今回のお話は、雲取山に暮らす竈門炭治郎少年と、その家族を見守る鱗滝家の長女、雫のお話にございます。
亡き父・炭十郎の面影を宿す炭治郎を前に、雫の愛は今日も絶好調。
母・葵枝との火花散る女の戦い、弟妹たちの賑やかな声、雪深い山の暮らしは、相変わらず温かく、少し騒がしく、そして幸せそのもの。
しかし、幸せとは薄氷の上に咲く花のようなもの。
街へ炭を売りに出た炭治郎と雫が、日暮れの雪道で嗅ぎ取ったものは、山の方角から漂う濃い血の匂い。
笑いと温もりに包まれていた一日は、凍てつく夜の中で、音を立てて姿を変えていきます。
果たして、雫は炭治郎の家族を守ることができるのか。
【雲取山】
凍てつく夜風が頬を刺す。
降りしきる雪が視界を白く塗り潰していく中、肺を焼くような呼気だけが耳の奥で鳴り響いていた。
硬く凍結した地面を踏み割る足の裏の感覚は、とうに麻痺している。
『幸せが壊れる時には……いつも……血の匂いがする……』
氷のように冷たい空気の底から、鉄の錆びた香りが這い上がってくる。
拍動が耳朶を打ち、冷たい汗が背筋を這い落ちていった。
『どうして……どうしてこんなことに……』
喉の奥から込み上げる絶望は、音になることなく白銀の世界へと溶けていった。
◇◇
【竈門家】
その日の朝。
「じゃあ、ちょっと街まで炭を売りに行ってくるよ!」
「えーっ!ずるい!俺も行きたい!」
竹雄の声が響く。
「連れてってよ、お兄ちゃん!私もいっぱいお手伝いするから!」
花子も負けじと駆け寄ってくる。
「おにーちゃーん!まってー!」
茂までが短い足で懸命に後を追う。
炭治郎は彼らの頭を優しく撫でる。
「炭治郎……。もう、顔が真っ黒じゃないの。それに、外は雪が降っていて足元がすごく危ないから、無理して今日行かなくてもいいんだよ?」
「でも、母さん……」
「お金のことなら、政府からの保護費で十分にあるんだから。そんなに急いで炭を売りに行かなくても大丈夫なのよ」
葵枝の言う通り、今の竈門家の暮らしに切迫した事情はない。
それでも、炭治郎は首を横に振った。
「母さん、心配してくれてありがとう。でも、もうすぐお正月だからさ。お正月になったら、みんなに腹いっぱい美味いご馳走を食わせてやりたいんだよ。それに……いつもお世話になってる雫さんにも、何かお礼をしたくてさ」
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!ってね!」
頭上から、陽気な声が降ってきた。
純白の軍服を翻し、雪の結晶のように軽やかに舞い降りた影。
腰に帯びた『滅』の文字が刻まれた鞘が、冬の朝日を反射して鋭く輝いている。
鱗滝家の長女――――雫がそこに立っていた。
「炭治郎様〜♡炭、私も一緒に焼いたんですからね!私の絶妙な火加減、最高だったでしょう?」
熱を帯びた視線を向けられ、炭治郎は苦笑を浮かべて頭を下げる。
「ええ、雫さん。本当にいつも助かってます。ありがとうございます」
「はいっ!その素直な感謝の言葉、しっかり胸に受け取りましたわ!だから炭治郎様。私も街まで、愛の護衛として同行いたしますわ!」
「いや、護衛って……俺、ただ炭を売りに行くだけなんですけど」
「甘い!甘いですわ炭治郎様!街にはどんな危険が潜んでいるかわかりません!そして……今夜こそ、街の宿で一晩……熱く燃え上がる夜を……じゅるり」
『勘弁してくれ……。だいたい、雫さんは亡くなった父さんの幼馴染だろう?俺からしたら大先輩じゃないか』
『雫さんは、鬼だ。母さんの話だと四十歳は過ぎているはずなのに……どう見ても、禰豆子より少し年上の十七歳くらいにしか見えない。それに、俺を見る目がなんだか獲物を狙う肉食獣みたいで、正直少し怖いんだ……』
「あらあら……雫。あなたって人は本当に……。炭十郎さんが手に入らなかったからって、息子の炭治郎にまで色目を使うなんて。いい加減、年甲斐もない真似はよしてくださいませんか?」
静かな微笑みの奥に、決して譲れない何かが燃えている。
雫もまた、その視線を真っ向から受け止めた。
「あら葵枝……。あんたに炭十郎さんをまんまと奪われたこと、私、今でも忘れてないんだからね!いつか炭治郎様を私のものにして、あんたのことを『お義母様』って呼んで見せるわ!覚悟しておきなさい!」
「まあ!誰があなたみたいなふしだらな鬼を息子の嫁にするもんですか!」
「ふしだらとは失礼ね!私はただ純粋に愛に生きているだけよ!」
火花を散らす二人のやり取りを、子供たちはすっかり慣れた様子で見上げている。
「ねえ、雫姉ちゃん、また母様と喧嘩してるの?」
「ははっ、女の戦いってやつだな!でもさ、雫姉ちゃんは凄え人なんだぜ!」
竹雄が目を輝かせ、手近な木の枝を構える。
「睡光隊の一番隊長なんだからな!!お国のために戦う『護国の鬼』の筆頭なんだからな!超カッコいいんだぜ!」
「なあ雫姉ちゃん!俺、兄ちゃんより絶対いい男になるぜ!だから俺が大きくなったら、俺も睡光隊に入れてくれよな!」
「ふふ、竹雄くんは相変わらず元気ねぇ。睡光隊に入りたいなんて、なかなか見どころがあるわ。立派な男になるのよ?」
「おうっ!任せとけって!」
得意げな竹雄を見てくすくすと笑ったのも束の間、雫の視線は再び炭治郎へと縫い付けられた。
「でもね……私の本命は、あくまで炭治郎様だけだから♡そこんところ、よろしくね♡」
◇◇
奥の襖が、音も立てずに開いた。
顔を出したのは、一番下の弟である六太を背に負った禰豆子だ。
すやすやと心地よさそうな寝息を立てる六太を起こさぬよう、抜き足差し足で近づいてくる。
「六太を寝かしつけていたんだ。起きていると、お兄ちゃんと行くって大騒ぎになるからね」
「ありがとう、禰豆子。……じゃあ、行ってくるよ」
それまで熱烈な視線を送っていた雫が、葵枝の方へ向き直った。
「葵枝……。炭十郎さんが亡くなってから、何か困っていることはない? 私にできることがあったら、遠慮なく何でも言ってちょうだい」
声音も先ほどまでの甘ったるいものから一変していた。落ち着き払った、深く静かな響き。
「ありがとう、雫。でも大丈夫よ。今のところは十分になんとかなっているわ。……できれば、炭治郎について行ってあげて。あの子、長男だからってなんでも一人で背負い込んで、少し頑張りすぎているところがあるから」
葵枝は心配そうに、炭治郎の小さな背中を見つめている。
「わかっています。炭治郎様のことは、私が守り抜くわ。……でも、最近このあたりにも『はぐれ鬼』の噂がちらほらと出ているわ。この平和を嫌い、統制を外れて本能に負けた、愚かな獣たち。万が一ということもあるから、戸締まりには十分、気をつけなさいよ」
葵枝は真剣な表情で頷いた。
◇
鉛色の空から、白い雪が際限なく舞い落ちてくる。
深く降り積もる険しい山道を、炭治郎と雫が横に並んでゆっくりと下っていく。
雫は自然な動作で、炭治郎の右手を包み、繋いで歩いている。
『俺たちの生活は、雫さんの実家の『鱗滝家』が、援助してくれている。母さんの話だと、なんでも明治の頃から続く特別な契約があるとかいうもので、俺たち竈門家は鱗滝家にとって保護対象らしい。そのおかげで、俺たちは食べていける』
『だけど……だからって、その厚意に甘えちゃいけないと思うんだ。俺は長男だから。自分の足で立って、自分で稼いだお金で家族を養わなきゃ。男として、竈門家の長男として、それだけは絶対に譲れないんだ』
「炭治郎様の目は、炭十郎様譲りで本当に綺麗ですわね。……赫灼の子。運命を変えると言われている、情熱の赤色だわ。こうして近くで見つめられているだけで、私、心臓が爆発してしまいそうですわ」
「俺は父さんじゃないですよ、雫さん。俺は俺、竈門炭治郎です」
「ふふっ、そんなこと、百も承知ですわ。……私はね、あなたが生まれた時から、ずーっと竈門家のみなさんと共にいるのですよ。みなさんは私にとって、愛する夫のような、可愛い息子のような……大切な家族なんですから」
無茶苦茶な分類に内心で呆れつつも、彼女の瞳の奥にある深い慈愛の色を見てしまうと、炭治郎はそれ以上何も言えなくなってしまった。
◇◇
山道を下りきり、ようやく街の入り口へと辿り着く。街を囲む詰め所には、軍服姿の男たちが待機していた。彼らは雫の姿を認めるなり、弾かれたように即座に背筋を伸ばし、一斉に敬礼を送る。
「雫隊長!本日も街の巡察、ご苦労様であります!」
先ほどまで炭治郎にすり寄っていたデレデレの態度はどこへやら、雫は威厳に満ちた顔へと切り替わっている。
「ご苦労様。街に不審な影は出ているかしら?」
「ハッ!現在のところ異常ありません!この街の治安は、我々睡光隊の監視の下、完璧に維持されております!」
「そう。油断は禁物よ。少しでも怪しいことを感じたら、すぐに報告しなさい」
「了解であります!」
やり取りを見ながら、炭治郎は「やっぱり雫さんはすごい人なんだな」と改めて感心していた。
◇
街の通りでは、住人たちが次々と炭治郎に親しげに声をかけてきた。
「あらあら、炭治郎ちゃんじゃないの!こんなに雪が降っているのに、わざわざ山から降りてきたのかい?相変わらず本当に働き者ねぇ、偉いわねぇ」
「こんにちは、おばさん!もうすぐお正月だから、少しでも炭を売っておきたくて!」
八百屋のおかみさんが感心したように、売り物の大きなみかんを一つ、炭治郎のポケットにねじ込む。
さらに歩を進めると、今度は元気いっぱいの少年が短い木刀を振り回しながら駆け寄ってきた。
「ああっ!雫様だ!すっげえ、本物だ!」
「俺、大きくなったら絶対に睡光隊に入りたいんです!だから、俺に剣の稽古をつけてください!お願いします!」
「ふふ、頼もしい男の子ね。でも、まずはしっかりご飯をたくさん食べて、大きくなることが先決よ。立派な剣士になるのを期待しているわ」
優しく完璧な対応に、少年は顔を真っ赤にして何度も嬉しそうに頷いている。
炭治郎の持ち込んだ質の良い炭はあっという間にすべて売り切れてしまったが、人の良い炭治郎は街の人々からの頼まれごとを全て引き受けてしまった。屋根の上の雪下ろしから路地裏の子猫の捜索まで、街中を駆け回って手伝いをしているうちに、気づけば空は暗い色に沈んでいた。
◇◇
「……あらあら、すっかり遅くなってしまいましたわね」
「炭治郎様、もう外は真っ暗ですし、夜に登るのはとても危険ですわ。今日は無理をせずに街の宿に泊まりませんか?もちろん、宿泊代は一番高い部屋でも私が全額奢りますわよ♡美味しい夕食もつけちゃいます♡」
「絶対に泊まりません!雫さんと同じ部屋になったら、今度こそ俺、本当に食べられてしまいそうですし!」
「もーう、炭治郎様ったら警戒心が強いんですから。ふふふふ。でもね、私、お母様みたいに、たくさん可愛い子供を産んでみたいんですけれどねぇ。竈門家みたいに賑やかで温かい家庭を築くのが夢なんですのよ」
その瞬間。
――クンッ……。
炭治郎の並外れて鋭い鼻が、冷たい風に乗って遥か遠くの山頂から漂ってきた「異質な匂い」をはっきりと捉えた。
「…………っ!」
「……炭治郎様?」
異変に気づき、雫が不思議そうに首を傾げる。
「雫さん……。なんだか……すごく嫌な匂いがします」
「山の方から……。血の……ひどく、濃い匂いだ」
「……はぐれ鬼ですかね?」
臨戦態勢に入った彼女の周囲だけ、凄まじい圧迫感が生まれる。
「炭治郎様、私の背に乗りなさい!走るより速いです!急ぎましょう!」
有無を言わせぬ迫力に促され、炭治郎は迷うことなくその背に飛び乗った。雫の足が雪を蹴り上げ、常人では決して目で追えないほどの速度で険しい山道を駆け上がり始める。
人生は、いつだって空模様のように変わりやすい。
晴れてばかりではないし、雪が降って荒れてばかりでもない。良いこともあれば悪いこともある。それが当たり前の日常だ。
だが……幸せが音を立てて壊れる時は……いつも、決まって血の匂いがするんだ。
吹き付ける冷たい風の中で、強くなる一方の匂いに包まれながら、炭治郎の心臓は警鐘を激しく鳴らし続けていた。
実は雫は、竈門炭十郎が若い頃から本気で惚れ込んでいたらしい。
ただし炭十郎本人は、とても穏やかに、そしてとても自然に、雫の猛烈な求愛をすべて受け流していたとのこと。
そのあまりの受け流しぶりに、雫は何度も「これが日の呼吸……!?」と勝手に感動していたとか、していないとか。
ちなみに葵枝は、雫のことを嫌っているわけではない。
むしろ炭十郎亡き後も竈門家を気にかけてくれることには、深く感謝している。
ただし、それはそれとして、息子を狙う発言だけは絶対に許さない。
葵枝いわく、
「恩人と息子の嫁は別です」
とのこと。
雫いわく、
「お義母様と呼ぶ準備はできています」
とのこと。
炭治郎いわく、
「俺は炭を売りに行きたいだけなんです」
とのこと。