうに重厚な聖杖を無造作に一振りするだけで、そこから生じる暴力が群がり来るゴブリンたちを紙屑のように吹き飛ばし、次々と壁に叩きつけては赤い染みへと変えていった。ゴブリンたちに紛れて巨躯のトロールもいたのだが、諸共巻き込んで血飛沫になったことをメイチェルは気付かなかった。

 

「……どれもこれも、ひ弱すぎます……」

 

 通路の壁にこびりついたゴブリンだったものの残骸を見下ろし、メイチェルはふうと深い溜息をついた。

 

 その溜息には、強すぎる己への傲慢さではなく、どうしようもない落胆が混じっていた。

 

 彼女の脳裏には、いまだに冒険者の男が語った恐ろしい孕み袋という言葉が妖しく明滅し続けている。

 

 もしも、もしもこの群れが、神聖魔法による身体強化すらも容易く打ち破るほどに強大で、抵抗する間もなく自分を押し倒し、手足を縛り上げて自由を奪ってくれたなら。

 

 そうであれば、それは不可避の暴力による敗北であり、誇り高きエルフの聖職者である自分が魔物どもに陵辱され、快楽と繁殖の道具に堕とされてしまったとしても、完全なる被害者としての言い訳が立つ。私は最後まで抗ったが、力が及ばずに蹂躙されてしまったのだと、神聖なる脊界樹にも顔向けができる。

 

 しかし現実はどうだ。歩いているだけで相手が勝手に砕け散っていくような有様では、言い訳も何もあったものではない。

 

 これでは私が捕まって辱めを受けることなど、天地がひっくり返っても不可能ではないか。

 

 そんな倒錯した期待を勝手に抱いては勝手に裏切られ、メイチェルは行き場のない謎の苛立ちを募らせながら、豊満な胸を不満げに揺らしてずんずんと洞窟の奥へと進んでいった。

 

 やがて通路の先から微かな明かりが漏れ出し、空間が大きく開けた場所へと出た。

 

 そこが巣穴の最奥部、ゴブリンたちにとっての楽園であることは、視覚よりも先に嗅覚が強烈に訴えかけてきた。

 

 血と泥の匂い、そして何よりも、幾度となく繰り返されたであろう獣じみた交わりの痕跡を示す、ひどく生臭い体液の悪臭が、淀んだ空気の中に濃密に立ち込めている。

 

 間違いなく、ここで捕らえられた人間の女たちが、ゴブリンたちの欲望の捌け口として無残に犯され続けていたのだろう。

 

 本来であれば激しい嫌悪と怒りに震えるべきその匂いを嗅ぎ、メイチェルはあろうことか下腹部の奥が熱くなるのを感じ、己の太腿をきゅっと擦り合わせてしまった。

 

 しかし、彼女を待ち受けているはずの光景は、そこにはなかった。

 

 女たちの姿は部屋の隅に隠されているのか見当たらず、そして何よりも、彼女を群れで押し倒して慰み者にするはずのゴブリンの姿が、たった一体しか残っていなかったのだ。

 

 無理もない、とメイチェルですら思った。巣穴にいたゴブリンは次から次へと襲い掛かってきては、杖の一振りによってすべて返り討ちに遭い肉片と化していた。それが十数回行われていれば、ゴブリンと言えど品切れはするだろう。

 

 残された最後の一体は、他の個体と比べてもひときわ体格が小さく、みすぼらしいボロ布を纏った年老いたゴブリンであった。

 

 だが、その濁った黄色い瞳には異様な知性が光り、矮小な身体からは周囲の空気を歪めるほどのおぞましく禍々しい魔力が立ち昇っている。

 

 一目見ただけで、それが冒険者の言っていた変異個体、異常種のゴブリンであるとメイチェルは直感した。察するに知を身につけ、魔術を操るに至った稀少な個体。こいつこそが、この巣穴の真の元凶なのだろう。

 

 異常種のゴブリンは、圧倒的な力で同胞を皆殺しにしてきたはずの純白の侵入者を前にしても、全く怯える素振りを見せなかった。

 

 それどころか、にんまりと醜悪な笑みを浮かべると、懐から何かを取り出し、メイチェルの前でゆっくりと揺らし始めた。

 

 それは、一本の古びた糸の先に、くすんだ硬貨が吊り下げられた簡素な振り子だった。

 

 右へ、左へ。

 

 規則的な動きで揺れる硬貨から、淀んだ魔力の波紋が空間に広がっていく。

 

 それを見た瞬間、メイチェルの足がピタリと止まった。

 

「これは……」

 

 視線が揺れる硬貨に吸い寄せられ、頭の中に薄暗い靄が掛かったように意識が遠のき始める。

 

 精神に干渉し、肉体の自由を奪う精神魔法。いわゆる魅了や催眠の類であると、高度な魔力感知能力を持つ彼女は即座に理解した。

 

 その気になれば脊界樹へ向けた清浄なる祈りの言葉を一つ紡ぐだけで、このような下等な魔物による精神干渉など薄氷を割るように容易く打ち砕くことができる。

 

 魔力が脳髄を侵食し切る前に、早く術を破らなければ。そう理性が警鐘を鳴らす一方で、メイチェルの心の奥底に潜んでいた、どうしようもなく不純な期待が甘い囁き声を上げた。

 

 今、私は精神魔法という恐ろしい魔術に掛かってしまった。精神を支配され、肉体の自由を奪われているのだ。

 

 だから、私がここから一歩も動けないのも、これからこの醜いゴブリンに何をされても抵抗できないのも、決して私が望んだからではない。

 

 催眠に掛かってしまったのだから、体が動かないのも、弄ばれてしまうのも、仕方がないことなのだ。

 

「あっ……あぁ……」

 

 メイチェルは祈りを捧げることをあえて忘れ、自ら進んで意識の奥底へと沈み込んでいくことを選んだ。瞳孔に力が入らなくなり、聖杖すら取り落としてその場に棒立ちになったまま熱い吐息を漏らす。

 

 獲物が完全に自らの催眠に堕ちたと確信した異常種のゴブリンは、下品な舌舐めずりをしながらゆっくりとメイチェルへと近づいてきた。

 

 身の丈の倍はあろうかという美しいエルフの女。しかも、その純白の法衣の下には、規格外としか言いようのない豊満な肉体が隠されている。

 

 ゴブリンはメイチェルの足元まで来ると、その見上げるような巨大な双丘に向かって、汚らしい皺だらけの両手をゆっくりと伸ばした。

 

 メイチェルの心臓が、期待と緊張で早鐘のように打ち鳴らされる。

 

 来る。触られる。陵辱が始まる。

 

 催眠に掛かっているから、私は抵抗できない。抵抗できないから、このまま好き勝手にされてしまう。

 

 背徳的な興奮が頂点に達したのと同時に、ゴブリンの粗末な手が、メイチェルの柔らかな乳房を服の上からがしりと無遠慮に掴み揉みしだいた。

 

 暴力的ですらある、ひどく生々しく、いやらしい指先の動き。これまでの生涯で一度も殿方に触れられたことのない、純潔なるエルフの敏感な肌。

 

 そこに突如として走った、未知なる強烈な快感の電流。

 

 それは、メイチェルが想像して期待していたものを遥かに超える、脳髄を焼き切るような直接的な快感の奔流であった。

 

「ひゃああっ!?」

 

 嬌声にも似た悲鳴が、巣穴の最奥部に響き渡った。

 

 予想外の凄まじい快感に対する恐怖と、本能的な羞恥。メイチェルの肉体は精神の言い訳を置き去りにして、完璧な反射行動に出た。

 

 彼女は無意識のうちに、自らに掛けていた催眠という名の言い訳を紙切れのように強引に引きちぎり、両手を高く振り上げた。

 

「だめぇぇぇ!」

 

「ギッ?」

 

 そして、パニックに陥った少女が虫を追い払うかのような手つきで、乳房を掴んでいたゴブリンの頭を両手で思い切り挟み込むように張り倒した。

 

 その両手にはゴブリンの群れを粉砕したのと同じ、身体強化の奇跡が掛けられたままである。

 

 鈍く湿った破裂音が鳴り響いた。

 

 異常種のゴブリンの頭部は脳天から迫る圧倒的な力の前に地に着く前から一瞬にして破砕され、首から下の肉体もその衝撃波によって原型を留めない赤い挽肉へと変わり果てて四散した。

 

 硬貨がちゃりんと音を立てて冷たい地面に落ち、転がっていく。

 

 後には、静寂と、宙を舞う血の霧、そして両手を振り下ろした姿勢のまま硬直しているメイチェルだけが残された。

 

 我に返った彼女は、自身の両手と、足元に広がる悲惨な肉片を見下ろした。

 

 催眠は完全に解け、いや、自らの手で粉々に打ち砕いてしまった。

 

 胸元には先ほど触れられた生々しい感触と、そこから生じた甘い痺れが微かに残っている。

 

 自分が一体何を期待し、何を受け入れようとし、そしてどういう結末を迎えたのか。

 

 自らの行いのあまりの滑稽さと、言い逃れのできない破廉恥な本性に気づき、メイチェルの透き通るような白い肌は瞬く間に耳の先まで沸騰したように真っ赤に染め上がった。

 

「……なんという、なんという……っ!」

 

 誰もいない巣穴の底で、メイチェルは己の醜い欲望と、それに溺れかけた不純極まりない妄想を激しく恥じ入り、両手で熱を持った顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。

 

 高位の聖職者としての威厳はどこへやら、彼女はただひたすらに自身のえっちな妄想癖を呪い、豊満な体を小さく丸めて、しばらくの間そこから動くことができなかった。

 

 

 *

 

 

 己の破廉恥な妄想と、その結果として引き起こした惨状。そのあまりの滑稽さにしばらく身動きすらとれなかった彼女だが、洞窟の奥から吹き抜ける冷たい風が火照った首筋を撫でていくのを感じて、ハッと息を呑んだ。

 

 何をしているのだ、私は。

 

 こんな血生臭い魔物の巣窟で、一人で勝手に赤面し、羞恥に悶えている場合ではない。ここへ来た最大の目的は、魔物どもに連れ去られ、暗闇の底で絶望に震えながら助けを待っている二人の冒険者を救出することであったはずだ。

 

 彼女たちが味わっている恐怖はメイチェルが頭の片隅で思い描いてしまったような、どこか倒錯した甘美なものでは決してない。暴力と恐怖によって尊厳を踏みにじられ、命の灯火すら無惨に消し去られようとしているという、紛れもない真の地獄である。

 

 その冷酷な現実に思考が至った瞬間、メイチェルの背筋に冷や水がぶっかけられたような猛烈な悪寒が走った。

 

「私は……なんて愚かで、浅ましいのでしょう……」

 

 震える唇から懺悔の言葉をこぼしたあと、メイチェルは勢いよく立ち上がった。反動で純白の法衣に包まれた規格外の乳房が大きく弾むが、もはや彼女の心に先ほどまでの浮ついた感情は微塵も残っていなかった。

 

 あるのは己の不純さを恥じる深い自己嫌悪と、一刻も早く救い出さねばならないという聖職者としての使命感のみである。

 

 血の海と化した最奥の広間を抜け、メイチェルはさらに奥へと続く通路のような狭い横穴へと足を踏み入れた。

 

 先ほどの異常種が立ちはだかっていた場所の真後ろである。広間に女たちがいなかった以上、この奥に囚われた人々が監禁されている可能性は高い。

 

 やがて、分厚い木の板と錆びた鉄格子で塞がれたような空間に行き当たった。

 

 メイチェルがその板に手を触れ、少し力を込めると、腐りかけていた留め具が容易く砕け、扉は重苦しい音を立てて内側へと倒れ込んだ。

 

 そこに広がっていたのは、獣の檻のような劣悪な環境の石室であった。

 

 床には湿って黒ずんだ藁が敷き詰められ、排泄物と血液、そして魔物たちの生臭い体臭が混ざり合った、目に染みるほどの吐き気を催す悪臭が充満している。

 

 そしてその部屋の隅に、身を寄せ合うようにして震える二つの小さな影があった。

 

「ひっ……! あ、あぁっ……!」

 

「こないで……もう、やめて……許して……」

 

 扉が破られた音に過剰に反応し、影は悲鳴ともつかない掠れた声を上げてさらに部屋の隅へと縮こまった。

 

 魔法の灯りを灯し、暗がりの中に浮かび上がった彼女たちの凄惨な有様を見て、メイチェルは絶句した。

 

 生命としての尊厳を剥ぎ取られ、泥と血、それに得体の知れない体液で汚れた肌が痛々しく露出している。無数の打撲痕や切り傷が全身を覆い、彼女たちの瞳からは完全に理性の光が失われ、ただ虚空を見つめて怯え続けるだけの抜け殻のようになっていた。

 

 あの冒険者の男が血を吐くような思いで語った通り、彼女たちはゴブリンたちの慰み者として、心身共に限界まで追い詰められていたのだ。

 

 その痛ましい姿を直視し、メイチェルの胸を鋭い刃で抉られるような痛みが貫いた。

 

 自分がほんの少しでも、このような残酷な凌辱に対して好奇心を抱き、あまつさえ自分の身に置き換えて期待などしてしまったという事実が、重い呪いのように彼女の心を苛む。

 

 許されない。自身の罪深さも、命をこのように使い捨ての道具として冒涜した魔物たちの所業も。

 

 メイチェルは足音を殺してゆっくりと近づき、激しく怯える二人の前で静かに膝をついた。

 

 触れれば沈み込むような柔らかい色白の肌を持つ彼女の膝が汚物に塗れるのも厭わず、極力穏やかに、慈愛に満ちた声を紡ぐ。

 

「もう、大丈夫ですよ」

 

 しかし、極限状態にある彼女たちには、その声すらも新たな恐怖の引き金にしかならないようだった。

 

 魔法使いらしき女性が激しく痙攣し、斥候の女性は自らの腕を掻きむしりながらうわ言のように命乞いを始める。

 

 メイチェルは悲しげに目を伏せると、両手を胸の前で静かに合わせた。

 

 指を交差させず、掌を密着させたまま天へと向けて真っ直ぐに伸ばす。それは世界を支える大樹の力強い幹と枝を自らの身体で模した、脊界樹教の最も神聖なる祈りの作法であった。

 

「大いなる幹よ、星の脈絡よ。踏みにじられし葉脈に、清らかなる甘露の雫を与え給え。魂の淀みを濯ぎ、再びの循環をここに」

 

 透き通るような美しい詠唱とともに、メイチェルの全身から眩いほどの翠緑の光が溢れ出した。

 

 それは暗く淀んだ石室を白昼のように照らし出し、圧倒的な清浄さをもって空間の悪臭や澱んだ魔力を隅々まで浄化していく。

 

 メイチェルから放たれた光の粒子は、まるで意思を持っているかのように優しく女性をたちを包み込んだ。

 

 真なる神聖魔法による治癒は、単なる肉体の修復にとどまらない。星の脊髄から直接的に引き出された生命力は対象の途切れかけた循環を繋ぎ止め、同時に魂の奥底にこびりついた恐怖や絶望といった淀みをも焼き払っていく。

 

 光に包まれた二人の体から生々しい傷跡や青黒い痣がみるみると消え去っていく。乱暴に引き裂かれた筋肉や皮膚が繋がり、失われた血の気が色白の肌に戻っていく。

 

 そして何より、狂乱状態にあった彼女たちの浅い呼吸が、魔法の光を浴びるうちに嘘のように穏やかなものへと変わっていった。

 

 やがて翠緑の光がゆっくりと空間に溶けて消えると、二人の瞳にわずかながら確かな理性の光が戻っていた。

 

「あ、あなたは……?」

 

 魔法使いの女性が信じられないというように自身の無傷の腕を見つめ、次いで目の前に跪く純白の法衣の聖職者を見上げた。

 

「私はメイチェル。脊界樹教の司祭です。貴女方のお仲間からお話を伺い、救出に参りました」

 

 メイチェルが温かく微笑みかけると、その言葉の意味をゆっくりと咀嚼し理解した二人の目から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出した。

 

「あぁ……っ、うわああぁぁっ……!」

 

 二人は互いに縋り付くように抱き合い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。死よりも恐ろしい果てのない地獄から解放され、再び命の循環の中へ戻ることができた安堵。仲間たちが生きていた事への喜びもあるだろうか。

 

 メイチェルは泥だらけの床に座り込んだまま泣き崩れる二人をその豊かな胸にまとめて抱き寄せ、赤子をあやすように優しく背中を撫で続けた。

 

 彼女の慈愛に満ちた母性的な温もりが二人の冷え切った心を少しずつ溶かし、人間としての尊厳を呼び覚ましていく。

 

「さあ、帰りましょう。お仲間が、教会で貴女方の無事を祈って待っています」

 

 泣き疲れて脱力した二人に自身の予備の外套を被せ、立ち上がるのを手助けする。

 

 帰路の道中、ゴブリンの残党が襲ってくることは一度もなかった。メイチェルが道中に残してきた凄惨な肉片の数々が生き延びた魔物たちに本能的な恐怖を植え付け、巣穴の奥深くへと追いやったのだろう。

 

 淀んだ洞窟を抜け、外の眩しい陽光を浴びた瞬間、二人の女性は再び涙ぐんで太陽の光を拝んでいた。

 

 その神々しいまでの命の輝きを見守りながら、メイチェルは自身の胸の奥深くで渦巻いていた不純な感情を、今度こそ完全に封印することを心に誓った。

 

 命の重さ、そしてそれを脅かす邪悪の恐ろしさを、彼女は今回の一件で骨の髄まで思い知らされたのだ。

 

 エルフとしての長い寿命の中で、人間の俗世における様々な概念に触れていくことは避けられない。その中で、時に己の無知や無自覚な好奇心が、思わぬ精神の暴走を引き起こすこともあるだろう。

 

 しかし、それでも自分は脊界樹の教えを授かった高位の聖職者なのだ。星の脈絡と同調し、助けを求める人々のために祈りを捧げる者としての矜持だけは、決して失ってはならない。

 

 

 *

 

 

 数日後。

 

 無事に人間の街へと帰還したメイチェルたちを待っていたのは、涙と歓喜に包まれた再会であった。

 

 礼拝堂の隅で寝泊まりしながら祈り続けていた男たちは、元気な姿で戻ってきた仲間たちを見るなり、周囲の神官たちの目も憚らずに大声で泣き崩れ、彼女たちを強く抱きしめた。

 

 失われた右腕の再生こそ叶わなかったものの、一命を取り留めた大柄な男も、残った左腕で仲間の無事を心から喜び、メイチェルに対して何度も何度も深く頭を下げた。

 

「司祭様。本当に、本当に何と礼を言っていいか……。あんたは俺たちの命の恩人だ。この恩は一生忘れない」

 

「礼など不要です。私はただ、大いなる幹の教えに従い、歪められかけた星の脈絡を正したに過ぎません。これからはより一層命を慈しみ、互いを支え合って生きていってください」

 

 メイチェルは温厚で慈悲深い微笑みを浮かべ、彼らに神聖な祝福を与えた。

 

 四人の冒険者たちが肩を寄せ合い、連れ立って礼拝堂の重厚な扉の向こうへと去っていくのを、メイチェルは静かに見送った。

 

 色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が、彼女の透き通るような銀糸の長髪をキラキラと輝かせている。

 

 平穏を取り戻した礼拝堂には、再び静寂と、若い見習い神官たちの穏やかな祈りの声が満ち始めていた。

 

 メイチェルは一人、祭壇の前に進み出た。

 

 両手を胸の前で合わせ、天へと向けて真っ直ぐに伸ばす。

 

「……大いなる幹よ、星の脈絡よ」

 

 清らかな祈りの言葉を紡ぐ彼女の脳裏にふと、あの薄暗い巣穴で異常種のゴブリンに胸を揉みしだかれた時の、脳髄を焼き切るような鮮烈な快感が蘇りかけた。

 

「い、いけません……っ。私は、何をまた……!」

 

 メイチェルは弾かれたように目を凝らし、慌てて首をブンブンと横に振り、顔を耳の先まで真っ赤に染め上げながら必死に祈りに集中しようと試みる。

 

 慈愛と強い意思を宿す紅色の瞳を固く閉じ、俗世の煩悩に必死に抗うエルフの聖職者。

 

 彼女の純朴さとほんの少しの好奇心が完全に消え去るまでには、まだ時間が必要であった。

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